武将リスト(主、UR、SUR)
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主
名前 | 紹介 | 召喚必要欠片数 |
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趙雲 | 字は子龍。才能に優れあか抜けている。大胆不敵、智勇兼備で、敗戦はほとんどなく「常勝将軍」と称された。三国時代の完璧な武将の化身といえる。 | - |
UR級武将
名前 | 紹介 | 召喚必要欠片数 |
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曹操 | 字は孟徳。宦官の家系に生まれ、早年は家族によって洛陽に送られて役人を務め、後に黄巾討伐、董卓討伐といった戦いで頭角を現し、人びとは「曹公」と尊称した。 | 200 |
袁紹 | 字は本初。四世三公を出した名門「汝南袁氏」の出身で、宦官を誅殺する作戦を指揮し、後に董卓を討伐する連合軍の盟主を務めた。公孫瓚を破って河北を統一をした後、勢力が頂点に至った。 | 200 |
孫尚香 (弓腰姫) | 孫権の妹、後に劉備の妻となった。才智に優れ、気丈で勇猛な人柄で、同宗の兄たちの風格があった。その武勇により、江東の諸将らに「弓腰姫」と尊称された。 | 200 |
孫権 | 字は仲謀。孫堅の息子。兄孫策が刺殺された後、家業を継いだ。後に劉備と連合して、赤壁の戦いで曹操を打ち破り、荊州を急襲し陥落させ、東呉の地盤を強化、拡大させた。 | 200 |
張飛 (燕人) | 字は翼徳。三国時代の蜀漢の名将。劉備が長坂坡で敗退した際、張飛はただ20騎を率いて殿を務め、河を背に橋を断って、曹操軍は誰も近づこうとはできなかった。 | 200 |
関羽 (美髯公) | 字は雲長。劉備、張飛の義兄弟。兄の力となるため、孤軍を率いて北上し、于禁を打ち破り、龐徳を水攻めにし、次々と城を攻め取り、その威勢は中原に響きわたった、「美髯公」と尊称された。 | 200 |
呂玲綺 (虎娘) | 三国の猛将呂布の娘。その武勇と腕前は父親ゆずりで、方天画戟を使いこなし、騎馬戦に特に優れ、男性武将にも劣らない女傑であった。 | 200 |
鄧艾 | 字は士載。文武両道で、内政でも大きな功績を立てた。長年に渡り、曹魏の西戦線で蜀漢の姜維を防御し、蜀殲滅の戦いにおいては、先駆けて成都に攻め入り、蜀漢政権を滅ぼした。 | 200 |
董卓 | 字は仲頴。羌人との付き合いが好み、戦いにおいては、荒猛で謀があり、前後して、黄巾鎮圧、凉州の乱などの戦いに参加し、威名を大いに轟かせた。後に何進の招きにより上京し、以降、朝政を専念した。 | 200 |
凌統 | 字は公績、凌操の息子で、若くして名を知られ、国士の風格を持っていた。数多くの戦いにおいて、優れた功績を立て、陳寿に「江表の虎臣」と称賛された。 | 200 |
呂蒙 | 字は子明。少年時代から孫策の将として、黄祖を撃破し、張遼に対抗し、蜀漢の名将関羽を倒す等、戦功は限りなく、その「刮目して相対す」の事跡は、勉学の代表となった。 | 200 |
馬騰 | 字は寿成。伏波将軍馬援の子孫で、馬超、馬休、馬鉄の父親。身長が8尺余りあり、体が大きく、顔立ちも雄異であった。誠実で温厚な人柄で、人々に尊敬されていた。 | 200 |
龐徳 | 字は令明。元は馬騰配下の将校で、勇猛さで涼州軍の中で有名となった。曹操に降参した後は、曹仁に協力して関羽に対抗し、かつて一矢で関羽の前額に的中させ、関羽軍に「白馬将軍」と呼ばれた。 | 200 |
孫堅 | 字は文台。孫武の末裔。幼少よりその勇猛さはずば抜けていて、後に黄巾軍討伐と董卓討伐の戦いに参加し、劉表との戦いで戦死した。孫権が帝位に付いた後、孫堅を武烈皇帝と追贈した。 | 200 |
魏延 | 字は文長。三国時代の蜀漢の名将。漢中を守備し、立派な大将であった。その後、何度も諸葛亮に従って北伐し、顕著な功績を立てた。 | 200 |
文醜 | 字は不詳。袁紹配下の将校で、顔良に劣らぬ武勇の持ち主で、公孫瓚を討伐する戦いでは、趙雲と五、六十回手合わせしても、勝敗がつかず、河北第一の名刀と称賛された。 | 200 |
夏侯淵 | 字は妙才。曹操に従い、南北を転戦し、昌豨、徐和、雷緒、商曜などの反乱を平定し、輝かしい戦功を立てた。馬超を追い払い、韓遂を破り、宋建を滅ぼし、羌、氐を打ち負かし、その威名は関右に響き渡った。 | 200 |
徐晃 (亜夫) | 字は公明。曹魏の五子良将の一人。重大な作戦に何度も参加し、樊城の戦いでは曹仁の援軍として関羽を打ち負かし、曹操に「周亜夫の風」ありと称賛された。 | 200 |
顔良 | 字は不詳。袁紹配下の部将で、その力は尽きることなく、勇猛さがずば抜けていた。かつて20回の手合わせで大将徐晃を打ち破り、全軍の第一人者と褒め称えられた。 | 200 |
張郃 (巧変) | 字は儁乂、当初は袁紹に従い、後に曹操に降参した。五子良将の1人。曹操に従って烏桓へ攻め込み、馬超を撃破し、張魯を降服させた。生涯に渡る闊達な軍隊生活は、巧みに変化させた陣形や、地形を有利に使うことでその名を知られた。 | 200 |
祝融 | 南蛮大王孟獲の妻で、丈八長標を兵器とし、百発百中の飛刀を常に5つ背負っていた。三江城の戦いで、張嶷、馬忠を生け捕りにした。後に孟獲と共に蜀漢に帰順した。 | 200 |
周泰 | 字は幼平。始めは孫策に従って征戦し、後に孫権に従い反乱を鎮めた。何度も窮地から孫権を救い、自分の体はまるで彫刻画のように、傷が数十か所背負っていた、呉将は皆敬服していた。 | 200 |
張任 | 字は不詳。益州牧劉璋の配下の将校で、幼少から勇敢で度胸があり、志と礼節を兼ね備えていた。劉備が入川した時に奮戦して抵抗し、金雁橋の戦いで敗戦しても、降服を頑なに拒み、劉備もそれについて嘆き惜しんだ。 | 200 |
華雄 | 董卓旗下の都督。身長が九尺あり、虎のような体、狼のような腰つきで、十八路の諸侯たちの進攻を食い止め、潘鳳、祖茂など連合軍の大将を次々と斬殺したが、最後は関羽に殺された。 | 200 |
鍾会 | 字は士季。魏の太傅鐘繇の幼子で、三国時代後期の魏国の重要な策臣と謀士。蜀討伐の計画を立て、蜀を滅ぼす戦に参戦した智将で、書道家でもあった。 | 200 |
陸抗 | 字は幼節。陸遜の次子で、父の爵位である江陵侯を引き継ぎ、かつて何度も晋将の羊祜を撃退した。陸遜と共に呉国の中流砥柱として、呉国の最後の名将と称された。 | 200 |
羊祜 | 字は叔子。襄陽を守備した期間、屯田と教育を興し、甲冑を繕いながら兵士の訓練に励み、徳を持て懐柔し、軍民から深く支持された。死に際して遺策を残し、杜預を助けて、最終的に呉国討伐の大業を成功させた。 | 200 |
魯粛 | 字は子敬。容姿は立派で堂々としていた。周瑜とは幼い頃からの親友で、赤壁の戦いでは汗馬の労を立てた。後に孫権に従い、宛城を撃破し、陸口を守り、孫権に高く評価された。 | 200 |
司馬昭 | 字は子上。司馬懿の次子で、早年は父親に従って蜀国に対抗し、数多くの戦功を立てた。兄の司馬師を継いで大将軍となり、軍を3部隊に分けて蜀漢を攻め、滅亡させた。晋朝建国後、司馬昭は文帝と追贈された。 | 200 |
司馬師 | 字は子元。司馬懿の長男で、文武共に優れ、文は綱紀を整頓して朝野を粛然とさせ、武は国を安定させた。西晋の建国後、景皇帝として尊ばれた。廟号は世宗。 | 200 |
SUR級武将
名前 | 紹介 | 召喚必要欠片数 |
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張角 (天師) | 太平道の創始者で、南華老仙から「太平要術」を伝授された後、黄巾の乱を起こした。勢力は大きく、自称「天公将軍」。 | 400 |
夏侯惇 (独眼) | 字は元譲。曹魏の建国の元勲で、呂布を攻めた時に流れ矢により左目を射抜かれたものの、依然として勇猛に戦ったことにより、「盲夏侯」と呼ばれた。 | 400 |
漢献帝 | 字は伯和。漢霊帝劉宏の次男で、最初は董卓に支配され、董卓敗走後は、曹操に担がれて諸侯に命令していた。最後は迫られて帝位を曹丕に禅譲し、後漢最後の皇帝となった。 | 400 |
孟獲 (南蛮王) | 中国三国時代の南中一帯の少数民族の首領で、起兵して蜀漢に反逆した。後に、諸葛亮に七度捕らえられ、七度放たれた後は、心から降服した。 | 400 |
劉備 (梟雄) | 字は玄徳。中山靖王の後裔で、三顧の礼で諸葛亮を出仕させた。彼の補佐により、西川を奪取し、劉璋を滅亡させ、蜀漢建国の基礎を築き上げた。 | 400 |
曹操 (奸雄) | 字は孟徳。一代の奸雄で、対内的には、二袁、呂布、劉表、馬超、韓遂などの割拠勢力を滅ぼし、対外的には、南匈奴、烏桓、鮮卑などを降服させ、中国の北方を統一した。 | 400 |
孫権 (英雄) | 字は仲謀。荊州を獲得した後、実力が大いに増加し、曹丕に忌憚された。何度も魏の侵入を打ち破り、江東の基盤を守り抜いた。 | 400 |
黄忠 (百歩穿楊) | 字は漢昇。腕力がずば抜け、弓術に長けていた。元は劉表配下の中郎将で、後に劉備に帰服した。劉備を助けて益州を奪取し、後に定軍山で夏侯淵を斬殺し、五虎上将の一人に列せられた。 | 400 |
張遼 (威震逍遥津) | 字は文遠。かつては呂布の部下で、呂布の敗走後、曹操に帰順した。曹操に従って討伐生活を送り、その後合肥を守備し、何度も孫呉の攻撃を退けた。名声は大いに高まり、逍遥津に響き渡っていた。 | 400 |
錦馬超 | 字は孟起。西凉馬腾の息子で、武勇に抜きんでて、長槍に長け、関中の戦いでは曹操の髭を断ち切り、袍を捨てさせるまでに迫った。後に劉備に身を寄せ、辺境を守備し、五虎上将の一人に列せられた。 | 400 |
太史慈 (天義) | 字は子義。元は劉繇の部下で、後に孫策に降参した。弓と馬に熟達し、弓術に精通し、孫策の江東掃討を助け、後に孫呉のために、南方を守備した。 | 400 |
甘寧 (錦帆) | 字は興覇。青年時代は遊侠行為が好きで、錦帆賊と称されていた。初めは黄祖に仕え、後に部下を率いて孫権に身を寄せた。「孟徳には張遼がいるが、孤には甘興覇がおる、匹敵するに足りるや」と孫権に褒められた。 | 400 |
姜維 (麒麟児) | 字は伯約。諸葛亮の愛弟子で、文武両道であったため、麒麟児と称された。師匠の遺志を完遂させるため、一心に魏国を討伐し、統一大業を完成させようと、蜀国のために一生を捧げた。 | 400 |
南華老仙 | 伝説の仙人で、山中で張角に「太平要術」を伝授し、彼らに天に代わって布教させ、衆生を済度するようにと言い聞かせた。 | 400 |
左慈 (仙人) | 字は元放。道号は烏角先生、天柱山に住み、煉丹術を究め、占星術、六甲に精通していた。鬼神を使役すると言われ、曹操に幾たびも悪ふざけをした。 | 400 |
紫虚上人 | 錦屏山に居住している異人で、人間の生死貴賤を予測でき、かつて龐統の死、劉璋の敗北を予言した。 | 400 |
張飛 (万人敵) | 字は翼徳。劉備と関羽の義兄弟。勇猛果敢な性格で、悪事を仇のように恨んでいる。当陽では二十騎で曹軍を阻み、世の人に「万人の軍の中から上将の首を取るのは、袋の中からものを取り出すかのようだ」と称えられた。 | 400 |
許褚 (虎痴) | 字は不詳。身長は八尺余り、胴回りは10囲あり。ずば抜けた力の持ち主。典韋と2回対戦し、勝敗が付けられなかった。後に曹操の眼鏡にかなってからは各地を征戦し、肌脱ぎで馬超と対戦するなどの武勇伝を残した。 | 400 |
典韋 (悪来) | 字は不詳。曹操配下の部将で、容貌が逞しく、腕力がずば抜けていて、80斤の鉄戟を一対使っていた。後に張秀が反乱した際、曹操の脱出を確保するため、殿として力戦し、戦死した。世に「古の悪来」と称された。 | 400 |
陸遜 (儒将) | 字は伯言。最初は孫権の配下で屯田都尉を務めていたが、後に、荊州奪取に参加したことにより重用された。連営の火攻め戦法で劉備を大破した一戦で有名になり、「社稷の臣」と称賛された。 | 400 |
楽毅 (軍神) | 字は永覇。戦国時代の軍事家で、幼少よりその聡明さはずば抜けていた。初めは趙国に仕え、後に燕国に身を寄せた。合縦して斉国を攻める策を提唱し、軍隊を率いて斉国の城を70余り攻め落とし、後世に武廟十哲に列せられた。 | 400 |
韓信 (国士無双) | 前漢の開国の功臣で、幼いころは貧乏だった。項羽に身を寄せていたが、重用されずに劉邦の下に転がり込み、劉邦のために、国土の半分を征服し、項羽を滅亡させた。蕭何、張良と並んで、漢初の三傑に列せられた。 | 400 |
孫臏 (妙策) | 戦国時代の軍事家で、孫武(兵聖)の後裔。早期は魏国に身を寄せていたが、龐涓の迫害を受け臏刑に処された後、斉国に逃亡し、斉の威王に軍師に任命され、斉国の覇業を築きあげた。 | 400 |
呂布 (天下無双) | 字は奉先。三国時代第一の猛将で、方天画戟を使いこなし、赤兎馬を乗馬として、金冠を被り、勇猛で戦上手だった。虎牢関では一人で三人と対戦し、三英雄が呂布と戦うという美談を残した。 | 400 |
劉備 (昭烈帝) | 字は玄徳。漢中王と号し、西川の主となった後は仁徳を広く施し、生産を重視した。曹丕が帝位を簒奪した後、彼も成都で帝位に就き、漢室を復興しようと努めた。 | 400 |
曹操 (魏武帝) | 字は孟徳。後漢の丞相。政権を掌握した期間に、中原社会は徐々に安定し、経済発展の兆しも見え、魏国創立のための礎を築き、魏武帝と尊称された。 | 400 |
孫権 (呉大帝) | 字は仲謀。三国時代の東呉の創立者で、後漢末年の群雄割拠において、江東の基盤を守り切り、帝位に就いた。24年間に渡り在位し、謚は大皇帝であった。 | 400 |
司馬懿 (鬼謀) | 字は仲達。魏国三代を補佐し、孤児を託された重臣で、善謀奇策をめぐらし、何度も征伐で功績を立てた。最も顕著な功績としては、諸葛亮の北伐を2回打ち破ったことと、遼東へ遠征し、平定したことであった。 | 400 |
周瑜 (大都督) | 字は公瑾。孫策の幼友達。30歳にして孫策に従い、江東を平定した。後に孫権を補佐し、赤壁の戦いで曹操を破った。孫権に、「王佐の資」と称賛された。 | 400 |
孫策 (小覇王) | 字は伯符。孫堅の長男で、早年は袁術に仕えたが、後に江東に戻った。張瑛を襲い、劉瑶を打ち破り、王朗と厳白虎を破って、東呉の礎を打ち立てた。人々に「江東の小覇王」と呼ばれた。 | 400 |
太公望 (封神) | 商末周初の軍事家で、斉国の開国の君主。かつて西周王を補佐し、人びとに太公望と尊称された。「姜太公の魚釣り、望む者が自らかかる」と言うことわざは、彼の故事である。 | 400 |
諸葛亮 (臥龍) | 字は孔明。号は臥竜。劉備が三顧の礼で諸葛亮を出仕させた。赴任後は、国政を立て直し、対外的に「聯呉抗魏」を基本とし、何度も北伐を行った。その生涯は、まさに「国のために死ぬまで力を尽くす」ものだった。 | 400 |
司馬炎 (晋帝) | 字は安世。司馬昭の嫡子として、父親の爵を受け継ぎ、晋王に就いた。後に魏元帝を脅迫して、帝位を禅譲させ、杜預を任命して、呉国討伐を図り、全国を統一した。以降は生産を発展させたことより、歴史上、「太康の治」と称された。 | 400 |
劉邦 (漢高祖) | 農家の出身で、始めは諸侯に従い秦への反抗を図り、秦を滅ぼした後は、西楚の覇王と天下を争った。人の才能を見極めるのが上手く、諫言を謙虚に用い、ついに天下を奪取した。歴史上「漢高祖」と称された。 | 400 |
嬴政 (始皇帝) | 姓は嬴、名は政と言う、中国で初めて統一を成し遂げた辣腕の政治家であり、古今東西において、初めて皇帝と称した君主でもあって、ゆえに始皇帝と呼ばれている。 | 400 |
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