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武将リスト(N、R、SR、SSR)

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N級武将

名前紹介召喚必要欠片数
帯来洞主孟獲(南蛮王)の妻である祝融夫人の弟。かつて降参と偽り、諸葛亮に近づき刺殺しようと企てたが、諸葛亮に見破られてしまった。30
糜芳字は子方。元は陶謙の部下であり、兄の糜竺と共に劉備の下に身を寄せていた。関羽と仲が悪く、呂子明が白衣で渡江する時に、戦わずに降参し、関羽を死に陥れた。30
劉璋字は季玉。三国時代に割拠した軍閥の1人。弱気かつ疑い深い性格で、劉備の力を借りて曹操に対抗しようとしたが、自ら災いを招く結果となった。30
張曼成字は不詳。後漢末年の黄巾の乱の時に、南陽黄巾軍の首領として、一度は南陽郡長諸貢を破り、宛城を占拠したことがある。30
孫皓字は元景。三国時代の呉国のラストエンペラー。即位初期は善政を施したが、やがて凡庸暴虐になり、西晋に降伏した後、帰命侯に冊封された。30
夏侯楙字は子林。三国時代の魏国の大将軍夏侯惇の息子。作戦指揮の面では才能を欠いていたが、家業の経営には長じていた。30
劉禅字は公嗣で、幼名は阿斗。劉備の長男で、蜀漢の2代目皇帝。諸葛孔明を相父とし、北伐を支持していたが、後期には小人の黄皓を重用し、蜀漢を衰弱させた。30

R級武将

名前紹介召喚必要欠片数
馬鉄字は不詳。馬騰の息子、馬超の弟。父の馬騰、弟の馬休と共に入京して官職に就いたが、馬超が曹操に背いたため、曹操に殺されてしまった。30
袁煕字は顕奕。袁紹の息子で、袁譚の弟、袁尚の兄。官渡の戦の後、2人の兄弟と権力を争った挙句、公孫康に身を寄せたが、後に殺されてしまった。30
徹里吉西羌国の王。諸葛亮が魏を討伐している際に、挙兵して蜀を攻めたが、蜀に打ち破られてしまった。諸葛亮は後にすべての戦利物資と捕虜を送り返した。徹里吉は蜀の恩義に感服し、同盟を結んだ。30
劉備
(草履売り)
字は玄徳。前漢の中山靖王劉勝の後裔で、若いころは落ちぶれて流浪し、草履を売って生計を立てていた。後に関羽、張飛と義兄弟となり、挙兵して黄巾賊を討伐し、天下の覇を争う道を歩み始めた。30
董荼那孟獲(南蛮王)所属の大将、第二洞元帥。阿会喃らと共に孟獲の援軍を務めて出征した。後に孟獲に謀反を疑われ、殺されてしまった。30
阿会喃孟獲(南蛮王)配下の大将、第三洞元帥。董荼那らと共に孟獲の援軍を務めて出征した。蜀軍に寝返ろうとするが陰謀が露見し、孟獲に斬殺された。30
文欽字は仲若。曹操配下の武官。若い頃から名将の子、勇猛果敢として有名で、かつて何度も呉国の侵入を打ち破り、後に、毋丘儉と共に兵を挙げ、司馬師を討伐した。30
樊稠字は不詳。元々は董卓配下の武官で、董卓が死んだ後、李傕、郭汜、張済らと十数万人に及ぶ大軍を率いて長安に反攻し、呂布を破り、王允を殺し、朝政を支配した。30
張邈字は孟卓。陳留太守で、漢末の群雄の1人。かつて曹操に身を寄せ、共に董卓を討伐したが、その後、曹操を裏切って呂布に付き、部下に刺殺された。30
厳白虎字は不詳。呉郡一帯の地方豪族で、万人規模の軍隊を擁し、別号を「白虎」といった。孫策の江東征伐の時、力の限り対抗した。30
木鹿大王八納洞主、孟獲の盟友。魔法に長じており、天候を変え、動物を操って戦わせることができる。後に、諸葛亮の噴火車に打ち破られ、乱戦の中で死んだ。30
金環三結孟獲(南蛮王)の部下で三洞元帥の1人、第一洞元帥。孟獲の命令を受け、蜀軍と戦ったが、蜀将の趙雲に殺されてしまった。30
兀突骨烏戈国の王。身長が高く、武勇も抜群で、象に騎乗している。率いた藤甲軍は一度は蜀軍を大敗させたことがあるものの、後に諸葛亮の火攻めにより、全軍が壊滅してしまった。30
郭汜字は不詳。元は董卓の部下で、董卓が殺された後、賈詡の謀を採用し、兵力を連合して長安に攻め込み、呂布を打ち破って、王允らを殺した上で、長安を占領して朝廷の大権を握った。30
李傕字は稚然。董卓の腹心で、董卓の死後、凉州の諸将と共に長安を占拠し、朝政を支配した。30
馬雲禄
(少女)
馬騰の娘、馬超の妹で、幼少から武芸を習い、女中無双の存在である。馬騰が殺された後、父の仇を討つために、中原に来て曹操を暗殺しようと企んでいた。30
張允字は不詳。元は劉表配下の武将で、後に曹操に降参し、蔡瑁と共に水軍を司り、水軍をますます強くさせ、周瑜の警戒を引き起こした。30
張梁後漢末年の黄巾蜂起の首領の1人。張角の三番目の弟で、「人公将軍」と称した。広宗などの地方で漢軍に抵抗し、後に皇甫嵩の夜襲に遭い、力戦の後亡くなった。30
張宝後漢末年の黄巾蜂起の首領の1人。張角の次弟で、「地公将軍」と称した。大勢の人を率いて、陽城で妖術を使い、何度も劉備と朱儁を打ち破ったものの、結局は、兵が崩れ、殺されてしまった。30
馬休字は不詳。馬騰の次男、馬超の弟。官職を受けるため、父の馬騰、兄の馬鉄と共に入京した。馬超が曹操に反旗を翻したことにより、曹操に殺されてしまった。 30
士燮字は威彦。交州の地元の豪族で、かなり立ち遅れていた交州を桃源郷となるまでに発達させた。住民は豊かで、安定した生活を四十年余り享受できた。30
袁譚字は顕思。大将軍袁紹の長男で、かつて青州刺史を歴任し、建安元年に、田楷、孔融らを打ち破り青州を占拠した。30
袁尚字は顕甫。大将軍袁紹の第三子で、官渡の戦の後、2人の兄弟と権力争いをし、1人で曹操に対抗した。30
劉繇字は正礼。漢室の親族で、幼少より聡明かつ決断力があり、19歳にして、1人で山賊・盗賊を斬り殺した。後に揚州刺史を務め、奮って孫策、袁術に対抗し、笮融を撃破した。30

SR級武将

名前紹介召喚必要欠片数
張苞
(青年)
字は不明。蜀漢の名将張飛の息子で、幼少より背が高く、腕力がずば抜けており、父親の風格を多く受け継いでいる。50
関興
(青年)
字は安国。蜀漢の名将関羽の次子、関平の弟で、幼少より利口で、いつも弱い人の肩を持ち、諸葛亮に可愛がられた。50
曹昂字は子脩。曹操の長男。聡明で、率直かつ謙虚な気性の持ち主で、曹操に深く愛されていた。宛城の変の時、曹操のために、大将の典韋と共に殿を務め、共に戦死してしまった。50
全琮字は子璜。呉国の名将で、勇気と智謀を兼ね備え、孫権に高く評価された。徐盛と共に数度に渡り曹休の大軍を打ち破り、魏将の尹盧を斬殺し、江東の人々により、大臣の節があると称えられた。50
朱然字は義封。呉国の名将。幼少より大胆で、孫権と共に勉学するようになった。成長してから、数多くの戦功をあげつつ、陸遜と呼応して劉備を大いに破り、威名が敵国に響き渡った。50
祖茂字は大栄。孫堅配下の大将で、双刀を武器として、勇気と力がずば抜けている。梁東の戦で、孫堅撤退を掩護するため、華雄の一刀の下に斬り落とされた。50
廖化字は元倹。かつて関羽の主簿を務め、その後、死んだふりをして蜀に帰国。勇敢、率直な名で知られ、諸葛亮、姜維と共に征戦し、戦功が際立っていた。50
曹休字は文烈、曹操の族兄弟の子で、謀略があり、曹操より我が子のように可愛がられ、「千里駒」と称賛していた。かつて張飛を大敗させただけではなく、東の戦線を守り、何度も東呉を打ち破り、その威名は江東を激震させた。50
張繍字は不詳。初めは張済に従い征伐し、張済の死後、劉表と連合して、一度は曹操と穰城で会戦したが、その後賈詡の助言に従い、曹操に身を寄せ、官渡の戦いに参加した。50
張翼字は伯恭。蜀漢の将校、諸葛亮と姜維の北伐に従軍し、法を厳しく執行し、当時、蜀漢の朝廷において、北伐をめぐって朝堂で姜維と弁論する勇気を持つ、数少ない大臣の1人であった。50
蔡瑁字は徳珪。早年は劉表の荊州平定を助け、劉表が病没した後は、後継者として劉琮を擁護した。曹操に降参した後、張允と共に水軍を司り、周瑜に忌憚されていた。50
劉焉字は君郎。漢朝の宗室にあたる。益州刺史郄倹が益州で公然と金銭を巻き揚げ、汚職が一般的となって、またその当時、天下は大いに乱れており、劉焉はそれを有利にとらえて、益州を獲得した。50
臧覇字は宣高。元は呂布配下の猛者で、戦いに長けている。呂布の死後、曹操に降伏した。臧覇は東方を守備し、海岱を静めた。また長期にわたって征伐に参加し、功績を数多く積み上げた。50
紀霊字は伏義。袁術旗下の大将。非常に勇猛で、かつて関羽と三十数回手合わせをしたことがある。後に命を受けて小沛で劉備を攻めたが、呂布の轘門射戟による調停で、撤兵した。50
曹純字は子和。曹操旗下の将校。曹仁の弟で、曹操配下の精鋭部隊「虎豹騎」のリーダーの1人、北方を平定する戦いで功績をあげたことにより、天下に名を知られた。50
陳武字は子烈。東呉の猛将。孫策に従って江東を征戦し、仁厚で善行を好んだため、上は孫権から、下は郷里の人にまで敬愛され、陳寿に「江表の虎臣」と称賛された。50
曹洪字は子廉。曹操の従弟で、早年から曹操に従って董卓を討伐し、曹操が滎陽で敗れた時は、曹洪は命を捨てて馬を献上し救った。後に曹休と共に劉備を防ぎ、張飛と馬超に迫り、退けた。50
黄祖字は不詳。江夏太守を務めたことがある。長沙で孫堅と交戦した時、彼の部下が孫堅を射殺したため、孫家とは仇敵になった。後に孫権との交戦で敗れ、殺された。50
丁原字は建陽。かつて何進の招待に応じ洛陽に入り、十常侍を誅殺した。その後、丁原は董卓と衝突し、京都外で董卓軍を大敗させたが、後に義理の息子である呂布に反逆され亡くなった。50
沙摩柯五渓蛮の首領で、劉備の招きに応じて呉を討伐し、活発な働きで呉軍を悩ませていた。後に、蜀軍は陸遜の火攻めで大敗し、沙摩柯も混乱の中馬で逃げたが、乱軍に殺された。50
何進字は遂高。霊帝の外戚で、黄巾の乱に当たり、何進は大将軍を務め、京師の守備を司った。その後、袁紹らと宦官を打ち滅ぼそうと謀議したが、張譲に先手を取られ、殺された。50
袁術字公路。袁紹の弟で、袁紹、曹操らと同時期に兵を挙げ、共に董卓を討伐した。後に、兵士を率いて、揚州を割拠し、建安二年に帝につき、年号を仲氏とした。50
陶謙字は恭祖。性格が率直で、心に大志を抱いている。左車騎将軍皇甫嵩に従い、徐州の黄巾賊を倒し、現地の生産秩序を極力回復しようとした。50
管亥字は不詳。黄巾蜂起軍の将校で、将兵を率いて孔融を攻めた際、一回の手合せで大将の宗宝を斬り殺したものの、関羽との戦いで数十回の手合わせの末斬られた。50
張魯字は公祺。五斗米道の三代目天師と伝われ、張修を殺した後、漢中一帯を割拠し、三十年間五斗米道を布教した。自称は「師君」であった。50
朶思大王南蛮禿龍洞の元帥で、孟獲の弟の孟優の友人。かつて毒泉を利用して諸葛亮に対抗し、南蛮第一の智者と言われた。50
呂玲綺
(少女)
三国の猛将呂布の娘。幼少より女性の恰好を好まず、武芸を好み、特に方天画戟を好んで使っていた。50
韓遂字は文約。羌胡の反乱軍からリーダーに推挙され、宦官を誅殺する名目で、謀反を企て、十万人をかき集めた。前後して、皇甫嵩、張温、陳卓、孫堅等の名将を打ち敗った。50
韓徳字は不詳。魏国の西凉大将。後に兵を率い、夏侯楙に従って蜀の侵攻を防ぎ、鳳鳴山の戦で息子4人と共に趙雲に斬り殺された。50
董襲字は元代。身長は8尺あり、武力がずば抜けていて、孫策の腹心の将として、山陰賊を斬殺し、潘陽賊を平定し、黄祖を射殺するなど、東呉の基業を築くための戦功を数多く立てた。50
劉封字は不詳。劉備の養子で、剛直勇猛な性格で、力がずば抜けている。趙雲、張飛らに従い西川を掃討し、戦功を多く立てた。後に、孟達を率いて上庸を攻略し、劉備に深く信頼された。50
孟達字は子度。最初は劉璋の部下で、後に劉備に降参した。関羽を救わなかったことで劉備を怒らせ、曹魏に身を寄せていた。曹丕の死去に伴い、また蜀漢に帰服しようとしたが、計画がバレて殺された。50
張燕字は不詳。後漢末年の黒山軍の首領で、勇猛果敢な上に、機敏さもずば抜けていたことから、軍中で「飛燕」と称されていた。50
呂岱字は定公。孫権に深く重んじられ、呂合、秦狼の乱を平定し、長沙3郡を占領した。後に、交州在任中における功績はさらに輝かしいものであった。一生涯に渡り、孫呉のために新しい境地を切り開いた功績が抜きんでていた。50
呼廚泉匈奴の単于、漢献帝の東帰を助けるために、かつて右賢王去卑を派遣したが、その後本国に帰った。後に曹操は、呼厨泉の朝見を機に、彼を鄴城に引き留め、去卑を匈奴に派遣して、管理に当たらせた。50
諸葛瞻字は思遠。蜀漢の丞相諸葛亮の息子。鄧艾が蜀を討伐した時、彼は蜀国の諸将と一緒に奮って綿竹を守り、後に城を出て鄧艾と決戦をしたが、交戦時に戦死し、綿竹は陥落した。50
迷当大王羌族の王。姜維が魏軍への進撃を補佐したが、魏将陳泰の計略にかかり、魏軍を蜀の軍営に引き連れて、姜維らの出迎えを待つ時に、自分の利用価値がなくなったために、殺された。50
軻比能鮮卑支部の出身。勇敢に戦い、公平に法を執行した。有利な条件を利用して積極的に漢民族の先進技術と文化を学び、鮮卑族の進歩と北方民族の融合を促進した。50
凌操字は不詳、凌統の父親。「軽便で度胸があり」と評され、早年は孫策に従って江東を転戦し、常に勇猛で先頭に立ち、夏口の戦いで敵の先鋒を破ったが、不幸なことに、甘寧に射殺された。50
劉虞字は伯安。漢室の親族で、かつて幽州刺史などの職を務めた。幽州を防衛した時は、寛容で慈悲深く為政し、人々を喜ばせた。そして懐柔政策で地元の遊牧民族に対処し、名声が高かった。50

SSR級武将

名前紹介召喚必要欠片数
劉備
(皇叔)
字は玄徳。前漢の中山靖王劉勝の子孫。曹操を対抗するために劉表に身を寄せ、孫呉と同盟を結んだ。庶民に優しく接し、人柄も寛大で、「劉皇叔」と尊称された。100
鄧艾
(青年)
字は士載。南陽士族の末裔で、青年期は落ちぶれて流浪していたが、日々勉学に励み、汝陽で才学が抜群だったため学士に選ばれ、運命を変わる道を歩み始めた。100
鐘会
(青年)
字は士季。太傳鐘繇の次子で、幼少よりその聡明さがずば抜けており、蒋済は鐘会を「非常な人なり」と見なしていた。弱冠にして才能が群を抜き、名士、玄学の代表人物である王弼と共に人々によく知られている。100
曹丕字は子桓。曹操の次子で、幼少から文武両道で、諸子百家の学説に精通していた。曹操が亡くなった後、曹丕は禅譲を受けて皇帝となった。漢に代わって魏となり、漢の四百年以上の統治は終わりを迎えた。100
孫権
(弱冠)
字は仲謀。孫堅の次子で、幼少より朗らかで、任侠を尊び、賢才との付き合いが好きだった。弱冠の年にして兄と同様に有名となったが、その才能は、兄の孫策をも感嘆させたほどである。100
曹操
(青年)
字は孟徳。若い時はわがままで、任侠好きで腕白な存在であり、世間の人から嘲笑われることが多かったが、喬玄らだけは、「清平の奸賊、乱世の英雄」と称していた。100
呂玲綺呂布と厳氏の間に産まれた娘で、父親の武勇を受け継いだことを誇りにしている。かつて、袁術の息子との結婚を提案されたが、劉備と曹操に阻止された。呂布の死後、許昌に移り定住した。100
関羽字は雲長。劉備、張飛の義兄弟で、劉備に従い各地を転々とした。かつて曹操に生け捕りにされ、白馬坡で袁紹軍の大将の顔良を斬殺し、張飛と共に万人敵と呼ばれた。100
祝融
(小蛮女)
噂で火神祝融氏の後裔で、幼少より男に負けない力と気概があり、飛刀を使いこなした。のちに孟獲(南蛮王)に嫁いだ。100
張苞字は不詳。蜀漢の名将、張飛の息子で、父にも劣らない武芸と勇猛さを有し、家伝の蛇矛を武器として、諸葛亮の腹心将校であった。100
関興字は安国。蜀漢の名将関羽の次子で、武芸がずば抜けており、かつて潘璋をを殺して青龍偃月刀を奪還した。諸葛亮の曹魏北伐における主将の一人となり、優れた功績を上げた。100
公孫瓚字は伯珪。貴族出身で、容貌が堂々とし、声も朗々としていた。機知に富み、弁論に長じ、強硬な態度で北方の遊牧民族に対抗し、作戦が勇猛で、その威勢は辺境に響き渡った。100
李典字は曼成。曹操配下の武官で、人柄は大義をよく弁え、功績争いをしたことがなく、学ぶことを尊び、博学の士を尊重し、軍中では長者と呼ばれていた。100
楽進字は文謙。胆力と勇猛さを曹操に認められ、長年に渡り従軍し、袁尚を破り、烏巣を襲い、黄巾党を滅ぼし、関羽を退け、山岳を平定するなどで、一生涯を南征北戦して無数の戦功を立てた。五子良将の一人。100
郭淮字は伯済。魏国の名将で、早年は夏侯淵が戦死した時は、奮って蜀軍に抵抗し、情勢の安定化を図った。後に、諸葛亮が魏国を討伐する時も、郭淮は敵の動向を正しく推測し、何度も姜維を撃退するなど、戦功が顕著であった。100
程普字は徳謀。孫堅、孫策、孫権の三代に仕え、孫堅に従い黄巾、董卓を討伐し、江東を平定した。その後、孫権を補佐し、赤壁の戦いで周瑜と呼応し、曹操を大いに破った。100
李厳字は正方。かつて劉璋配下で県令を務め、その才能で名を知られた。その後劉備の下に身を寄せ、優秀な政治能力を発揮し、白帝城で諸葛亮と共に孤児を託された臣となった。100
徐盛字は文向。かつて孫堅に従って黄祖に対抗し、陸遜と共に蜀軍を大いに破った。曹魏が呉を討伐した時には、徐盛は不利な状況で、少数で多数の軍隊と対抗し、陳寿に「江表の虎臣」と称賛された。100
郝昭字は伯道。司馬懿の推薦を受けて陳倉を守護し、太和二年の諸葛亮の北伐軍はこの郝昭によって阻まれ、降伏勧告も成り立たず、20日間余り対戦した挙句、撤退を迫られた。100
曹真字は子丹。魏の武帝曹操の族子で、勇猛な戦い方で虎豹騎のリーダーの一人となった。後に西北の国境を守備し、諸将を指揮して羌胡連合軍を大いに破り、河西を平定した。100
文聘字は仲業。元は劉表の大将で、劉表の死去後、曹操はその忠義に感激し、そのまま彼を江夏守備の任に置いた。文聘も曹操の期待に背かず、何度も関羽の軍を阻んだ。100
朱桓字は休穆。孫権の大将。夷陵の戦の後、少数で多数に対抗して曹仁を撃退し、また陸遜を助けて曹休を大いに破った。人柄は財を軽んじて信義を重んじ、人に一度会うと、何十年も忘れずにいたほどで、彼が死んだ時には、泣かない部下はいなかった。100
黄蓋字は公覆。孫堅、孫策、孫権の三代に仕え、早年は孫堅に従い南征北戦し、後に孫権を助けて山岳を平定した。赤壁の戦いでは苦肉の計で、偽りの降参を演じ、主な功労者の一人であった。100
夏侯覇字は仲権。征西将軍夏侯淵の次子で、かつて姜維の侵攻を撃退したことがある。後に、司馬氏の専横のため蜀漢に身を寄せ、蜀漢の北伐の大将となり、何度も蜀国の防御、魏国討伐の戦いに参加した。100
于禁字は文則。元は鮑信配下の武将で、後に曹操に身を寄せた。張秀を討伐した時に顕著な功績を立て、五子良将の一人である。襄樊の戦いで、関羽に負けた後に降伏したことより、晩節を全うすることができなかった。100
丁奉字は承淵。東興の戦いにおいて「雪中にて短兵で奮戦する」作戦で、魏軍を大いに破った。一生涯で孫権から孫皓までの、四人の呉国君主に仕え、呉国の栄枯盛衰を見守った。100
曹仁字は子孝。曹操の従弟で、長年に渡り曹操に従い、袁術を撃破、陶謙を撃破、句陽の攻略、呂布に打ち勝ち、劉備を打ち破った。特に赤壁の大敗の後は、曹操軍の態勢を立て直すために、貴重な時間を稼いだ。100
高順字は不詳。後漢末年、呂布配下の中郎将で、人柄は潔白で威厳があり、酒は好まず、統率された部隊は果敢で戦闘に長けており、精鋭中の精鋭で、「陥陣営」と呼ばれた。100
高覧字は不詳。元は袁紹配下の武将で、武芸に秀で、かつて許褚、徐晃と対戦して勝負がつかず、3回の手合わせで劉辟を斬殺したこ共あった。官渡の戦後、曹操に身を寄せた。100
馬岱字は不詳。馬超の従弟で、早年は馬超に追随して、曹操討伐、隴上の反攻、成都包囲戦、漢中の戦いなどを戦った。後に諸葛亮の病没後は、楊儀に派遣されて、蜀将の魏延を斬殺した。100
皇甫嵩字は義真。将軍の家柄で、黄巾の乱が勃発した後、皇甫嵩は朱儁と軍を率いて黄巾軍を鎮圧した。董卓が権力を握った時は、董卓に迫害されたが、辛うじて命を保った。100
韓当字は義公。孫堅、孫策、孫権の三代に仕え、弓矢、馬術に長け、腕力もずば抜けていた。孫家に追随して四方へ征伐し、功績は顕著であった。100
蹋頓遼西烏桓の首領、三王部を統治し、かつて出兵して袁紹と呼応して公孫瓚を撃破した。袁紹の死後、一度は袁尚を庇護した。のちに柳城白狼山の戦いで張遼に斬殺された。100
徐栄字は不詳。董卓配下の将校。後漢末年の名将で、かつて曹操と孫堅を打ち破り、董卓の死後は、李傕、郭汜と戦ったが、部将胡珍の降伏により、乱軍の中戦死した。100
潘璋字は文珪。東呉の猛将で、合肥の戦い、関羽の追撃、夷陵の戦い、江陵防衛戦において、何度も戦功を立て、陳寿に「江表の虎臣」と大いに称賛された。100
曹彰字は子文。曹魏の宗室。武芸が抜群で、虎とやり合うのが好み、文章に関しては下手であった。かつて軍を率いて烏桓を討伐し、軻比能を降伏させたことがある。黄色い髭を生やしており、曹操に「黄髭児」と呼ばれた。100
潘鳳冀州牧韓馥配下の大将。双斧を使いこなし、虎牢関で対峙した時に、「我が上将潘鳳が、華雄を斬って見せる」という有名なセリフがあり、「無双上将」と揶揄された。100
孫桓字は叔武。孫河の第三子で、幼少より容姿端麗で、聡明な才能があり、博学で記憶力もよく、議論にも機敏に応対できた。後に陸遜に従って劉備を大いに破り、孫権はよく「宗室の顔淵」と称した。100
劉表字は景昇。漢の宗室で、幼少より名を世に知られ、「八俊」に名を連ねていた。荊州を守護した時期、劉表は恩威を共に施して、人材を誘致していたため、万里は粛清され、群民は喜んで服し、荊江で雄を称えた。100
徐晃
(青年)
字は公明。若い頃はいつも弱い者の肩を持ち、後に河東郡の小役人を務めた。車騎将軍楊奉に従い、賊の討伐で功績をあげ、騎都尉に抜擢された。100
曹叡字は元仲。曹魏の二代目の皇帝。曹真、司馬懿らを指揮し、呉蜀の攻勢を何度も防御し、鮮卑、公孫淵を平定した。曹操、曹丕と共に魏氏の「三祖」と呼ばれた。100
張角太平道の創始者で、南華老仙から「太平要術」を伝授された後、黄巾の乱を起こし、三国乱世の幕を開けた。100
顔良
(力士)
字は不詳。袁紹配下の部将で、その力は尽きることなく、武勇がずば抜けていた。かつて20回の手合わせで大将徐晃を打ち破り、全軍の第一人者と褒め称えられた。100
文醜
(力士)
字は不詳。袁紹配下の将校で、顔良に劣らぬ武勇の持ち主で、公孫瓚を討伐する戦いでは、趙雲と五、六十回手合わせをしても、勝敗は付けられず、河北第一の名刀と称賛された。100
毋丘儉字は仲恭。2度にわたり、大軍を率いて高句麗を征伐し、功績を石に刻んで凱旋し、数々の戦功を立てた。後に司馬氏の専横に対し、昔日の魏明帝の恩に感じて、司馬師に反旗を翻し、後人に「淮南三叛」と呼ばれた。100
賈逵字は梁道。曹操、曹丕、曹叡の三世代に仕え、「賈侯渠」運河を作った、曹魏政権における政治、軍事才能を兼ね備えた人物であった。100
馬雲禄馬超の妹。幼小より武芸を習い、その後、馬腾の仇を討つために中原に来た。趙雲に一目惚れをし、後に彼の妻となった。100
孫韶字は公礼。本姓は兪。かつて何度も孫権に従って魏を討伐し、合肥の戦いに参加した。後に辺境を数年間守護し、孫権に深く重んじられ、特別に孫姓を賜り、宗室に加わった。100
満寵字は伯寧。最初は曹操配下で司法を司り、執法の厳しさで有名となり、後に汝南太守の任に転じた。かつて赤壁の戦い、樊城防衛戦などに参加し、後に曹休に代わって呉国に対する作戦を担当した。100
張郃
(青年)
字は儁義。後漢末の侠客で、出世のために軍に応募し、韓馥に従い黄巾軍を鎮圧し、戦いにおいて頭角を現わした。袁紹に気に入られ、公孫瓚の討伐に追随させた。100
司馬師
(青年)
字は子元。司馬懿の長男で、幼少より沈着で毅然とし、頭角を現わした。夏侯玄、何晏と名を並べ、雄才の姿がありと称された。100
司馬昭
(青年)
字は子上。司馬懿の次子で、若い時から庶民に配慮し、厳しい苛酷な税を廃除し、農期を遅らせないように助言した。庶民を大いに喜ばせ、名声はその兄に劣らなかった。100
田豫字は国譲。最初は劉備に従い、後に公孫瓚に仕えた。公孫瓚が没落後は、鮮于補に対し曹操へ帰順するよう説得した。後に長年に渡り、曹魏の北方領土を鎮守し、骨進を斬り殺し、軻比能を打ち破り、その名は北方に響き渡った。100
呉下の阿蒙字は子明。幼少時に家族に従って、渡江して鄧当に身を寄せた。鄧当配下の部将に幼さを嘲笑われ、呂蒙は怒ってそれを殺した。孫策はそれを知った後、自ら呂蒙を見つけ、彼には猛将の相があると褒めた。100
周泰
(青年)
字は幼平。幼少より勇猛果敢で、蒋欽と仲間になって、江東の遊侠である。後に蒋欽に従って孫策に身を寄せ、その武勇により、頭角を現わした。100
厳顔字は不詳。最初は劉璋配下の将校で、巴郡太守を務めた。後に江州で敗れて張飛に降伏勧告され、これ以降は劉備に従い漢中を遠征し、功績を数多くあげた。100
文鴦字は不詳。文欽の長男で、万人にも当たる勇気の持ち主で、19才にして父親に従って司馬師を攻撃し、1人の力で包囲を貫き、誰も阻むことができなかった。後に毋丘儉の乱に参加した。100
凌統
(青年)
字は公績。凌操の息子。弱冠の年にして、父親の凌操の有能な部下となり、夏口の戦いにおいて、わずか15才で出陣したことより、東呉の人は皆その逞しさをたたえた。100
杜預字は元凱。名臣の杜畿の孫で、曹丕に重用されて何度も従軍し、蜀と呉重傷した。天下が晋に統一された後は、典籍に熱中し、功績を数多く立て「杜武庫」と誉められた。100
王叡字は士治。官吏の家に生まれ、益州を治めていた間に、艦船を建造し、七年かけて強大な水軍を作り上げた。その水軍は呉国討伐の先鋒となり、率先して東呉の投降を受け入れた。100
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