箱庭世界・前夜
シモン・前夜
おぼろげな月明りの下、シモンはファイルを片手に窓辺の椅子に座っていた。ファイルに記されているのは「1908年ホワイトハウス爆破事件」の調査報告。彼の視線は「爆発事件は起こらなかった」という記述に釘付けになり、指先で机を叩いて一定のリズムを刻んでいた。
いつの間にか、事態は彼の予想外の方向へとズレ始めている。
数日前、シモンは他の研究機関から今回のインフルエンザウイルスに関する研究報告書を受け取っていた。あらゆる計算理論をいくつも積み重ねて修正を加えたが、彼の求める結果は得られなかった。
試算は全て行き詰まり、これが最後の一つとなった・・・・・・
一瞬の思考の閃きにより、シモンはふとシュレーディンガーの猫のこと、試薬の成功率のことを思い出した。そして、あの強く言い放たれた言葉も・・・・・・
「ウイルスは爆発的に蔓延した。零化計画も順調に進んでいる」
あの自信たっぷりの言葉を思い出すと、シモンの顔つきは一層冷たく険しいものになった。彼は両手をあごの下で組んで軽く目を閉じた。窓の外では分厚い雲がゆっくりと流れ、影はかすかに頷いて暗闇の中に埋もれて見えなくなる。部屋の隅には薄暗い月明りだけが残されていた。
机上のカレンダーを見やり、明日が記者会見の日であることを確認した。全員がこの決定に賛同しているわけではない。中にはこの発表の意味や価値を理解しない人もいる。しかし・・・・・・
時には賭けに出た方がいいこともある。
彼の視線は机の上に置かれた記者会見の招待状に向けられた。その時、脳裏に良く知った人物の姿が浮かんでくる。
彼女の笑顔、彼女の涙、彼女の囁き、彼女の温もり。
彼は全てを覚えていた。ただ・・・・・・時間の侵食により、頭の中のそれらの後景は全て色褪せていた。
シモンの指先は知らないうちに自分の右目に触れていた。そこには傷一つない。
ーー明日の記者会見で僕たちは再び会えるよ。
その時になれば、彼に残っていた唯一の色彩も失うだろう。