掲示板民の尊厳について
目次
掲示板民の尊厳について
Isaiah.著
「私はおまえを天界の者でもなく、地上の者でもない、死すべき存在でも、不死の存在でもない、自由かつ自分自身の像の制作者となり、自らの意志に従うように創造した。」
―『人間の尊厳について』(ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ著)より
はじめに
隠れん坊オンラインには亡霊がいる。そのままの意味だ。本体のソーシャルゲームをとっくに引退したか、もしくはそれに等しい程起動しなくなった者が、未だにそのゲームの名前を冠したネット掲示板に集まっている。私はその一人で、貴方もその一人だろう。
奇妙なことに―いや、私は当事者ではあるが―その亡霊たちは、掲示板に社会を作り上げてしまった。その時代のダイナミズムについて、私は既に何編かの文章を書きあげている。そこは平民と役人の別・自治領と宗主国の別・名無し、名有り、ログイン勢(時代によっては著名)の別が広がっていた。形成された「社会的ステータス」は上位の者たちに権威を付与した。そして彼らは下位の者たちを啓蒙し、掲示板民としての誇りを付与した。人々は掲示板との関係の中で尊厳を保障されていた。
ところが、2023年3月以降の掲示板の退潮は尊厳を毀損した。「リアル」が掲示板と対置され、場合によっては片側の全否定が行われた。冷笑主義が場を支配し、尊厳は嘲笑の対象となった。
今、「掲示板民に尊厳はあってもよいのか」という問いはこれまでにない程切実なものとなっている。掲示板のアイデンティティは劣等人間のラベルに堕落し、事績は今やちっぽけさばかりが強調される。平民と役人の別は陰キャと陽キャの別に様変わりした。「あなたは休日に何をしていますか?」という問いは、非常に深い意味を含有している。
この悲劇的な、あるいは正常化の大転換にあって、人々の考えは揺り動かされた。私自身にしても、この一年で非常な思想の変動を経験した。冷笑から情熱へ、そしてまた冷笑へ。その現在地をここに記そうと思うのであるが、当然これが最終到達点だと位置づけることは出来ない。ただ、現状をありのままに書こうという試みである。つまり、掲示板民とその尊厳について、そして我々の将来についての管見を記す。
なお、タイトルがかの有名なピコ・デッラ・ミランドラの『人間の尊厳について』をもじったものであることはすでに読者はお気づきであろう。しかしながら、私は人間の自由意志を説いた彼のように偉大ではないし、大層な文章を綴ることに慣れてもいない。だから不適切な演繹や帰納を弄し、更に悪くは全く破綻したことを高慢な文体で語るかもしれぬ。そうしたことには目をつむっていただきたい。この文章が読者の思索において少しでも役に立つことが出来れば幸いだ。
序. 尊厳とは何か
本題に入る前に、我々は言葉を明確にしておかなければならぬ。主題である「尊厳」、これを定義しないことには、何事も始まらない。
広辞苑によれば、尊厳とは「尊く厳かで、犯し難いこと」と記載されている。これは堅苦しい辞書的な意味であるので、別の言い方を探ってみよう。私はこういう定義を導き出した―「他者より受け入れられる価値や威厳があること」。
言い換えが過ぎると憤ることなかれ。尊厳の定義について、辞書等の一般論的定義と私の定義の間における差は、能動的か・受動的か、というところにある。一般論において尊厳の定義は形容詞的で、他者よりその尊さ、厳かさを認められているという前提が含意されている。重要なのは「認められている」という状態について、それを無条件のものとして捉えているという点である。言い換えれば、他者に能動的に価値を「認めさせている」。
とはいえ、語義としては存立できても、現実世界でもそうはいくまい。能動的な価値の宣伝は視点を転換すれば押しつけである。現代は、一見するとそれまでに類を見ない程あらゆるマイノリティに対して尊厳が付与された時代に思える。例えば、LGBTQの人々の尊厳を語るなど、過去では考えられないことだ。そこに疑いようはない。
しかしながら、突き詰めると結局、そうしたマイノリティの「尊厳」は、彼ら自身によって本質的に獲得が可能なものではない。何故ならマイノリティはマイノリティであり、社会を構成し、統治するのは腐っても多数派、マジョリティであるからだ。近代民主主義と市民社会の発展はこうした傾向を強めた。マジョリティの意志は平均を取られたうえでわずかに希釈されて「人民の意志」となり、そこにある尊厳も然りである。マイノリティは確かにこれに参画はできるが、少数派である以上は自分たちの尊厳が平均の中で大きな割合を占めることはあり得ない。場合によっては顧みられることさえない。
では、現代のマイノリティの尊厳を大切にする潮流は一体どういうことなのか。シニカルな見方かもしれないが、それはマジョリティの余裕の表れであり、ある種の憐憫である。
国家で考えた場合、マイノリティの権利向上に最大の貢献を果たすのは往々にして比較的左派に位置する政党である。アメリカの民主党、ドイツの社会民主党、日本では立憲民主党だろうか(もっとも、自由民主党も人権問題に関してはしばしば左派を包括している)。だが、これらの政党を運営する人間はやはりマジョリティである。民主主義社会では少数者の声は弱体だ。だからマイノリティの当事者たちの訴えを、マジョリティが採択し国会に持ち込むことによってのみ、尊厳は実現される。つまり、マイノリティは尊厳獲得のため、マジョリティに「選び取ってもらわねばならない」。そうでもしなければ耳障りな戯言にしかならない。
左派は、その目的が人気取りであれ独善的な心を満たすことであれ、ともかくそうしたことに耳を傾ける傾向がある。同時に、左派はその理想主義的性質より、平時に国政を握ることが多い。何故なら戦争中に少数者の権利などとのたまっている暇はないからである。21世紀初頭の比較的平和な国際情勢がマイノリティの尊厳付与を助けた。
ただし、左派の方が付与する確率は高いと雖も、彼等も所詮はマジョリティ。利害が対立するようなことがあれば突っぱねてしまう。
たとえばペドフィリア(小児性愛、厳密には違うが日本で言う「ロリコン」)の人間は、「性の多様性」が叫ばれる中でも左右両方からパブリック・エネミ―として袋叩きにされている。誤解を招かないために書くと、私はそうした人々ではないし、確かにそうした性愛は実行に移された場合児童に身体的・精神的トラウマを植え付けるという事実があるため容認できない。
だが、批判者たちの多くはそうした事実によって、というよりかは、「小児に性欲を抱くのは気持ちが悪い」という自分たちの印象によってペドフィリアを非難していることが多い。結果、実行の有無にかかわらず、小児性愛者は(その趣向が生まれつきであろうと)精神病患者のように扱われる。これでは同性愛者を精神病扱いしていた時と変わらないではないか。ここに至って、マイノリティの性的趣向とマジョリティの持つ印象が正面衝突してしまい、マジョリティの誰もがマイノリティの主張に聞く耳を持たなくなったのだ。人は個々で許容範囲は異なるとはいえ、受け入れられないものを受け入れることは決してない。
ただ、そうした場合においても、マイノリティの尊厳を認めさせる方法は実は一つだけ存在する。それはマイノリティによるマジョリティの威圧である。
歴史に例を求めるが、例えば共産主義は20世紀の世界で資本主義と双璧を成した、尊厳あるイデオロギーであった。だが、1917年にロシアで10月革命が発生し、社会主義から共産主義を目指すボリシェヴィキ政権が成立した際、列強たる欧米諸国は猛反発し、軍事介入した。この新たなイデオロギーを担ぐ政権の勃興が列強には受け入れがたいものだった(例えば、フランスは帝政ロシアに多額の貸し付けを行っており、ボリシェヴィキ政権勝利の暁には返済を踏み倒される危険があった)ためである。ところが、それから四半世紀後には共産主義はソ連をバックに尊厳を獲得した。それは偏に彼らが欧米からの干渉を粉砕し、さらにナチスへの勝利・核保有に至ったからである。力によってマイノリティが尊厳を認めさせた。ただし、認めるという動作を行ったのが国際社会というマジョリティである、ということもまた事実だ。
ともかく、私が言わんとしていることは、尊厳とはマジョリティによって与えられ、その決定権もまたマジョリティが握っているということだ。こうしたことを以て、私は尊厳を受動的に解釈している。アンダーグラウンドな場である以上マイノリティに回らざるを得ない掲示板民の場合、尊厳を得る方法はほぼこの二つだ―①マジョリティに屈服し、尊厳を認めてもらう ②マジョリティを粉砕し、尊厳を認めさせる。こうした条件をもとに、尊厳の有無を考えていこう。
Ⅰ. 掲示板内の尊厳について
本文章では尊厳の有無を、尊厳の付与される範囲別に考えていく。まずは掲示板内での掲示板民の尊厳について考えていこう。
前書きにも少し書いたように、掲示板内における尊厳とは、人々と掲示板との間で生まれ、保障されていた。だから、尊厳を決定づけるマジョリティには掲示板民、ないしは掲示板の自称政府が当てはまる。
しかし、ここで私は読者に謝らなければならない。というのは、尊厳を論じる前提条件をそろえたはいいものの、尊厳の保障の仕組みを具体的に書いてしまった以上、その有無を今明言せざるを得ないことになってしまったということだ。結論から申し上げれば、掲示板内での掲示板民の尊厳は危機的な状態だが存在する、それが私の考えである。だから、この文章は結論ありきになってしまう。下記の内容は尊厳の有無を探るというよりかは、「掲示板尊厳史」をひたすら書き連ねることとなる。誠に申し訳ない。
さて、初期の尊厳と非常に深くかかわっているのは、いわゆる政治である。尊厳の勃興は政治の勃興と時期を同じくしていた。「掲示板革命」の日、2021年11月12日の夕刻に、一人の人間が掲示板民の不満を利用して独裁的地位を合法的に手に入れたまさにその時、彼は民衆から満場一致で掲示板民としての尊厳を与えられた。初めて成立した尊厳は人民の期待と独裁的権力という、先述の尊厳の要件①②の両方を兼ね備えた完璧な形で存在した。羽虫のような側近もまた、順次尊厳を与えられた。ただしこれは社会的強者の尊厳であり、掲示板民の尊厳と呼ぶにはふさわしくない。
では、掲示板民の尊厳は一体どこで生まれたのか。私が昔、痛々しくも「掲示板ナショナリズム」と呼んで憚らなかったその試みこそが、まさしくその始祖である。本来没価値であるはずの掲示板民であるということ、それ自体に価値を与えて無条件で讃えようという理想は、ある種の選民意識を掲示板民に与えた。自分たちに、自分たちで尊厳を与える恰好となったのだ。掲示板の社会はこの思想に実に1年と半年ほど立脚していたうえ、さらに2024年7月現在にもその信奉者が存在する。
掲示板民の尊厳は2022年11月のゲームウィズ自治領崩壊で危機を迎えた。政治によって促進されたナショナリズムが尊厳を与えた以上、政治の危機は尊厳の危機だった。しかしこの状況は杞憂に終わった。12月の復興世代の台頭は、尊厳の復興を大いに助けた。それだけでなく、政治が不安定になったことで逆説的に尊厳と政治の間に距離が出来た。代わりに尊厳が結びついたのは復興世代登場時の希望に満ちた雰囲気と期待感であり、その結合は非常に強固なものであった。
ただし、この世代には既に掲示板は空洞化していた。復興世代はまやかしの世代だった。それを構成したアカウントは本物ではなかった。本当の意味での掲示板は、2022年11月30日には死んでいた。それ以降の高揚した雰囲気が自然発生したと考えるのは大間違いだ。複数のアカウントの「本体」同士がある種の協約を結び、暫く掲示板に流れる高揚感を持続させることに合意した。掲示板民の尊厳の運命もまた、全てが協約の当事者に委ねられた。この悪意無き陰謀、または観客無き演劇が繰り広げられる中、主要掲示板民の間では相互確証破壊が成立し、暫くの間パワーバランスは覆らなくなった。
しかし、長続きはしなかった。2023年3月に復興世代が「引退」したことで、掲示板民の尊厳を裏付けていた協約は消滅した。過疎を嘆く声の裏で、誰も気づかないうちに掲示板民の価値が暴落していた。表立って残留した協約当事者でさえも、政治や司法とは異なる原始的なネット掲示板の状態へと置き換えられた。私含む誰もこの意味を正確に理解していなかった。この春に強烈に、そして急速に進行した非政治化と非尊厳化によって、ごく短いうちに、人々は滑稽で異様な勢いで、掲示板民の意識を放棄していった。古い掲示板史思考と現実の世界から取り入れられ、ある意味「偽造されていた」全ての物がこの時期突然スクラップになった。当時の私は右手を挙げて衆目にこのスクラップの全てを見せびらかさんとしていたが、同時に左手には大切にその欠片を握りしめていた。そうした人間はもう一人いて、私と彼はどこかで尊厳の復興を望んでいたのだろう。
協約が消滅した今、尊厳の復興には社会の再構築が必要になった。社会が社会の尊厳を与えるナショナリズムの形態は、2023年の秋に復活が模索された。ところが当時掲示板を席巻していた毒きのこ、上級者のような自我の塊のようなタイプには、自身の存在を掲示板民と設定し、一般意思に唯々諾々と従うことはあり得なかったし、あまねのような「亡霊」でない人々にとっては尚更だった。X民の介入を受けて「害悪な人間と一緒にされたくない」という声が高まったことも手伝って、試みは頓挫した。
社会の構築は2024年の春に再び行われた。自称「連邦政府」と「考証学派」は掲示板史を焼き直し、尊厳を復活させようとした。そうして実際、掲示板民の尊厳は復活した。考証学派はナショナリズムにまみれていた時代の象徴である掲示板史へ批判的な考証を行うことで、転じて尊厳をこれまで以上に高めようとした。愚かにも、私は協約を復活させる試みを行っていたのかもしれない、しかしこれは―フロイトへの冒涜かもしれぬが―無意識のうちにである。
6月、尊厳は再び退潮を余儀なくされた。それは私の気まぐれで自分勝手な心によるもので、自分でも何といえばよいかわからない。ともかく、その説明は二章で試みたい。ただ、尊厳は今なおも死んでいない。連邦政府は生きているし、この掲示板であれ、アットウィキであれ、あるいはウェイバックマシーンであれ、掲示板民という存在を規定するものは数多く存在している。問題は限られた人間―具体的に言えばたったの2人―しか、これを気にしなくなっていることだ。
今や私たちは尊厳の信奉者が極端に少なくなっていることを認めなければならない時に来ている。そして、復興の見込みはないだろうということ、尊厳を裏付ける社会は22年冬にはとっくに崩壊していたこと、残滓となった尊厳を消滅させるかさせまいかは我々次第だということも。
はっきり言って、私はこの尊厳を棄ててしまいたい、そしてここでの出来事や人間もすべて忘れてしまいたい。しかし私の心は病的なまでに弱体だ。未だに掲示板に(またはその過去に)ロマンを感じないと言えばそれは嘘になる、掲示板の人間各々に興味を抱いておらず、素の状態で接したくなんかないと言えばそれもまた嘘になる。自分が植え付け、自分が護り抜いて、自分が冷笑した尊厳が今も私に鉛のように重くのしかかっている。
本題からずれたが、とにかく。掲示板内での尊厳は瀕死の状態だ。しかしなお、それでも存在するし、誇ろうと思えばいくらでも誇ることができる。それをどうとらえるかは人間次第で、私は上記のように捉えた、というだけの話だ。
コラム. 掲示板の「鉛の時代」
権力による民衆の弾圧、反政府組織によるテロ活動など、内戦に至らないものの激しい暴力の応酬が続く混乱した時代を指す言葉に「鉛の時代」というものがある。ここで言う鉛は弾丸の意だ。具体的事例で有名なのは、左右対立と爆破テロ、マフォアとCIAの関与に特徴づけられる、戦後イタリアだろうか。
掲示板における鉛の時代が訪れたのは2022年8月25日。俗にいう「ワロター追放」が発端となった。ここから実に3か月近く続いた騒乱で、表面上の政治や党派性はもちろん、掲示板民の人間関係までもがズタズタに引き裂かれた。
掲示板の鉛の時代は、親政府派と反政府派の熾烈な闘争に特徴づけられる。なお、ここで言う政府はゲームウィズ自治領政府のことである。これは自白的な意味もあるのだが、この当時は双方が公に出来ない行為を常習的に繰り返していた。不正は慢性的なものとなった。誹謗中傷、自演、陰謀、裏取引の黒い噂が飛び交い、実際それらの一部は公然の秘密、もしくは脅しも兼ねておおっぴらに行われていた。
政府はこれらに対して無力そのものだった。むしろ、彼等はそれを助長しさえした。著名な高官や反政府活動家、選挙の有力候補者はしばしば別の有力者と同一人物であった。(なぜ私がこんなことを堂々と言えるかというと、私はそれに深くかかわっていたからである。例えばkak?は自治領の穏健化と自立化を促そうという、失敗した試みであった。) 鉛の時代も末期となる11月には、政府は完全なる機能不全をきたしていた。権力はどこか遠い、顕在しない場所に放置された。そうして人間が逃げ出し始め、月の終わりまでに真の掲示板は死んでいった。
尊厳と関連して興味深いのは、10月頃に台頭した法治主義である。そこにロマン追求や政権の権威付けの意図があったのは事実だが、最も大きな意義は、掲示板民という尊厳が作り出してきたモラルが崩壊したことである。
尊厳が社会から与えられるものである以上、「自分たちが自分たちに尊厳を与えた」掲示板民の間では、これまではある種自律の精神が働いていた。それはまた、掲示板民としてのプライドであり、道徳意識であった。ところが、鉛の時代の二項対立の中で両者が不正を行うに至って、彼等は自分の信じるものが分からなくなった。自分たちのモラルの元締めだった政府が不正を行ったことは致命的で、掲示板民の心理面に急速で、不可逆な変化を引き起こした。不文律による道徳は良心を要する。その基準がなくなった今、彼等はさらに単純で、従いやすい「法による支配」を選んだのである。
この流れの自然な帰結として、ナショナリスティックなみん作以来の価値観は全て意味を持たなくなった。皮肉なことに、自治領憲法に明記された「秩序・自由・友愛・善良」でさえも。それから、掲示板への愛も、憲法に書かれた文字以上の価値を持たなくなった。良識は腐敗した性悪の精神と、人の顔をしていない法律によって消費された。実際、これは取り返しのつかない域にまで達していた。尊厳が消えかかるのも無理はない話だった。
「復興世代」がこの状況から尊厳を再生させるに至ったことは、掲示板史の文脈では偉業だと言える。例え、彼らが嘘の世代であったとしても。むしろ、鉛の時代を彩った敵対者―彼らが協約を結ぶに至ったこと、それ自体が、尊厳の復興を象徴していると言えるだろう。もっとも、今の私はまさに逆のことをしているのであるが。
Ⅱ. 掲示板外の尊厳について
掲示板民の尊厳は掲示板内ではすんでのところで存在できているが、では、掲示板外ではどうだろうか。当然、この問いに対する答えは厳しいものとなる。尊厳を付与する存在は掲示板の外の存在だからである。小さなモバイルゲームの、更にひときわ小さな界隈、そこに価値を見出すことは常人には難しい。
ただ、隠れん坊オンラインの界隈として歴史を概観すると、過去に一度だけ掲示板民の尊厳が外部的に認められたことがあった。それは意外なことに、政治とはほとんど無関係なことであった。掲示板「独立」後の艱難を抜けた直後、2022年5月~7月の間、掲示板は界隈のデータベースという側面があった。大々的な国旗の披露でもなく、掲示板の強化でもない、過疎期の地道なページ作成が尊厳の獲得を可能にした。
ところが、こうした初心は8月に入り政治闘争という名の茶番が始まるにつれ、忘れられていった。忘れまいとはしていたのだが、しかしまぁそれを今言っても何ともならぬ。ともかく、そこから掲示板は外部への尊厳をXアカウントを作る、社会機構を発達させるなどの方向性で得ようとしたが、得たのは嘲笑だけだった。嘲笑に感化された一部の掲示板民は、ニヒリズムまがいの冷笑主義へ走っていく。
そこから結局外部からの尊厳は得られずじまいだ。掲示板民の評判は非常に悪く、しばしば揶揄や差別の対象になる。もっともここで被害者意識をこじらせてもどうしようもない。というより、掲示板民としての結束が崩壊した今、そうしたことは可能ですらない。もしくは理論上彼らを威圧すれば尊厳は降ってくるだろうが、それができるなら掲示板勢力はもっと広がっていたはずだ。
さて、外部的な尊厳はほぼ存在しないことが明らかになったところで、少し話を変えよう。掲示板民の尊厳を語る際、しばしばこういう言葉が発せられる―「掲示板の中だけでイキって、リアルでは陰キャなのは惨めだ」。
受け入れなければならない事実として、掲示板の中に形成されたヒエラルキーは、現実のそれのオルタナティブな存在である、という側面がある。少なくとも私はそういう意図を持っていた。だから、「満たされない現実をネットでカバーしている」というのは悲しい事にそれなりに適格だ。
しかし、こうした言葉の問題点は主語のすり替えにある。掲示板内権力の嘲笑と掲示板民の嘲笑が混同されている。「陰キャ」のレッテル張りが示すように、掲示板民という存在の尊厳が否定されたかと思えば、それに続くのはその個々人の尊厳の否定だ。しかも、掲示板民であるという色眼鏡を通す以上、我々はしばしば非人間化される。
だが、こうやって自分たちに向けられる揶揄に論理的な反論をしても、社会はそれを受け入れないだろう。何故なら社会は論理ではほぼ構成されておらず、おおよそ多数派の偏見で構成されているからである。隠れん坊界隈など尚更だ。序章に書いたように尊厳は社会に屈従せねば与えられない。掲示板民の個々に向けられた厳しいまなざしは―それがたとえ不当であれ、差別的であれ―一定が真である。社会がそう言う限り、掲示板民は「陰キャ」だし、陰キャは陽キャの下位互換だし、需要のない存在である。なるほど、確かに我々もまた社会の一員ではある。しかし、内部から意識改革をするようなエネルギーは我々に宿っていない。
では、掲示板に限らず、我々一人一人はどうすればよいのか。蔑まれる存在はどのように生きていくべきか。どうやって尊厳を得るべきか。これは私が常日頃から考えている議題でもある。思うに、その方法は二通りだ。
第一に、正攻法で尊厳を得る方法。つまり、社会に都合よく動く。なに、「普通の人間には」難しいことではない。他の人間と同じようにやればよいだけのことだ。社会的な逸脱を極限まで排除した時、我々はその極致に至ることができる。ただ、私含む普通でない人間(社会的にはしばしば「劣等」と断罪され、「障害」と診断される)にとって、この道はストレスに満ちている。バランスのいい能力の代わりに、コミュニケーション能力なり、協調性なり、そういった部分を全て過集中であったりとかどうでもいい部分に還元してしまった人間は、正規のルートでさえも蔑まれながら生きていかなくてはならない。そうでなければ「社会不適合者」という残酷な言葉はここまで人口に膾炙しなかっただろう。
では、その他の方法は何か。第二は、尊厳を認めさせる方法である。社会的に一般の道から外れて生きていく。そうすることで、少なくとも当座は能力の欠如を回避できるし、自分の能力次第では社会から大きな尊敬を受けることができる。何を隠そう、この世の音楽家、画家、学者、果てはYouTuber…そうした人間はこちらに分類されるのだ。しかし同時にリスクも大きい。才能があれば社会を黙らせられるが、それほどの才能がなければ?もしくは、才能が枯れたならば?その先には悲惨が待っている。正規ルート以上の軽蔑が襲い掛かり、それに社会は救いを与えない。何故なら社会の規定する正規ルートではないからだ。また、正規ルートではない以上、そこで手に入る幸福もまた正規のものとは限らない。我々は嫉妬を決して捨てきれない生物だ。「普通の人生」への嫉妬に狂わないとも限らない。そして、老いまで迫ってくる。途中で力尽きた場合、その末路は野垂れ死ぬか精神病棟行き、または「無敵の人」と化す、etc...。とにかく、後ろ指をさされて生きることは避けられない。
我々は尊厳に値するかという社会の議論において、非常に微妙かつ危うい位置にいる。掲示板というオルタナティブな社会に棲み付き、そこで得た尊厳を謳歌するのは実に結構である。実際、私もそれに甘んじていた。ところが、それに社会は尊厳を与えない。浴びせられる嘲笑から貼り付けられたレッテルは、その論理的正当性を全く無視して「個人の価値」に転化し、暗い影を落とすだろう―対人評価に、ひいては人生に。社会は価値相対主義を陳腐な逃げと見なす。古くはソフィストへの詭弁批判、最近では米欧での"Anti-woke"の流行(これがポリコレ嘲笑の形で日本にも広まりつつあるのは実に世紀末的だ)が、それを如実に表している。社会は我々を競争から逃がさない。仙人でもない限り、我々はたとえ陰キャと嘲笑われても、社会不適合者の烙印を押されても、社会との関係を絶つことは出来ない。核戦争でも起こらない限り、社会が我々を査定する。
自分が何者かを変える必要がある。尊厳を獲得する必要がある。前途には暗黒が広がっているのであるが、それはこれまでのツケだろう。そう思わなければ、我々は衝動に導かれ、自死という非常口に駆け込むことになりかねない。社会は不条理の塊だ。私はカミュを信奉しているので彼の言葉を借りて言うが、「自殺は不条理を見つめようとしない好ましくない態度」である。反抗心という希望を捨ててはならない。社会にへりくだり、尊厳を請願すること。それもまたある種の反抗であり、そこに恥を感じる必要はない。むしろ、捻くれた態度に固執する事、これこそが真に恥ずべきことである。
コラム. Twitter界隈の欺瞞
2022年、2023年を通して、主に掲示板民の外部的な尊厳を否定・嘲笑してきたのは、Twitterの隠れん坊オンライン界隈の一部だった。ガキ成敗bot、タウナギ、ラーメンといった人間がその主だったメンバーである。彼らは掲示板民を明らかに蔑視し、障害者呼ばわりもいとわなかった。2022年には売名目的で人物紹介を荒らし、2023年には毒きのことの対立を拡大して掲示板民を攻撃、「文句はスペースでしか受け付けない」「スペースで声出しもできないやつは文面イキリの陰キャ」という態度をとった。
確かに先述のように、掲示板民という尊厳は外部に通用しないし、蔑まれることも無理はなく、我々は変化を受け入れなければならない。ところが、それにしても彼らの言い分は欺瞞に満ちている。
彼らの掲示板に対する精神的優越の支柱が、自分達との「差」であることは間違いない。政治批判にせよ、人物批判にせよ、彼等はしばしばリアルを問題にする。彼らは徹底的に掲示板に関するすべてを見下し、論理に関係なくすべてを毀損せんとしている。骨の髄まで、自分たちは掲示板民なんかよりも上の存在だ、と思い込んでいるのだ。スペースへ強引に土俵を移そうとする行動はまさにその意識の表れであろう。
こうした意識は著しく歪んだものである。彼らは敵対者への嫌がらせや晒しを通じて、周囲を威圧している。中にはまるで界隈全体の警察のような口ぶりをする人間までいる。気になるのは、こうした行為が我ら掲示板民の行っていた「政治」と何が違うのかということだ。両者は他者への制裁を通じて自分の留飲を下げようとするという点で、また、権威を見せつけようという点で、本質的に類似の関係にある。Twitter民は掲示板民に高慢な態度をとる割に、自身の節操は全く無いようである。団栗の背比べ、五十歩百歩、目糞鼻糞を笑う…。掲示板民を笑うTwitter民の姿はそういうものでしかない。
むしろ、Twitter民の他者排斥は掲示板のように明確な基準がなく、何年たっても引きずり続けるなど明らかに陰湿な悪意が垣間見えるという点では、掲示板民のそれよりずっと質が悪い。端的に言って、ネットモラルが皆無だ。しかも、それに成人後何年も経ったような大人までもが参加している。まったくもって見るに堪えない光景である。極めつけは「過激なことをする自分たち」に対する自負で、住所凸を武勇伝にする始末である。当事者の方々からWhataboutismに満ちた文句が飛んできそうではあるが、純粋な感想として言うなら、これはあまりにも痛々しい。過激をもてはやしている所を見ると、彼らの心は中学生程で止まっているのではないかと疑いたくなる。
私はこの文章で掲示板民の尊厳について論じ、外部的な尊厳は無いと言った。Twitter民も、ここ二年の間そう言っていた。まるで自分たちは違うと言うかのように。だが私に言わせれば、彼らも同じように、外部的に「存在しない尊厳」に依拠している。掲示板と違うのは、その尊厳は威圧と互助の下に成り立つ、田舎の所謂ヤンキーコミュニティ的な連帯、そしてそれに属する自分たちという存在であることだ。両方とも自分たちをある種ブランド化していて、掲示板ではそれを結び付けるのは組織・制度・ナショナリズムである一方で、Twitterでは「敵」の存在・それに対する攻撃行動・個々の人脈といったものであるように思える。他人に遊び半分で塗炭の苦しみを味わわせながら、自己正義を振りかざしてコミュニティを存続させるなどというシステムは異常だし、それに喜んで参加する一部のTwitter民も異常である。界隈で非常に嫌われているある人間が「Twitter民は平気で私刑をするおかしな連中」と言っていたが、言っていることはこちらの方がずっとまともではないだろうか。
ともかく、私が言いたいのは一部のTwitter民の掲示板へ向ける嘲笑は同族嫌悪の形をとっているにすぎず、両者に差はほとんど無いということだ。それゆえ、ここにおいて彼らには自己認識のゆがみがある。私はこの文章全体を掲示板民に向けて書いているが、もしかしたらTwitter民の一部も読むべきなのかもしれない。
Ⅲ. 何をなすべきか
さて、掲示板民の尊厳について、二つの視点から語った。第三章では、これら二つをまとめ、我々が「何をなすべきか」を論じてみよう。もっとも、第二章の最後の部分で触れたことをさらに具体化し、第一章とつなげるだけだが。
第一章にて私は、掲示板民の尊厳はすんでのところで生きている、と語った。残滓と化したそれを持っている人間は、私の思う限り自分以外には一人しかいない。その個人名を躊躇わず公表するほど私は無作法ではないので、それが誰かは読者の想像に任せる。そして私はこれから残った尊厳を彼がどう扱うべきかについてその管見を述べるが、これはあくまで私見である。本質として、また論理としては、彼がそれをどうしようと彼の勝手であるし、そういったことは第一章の最後にも述べた。そのことは頭に入れておいてほしい。
尊厳をどうすべきか。端的に言って、容赦なく処分すべきであると考える。掲示板民の尊厳が外から保障されず、現実の我々の尊厳を讒毀する可能性さえある限り―合理的に考えて、それにしがみつくべきではない。縦んばそれが保障されていたとしても、現在の掲示板の内部がガタガタなのは言うまでもないことで、空洞化の帰結として新規は全く参入しない。であるから、これ以上過去の栄光を期待することもまた無意味であろう。
世代交代に失敗し続けた結果、(私の推定するところでは)掲示板民は高年齢化しすぎた。本体のゲームからやってきた比較的若い人間は当然ながら物を知らぬ。況や掲示板の歴史をや、である。掲示板にしてもゲームにしても我々は最早馴染めないところに到達しており、この界隈に早急に別れを告げるべきだ。
しかし、それだけでは十分ではない。我々がこの数年間、掲示板と言う場所に執着してきた(できた)理由は何だろうか。なぜ数年という時間を、この無益なインターネットに浮かぶ孤島の一つに注ぎ込むことができたのだろうか。それは貧相な人間関係と気力の欠如のために暇を持て余し、有為なことを何も行わなかったからだろう。ここにおいて掲示板は一種のリトマス紙として機能している。重要なことは、掲示板をやめたからと言ってすべてが好転することは無いということだ。ここを履き違えてはいけない。掲示板関係から足を洗うことは、自分を変えるプロセスのごく一部であるべきである。
第二章で述べた通り、我々は現実世界で尊厳を得る必要がある。根本の人間性を、社会から尊厳を得られる程度に矯正する必要がある。具体的に何をどうするべきかについて、その内容を下に記していく。
まず第一に、一般に人気のある物に触れていくべきだ。音楽を例にとろう。なるほど、確かにあなたは、昭和歌謡だったり東欧音楽だったり、そういったマイナーなジャンルが好きなのかもしれない。それを否定されるいわれは無いし、十分尊重されるべきだ(私もスラヴ系のポストパンクが大好きだ)。しかしながら、人気のある物にも、取り敢えずは触れてみるべきだ。そういうものに触れることは一般的な価値感の理解を助け、社会的な人間性を成長させてくれるだろう。人気があるということには理由があるのだ。間違っても「考え無しのアホどもが群がって崇めてる」とかそういうひねくれを発症してはいけない。孤高気取りは十分に才能のある人だけにしか許されないのだから。音楽の話に戻ったとして、カラオケでマイナーな曲ばかり歌い続けるわけにもいかないだろう。
第二に、考えるよりも多く行動すること。中国・明の儒学者である王陽明は、自身が大成した陽明学の最大の命題の一つに、「知行合一」を置いた。わかりやすく内容を説明しよう。徳を修めるには、徳の内容を知り、それについて頭の中で考えたり、口で言うことだけでは不十分である。完全な徳は、それを行動に移すことで初めて完成し、論理と実践は不可分だ、彼はそう考えた。これは非常に本質をとらえている。言論の自由と識字率の上昇、活字の一般化によって、現代の我々は非常に簡単に知識を手に入れることができる。膨大な量の情報をインプットし、それについて思考し、例えば独自の哲学を構築することは、最早誰でもできる。頭の中では、万人はソクラテスであり、デカルトであり、あるいはサルトルだ。にもかかわらず哲学者が現代においても溢れかえっていないのは、誰も自分の考えた哲学理論を実践に移さないからである。脳内論理がいかに優れたものでも、それを実行しない限り、机上の空論以上のものにはならない。いわゆる陰キャが「勉強だけはできる」と蔑まれるのはそういうことで、思考力は優秀で口上をのたまうことはできるのに、行動においては消極的で、何も生み出さないからだ。我々はポテンシャルを殺している。
第三に、他人に関心を持とう。関心の対象は大切だ。貴方の関心ごとはなんだろうか。扇の一打事件のWikipediaを読んだり、ドンバス地方の前線のGoogleマップストリートビューを見たり…というのは良いのだが、そうしたことが話のタネになるだろうか?ニッチなものに関心を持つのは良いのだが、時間は限られている。実用的でない物を嗜むのは結構だ。しかし、それで貴重な時間全てを消費してしまうのはあまりにももったいない。人的資源欠乏の原因は、「他人に関心を持たない」ことが大きい。社会の構成単位は人間である。なのにその人間に無関心ならば、どうして社会から必要とされようか。他人の事を知りたいと熱望しなければならない。好奇心のエネルギーのある程度を、内側のオタク知識でなく、外側の実存する存在に向けてみよう。(これは最近話題のMBTIの外向・内向とも関係している)
第四に、失敗を恐れないこと。イギリス経験論は、近世ヨーロッパの哲学の潮流の一つなのだが、物事の探求において経験則を見つけ出し、一般化する帰納法を重視していた。これは人にも当てはまるように思える。論客の一人、ジョン・ロックは、生まれたての人間の心を「タブラ・ラサ(白紙)」と表した。そこに人生の経験のたびに色がついていき、人間の性格を構成していく。人間の性格は帰納法的に形成されてくのだ。そしてこのことから推察できるのは、明るい楽観的な人間は成功体験を多く積んでいるということだ。となると、そういう人物になるにはやはり成功体験を重ねる必要がある。恐らく我々の多くは、過去にいじめであったり、公衆の面前での恥辱であったり、そういう「望まない黒歴史」を抱えていると思う。ここで帰納法は負の方向に働く。すなわち、何をするにおいても我々はそれに失敗の可能性を見出し、恐れを極限にまで肥大化させ、そして結局何もせずに終わる傾向がある。しかしながら、成功体験というのは体験の中に納まっているのであって、行動をしないことには成功体験など得られない。ここにおいて、失敗への恐れは人生の正常化への最悪の障壁である。
ここで知っておくべきことは、社会は残酷だが、大多数の人間は残酷ではないという事だ。ルソーの言うように、社会の一般意思は個人の欲望だったり私怨だったりを排除しているが、私は同時に個人の恩情だとか、善の部分も排除してしまっていると考える。だから社会は冷淡だ。しかし、それを構成する人間が必ずしも心を棄てているわけではない。むしろ、ポストモダンへの郷愁が強まる今、そうした人間味は固く守られている。世の中にそう悪人は多くない。であるから、失敗して他者に軽蔑されることを恐れるのは杞憂だ。おかしな部分で独りよがりになるのはよろしくない。人的資源を活用し、厚意に甘えることもまた、まともな人生の必須技能である。
以上が私の思う我々の為すべきことである。あなたの心に響いたか、そうでないかは分からない。何度も言うがこれは自戒でもあり、私もまた変化しなければならない人間である。
最後に、一つ大切なことを記しておきたい。それは、自分を変えるからと言って、これまでの自分の全てを殺す必要はないということだ。そういうことをするのは言うまでもなく精神衛生上宜しくない。人は細部を弄ることは出来ても、心から別人になり切ることは出来ない。やろうとしたなら心が壊れてしまう。それに、幸いなことに、我々は現代に生きている。多様性が謳われる今、確かに尊厳を与えてくれるかはわからないにしても、特定の国が好きだからといっていきなり逮捕されることはない(大日本帝国時代にロシア趣味など抜かすことはできなかっただろう)し、マイナーな趣味でも表立って差別することは顰蹙を買う。我々がこれまでに蓄積した知識は教養という形で人生を豊かにしてくれるかもしれないし、あるいは環境を変えれば真っ当に活かせるかもしれない。ここで得た人間関係についても、別の形で続けることはいくらでもできる。
我々が自信の人間性についてやるべきことは「再建(rebuild)」ではなく「再編(reform)」である。自身の長所と短所を把握しながら、尊厳を得られる人生を歩んでいきたいものだ。今、生きる意味であったり、人生についてなど形而上のことに考えを巡らせなくても、尊厳を得られる人生なら、その道中で答えに出会うことができるだろう。私はそう信じている。
おわりに―私について
隠れん坊オンラインには亡霊がいる。そして私、イザヤはその忌まわしき霊の一体だ。7月にこの文章を書き始めた時、私はどこかその事実を他人事のように見つめていた。
2021年のはじめからずっとこうしている。何年も文字に縋り付いている自分に嫌悪を感じない、そんなことはなかった。ただ、ゲームをしていた頃はレベルなどほったらかして好きに荒らして、好きにクランを組んで、好きに偽物をして。そんな碌でもない自分のことを遊び人のように誇りに思ってたし、掲示板でも最初の数か月はそうしていた。でも、いつの間にか私は真面目になりすぎたのだ―その先に何を求めていたのか、正直言って分からない。惰性で続けていた時期もあった。今だってそうだ。なのにこんな長ったらしい文章を大真面目に書いて、私の思考は正常でない。
私は元来暗い人間だ。不器用で口下手、臆病で偏屈。ADHDに憤りをぶつけることもあった。それでも自分を底辺と見なす勇気は出なかった。曲がりなりにも、私は現実世界で善良な人間に囲まれて育ち、恵まれた環境の下で親友さえできたからだ。掲示板の人間も例外ではない。皆が善良だ。私は幸福だ。なのに、自分の無能力が全てを蝕んでゆく。
高校は三年生になった。進路は定めているし、学力もやる気もある。それでも前途が多難であることは言うまでもない。実生活において親友とはクラスが離れ、孤独を強く感じ始めた。私は形而上のことを考えるのに時間を費やすようになった。ニーチェの「超人」に、浅い理解ながら強く惹かれた。あるいはカミュの「反抗的な人間」にも。ただ、そこで気付いたことは、私はそうした理想的な人間像からかけ離れた俗物で、ちっぽけで、空虚な存在であるという事だけだった。もう一つ、私はふらふらと外を歩くようになった。近所の海に入って貝を拾ったり、本屋に入り浸った。私は本当は外出が大好きで、家でじっとしていられない質なのだ―だが同行者はいないから、虚しさに苛まれた。私は独りにも弱い。
このストレスに耐えかねて、私が一種の八つ当たりをしたのが6月の29日。衝動的だった。それで、滑稽にもその衝動が尾を引いて、この文章を書き始めたのだ。私は人生をどうにかしなければならないという切迫した感情に迫られていた。だから高慢にも、尊厳を定義し、自分の価値を他者に預けた。
私の後悔していることは、掲示板の善良な人間との関係を愚かにも切り落としてしまったことである。貴重な人的資源―敢えて無神経な言い方をするが―を粗末に扱ってしまった。どうにかやり直すことを望んでいる。
しかしながら同時に、掲示板から足を洗いたいとも思っている。私の中で暴れまわる切迫―それ自体はきっと思春期特有の、普遍的な感情なのだろう。だからこれは一過性だし、時期に収まるはずだ。だが論理に反して、私は今の感情を「思春期特有の気の迷い」と一笑に付すことはしたくないのだ。ルソーが青年期を「第二の誕生」と表したように、この気持ちはたとえ後から見たら馬鹿馬鹿しいものであれ、人間性を変える最後のチャンスに思える。ここで努力をしないことには、生涯が恥に満ちたものになるように思える。無能力の分際で人並みの欲求を持ってしまったからには、いばらの道を進むしかないのだ。
それで、前の段落につなぐ。この人間関係を、Twitterだとか、他のSNSに移すことは出来ないだろうか、というのが私の提案である。自分を偽りすぎたから、掲示板のだれとも素の状態で話したことがないのだ。それでも私はただ純粋に仲良くしていたい。元掲示板民同士で会う、というのは究極的な話だが、ともかく、付き合いを続けていきたい。
この文章は私の掲示板、そして隠れん坊オンライン界隈における遺書である。そのつもりで書いた。なのに最終的にはこのように、情けなく、啓蒙主義的で、空論に溢れた駄文に出来上がってしまったのは、非常な痛恨である。それでも、ここまで文章を読んでくださった人がもしいるならば幸いだし、「浮かばれる」。そうしてまた、尊厳を勝ち取り、自分を持ち続ける姿勢をその生涯で貫いていきたいものである。
末筆になるが、私の3年半に渡る遊戯に付き合ってくれた全ての人に、心からのお礼と謝罪を申し上げたい。
「涙が出そうになるくらいに、生きろ。」
―アルベール・カミュ