八脚牌楼
画像
一 | 二 | 三 |
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位置
徽州府/
紹介
許国、字は維禎、歙県出身。郷試で第一位となり、嘉靖四十四年、進士の第に登った。翰林院に入り庶吉士となり、優れた成果を収め翰林院検討の職位を授かった。明神宗がまだ太子だった時期は太子の講師を務め、詹事府の校書を兼務した。明神宗が即位すると、明神宗の右賛善に封じられ、日講官となった。許国は礼部の左侍郎と右侍郎を務めた後、吏部に入り、詹事府の管理役となった。そして万歴十一年、礼部尚書兼東閣大学士として入閣を果たした。……福建の臣から、琉球侵略の報が届いた。許国は「近日戦乱は絶えず、小国が我が国境を侵し、多くの大臣が領兵出征を願い出て、戦争に参加している今、誰が国家の政務を担うべきでしょうか。陛下は諸大臣に向け、各任務と役割を果たし勝手な真似をしないよう、お伝え下さいませ。」と進言した。明神宗はそれに従い、勅令を発した。許国は、いつでも愛憎がはっきりとした率直な人間であった。……許国は内閣に九年間在職し、謙虚で慎重な仕事ぶりで、本分を弁えていた故、同僚から攻撃されながらも、汚名を被ることはなかった。許国が亡くなった後、太保に追封され、文穆という諡号が与えられた。
ステータス
次序 | 働き手 | 銅貨 | 料理 | 資源 | 時間 |
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一 | 2 | 30000 | 100 | 300 | 12時間 |
二 | 3 | 70000 | 300 | 600 | 16時間 |