【黒ウィズ】Birth of New Order Story5
目次
story
虫の鳴き声と温かい夜風が、湖の周りを包み込んでいる。
光りながら飛び回る、小さな虫をイスカは目で追いかけていた。
胸の内に隠している警戒心をイスカに悟られないよう、慎重に言葉を選ぶ。
子どもっぽく、ぷいっと顔を逸らす。思わずリュオンは、苦笑を漏らした。
別の理由があるのだが……。リュオンは、あえて口にしない。
イスカは、手に乗った小さな虫を優しい手つきで草の上に放す。
この少女が、サザを殺したあの審判獣の正体だとは、とうてい思えない。
だが、切り取った蠍型の審判獣の殼衣は、明らかな反応を見せていた。
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リュオンは、サザが眠る墓石の前に立っている。イスカという少女は、おそらくサザの仇だ。
だが、迷っていた。あの子を討つべきかどうかを……。
――9人の候補生を斬って執行騎士になったお前が、いまさらお人好しのフリをするのか?
もうひとりのリュオンの声がした。
けたたましく鳴る半鐘。松明を掲げた無数の兵たちが、進軍していくのが見えた。
あの先は、大聖堂へと向かう進路だ。
リュオンは空を見た。星の光が弱く、夜空全体が。重く沈むような気配を感じた。
闇を駆けるリュオン。上空では、星々がゆっくりとその輝きを失おうとしていた。
そこへ現れたのは、インフェルナ軍の頭首マルテュスと。それを支える老戦士イーロス。
間諜を忍ばせているなど、メルテールたちには、初耳である。
聖都〈サンクチュア〉は、インフェルナの人間にとって、近づくこともできない、まさに聖域だった。
命を賭けて戦う以上、懸念点は払拭しておきたい。ウィズの言葉は、その場にいるみんなの代弁。
連絡手段は内緒です。この軍にも、敵の間諜が忍んでいないとも限りませんからね。
納得できる説明ではなかったが、それでも出撃の時間は迫ってくる。
ですが、それだけでは不安ですので、ちゃんと他の手も打ってあります。
でもこの作戦、なんだかすごく嫌な予感がするにゃ。付いていきたいけど……イスカのことも心配にゃ)
不安を払拭できないウィズは、頭首たちとは別の手段で聖都に潜入する方法を講じることにした。
リュオンは、シリスや君と合流する。すでにインフェルナ軍が動いていることは、聖堂も察知していた。
さっそくリュオンは、戦いに向かう。行き先は、当然、インフェルナ軍の侵攻を止めるための戦域である。
君は、親指を突き立ててやる気を示す。一方でシリスから漂う暗い気配が気になっていた。
その口調は、らしくないほど重苦しい。なにか重要な案件でもあるのだろうか。
俺の意思だけが、このリュオン・テラムを動かしているのではない。いまや俺の行動を決定づけているのは彼らだ。
シリス、お前は怖じ気づいているようだ。そんな奴を戦場に連れては行けん。後方でラーシャを守っていろ。
君とリュオンとマグエルだけの戦場。おまけにリュオンは、審判獣の力が弱まっている。
とても痺れる状況だね、と言った君の表情は、完全に引きつっていた。
星はすべて闇の緞帳に覆い隠され、一条の光すら奪われた星蝕の夜。
この世界から、あらゆる光が消滅したかのような暗黒を背負い、インフェルナ兵は、聖都〈サンクチュア〉へ押し寄せる。
たどり着いた険路で、インフェルナ軍を待ち受けるのは、ふたつの影だった。
来い、インフェルナの兵ども。俺は聖域の盾。俺を倒さねば、聖都にはたどり着けぬぞ。
魔法使い。お前は、魔法を派手にぶっ放すだけでいい。奴らの中には、民間人も混ざっている。
その言葉で、君はリュオンの狙いがわかった。虚仮威しだろうが、はったりだと言われようが――
とにか<、魔法というものを見たことのない奴らの戦意を挫くような、どでかい花火を打ち上げろというわけだ。
君が魔法を放っている間、リュオンは剣を振るって、インフェルナ軍の猛者たちを切り捨てて行く。
剣は得意だと宣言したとおり、その剣さばきに迷いはなく、磔剣を扱っている。時よりも、戦場を身軽に動き回っている。
なぜそこまで聖堂のために尽くすのかと君はリュオンに訊ねた。
だが俺は、共に育った仲間を斬って執行騎士になる道を選んだ。その日から決意した。突き進むだけだと……あと戻りはしないとな。
言うは容易いが、実行するとなると鉄のような意思が必要になる。
リュオンの剣は、斬るごとに冴え渡っていく。
インフェルナの強者たちをことごとく斬り伏せ、この場から、一兵たりとも聖堂に向かわせない盾となり、敵を防ぐ。
君の魔法とリュオンの剣に恐れをなしたインフェルナ軍は、戦い慣れしていない民間人から先に逃走をはじめる。
それに触発された臆病者や、嫌々この戦にしたがっていたものも、続々と逃げはじめた。
やがて逃走の波は、全軍に伝播し、あっという間に戦線は瓦解した。
7無残に斬り捨てられた兵の死体だけが、乾いた大地に横たわっていた。
彼らを顧みる戦友は、ひとりもいない。
***
君とリュオンは、たったふたりで、押し寄せたインフェルナ軍を撃退した。
このぐらいなんてことないよ、と君は答える。
暗闇に立つシリスの表情は、はっきりと読み取れない。しかし、発せられる殺気は、まぎれもなく本物だった。
シリスと剣で戦えるのが、心底楽しみだと言うようにリュオンは、唇の端をつり上げて微笑する。
懐に手を入れる。取り出したのは、液体の入った瓶だった。
連れてこいとの、あのお方からのご命令ですので。
君とリュオンは、膝をついて倒れ込む。指先から痺れ始め徐々に自由が効かなくなる。
やがて、頭も働かなくなり、意識が遠のいていった……。
目を覚ましたのは、真っ白な聖堂の内部。審判を象徴する像が、中央に泰然と佇んでいる。
えづくような血の匂い。床に横たわる黒い影は、すべて聖職者たちの亡骸だった。
床に広がる血だまりの上で、見知らぬ老人が、武装した男たちに追い詰められていた。
見知らぬ老人――名前は聖皇ベテルギウス。この大聖堂を統括し、聖域全てを支配する存在。
そして、大審判獣〈エンテレケイア〉の契約者でもある。
めったに人前に出ることはなく、大聖堂の最奥で、聖職者たちに守られていたはずの聖皇が――ど
インフェルナ軍の老戦士イーロスに剣を向けられている。
君は身体を起こそうとするが、まだ薬の効果が残っているらしく、手足が命令を聞いてくれない。
イーロスの剣が煌めいたかと思うや、聖皇と呼ぱれた老人の首は、あっけなく斬り落とされ、床に転がった。
これ以上の暴虐は許せない。君と同じく、リュオンも痺れる身体をなんとかして起こそうとしている。
同時に、インフェルナ軍を率いる頭首マルテュス・ラアトでもあるがね!
リュオンは、ゆっくりと立ち上がった。まだ身体の力は戻っていない。薬の効き目は、まだ残っている。
でも、知っていたからといってどうなるんです?どうせ、彼は戒律に守られています。どうすることもできません。
リュオンは、怒るでもなく、嘆くでもなく、悲しげに、シリスを見つめるだけだった。
……死んだふたりの分も賢く生きる。それの、なにが悪いんですか?僕だって……本当は……。
やっとのことで立ち上がったリュオンは、マルテュスに向かっていく。足取りは、まだおぽつかない。
行く手を塞ぐように、イーロスが立ちはだかる。
審判獣の加護もなく、剣も取り上げられたいまのリュオンに戦う術などないはずだった。
イーロスは、ー刀の下に斬り捨てることはしなかった。剣の峰で殴打して昏倒させる。それだけで、十分だと判断したのだろう。
この世界は、聖堂という大樹が支配してきた。しかし、この大樹は、とっくに腐り果てておる。
それに気づいたのが20年前。それまでのワシは、いまのお前のように使命に情熱を燃やす執行騎士であった。
義手の右腕を見せる。失った右腕は、執行騎士を辞めるときに捨てた。
新しき時代を迎えねば、人類に未来がないことになぜ気づかん?
先ほどよりも、さらに強く剣の峰で、リュオンを打った。薬で朦朧としたままのリュオンは、無様に倒れ込む他なかった。
立ち上がるリュオン。肉体は傷ついて満身創痍。だが、その眼光は、より鋭い。
リュオンの胸に、消えていたはずの鎖が現れる。
まさか、執行騎士の力が戻っているのか?君は、外の様子をうかがった。
だが、盾を扱う者が倒れれば、お前も共に果てるだけだ。それがわからんのか。
鎖を引き、そして君の方を向く。
夜空は、まだ真っ暗で、星ひとつ見えない絶望の空だった。
だが――君は見た。間が少しずつ移動し、星の輝きが、ふたたび地上を照らさんとしているのを。
直後、血潮のように熱き衝動が流れた。リュオンの心臓と執行器具を繋ぐ鎖が脈動する。
眠っていた審判獣ネメシスが、執行器具の中で覚醒した。
汝、契約に従い、罪人を処断する力を我にもたらせ――
***
義父さんの身に、なにかが起きる……嫌な予感がするの!だから、ウィズちゃん。行かせて!義父さんを助けたいの!
助走を付けて、いつも審判獣の殻衣を纏う時と同じく、地面を蹴って飛びあがる――
空に飛び上がることはなかった。いつもの姿そのままに、無様に地上に倒れ伏す。
審判獣の力が弱まっている星蝕の夜。イスカの力もまた封じられていた。
リュオンの放つ傑剣が、イーロスの肉体を切り裂く。
力の差は歴然。リュオンの攻撃を受けて、イーロスの肉体には、無数の傷がついている。
しかし、劣勢であっても、イーロスは、勝敗を諦めてはいない。
老戦士イーロスが義手でつかむは、審判獣カマシュトーリが、思念化して宿った剣。
聖堂の支配を終わらせたいイーロスと聖堂に深い怨みを抱いたまま地上に堕悪したカマシュトーリ。
聖堂を憎むという1点において、両者の意思は通じ合っていた。
懐から取り出した赤い石を割る。赤い粒子が飛び散り、イーロスの剣に“福音“が吸い込まれていく。
聖堂の中に大教主――マルテュスとシリスの姿がない。
マルテュスを逃すために、イーロスは、進んで捨て石になった。それがわからないリュオンではない。
そして、ワシはもうお役御免だ。ワシの役目は、聖堂の支配を終わらせること。破壊こそが我が役目。
聖皇を斬ったことでそれは成った。男として生まれ、本懐を遂げて死ねることに勝る喜びはないわ!
この後、どのような世を作るのかは、若い奴らに任せる。マルテュスが……いやイスカが、インフェルナを引っ張ってくれるだろう。
イーロスは、背中から貢かれて血反吐を吐き出した。老体を穿ったのは、旋回し、戻ってきた磔剣だった。
だが、マルテュスとワシは約束した。奴が、代わりに聖皇となり、エンテレケイアと契約し、覚醒を抑えると。――ぐはっ!
鮮血を吐き出し、イーロスは倒れ込む。生命力が尽きかけている。
君は、遠くの方から凄まじい勢いで、なにかが接近してくるのを感じた。
すぐさま、リュオンに急を告げるも、そのなにかは、猛烈な勢いで聖堂の壁を突き破り、君たちの目の前に降り立った。
イスカ……お前のお陰でワシは宿願を果たせた。だが、お前は、もっと多くの人の希望になる娘だ。
ワシの事はもう忘れなさい。そして、これからは己の力で宿命と戦い、未来を勝ちとってくれ……。
そしてイスカ、どうか幸福をつかんでくれ。お前の幸福、それだけがワシの願い……。
最期の言葉を終えたとぱかりに、イーロスは大量の血を吐いて。ぐったりと崩れ落ちる。
老戦士は、娘の腕の中で満足そうに事切れていた。
満たされた生であった、納得いく死であったと、その死に顔が物語っている。
それでもイスカは、イーロスはまだ助かると信じ、外に運びだそうとする。
イスカの前に立ち塞がる影が、ひとつあった。
イーロスを殺したのは、この男だとイスカは直感的に悟る。
騎士の制服に身を包んだ男。イスカは、これまで何度もその服を目にしていた。
マスクを外す。降り注ぐ星明かりに照らされて浮かび上がる、リュオンの素顔。
湖畔で巡り会い。わずかな時を共に過ごしたふたり。
交わした言葉、通じ合った気持ちは、いまもまだ鮮明な記憶として残っている。
なにも言わずにリュオンは立っている。返事がないのが、すべての答え。
イスカは、すべてを悟る。森での遭遇。湖畔での出来事。そして再会。……すべて繋がっていく。
はじめから、リュオンという男は、イスカの正体に気づいていたのだ。
悲しかった。苦しかった。はじめて理解し合える聖域の人に。巡り会えたと胸躍らせたのに。
すべて幻だった。イスカが勝手に思い描いた。都合のいい幻想だったのだとわかったとき――
受け継いだ審判獣の血が、この男を〈悪〉だと判断した。
リュオンの命。奪わなければいけない。義父の無念を晴らさなければいけない。
なぜなら、イスカもまた戦士だからだ。
義父イーロスから受け継いだ戦士としての誇りや覚悟。それらは、優しい少女の骨髄まで浸透している。