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鯖の一夜干し・エピソード

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鯖の一夜干しのエピソード

大吟醸の忠犬的存在。もし大吟醸が死んでと言ってきたら喜んで死ぬ感じ。愚かなところがある。大吟醸を溺愛しているため、命令されると、良くないと思っても、ちゃんと反論せずに実行してしまう。巷で「人魚」と呼ばれている理由は、体に鱗のような装備があり、これのおかげで陸でも水中のように動いたりでき、空を飛び回ったりすることができる。そして肉体にもうっすらと鱗模様があるため、身を隠すこともできる。


Ⅰ.桜の島

――「妖怪」。

桜の島の人々は、僕のような存在をこう呼ぶ。


「鯖は妖怪ではない、食霊だ」


これはあの男が教えてくれた言葉だ。


男の話によると、僕のように強大な力を持っている存在は、外では極僅かしかいないという。


食霊はここで妖魔のようなものとして噂されているが、その実、真相を知る上層部の連中が、一般人に彼らを超越できる力を得ないよう広めた流言に過ぎない。


荒れ狂う風が海を揺さぶり大きな波を起こした。温和な海はこの時重槌となって漂流する船を打ち砕いた。


ただ、空にかかっている明るい月だけは、何の影響も受けず、いつも通り空に佇んでいる。


その男が言うには、この神秘的な土地は遠い昔から、誰も足を踏み入れる事のない場所だという。


彼は海難に遭い、船板と共にこの近くの海域に漂着し、海面に散らばった幻晶石によって、彼は僕を召喚した。


僕たちは外から来たため、この土地の人々に憚られ、人々に駆逐された男と僕は海辺の小さな茅屋に住むようになった。


男は僕に、外の世界では、夜空は今のような様子とは異なると教えてくれた。


ここでは、月は現れるたびに海に嵐をもたらす。しかし桜の島以外では、とても優しい存在。灼熱の太陽と違い、キラキラと輝く事はないが、自分の微弱な光で夜の世界を照らしている。


真っ暗な空を見上げて、あの夜に見た巨大な玉盤を想像した。


あの巨大な嵐がなかったら、きっと美しい光景に違いなかった。


不吉な存在として、ここの人たちはその男と僕を受け入れてくれない。


僕たちも、あの優しい月明かりのある空の下に戻ろうと試した。


数え切れない程の試みを経て、男の髪は段々と白くなっていき、そして僕たちは気づいた。


伝説と同じように、月が昇る夜にしか、ここ以外の土地を遠くから確認出来ないという事を。

しかし月が昇る夜は往々にして、大きな船を転覆させる程の波風が伴う。


財力を持ちえない、人々に受け入れられない男が、どうして巨大な波風を凌げる船を手に入れることが出来るだろうか?


その内、彼は真っ暗な空を仰ぎ見て、二度と故郷に帰る事なく、この世を離れた。


海辺の茅屋は、僕一人だけになった。

Ⅱ.海

海というのは不思議な場所だ。それを見ていると、心の中では今までに感じた事のない静かさを感じる。


穏やかそうに見える海は、軽視した時に最大の恐怖を与えてくる。


普通の人を超越する力を持っていたとしても、簡単にそれを乗り越えられない。


海は自分に挑んでくる全ての命を等しく呑み込むが、時にその絶望の中にいくつか小さな希望を織り込んでもくれる。



月が昇る幾多の夜に、僕は海に飛び込んだ。


海面下は深い闇が広がっている。僕のヒレはあらゆる媒体の中を、まるで水中にいるかのように自由自在に泳ぎ回らせてくれる。冷たい海水が僕をその中に包み込む。


海に銀色の月光が微かに差し込まれ、数匹の魚が体の近くを通り過ぎていった。


全てが穏やかだった。


僕は水面に浮かび、空に浮かぶ月を見た。そして、次第に大きくなる波風を遠くに見て、息を吸い、一気に海の中へと潜った。


……


また失敗した。


僕は重い足を引きずって海岸に戻った。ビーチには僕が残した足跡しかない。波に巻き込まれて、その足跡も波に連れて、跡形もなく消えた。


幾度となく海面から顔を上げ、遠くに微かに見える陸地は、近いようで手が届かない。


濡れた首巻きを地面に捨て、ビーチに座り、まるで何もなかったように平穏な海を眺めた。


今回、大陸の輪郭が見えたから…次は、次はきっと…



白い円盤は空高く懸かっていて、穏やかな海に銀色の輝きを与えた。目の前の海面は雨によって波打つが、それほど恐ろしい形はしていなかった。


浜辺に立ち、こんな夜にしか見る事の出来ないぼんやりとした輪郭を眺めて、深く息を吸い込んだ。


今度こそ、きっと大丈夫だ。


Ⅲ.希望

また戻ってきてしまった。


だが、僕は自分が思っていた程落胆はしていなかった。徐々に消えていく身体から力が抜けていく。


結局、海には勝てない。


今回はいつもよりずっと順調だった。成功したのかと思っていた時、頭上で巻き起こった大きな波によって方向を見失ってしまった。


周囲の水は僕を引き裂かんばかりの大きな力を持っていた。


もがいている内に、水面から顔を上げて、前より更にはっきりとした輪郭を帯びた陸を眺めた。


結局……辿り着けはしないのか……?


身体と共に意識も少しずつ沈んでゆく。心の中では悔しさよりも落胆の方が大きかった。


こんな場所に閉じ込められて、あの男が言っていたもっと素晴らしい天地を見れないまま、僕は……このまま消えてしまうのか……?




鋭い痛みによって目が覚めた。あのまま海の藻屑にならず、却って海にさらわれて海岸に戻った事に驚いた。


体から絶えず消えていく霊力は、僕にもうすぐ消えてなくなる現実を突きつける。しかし今回、海はまた絶望を与えると同時に、僕にほんの少しの希望を与えてくれた。


人間の子供は僕を好まない。両親から不吉な存在だと言われているから。


彼らにとって、僕のような妖怪を倒す事で、何かしら自慢になると思われているのだろう。


彼らは足で勝手に僕の体を蹴りつけるが、彼らがもたらした痛みは、先ほどまで波風の中を潜り抜けた後遺症よりはましだった。


神智を帯びた霊力が少しずつ消えていくと共に、体も段々と冷たくなっていった。


しかし…自分の下駄を蹴りながら月明かりの下を歩く「妖怪」が僕に気付いてくれた。


彼は自分のやや空虚な目付きとは全く違った美麗な外見を持っていて、冷えた月の輝きの上品さとは違って、身に迫るような姿をしていた。


しかし眼底にはそれに見合うような光がない。


彼はゆっくりと僕のそばに来て、狼狽しているがまだ必死に生き延びようとする僕の姿に対して興味を持ったのか、彼の目には疑問が浮かんでいた。


次第に消え散っていく霊力のせいで、彼の話をよく聞き取れなかったが、彼が僕を助けてくれる人である事は分かった。あの銀色の輝きと同じように、この世界に対する失望と絶望から救ってくれる人だと。


虚ろになっている間、彼に何を言ったかは覚えていない。ただ彼が絶えず唇を動かし、僕の話によって彼の瞳に月の輝きが帯びていった事は覚えている。


Ⅳ.明月

もし、以前僕を支え続けていた目標が、


月が昇る夜に、この抑圧された土地から離れる事であるならば、


月が昇らない夜は、僕が頑張り続ける理由を完全に失う事になる。


僕は自分が何故止まり続けるのか分からない。自分が何をするべきなのかも分からない。


人間らは「妖怪」を恐れるが、彼らはどこから来たか分からない「怪物」をもっと恐れていた。


彼らの目には、僕たちのような「妖怪」は、それらの「怪物」と同じように映っているが。

彼らは「妖怪」の庇護を求めざるを得ないでいた。


知らず知らずのうちに、この海域は僕の領地になっていた。時々僕には必要のない「お供え物」を持ってくる人間がいた。


また海が静かな夜がやってきた。待っている月が昇らなくとも、僕はいつも好んで砂浜に座って空を見た。


しかし、今日はいつもの夜とは違っていた。


白い狩衣を纏った男がゆっくりと近づいてきた。足取りは優雅で緩慢であった。彼は同じように空を見上げて、月が昇る際に懸かるであろう場所を見ていた。


「海辺に人魚が現れたと聞きました。人魚が現れる時、大きな波を携えて人間を飲み込むと。あなたがその災厄をもたらす人魚ですか?」


メガネをかけた上品な男は僕を見て淡い笑顔を浮かべた。彼の笑顔は温かみがあるように見えるが、まったく温度を感じ取れなかった。まるで夜空の中の月光のよう、明るいが、温度が無い。


「……」

「ふふ、やっぱり貴方ですか。大吟醸の奴、この砂浜に来てから、人が変わりました」

「大吟醸?」

「はい?貴方は彼の名前を知らないのですか?そうですね……見た目がとても……艶やかな男と言えば分かりますか」

ほぼ一瞬にして、頭の中で月明かりの下のあの姿が浮かんだ。


「誰か思い出したようですね。彼は歌舞伎町の今の花魁です。機会があれば行ってみたらいい。彼はあの時と別人になっているでしょうから」

「何故?」

「……何故貴方にこんな事を言ったのか、ですか?」

「うん」

「私が、もっと多くの仲間が必要だからです」


彼の目を見ていると、笑顔が浮かぶ目には柔らかな光が煌いているが、僕の直感は、彼が嘘をついていると感じた。しかしどうしてそう思ったのか分からなかった。


大分後になってから、この男が必要なのは仲間ではなかったという事が分かった。彼は自分の仲間が何人いるか気にしていなかった。


彼が気にしているのは、自分が追い求めていたあの月を、どうすれば彼の世界に戻せるかだけ。


Ⅴ.鯖の一夜干し

鯖の一夜干しは何故自分が歌舞伎町にやってきたか分かっていない。彼に言わせれば、歌舞伎町に来るというのは、持てる全ての選択の中で一番良い物だったと。ここに来たから、自分が本当にしたい事を見つけて、今まで頑張ってこれたと。


彼が歌舞伎町に来た時は、ちょうど歌舞伎町の一番賑やかな時間だった。全ての人が笑ったり騒いだりしている中で、大勢の人に囲まれながらゆっくりと歩いていく艶やかな男を見ていた。


男ではあったが、「花魁」の二文字に勝るとも劣らず、花よりも艶やかで、絶色の間に佇んでも霞むことなく、指先で軽く煙管を支えながらゆっくりと練り歩いていた。彼は花魁の名を冠しているが、女々しさはなく、男女問わず彼の一挙手一投足に惹きつけられ、思わず息を殺してしまう。


いつの間にか、鯖の一夜干しは人に付いて「極楽」に着いた。


裸足でゆっくりと鮮やかな赤色の階段を降りてきた純米大吟醸の顔にはキラキラとした笑顔が浮かんでいたが、鯖の一夜干しは微かに眉をひそめた。


彼の笑顔はもっと自由気ままで、もっと……純粋だった…。


純米大吟醸の妖法かもしれない。鯖の一夜干しですら、どうして自分が彼の影に隠れて、一緒に極楽の裏庭に行ったか分からない。


裏庭で純米大吟醸は頭を上げて、月が懸かるはずの場所を見て、酒瓶を高く上げた。キラキラと透明な酒液が流れ落ちてゆっくりと彼の唇の間に落ちて、彼の首筋にも少し落ちて、玉になって細長い首に沿って滑り落ちた。


月光が無いから、酒には赤い紙ランプのくすんだ光が差し込んでいた。鯖の一夜干しはつい口を開いた。


「貴方は笑わない時の方が良い」


純米大吟醸は自分の影から聞こえてきた声で驚かなかった。僅かに首を傾げるだけで、目尻は酒のせいで少し赤色を帯びていた。笑顔は先ほどよりかはずっと誠実なものになった。


「今日は出てこないのかと」

影の中からゆっくりと出てきた鯖の一夜干しは、困惑しながら純米大吟醸を見た。彼の記憶の中で、最後に見た純米大吟醸の笑顔は、決して今のように艶やかだが空っぽな物ではなかった。


「何故、そのような表情をしているのですか?」


大吟醸は懐疑的に眉を高く上げ聞いてくる。

「どんな表情でありんす?」

「……」

「………」

長い沈黙の後、酒壺を揺らしながら、純米大吟醸はようやく笑顔を収めた。


「努力し続けないと、面白い事に出会えないと教えられたでありんす。だけど、あちきはもう長い間頑張った。あらゆる方法を尽くした。なのにこの世界はますますつまらなくなったでありんす…だったら、何故あちきは続けなければならないのか……?」


鯖の一夜干しは、純米大吟醸の微かに皺を寄せた眉を見て、口を開いた。

「極楽」の赤い欄干は「極楽」を艶やかに装っているが、全ての人をしっかりと閉じ込めてもいる。

まるで……この桜の島に閉じ込められた全ての人たちと同じように……


この人は自分と同じように、この小さな天地の間に閉じ込められてはいけない。

彼をここから離す事が出来たら、彼の目はどうなるのだろうか?


鯖の一夜干しも頭を上げ、暗い空を見た。


「もし、この鳥籠以外にもっと良い、もっと面白い世界がありましたら……貴方はもっと楽しく笑う事が出来ますか?」



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