脆皮乳鴿・エピソード
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脆皮乳鴿のエピソード
激しい先延ばし癖を持つ、楽天的な怠け者、そそっかしい。原稿を先延ばすためなら何でもする。いつもヘラヘラとした笑顔を浮かべていて、なんだか憎めない、少しだけずるい性格をしている。興味のない事だとやる気は出ない、興味があれば寝食を忘れる程根掘り葉掘り研究する。
Ⅰ.理想郷
高々とそびえ立つ崑崙宮の城壁は、光耀大陸にとってまさに巨人の身体を守る甲冑のようだと、御侍先生が昔教えてくれた。
それが戌衛郡大将である参籧の鉄蹄により簡単に踏みつぶされた時、こととてつもなく大きい帝国は破滅に甘んじないため、初めて助けを求めた。
「御侍先生、光耀大陸って何?食べられるの?」
あの頃のボクはまるで鳥かごの中で守られている金糸雀のようだった、台の下で無邪気に肉付きの良い腕を高く伸ばし、大きな声でこう聞いた。
「脆皮乳鴿(ついぴーるーぐぉ)、光耀大陸は料理の名前ではない、それは……私たちが今立っているこの土地の事で、永久に私と貴方の家だ」
御侍先生は君子の遺風がある文化人だ、人と言い争っている時でも表情一つ変えない。
でもボクは知っている、その紙のようにか弱い体の内側には、時代の理解を遥かに超える理想と野望が燃えているという事を。
ボクはわかったフリをして頷いて、彼の元に駆け寄り、見様見真似で彼の原稿を読み上げた。
「……白虎神君が亡くなった、南翎に神君の大役は務まらない!参……参なんとか大将は国を興す志を持っている、本日軍隊を率いて玉京に入る……これぞ天意なり……!」
ボクの澄んだ声が街中に響き渡る、通りすがりの人々はボクの声を聞いて笑った。御侍先生が読むよりも反応が良くて、ボクは嬉しくて飛び跳ね、彼の腕に抱きついた。
「御侍先生、ボクすごいでしょ!」
彼は頷きながら、ボクの頭を撫でて甘やかしてくれた。
「だけど、御侍先生……天意って何?」
彼は微笑みながら、優しく答えてくれた。
「天意とは……逆らう事の出来ない力の事だ」
親指をしゃぶっていた子どもが、地面に散らばった原稿を拾い上げ、よだれを紙に付けている事に気付かないまま「天意は、お腹いっぱい食べられる事だよ、母ちゃんが言ってた!」こう言ってきた。
彼が言い終わると、ボクはすぐさま布製の靴を手に取り、彼の丸い頭に投げつけた。
「小虎!またよだれをまき散らして!」
「うぅ、痛いよ!脆皮乳鴿がまた殴った、逃げろー!」
人々の笑い声を浴びながら、ボクたちは追いかけっこを始めた。でもすぐにある大きな掌によって首根っこを掴まれた。
「おいっ、どこ見てんだ!?嬢ちゃん、町中を走り回っちゃダメだろ!……なんだ?あんたは確か……あの方の食霊か?」
見覚えのある顔だ。この人は参籧の右腕だと、御侍先生から聞いた事がある。
遠くに逃げた小虎を見て、事の次第を理解したみたいで、一つため息をついてからボクを掴む手を放した。
「さっさと家に帰れ!今度捕まえたら、あの方にきっちり説教してもらうぞ!」
言い終えると、彼はボクを置いて南西の方を見た。何かを憂いている彼の呟きが、途切れ途切れに聞こえてくる。
「……新たな神君である南翎が出発したか……一部の地方豪族が支持していても……恐らく……」
その言葉は夕風に吹き飛ばされ、ボクの心の中にある微かな不安と共に、血のように赤い夕陽に溶け込んでいった。
Ⅱ.無駄骨
今日、うっかり今月五本目の花瓶を割ってしまった。
侍女のお姉さんが理由を尋ねて来たけど、ボクは「全部御侍先生のせいだ!」と駄々をこねた。
いつからか、御侍先生が日に日に帰って来なくなった、しかもすれ違っても挨拶をしてくれない時もある!
この脆皮乳鴿は……家でじっとしていられる食霊ではないよ!
御侍先生が明日の夜明け前に出発する事は、既に調査済みだ!
彼を驚かしたいという悪戯心で、ボクはこっそり馬車の後を追い、軍が夜間外出禁止令を設けているためかなんだか物寂しい町から出た。
玉京を守る城壁が見えてくると突然鈍い光が風を切り裂き、馬車の車輪に刺さった。耳をつんざくような音の後、馬車が制御不能になった。
馬車が止まると、暗い路地からボロボロな服を着た若者たちが出てきた。
「参籧の犬を殺し、我が光耀大陸の栄光を取り戻すのだ!」
先頭に立つ者は、頬がこけ、肌も黄土色をしていて、粗末な木製の弓に矢をつがえていた。
今までに聞いた事もないような咆哮を発し、必死の覚悟で既に怯え切っている衛兵に向かって襲い掛かる。
あっという間に、城壁の下にある土地は血色に染った。
こんな混乱した場面をボクは見た事がない。屑鉄で出来た矢は脆いはずなのに、御侍先生が必死に隠そうとして来た本当の世界を容赦なく暴いた。ボクはただ呆然と見つめる事しか出来ない。
流血、紛争、そして、死……これが光耀大陸の日常なの?
御侍先生みたいな高貴な身分の人ですらこうなら……他の人たちは?町でボクと一緒に遊んだ子どもたちも、まさかある日突然……?
どれだけの時間呆けていたのかわからない。
馬車のすだれが静かに揺れ、御侍先生の青白い顔が見えた。
「御侍……御侍、先生……!」
夢から醒めたかのようだった。食霊であるボクは、人間に敵対するべきではない、だけど……
御侍先生を守る事、これがボクの唯一の使命だ!
ボクは震える手で先頭に立つ青年を制し、すだれを上げた。短刀を持って、無言でボクを見つめる御侍先生が、そこにはいた。
短刀はあと少しで彼の首に刺さる所だった。
ボクは泣きながら、失わずに済んだ宝物にしがみついた。
御侍先生は短刀を下ろすと、ボクの頭にそっと触れた。しばらくすると、その手は無力に垂れ下がる。ボクは涙で霞んだ目で、彼も震えている事に気付いた。
騒ぎを起こした青年は、すぐに到着した衛兵に連行された。罰を受けた後解放されると思っていたのに、青年は獄中で死んだと御侍先生から聞かされた。
「どうして彼は……死んだの?」
この時、御侍先生はボクの問いかけには答えてくれなかった。
ふっくらとしていた御侍先生の頬は、数日で急激に痩せていって、ボクの声も震えるようになってしまった。
「御侍先生、まだ……演説に出かけないといけないの?じゃあ、ボクもついていくよ!ボクが、御侍先生を守るから……」
しかし、彼は首を横に振った。白い服に着替えわ、次の演説のために家を出ていった。
彼の後ろ姿を見つめる。浮き出たその背骨の下で、相対する二つの意思がぶつかり合い、彼を引き裂こうとしているように見えた。
ボクは歯を食いしばり、以前とは全く違う心境で、静かに御侍先生の後を追った。
いつものように演説のために町に行くと、今回はいつもと違った、青年の死を知った人々は友好的に接してはくれなかった。最初に彼の足元に落ちたのは腐った卵だった、そして次に生ごみと石も。
群衆の罵声の中、無言で立つ彼。その姿勢はまるで松のように、まるで見えない壁のように、玉京と望京の間をしっかりと跨っていた。
「もうやめて!御侍先生をいじめないで!彼は良い人だよ、ただ皆を助けてようとしているだけなの!」
泣きながら御侍先生に抱き着き、不器用に両手を広げて彼を庇って、群衆の悪意から必死に彼を守ろうとした。
しかし彼の白い服には、既に洗い流せない染みが出来ていた。
Ⅲ.妄想を捨てる
御侍先生と一緒に、朱色の門を一つずつ押し開けていったけれど、誰一人助けてくれる人はいなかった。
雑然とした公堂は炎に包まれ、大量の書類が灰燼に帰した。
数日前まで厳重に警備されていた軍営すら、空き地になっていた。
大通りで、白髪の老人が空を指差し、「参籧が死んだ、神君が降臨す!」と叫んだ。
御侍先生を庇いながら混乱した街から逃げ出そうとしたけど、目ざとい通行人に彼の顔を見られてしまった。
いつもボクの頭を優しく撫でてくれた、笑いながら髪に花を飾ってくれた人々は今、狂ったように石を投げてきた。
食霊も血を流し、痛みで泣く事を、彼らは知らないの?
歯を食いしばって命がけで御侍先生を連れて、廃墟の平屋の中に身を隠した。
扉を壊そうとする音があちこちから聞こえてくる。雷よりも恐ろしい音だ。遅かれ早かれ見つかってしまうだろう……見つかったら、彼はどうなる?
答えはもうわかっていた。
「御侍先生、お願い、もう行こう!」
黙っている彼を引っ張り、懇願した。
しかし、彼はまるでボクの声が聞こえていないかのように、混沌とした夜空を見上げている。その胸だけがゆっくりと微かに上下していた。
厳寒に負けない松ですら雷で折れるとは思わなかった。でも優しい彼がこれ以上、傷ついて欲しくない。
「前に……前に町で遊んでいた時、ある抜け道を見つけたんだ!その中に堕神がいっぱいいるから、普段誰も近づいたりはしないり危険だけど、でも……活路ではある!御侍先生、一緒に逃げよ!」
「逃げる」という言葉を聞いた御侍先生は、怒りで顔が赤くなり、乱暴にボクの手を振り払った。
「逃げる?どう逃げるつもりだ?百姓でさえ農具を手に取って私に抗議する今、私の理想も抱負も、この国には無用という事だ!……歴史が私の過ちを証明してくれるだろう、人々に平和な暮らしを取り戻してくれるだろう!」
そう言い終えると、彼は窓の外に見える数えきれない人影を見て、何故か落ち着きを取り戻した。そして、とてもゆっくりとした声でこう続けた。
「……脆皮乳鴿、もし私がもっとゆっくり、のんびりと町を散策していたら……もしかして南翎のように、人々がどんな未来を待ち望んでいるのかを、はっきりと気付く事が出来たのだろうか?」
ボクは地面に座り込んだ、脳が混乱している。ボクには御侍先生の言葉は理解出来ない。
彼がボクの髪二つ結びにしてくれるのをただ受け入れる事しか出来なかった。
そして、まるでこれまで溜め込んでた希望を託すかのように、ボクの背中をそっと押した。
「行くんだ、脆皮乳鴿。貴方は生き続けなければならない、生き続けて……私のために歴史を目に焼き付けるんだ。そして、私の判断が正しかったかどうかを、教えてくれ」
ボクは彼の細い手を見た。少し強引に引っ張れば、すぐにでも彼を抱えて、抜け道に隠れられる。
だけど……
彼の事を一番よく知っているボクに、唯一出来る事は、彼の選択を尊重する事だった。
ボクは寝台の下に身を寄せ、彼が髪を束ね直し、扉を押し開け、平然とした様子で運命の審判に身を委ねるのを見届けた。
Ⅳ.初心を思い出す
ソファーが揺れている。ボーっと目を開けると、怒りで歪んだ編集長と顔が目の前にあった。
「脆皮乳鴿!一日先延ばしにしてやったのに、よくもこんなもんを渡してくれたな?!」
ボクは寝返りを打って、後頭部を向けて編集長の怒りを遮った。
「頑張ったよ、うるさいな……どうせ読者はボクが書いたものを認めてくれないし、気に入らない。だったら、頑張って創作する必要なんてある?」
それに、文字で光耀大陸を変えるように教えてくれた人は、もう……
いないのに。
「こんなもんで"頑張った"だと?!どの面下げて言ってんだ!」
編集長は耳を真っ赤にして、丸めた新聞でボクの頭に叩きつけてきた。
赤くなった額を抑えながら、ボクも怒りを露わにした。
「うまく書けなかっただけで、どうしてそんなに怒るの!うまく書けなくても……」
「うまく書けなくて文句ある?」こう続けようとしたけど、見開いた編集長の目から突然涙が溢れ出て何も言えなくなった。
「なっ……何泣いているの……大の大人が……」
「脆皮乳鴿、小さな地元紙からお前を連れ出したのは、お前の文章が辛辣で洗練されているからだ。でも一面的すぎる!これが、お前が思う光耀大陸か?七十年前の玉京にでも生活しているのか?!」
編集長は、ボクが書いた記事を指差して大きな声で問い詰めてきた。
ボクは目を伏せ、自分で書いた文字を見つめる。
確かに、報道というより、この文章は主観的で憶測のような物語だ、現実とは関係のない時代遅れの発想や古臭い言葉が載っている。
だけど……これは御侍先生が実現したい理想なんだ。
……でも、ボクが書きたいのは……こんなものなのか?
いつからか、ボクは創作の初心を忘れ、御侍先生の理念だけを書き始めた。この考えがとっくに時代にそぐわない事に気付かないまま。
編集長は、黙っているボクを見て、深呼吸をして新聞を投げ捨て部屋を出ていった。
「……この部屋から出て、今の"光耀大陸"を自分の目で確認して欲しい」
窓際に立つと、真昼の太陽が編集長の影を長く伸ばしていた、その背中が御侍先生の姿と重なって見える。
「もし、貴方が生きて玉京を脱出する事が出来れば……おそらく、私が下した判断が正しいかどうかを、貴方の目で見届ける事が出来るだろう」
御侍先生が遺した言葉は、ボクの心の中で再びはっきりと浮かび上がった。それはまるで彼の渾身の一撃のようで、彼が残した残影を守るためにボクが張った防御線を全て押し倒した。
見えない壁が消えると、玉京を形作る煉瓦ですら色づいているように見えた。
こんなにと豊かな色彩を、ボクはこれまでずっと無視してきたのか。
「御侍先生、ごめんなさい。ボクは……御侍先生の言葉を誤解していた……」
クシャクシャになった新聞を抱きしめながら、こう自分に言い聞かせた。とうとう涙をこらえきれず、窓の下で体を丸くしてしゃがみこんだ。
「過去に囚われる事なく、この時代の進歩を推し進めるために、例え……例えそれが、この世界にとって微々たるものでしかなくても、ボクは創作を続けるよ!」
「光耀大陸を良くする事、これこそが御侍先生の真の願いだ!」
Ⅴ.脆皮乳鴿
筆は竜蛇のように走る、走り出したら止まらない。
「よしっ、出来た!」
脆皮乳鴿はカッコつけて羽ペンを投げ捨て、勝ち誇ったように腰に手を当て、振り返って編集長の顔を見た。
「流石ボク!編集長!この原稿すごいでしょ!……コホンッ……」
卵のように滑らかな編集長の頭に羽ペンが刺さっているのを見て、脆皮乳鴿は咳払いで無理やり笑いをこらえた。
だが編集長はまったく動じる事なく、眼鏡を軽く押し上げ、彼女の原稿を一文字一文字と淡々と読んだ。
「ダメだ、書き直せ」
脆皮乳鴿は悲鳴を上げた。
「本気で言っているの?こんなに完璧なのにー」
編集長は冷静に答える。
「私が納得する原稿を上げないと、今月の原稿料はナシだ」
「アハハ、書き直せば良いんでしょう?わかったわかった、原稿料だけは勘弁して、新しいインクを買おうと思っていたのに……」
疫病神を追い払った後、脆皮乳鴿はソファにへたり込んだ。胃が悲鳴を上げると、やっと机に向き合って長いため息をついた。
「ボクの才尽きたり……全然書けないよー!」
彼女の泣き声によって天井が三回も揺れ、そこから吊るされた電灯に溜まった埃が、真っ黒な墨の中に落ちた。
彼女が慌てて口を覆って時計を見ると、もう十二時過ぎていて、知らないうちに新しい一日が始まっていたのだ。
「ヤバい、締め切りまであと八時間しかない!どうしよう、まさか……地面に穴が開いちゃう……」
脆皮乳鴿は泣きそうになりながら羽ペンを握りしめた。自分で書いた文字なのに、読めない文だけが連なっていた。
彼女は躊躇いながら引き出しから「玉京朝刊」が用意した封筒を取り出した。編集長に捨てられた原稿を手に取り、封筒に入れようとした寸前、彼女は歯を食いしばり、原稿をクシャクシャに丸めて投げ捨てた。
「ダメ……御侍先生が知ったら……きっと失望させちゃう!」
丸めた紙は机から落ちて、隅に転がっていった。
ゆらめく蝋燭の灯が白い煙を吐き出し、壁に少女の影を映した。
窓の外の朝日が雲を赤く染める頃、花売りの少女によって開けられた木の扉が軋み、木の上で熟睡していた鳥たちが起こされた。数回鳴いた後、屋内にある時計もその輪に加わった。
木製の鳩が勢いよく飛び出し、音を立て、机の上で眠っている脆皮乳鴿を起こす。
「へっ、編集長、叩かないで、原稿はもう出来たから!……七時か、まだ早いし、もうちょっと寝かせて……えっ、もう七時?!」
脆皮乳鴿はまるで叩きつけられたボールのように慌てて跳ね上がり、よだれを拭き取る事すら出来ないでいた。
木製の鳩は、そんなマヌケな彼女を嘲笑うかのように、バネの力で左右に揺れる。
時計を数秒見つめた後、彼女は悲鳴を上げて、まだインクが乾き切っていない原稿を乱暴に封筒に突っ込み、部屋を飛び出した。
「編集長、待って、もうすぐ原稿を持って行くから!」
「えー?お姉ちゃん、まぁ原稿落としたの?」
道端で遊ぶ子どもたちは無邪気に首を傾げ彼女に声を掛ける、庭で落ち葉を掃く主婦は笑顔で彼女を見送った。時折読者たちの厳しい評論も聞こえて来る。
穏やかな挨拶を浴びて、ふとある思いが彼女の脳裏に浮かんだ。
「御侍先生。とにかく……ボクたちは今、幸せな時代を生きているよ」
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