ガナッシュ・エピソード
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ガナッシュのエピソード
「カーニバル」の地下ボクシング場「コロシアム」の「獣」。痛みが好き、体が痛ければ痛い程ケンカが激しくなる。ケンカしている時は狂人になるが、普段は年頃の少年と変わらず、むしろ普通より天真爛漫な性格をしている。美味しいもの、特に甘い物が好き。ありとあらゆるものをまず口に入れてみようとする。過去の苦い経験から、一人でいることを嫌い、いつも人につきまとってはケンカを売る。
Ⅰ.甘露
……遅すぎる!
ボクサーが拳を引っ込める隙もないまま、その見開いた目はあと少しでオレの顔に付きそうになっていた。
リングの下でロウソクの炎がパチパチと音を立てている。まるでその火花が目に入ったかのように、彼は恐怖と恨みを目に浮かべていた。
残念だけど……もうどこにも逃げ場はないぜ。
「俺を弄んでんのかよ……」
オレに攻撃が当たらなかったからか、ボクサーの目の憎しみがより一層濃くなった。
変なヤツ……
「弄んでないよ、アンタの拳が弱すぎるだけ」
「……チクショー!」
彼は強烈な左フックを繰り出した。耳障りな程の激しい風圧が耳を掠める。
でも今回もオレに当たらなかった。
このままだと、観客も飽きちゃう……
一刻も早く終わらせなきゃ。そうじゃないと、御侍に怒られるし、オレも……
ーーオレも満足できない。
余計なことを考えていると、下腹部に懐かしいような親しみやすいような痛みが走った。
天地が逆転して、背中がロープに当たった後、そのままリングの下に転がり落ちた。
あぁ、すごい力だ、オレをこんな遠くまで突き飛ばせるなんて……
「はぁ……いった……あっ……」
危ない、口に出しちゃった……まぁ、誰も聞いてないよね?
柱を掴んでどうにか立ち上がる。視線をリングの上に移すと、そこに立っているヤツの笑顔が急に固まった。
「おいっ……お前……なんで……」
彼は戦慄した声で質問してきた。
「お前、なんで笑ってるんだ……?」
口角を撫でると、確かに上がっていた。
えっ、アンタには理解出来ないの?
「だって……」
オレはリングに両腕を置き、恐怖で顔が引きつっている勝者を見上げた。
殴って、殴られる。勝者と敗者。
新しい傷と古い傷が重なった身体は常に痛みを感じる。でもオレにとって、拳の風圧はまるで砂糖のように甘い……
「とても楽しかった。気に入ったよ……この痛み」
「次はもっと頑張ってオレを潰してくれない?」
二枚の金貨がオレの手のひらに落ちて、ひどく乾いた音を響かせる。
オレは口を尖らせながらも、待ちくたびれている御侍の顔色を注意深く窺いながら、金貨を両手で差し出した。
「フンッ、失敗作でもたまには役に立つな」
オレは両手を背中に回して、俯きながら彼の話を聞いた。
はぁ、御侍の口から出るのは、冷たい言葉ばかり……
「……帰るぞ。これだけあれば実験室用の新しい装置を買えるな。これ以上こんな汚い場所にいたくない」
「今日の実験で、奴の成果を超えられるかもしれん……よく聞け、二度と失敗は許されない、いいな?」
声はこんなにも、こんなにも近くにあるのに……
少なくとも今、オレは彼に必要とされているよね?
「うん!」
オレは腫れた足を動かし、愉快な気持ちで御侍について路地裏に入った。
Ⅱ.純真
白いランプ、銀色に光るメス、ぼやけていく視界。
麻酔で動けない身体、処理されてない傷口、汚れた手術台……
怖い……?
違う!オレはこの全てを何よりも期待している!
だって、御侍の望みだから……実験が成功すること、これこそが御侍にとって最も大切なことなんだ!
御侍と一緒にこんな大事なことを成し遂げられるなんて、オレはなんて幸せ者なんだろう!
うん!とびっきりの幸せ者だ!
「チッ……アルコールが足りない。傷口から感染するのは構わないが、実験結果に影響したらダメだ……ガナッシュ、地下診療所に行ってアルコールを何本か買ってこい」
「うん!すぐに行ってくる!」
御侍の声を聞くと、オレの体は反射的に跳びはねてしまうり
彼はとてもせっかちだ、命令されたらすぐに実行しないと実験の時にわざと痛くしてくるんだ……
痛いのは好きだけど、でも、でも……
いや、オレは痛いのが好きだ!
雨上がりの街はいつもより人が少ない。水たまりを踏んで歩いていると、ゴミ箱のそばに捨てられているキャンディを見つけた。
「今日のオレはツイてるぜ!」
袖でキャンディの汚れを拭いて、それをポケットに隠してから、オレはカケラが残っている指先を舐めた。
「……美味しい!キャンディは世界一美味しい食べ物だ!」
糖分が舌の上で甘いワルツを奏でる。オレは思わずその旋律に酔いしれた。
旋律は名もない路地の入口で止んだ。オレは戸惑いながら立ち止まって、耳を澄ました……
すると、路地の奥からおかしな音が聞こえてきた。
「誰がいるの?」
返事がない。
うーん……じゃあ勝手に邪魔するぜ!
人間の匂いを辿って、オレは迷宮のような路地で、ゴミ箱の裏で踞っている男の子を見つけた。
少し悩んだ後、廃棄されたパイプを拾い上げて彼を突こうとした。でも突く前に、男の子が大声を上げた。
「や、やめろ!」
「あれ、ごめん。ハエが多いから、てっきりもう……」
死んでいるのかと思った。
まばたきした後、オレは言葉を飲み込んだ。
「……なんだよ?俺は金なんて持ってねぇぞ!クソ親父が家の金を全部ボクシングのベットに使った上に、借金取りに追われてんだ!」
ボクシング?つまり……お客さんの子どもだ!
なるほど、オレは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「オレはたまたま通りかかっただだよ……」
言い終わらないうちに男の子は急に顔色を変え、まるで怪物でも見たかのようにオレの背後を指差して「気を付けろ!」と叫んだ。
Ⅲ.他人
オレは首を傾げると、ちょうど背後からの一撃を躱す形になった。
不意打ちに失敗したのを見て、突然何人かのおじさんたちが現れ、悪態をつきながら鉄パイプを振り回し始めた。
鉄パイプはプラスチックで出来たゴミ箱に叩きつけられ、凹んだ。
うわーもしオレに当たったら……
「きっと痛いんだろうな、あの鉄パイプ」
「小僧、怖いなら離れてろ。てめぇには関係ねぇ事だ」
怖いおじさんたちはオレの言葉を全然理解していないみたいだ。
「ケンカなら関係大ありだよ?それに……お客さんの子どもだし!」
おじさんたちは不思議そうな顔をしつつも、すぐに鉄パイプを構えてオレに叩きつけてきた。
アハハッ、ちょうどいい!また思いっきり戦えるぜ!
だけど……
五分後、オレは物足りなさそうに拳を振った。
「弱すぎる!こんなんじゃオレに痛みなんて与えられないだろ!」
「この程度でよく用心棒なんて名乗れたね……」
地面に横たわって悲鳴を上げているおじさんの頭をポンポンと叩いて、オレはポカーンとしている男の子に向かって愛想良く笑った。
「お客さんの息子くん、もう帰っていいよ」
「何笑ってんだ、血が出てるぞ!」
男の子は焦った様子でオレに駆け寄ってきて、慣れた手つきで服の裾を裂いて傷口に巻いてくれた。
「血が出てる?良い事じゃん?」
なんで彼が焦っているのかわからなくて、オレは自分の頭を掻いた。
すると、彼は不思議そうにこう言ってきた。
「……お前、何変なこと言ってんだ?」
変?
でも……御侍は、オレが血を流すととても喜ぶよ。
オレが手術台に横たわっている時だけ、彼は珍しく笑顔を見せてくれる。
オレがボクシングで稼いだ金貨を彼の手に置いた時だけ、彼の目付きは一瞬だけ和らぐ。
御侍は……
「ヤバい!」
「?」
暗くなっていく夕陽を見て、オレは大分時間が経ったことに気付く。これ以上遅れると御侍がまた怒る!
男の子が怪訝そうな顔をしているのも構わず、オレは横たわるおじさんたちを踏み越え、地下診療所に向かった。
「ちょ、ちょっと!お、お前、名前は?」
「えっ?オレにベットしてくれるの?いいけど……子どもはギャンブルしちゃダメだぜ!」
「えっ?いや……俺は……」
仕方ない……
オレは鼻をすすって、彼の元に戻った。少し躊躇ってから、ポケットに入れたキャンディを彼に投げる。
「これあげる、キャンディを食べて良い子でいて。このおじさんたちみたいに悪い人になっちゃダメだよ!」
オレは手を振りながら走って行った。彼の目がオレをずっとずっと追いかけているのに気付かないまま……
Ⅳ.失敗作
ゴーン、ゴーン、ゴーン――
鐘が鳴り、またボクシングの新たな試合が始まった。
でも、今回のボクサーの顔は……なんだか見覚えがあるような気がした。
「……おかしい。お前の見た目、記憶と同じままだ」
ボクサーは人差し指で鼻先をこすって呟く。
オレは首を傾げ、記憶の断片を探ってみたけど収穫はない。
「忘れたのか?俺を……助けてくれたこと」
人助けなんて滅多にしないから、オレは頭を捻ってどうにか思い出した。
「アンタか!あの時のお客さんの息子くんだ!」
「お前……」
客が投げたペットボトルが彼の言葉を遮った。
彼らはボクサーたちが仲良く雑談している所なんて見たくない、追い詰められてお互いを噛み合う獣に金を掛けたいだけだ。
青年は眉をひそめて、オレに強烈な一撃を放った。
人間にしては、なかなかの腕だ。
何度もオレの体に拳が打ち付けられる。青い痣が重なり複雑な譜面を作り上げる。
オレの体は微かに震えている。痛みなんて怖くない、だからこれは……
興奮だ、幸せだ、オレの心が歌っているんだ!
「アンタ、すごいじゃん!」
オレは彼を褒めた。
オレの体はもっと苦痛を求めているけど、もう時間はない。
「ほら、そろそろオレをこのリングから落とせ」
相手は新人だ。大抵の客はベテランであるオレに賭けている。
この甘美な拳への報酬は……
「そうすれば、アンタは大金が手に入る」
オレは当たり前のようにこう思った。人間はお金で楽しさを買っているんだから!
金色にキラキラ光るお金が冷たい実験道具に換えられると、御侍の目はいつも奇妙な光を放つんだ。
新しいメスを撫でる手は、人の肌を撫でる時よりも優しい。
――そう、オレが今していることは、御侍を楽しませることだ。
これこそがオレの存在価値なんだ。
「……お前、何言ってんだ?」
彼はオレがわざと作った隙を無視した。
リングの下にいる客たちからヤジが飛んでくる。
オレが困惑して首を傾げると、青年の表情が変わった。
「お前……ただのイカサマ野郎だったのか?」
「そうだよ?知らなかったの?」
青年の顔にあったはずの敬意は、悔しさと軽蔑に変わった。
「……お前の姿に憧れて、ボクシングを習い始めた」
「……お前に助けられた後、オレはいつまでも現実逃避してはいけないと気付いた。俺のようなちっぽけな人間でも、お前のように拳を使えば手の届く範囲で誰かを守れると……」
失望する彼に、オレはぎこちなくズボンの裾で手のひらの汗を拭いた。緊張しているのか、どもってしまう。
「あの……実は、アンタが言っていることが全然わからない」
「オレはアンタが思っているほど偉大じゃない。オレがリングの上に立っているのは……」
「……早く終わらせろ、また実験があるんだ!チッ、失敗作は失敗作らしく、余計な事をして他人に迷惑を掛けるな!」
オレの言葉は待ちくたびれている御侍に遮られてしまった。
「うん、御侍様」
オレは命令に従って、素早く青年を倒した。
観客はしきりに歓声を上げているけど、その歓声にそぐわないのはリングの上に横たわったまま動かない青年の姿だ。
「大丈夫?」
オレは彼に近づき、彼を起こそうと手を伸ばしたけど、振り払われた。
「この……卑怯なバケモノ」
青年はそう言い残して、逃げていった。
リングの上で立ち竦んでしまったオレは、しばらくしてようやく先程何かが頬に当たった事に気付く……
物が落ちた方向を見ると、そこには……
キラキラと微かに光っている物があった。オレが当時思いつきであげた物だ。
身を屈めて、ボロボロの包装紙を裂いて、酸っぱくて臭い匂いがするキャンディを舐める。
糖分が舌の上で甘いワルツの変奏曲を奏でる。
不可解な感情がオレを襲う。
鈍い体は反応出来ず心臓は小刻みに震えている。
「……バケモノ……」
無意識に呟く。
知覚が蘇る。意識的に無視していた痛みが潮のように、オレを殺すような窒息感を伴いながら湧き上がってきた。
どうして……
すごく痛い。
どうして……
御侍が望むような食霊にもなれないし、普通のボクサーにもなれない。
そして、今は……
痛みに耐えられる実験体にもなれない……
「……オレはただのバケモノで、価値のない失敗作……なの?」
Ⅴ.ガナッシュ
失敗作であるなら、出来る限り主人に媚び、捨てられる運命から逃れるべきだ。
それはガナッシュが自分の名前を知る前から、御侍の蔑むような目つきから学んだ生きる術。
運命を受け入れたからこそ、運命に付随する苦難も飲み込まなければいけなくなった。
手術台の前にある鉄格子越しに、彼は夕暮れ、夜明け、そして闇の果てをも見た。
しかし、御侍の成功への渇望と彼に施す苦痛に限りはない。
最終的にガナッシュはそれを受け入れ、共に生きる事を学んだ。
何故なら、痛みはどこにでも存在するから。
彼はキャンディに夢中になる子どものように、この感覚を愛した。
これは間違っている事なんだと、彼はこの真相に気付かない。
彼は檻の中で生まれた獣、その鋭い爪と歯は、御侍の敵を「清掃」するためだけにあった。
御侍が実験で家財を使い果たすと、ガナッシュはリングに上がり、あらゆる卑劣な手段を使って金貨を稼いだ。
御侍が数々の失敗で魂をねじ曲げた時、ガナッシュは「失敗」の源を担い、御侍と共に自らに刃を向けなければならなかった。
彼は失敗作だ。
「痛みが好き」と同じく、呪いのように単純で頑固なガナッシュの頭に刻まれている。
だから青年があの言葉を言い残し立ち去った後も、ガナッシュはやはり自分のせいだと思い込んだ。
しかし人々は彼を愚かだと、面倒だと、更には可笑しいと、卑怯だと非難するだけ。
どうするべきなのかを、彼に教えてくれた人は一人もいない。
どうすれば御侍を怒らせないで済むのか?どうすれば失望させずに済むのか?
ガナッシュは痛みに麻痺した傷だらけの小さな体で、ボロボロになっても執拗に追いかけたが、答えには辿り着けなかった。
チクタク、チクタク……
御侍の震える手の中で黄色い薬液の入った瓶が揺れている。
お酒に酔った者が、最後の一滴を口に入れようとしているようだった。
ガナッシュは従順に腕を下ろしている。細い針が彼の皮膚を突き破り、脳を麻酔する物を放つ。
パチパチと光るランプが御侍の失望した顔を映した。
「……人間では、神に代わることは不可能……か……」
「失敗作は……俺だったのか……」
現実によって完膚なきまでに打ちのめされたのか、男はメスと壊れたガナッシュを置いて、実験室を飛び出していった。
ガナッシュは冷たい手術台の上に横たわり、腹部から湧き出る鮮血が温もりを失い、痛みの感覚が鈍くなっていくのを感じた。
悔しさと共に涙が込み上げてきた。
やっぱり……痛みに耐える必要がなくなった時、世界は彼を捨てるのかと。
彼は深い眠りに落ちた……窓の外の鳥の鳴き声と風の音で目覚めるまで。
体の傷は丁寧に縫われている。ベッドの端の柔らかな明かりが見慣れない部屋を照らしていた。
不安そうに狼狽えていると、一匹の蝶が彼の視界に飛び込んできた。
「……覚えてる……」
感情のない目を見つめ、ガナッシュはこう呟いた。
アンタこそ、御侍が超えようとしていた……神様。
彼はこの言葉を飲み込んだ。
そして、再び眠りについた。
夢の中には、御侍の蔑む目つきと青年ボクサーの辛辣な言葉があった。
でも、変人のように見えて、珍しく時間を掛けて彼に「どうすればいいか」を教えてくれる人もいたーー
ボクシングと人生は違う意味を持つべきだ。
肉体の痛みは一時的に心の痛みを麻痺させる事は出来る。しかし、これはアルコールと同じで慢性的な毒に過ぎず、決して痛みを癒す事は出来ない。
ガナッシュは簡単にはこれを受け入れられなかった。
「この世界には、痛みを背負う者が必要だ……だからオレは運良く生き残っているんだろ?」
もしこれが事実じゃなければーー彼の存在意義も、信念も、揺らぐのだろう。
幸い、御侍のように嘘で彼を失敗作に仕立て上げようとする偏執的な考えを持つ人はもういない。
ガナッシュが自分で成長出来るよう、時間を与えている。
ガナッシュは檻の中に閉じ込められた獣だった。
檻は頑丈で、誰もそれを開けられない。
しかし、檻の外に温もりさえあれば、傷だらけで凍りついていた彼の心を溶かす事が出来る。
ガナッシュがその気になれば。
彼はいつでも檻を出て、この「世界」という名のコロシアムに立ち、「失敗作」のレッテルを外し、正々堂々と成功を勝ち取れるはずだ。
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