幻夢妄月・ストーリー
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幻夢妄月
目次 (幻夢妄月・ストーリー)
- 幻夢妄月
- 序梦参差
- 胡蝶の夢Ⅰ
- 胡蝶の夢Ⅱ
- 胡蝶の夢Ⅲ
- 幻魔繚乱
- 花にして花に非ずⅠ
- 花にして花に非ずⅡ
- 花にして花に非ずⅢ
- 花にして花に非ずⅣ
- 花にして花に非ずⅤ
- 花にして花に非ずⅥ
- 花にして花に非ずⅦ
- 花にして花に非ずⅧ
- 花にして花に非ずⅨ
- 譫言変奏Ⅰ
- 譫言変奏Ⅱ
- 譫言変奏Ⅲ
- 譫言変奏Ⅳ
- 譫言変奏Ⅴ
- 譫言変奏Ⅵ
- 譫言変奏Ⅶ
- 譫言変奏Ⅷ
- 譫言変奏Ⅸ
- 断夢帰塵Ⅰ
- 断夢帰塵Ⅱ
- 断夢帰塵Ⅲ
- 断夢帰塵Ⅳ
- 断夢帰塵Ⅴ
- 断夢帰塵Ⅵ
- 断夢帰塵Ⅶ
- 夜闌月隠
- プロローグⅠ
- プロローグⅡ
- プロローグⅢ
- プロローグⅣ
- プロローグⅤ
- プロローグⅥ
- 侵入者Ⅰ
- 侵入者Ⅱ
- 侵入者Ⅲ
- 侵入者Ⅳ
- 夢の漣Ⅰ
- 夢の漣Ⅱ
- 夢の漣Ⅲ
- 夢の漣Ⅳ
- 夢の漣Ⅴ
- 夢の漣Ⅵ
- 夢の漣Ⅶ
- 暗流襲来Ⅰ
- 暗流襲来Ⅱ
- 暗流襲来Ⅲ
- 暗流襲来Ⅳ
- 暗流襲来Ⅴ
- 暗流襲来Ⅵ
- 暗流襲来Ⅶ
- 落月無痕Ⅰ
- 落月無痕Ⅱ
- 落月無痕Ⅲ
- 落月無痕Ⅳ
- 落月無痕Ⅴ
序梦参差
胡蝶の夢Ⅰ
裂け目が揺れている、この万佛が混沌とした空間の中、幻の月は誰かを見つめていた。
胡蝶の羽ばたきは微かな気流を巻き起こし、連鎖で漣が立ち、無知なる者を深淵へと誘う。
巣穴の奥には、目に見えない細い糸が張られていて、夢見る者と胡蝶を狙っていた。
迎えるのは「破滅」かそれとも「新生」か、全ては約束の日に⋯⋯
???:また侵入者か……
???:我が美しい夢に、そのような不協和音は許されぬ。
見渡す限り広がる暗闇の中、夢見る者たちの囁きは泡沫のように破裂した。彼女は暫く黙ることにし、静まり返ったこの空間から無言の返答を聞こうとしている。
???:彼らを排除するのは……もちろんだ。
???:だが……
???:「世界」を滅ぼす方法は、たった一つしかない……
???:そうしなければならぬのか?
紡がれた低い声は怪しげに聞こえる。
???:わかった……
???:どうか怒らないで……私はただ、月が消えた日々に怯えているだけじゃ。
???:だが……貴方の言う通り、ここにいれば、たとえ月が消えても、私たちが離れる事はない……
???:ならばそうするべきじゃ、私たちが永遠に分かれる事がないよう……
???:新たな「世界」で、一緒に生きて行こう……
???:兄様……
夜
観星落
月のない闇夜に、赤い尻尾を持つ怪しげな星が過り、すぐに消えた。
屋根の上、寒ぶりは酒壺を抱えながら居眠りをしていた。目を開けたら、赤い残像が夜空の向こう側に微かに見えた。
寒ぶり:……西南に落ちたか。なんだこの忌々しい星象は、落ち着かない……
寒ぶり:まあいい、世話してくれた恩を返さないとじゃ……鯛のお造りに知らせてくるか。
「ドンドンドンッ!」お酒を持った寒ぶりは扉を力強く叩いたが、中から返事はなかった。
寒ぶり:なんだ、これで起きないのか?……おーい!鯛のお造り!起きろ!
お赤飯:首座さまは今朝早くから百聞館へ行かれました、とても慌てたご様子でしたよ。
寒ぶり:百聞館……?
寒ぶり:そうじゃ……わしの記憶が確かなら、百聞館は観星落の西南にあるじゃろ?
お赤飯:そうじゃ。
寒ぶり:おや……そんな偶然あるのか?そう言えば、急に星象を気にして欲しいと頼まれたな、何か裏があるのか……
お赤飯:寒ぶりさま……何を仰っているのですか?何か不都合でも?
寒ぶり:いや、なんでもない!明日になっても戻って来なかったら、わしが百聞館まで探しに行こう……ヒクッ--
お赤飯:その様子ですと……また結構な量を飲んだのですね、酔い覚ましを用意してまいります。
夜空には冴えない星がいくつかあしらわれている。寒ぶりは何か思い当たったのか、夜空の向こうを振り返り、すぐにお赤飯の後を追った。
胡蝶の夢Ⅱ
早朝
百聞館
生彩を失った花草や木々に囲まれている百聞館、寒い風が通り抜けている。とても人が立ち寄るような場所とは思えない。空気中には目に見えない妖しい暗流が蠢いている。
寒ぶりは迷路のような廊下を歩いている、カタカタと鳴る下駄の音が移動の速さを伝えた。何度か迂回を繰り返すと、目の前が開けた、そして浴衣を身に纏う男性が庭の中央に正座しているのが見えた。
寒ぶり:あんたは……
カステラ:おや?貴方も館主を訪ねに来たのか……だがお客人、申し訳ないが今日はこのまま帰ってもらうしかないようだ。
寒ぶり:館主?用があるのは彼女じゃない。
寒ぶり:わしは寒ぶり、観星落の者じゃ。昨日、鯛のお造りという者が百聞館を訪ねたはずじゃ、彼を見なかったか?
カステラ:そう……名前には聞き覚えはある。
カステラは顎に手を当て、真剣に考え始める。期待に満ちていた相手の顔が徐々に苛立っていくのを見て、彼は口角を上げた。
カステラ:申し訳ないね、ここ数日来訪者が多いから、よく覚えていないんだ……
寒ぶり:……
カステラ:もしかしたら、貴方のご友人も館主と同じように行方不明になったかもしれないね。
寒ぶり:行方不明?あの鯛のお造りが?あいつは幸運に恵まれている「吉兆」じゃ、そんなはずは……
カステラ:ふふっ、友だち思いの方だ。このような友人を持っているというのは、確かに幸運だ……
カステラ:それに比べてこの百聞館は……私以外、館主が行方不明になった事を、誰も気にしていない。
カステラ:可哀想な人形師は昏睡しているし、薬師は毎日薬草探しに夢中……喧嘩好きの女侍の姿も見当たらない……薄情者の集まりだな。
寒ぶり:延々と愚痴っているわりに、表情は楽しそうじゃな、「心配」なんてしてるようには見えないのじゃが。
寒ぶりの話を聞いて、カステラの優しい笑顔が一瞬仮面のように強張ったが、すぐに元に戻った。目の前の少女は腕を組み、堂々としている。カステラは目を細め、その瞳には意味深な光が過った。
寒ぶり:それなら別のところを探してみる、邪魔したな!
カステラ:待って……たった今思い出した……
カステラ:昨日、確かに鯛のお造りという客人が訪れた。しかし、その時には既に館主は行方不明になっていたんだ。
寒ぶり:今更?!おい、あんた……わしをからかってるのか?
カステラ:ふふっ……お許しを、私は少し忘れっぽいんだ。
寒ぶり:チッ、今時の食霊はそういうものなのか?若いのに色々と大変だな。
カステラ:……?
寒ぶり:コホンッ……本題に戻そう。で、鯛のお造りはあんたに何か言ったのか?その後はどこへ行ったんだ?
カステラ:貴方のご友人はとても頑固な方で、私の忠告に聞く耳持たず、館主の居場所を探りに百聞館に入って来た。
カステラ:それから……彼の姿は見ていない。
寒ぶり:まさか、まだここにいるのか……?
寒ぶり:そう言えば、百聞館に近づいてから何かおかしな力の波動を感じた、あれは気のせいじゃないというのか。
寒ぶりは地面に座り込み、複雑な印を結ぶ、すると地面に青い光を放つ輪が現れた。
カステラ:貴方は一体……?
寒ぶり:シーッ、喋るな、気が散る。この法陣で力の波動を探ってみよう。
カステラ:邪魔したい訳じゃない、貴方……私の浴衣上に座っているんだけど。
寒ぶり:……
胡蝶の夢Ⅲ
しばらくすると、青い光は複雑で奇妙な模様を示し、そして徐々に消えていった。何か確信を持った寒ぶりは、枯れ木が乱立する中庭の奥を見た。
寒ぶり:あそこは?
カステラ:そこか……突き当たりに、館主の和室がある。
寒ぶり:力が混沌としている。だが一つだけ……そこに鯛のお造りの気配があるのは確かのようじゃ。
カステラ:という事は……貴方のご友人はあの和室にいるのか?それはありえない。
カステラ:館主以外、誰もあの和室に近づく事は出来ない、あそこには結界がたくさん張られているんだ。
寒ぶり:ほお?近づいちゃいけない部屋か、秘密の匂いがプンプンするな。
寒ぶり:わしに解けない結界なんぞにまだ出会った事はないのお、そこまで言うならより気になって来たのじゃ!
カステラ:ちょっ……!
寒ぶりは風の如く雑草が生い茂った道に飛び込んだ。それを見て眉をひそめたカステラは、とっくに消えてなくなった法陣の跡をチラりと見て、彼女の後を追った。
枯れ木や雑草の間、寒ぶりの赤い着物はまるで蝶のように、悠々と岐路ので舞っていた。しばらくすると、彼女の肩が軽く叩かれた。
寒ぶり:おっと!
カステラ:……道を間違えているよ。
寒ぶり:あんたか、ビックリしたのじゃ。
カステラ:案内する。
寒ぶり:それなら早く言ってくれ、感謝する!
寒ぶり:しっかしこんなにも岐路があるとはのう、しかも全部一緒に見える。もしかして……ここも館主が作った結界があるのか?
カステラ:ふふっ……いや、百聞館の地形が方向音痴にとっては複雑なだけだよ。
寒ぶり:おいっ!今なんて言った!
カステラ:着いたよ、この先だ。
雑草をかき分けた先に、一見普通な和室が現れた。だが、周りには黒い瘴気のようなものが漂っている。
寒ぶり:間違いない!力の波動が……一層強くなった!
寒ぶり:この程度の結界か、朝飯前じゃ!小僧、そこで見てろ。
寒ぶりは素早い動きで、独特な印を結んだ。すると青い光が溢れた。
すると、黒い瘴気は瞬時に消え、雑草も地にひれ伏した。古ぼけた和室の襖がギーッと音を立てて開くと、中は外見と違って綺麗だが誰もいなかった。
カステラ:どうやら……ご友人はここにはいないようだ。
寒ぶり:待て……結論を出すにはまだ早い。結界は……一つだけではない!
寒ぶりは目を瞑り、蝶のように素早く動く手で、印を結びながら古い呪文を唱え始めた。
すると、和室に桜の木と鳥居らしきものが徐々に姿を現した。一枚の花びらが風に乗って怪しい曲線を描きながら空を舞っている。
カステラ:あれは……なんだ?
寒ぶり:力が変わった……違う!早くここから離れろ!
一瞬の内に、桜が乱舞し、天地が逆転した……空に裂け目が現れ、強い光が差し込み、天地の色が消える。
しばらくすると、全てが元に戻った。和室の襖は固く閉ざされ、二人の姿はどこにもなく、ただ一枚の花びらだけがまだ宙を舞っていた。
幻魔繚乱
花にして花に非ずⅠ
祭りの夜
百聞館
黒雲が明月が遮る、桜の木々の間に、飛んでいる胡蝶の影が僅かに見える。遠くから足音が聞こえてきて、提灯の微かな明かりが蝶の眠りを妨げた。
あん肝:薬師、そこに……変な物がある。
ふぐ刺し:コホッ……あれは……カステラ?どうして彼は……女の子と一緒に寝ているんだ?
あん肝:だっ、だから一日中見かけない訳だ。
ふぐ刺し:ちょうどいい……ケホコホッ……彼を呼んで、一緒に月祭りに行こう。
寝ている者を起こすのは簡単な事ではない。仕方なく、ふぐ刺しはカステラの頬を叩いて彼を起こそうと試みた。隣にいるあん肝は緊張で提灯の柄を強く握りしめる。
幸いカステラは基本的に優しいため、頬を叩かれたぐらいで怒ることはない。それを思い出して、あん肝はホッとした。
カステラ:あれ……薬師?私は今……百聞館にいるのか?
あん肝:何を……何を言ってるんだ?薬師、カステラの様子がおかしい……
あん肝は囁くように呟いた。彼が抱えている雛子という名の「少女」はいつもの我儘を言ってこない、まるでただの古ぼけた人形にしか見えない。
「ヒューンッ!バンッ!」音と同時に、夜空に花火が咲いた。彩光によって幻惑な明月がより一層引き立って見えた。
カステラ:……空で輝くあれは、なんだ?
カステラ:月……?!
寒ぶり:うぅ……頭が痛い……
隣の少女はこめかみを押さえながらゆっくりと立ち上がる。月明りにつられて空を見上げると、彼女は訝し気にその懐かしい輝きを凝視した。
寒ぶり:月?!……嘘じゃ!本物の月なのか?!
ふぐ刺し:貴方たち……ケホッ、何故月を見てそんなに驚いているんだ……
あん肝:薬師、もうそろそろ花火が終わる、私たちもそろそろ出かけないと。
ふぐ刺し:確かに。ゴホッ、カステラ、そちらの……ご友人も、祭りに誘ったらどうだ?
カステラ:祭り……?
───
祭りの夜
町
気付いた時には、カステラと寒ぶりは既に町まで連れ出されてしまった。彼らの目に映ったのは月の名が冠された大きな祭りだ。賑やかな町に巨大な山車が通る。
寒ぶり:ここは……一体何が起きているのじゃ……
寒ぶり:目覚めた場所はあの和室に違いないのに……なのに和室は訳もなく消えた……
寒ぶり:おいっ!聞いているのか?
カステラ:ああ……月は、確かに綺麗だ。
寒ぶり:なんだよ……
月見団子:その通りです……月は、世界で一番美しいものです。
寒ぶり:月兎……?
月見団子:観星落の大博士……お久しぶりです。
寒ぶり:うぅ、だからそう呼ぶなって何度も言ったじゃろ……
月見団子:ふふっ、どうしてですか?この称号に相応しい者は貴方以外存在しません。そう言えば、首座様は今も昏睡しているのですか?
寒ぶり:昏睡?あいつ見つかったのか?
一陣の風が蝋燭を吹き消したかのように、一瞬だけ輝かせた目はすぐに淀んだ。なにかを思いついたか、月見団子はポツポツと答えた。
月見団子:心配しないでください……幸運に恵まれているあの方でしたら、きっと危険を無事に乗り越えられるでしょう。
月見団子:それに、輝夜様のご加護もありますし。
寒ぶり:輝夜様?待って……
寒ぶり:月兎……今が何年何月か教えてくれないか?
月見団子:……望之暦、蘇生十五日ですよ。
寒ぶり:?!
カステラ:望之暦……?
月見団子:ふふっ……時間や暦法に、何か問題でも?
話をしていると、前方の提灯の合間を縫って、着物を着た赤毛の女性がやって来た。なんだか眉をひそめている。
ホッキガイ:月見、ここにいたのか。
ホッキガイ:明太子がそちを探すと言ってどこかへ行ったぞ、見てないか?
月見団子:うちのボスは相変わらず落ち着きがないですね、私も一緒に探しに行きます。
寒ぶり:ちょっ……!
月見団子:お二人も早く帰って休んでください。月の輝きの下、きっと良い夢が見られますよ……
花にして花に非ずⅡ
望之暦、歌や古記にしか記されていない旧世紀だ。遠い夢のように儚くて美しい。
月光は万物を照らし、悪しき物を炙り出す。
民は祈る⋯⋯万古千秋、輝夜と共に輝く事を。
───
早朝
カステラの部屋
日差しが部屋まで降り注ぐ。一睡も出来なかったカステラの気持ちはとても複雑だった。
「トントントンッ」朝の静寂は襖を叩く音によって破られた。
カステラ:ふふっ、予想より早く来たな。
あん肝:カステラ……あんたの……あんたの友だちが道に迷ってたから、連れてきた。
寒ぶり:カステラ、百聞館の地形どうなってるんだ?ちょっと方向を変えただけなのに、道がわからなくなった……人形師のお兄さん、今回は助かった!
あん肝:どっ、どういたしまして。
あん肝はぎこちなく無気力な「少女」を抱きしめ、慌てて部屋を出た。
寒ぶり:うむ……恥ずかしがり屋だが、案外親切な若者じゃのう。
カステラ:ふふっ……どうやら、貴方は表面的な事象に騙されやすいのだな。
寒ぶり:?
カステラ:彼の正体は……貴方が思っているより奇妙なものだ。
寒ぶり:おや、そうなのか?だがあんたが「奇妙」と言った奴は、あんたの事を「優しい」と褒めておったぞ。
カステラ:うーん……つまり、大半の者は表面的な事象に騙されやすいと言える。
寒ぶり:チッ、若いクセに難しい事ばかり言うな、可愛くないのう!
カステラ:……
寒ぶり:そうだ、今日来たのは戻るための相談をしに来たのじゃ。
カステラ:戻る……?
寒ぶり:月兎が言った事、あんたも聞いていただろう?わしらは今、望之暦にいるのじゃ……
カステラ:望之暦……月と輝夜様、その両者が存在した伝説の時代か。あの頃、私はまだ召喚されていない。
寒ぶり:そうじゃ……つまり、わしらは昨日、あの和室を通して、何百年も前に戻ってしまったのじゃ!
寒ぶり:まだ仕組みはわからないが……和室に現れた鳥居はきっと何か関係しているはずじゃ。
寒ぶり:元の世界に戻るには、まずあれを見つけないと!
カステラ:しかし、目覚めた時、あの和室は既に消えていただろう。
寒ぶり:いや!ほんの微かじゃが、あの力は確かに存在している。誰かの意思によって結界で隠されたのじゃ……
寒ぶり:だから、わしらで和室の本来の位置を探ろう、そして法陣で結界を破れるか試すのじゃ……もし結界があるならじゃが……
カステラ:私たち?
寒ぶり:そうじゃ!
カステラ:ふふっ、どうやら……早速私を仲間として見ているようだね。
寒ぶり:当たり前じゃ!なんせわしらは同じ世界からここに来たのじゃ、同じ苦境に陥った仲じゃろ、それに……
寒ぶり:あんたが道案内してくれないと、和室の位置がわからないのじゃ。
カステラ:ああ……二つ目の理由の方が合理的だな。
寒ぶり:……
カステラ:良いだろう……最初の和室を見つけられれば、この謎を解けるやもしれない。
カステラ:力を貸そう。
花にして花に非ずⅢ
数日後
百聞館
庭の桜は連日の雨でほぼ散ってしまった。カステラが曲がりくねった縁側を横切ると、痩せた薬師が薬草の畑で草むしりをしているのが見えた。
ふぐ刺し:カステラ、ゴホッ……ご友人なら朝一に来たよ、恐らくまた「いつものところ」にいるのだろう。
カステラ:ありがとう、ちょうど探しに行くところだ。
ふぐ刺し:ケホッ……あそこはただの荒れ地なのに、どうして毎日そこに通うんだ?
カステラ:薬師が薬草にこだわっているように、私たちにもこだわっている物があるんだ。
ふぐ刺し:なるほど……
ふぐ刺しはどうでもいい様子で、草むしりを再開した。切り取られた「雑草」は泥にまみれている。適当に投げ出されたそれをよく見ると、そのほとんどがまだ成長していない薬草の苗である事がわかる。
カステラ:薬師、実は気になることがあるんだが……
ふぐ刺し:……?
カステラ:薬師……貴方はいつ頃召喚されたんだ?
ふぐ刺し:随分前にだろう、あまり……覚えてはいないが……
カステラ:そうか……
ふぐ刺し:どうしてそれを?
カステラ:いや……ふと思ったんだ、食霊として……この時代に生まれて、なんて幸運なのだと。
カステラ:邪魔して悪かった……草むしりには集中力が必要だ、もし貴重な薬草を雑草と取り違えたら、取り返しがつかないだろう。
ふぐ刺し:もちろんだ、薬草は大事だから……ゴホッ、間違えたりはしない。
カステラ:……それは何よりだ、失礼する。
荒地
百聞館
寒ぶりの周りには生い茂った名の知らない草があった、彼女は何故かその中央に座っている。淡い青い光が彼女の周りで漂う、しばらくすると消えていった。
寒ぶり:ダメ……やはりダメじゃ。
カステラ:貴方に解けない結界がこの世に存在していたとは。
寒ぶり:ここには結界なんぞないのかもしれん……どの法陣も機能しないし、感知出来たはずの力もが消えた。
寒ぶり:もしかしたら……あの和室はこの時空の中に存在していないのか?
カステラ:あったはずのものが消えて、あるはずのない物がここに現れている……実に不気味だ……
寒ぶり:なあ、何をブツブツ言っているんだ。
カステラ:ふふっ……考えた事はないか?万が一本当に帰れなくなったら、ここに残るのも悪くないと。
寒ぶり:なんだ、さっきまで不気味だって散々言ってたじゃろ。
カステラ:不気味でも良いだろう……少なくとも、ここにいると月を見れる。
カステラ:戻っても、どうせあの月のない桜の島と共に「永夜」に葬られるだけだ。
寒ぶり:おい、まだ若いんだから悲観的になるな!わしがいる限り……違うな、観星落がある限り、「永夜」を全力で阻止してみせるぞ。
カステラ:観星落?こちらにいる首座様は昏睡状態に陥っているだろう……はぁ、元の首座様も行方不明になっていたし……数奇な運命だな。
寒ぶり:……鯛のお造りが昏睡に陥った原因も、そう単純なものじゃないだろうな。
寒ぶり:奴が纏っている力は明らかに怪しいものじゃった。それに、わしが近づくと消えてしまうから、陰陽術で探れもしない。
カステラ:はぁ……解けない謎がまた一つ増えたという事か。
寒ぶり:わしらが入り込んだせいで、時空の力に影響をもたらした可能性がある。
カステラ:……歴史にとって、私たちは塵の一粒に過ぎない、こんな大きな影響を引き起こせるのか?
寒ぶり:何を言っているんだ!たった一羽の蝶が海上で羽ばたいただけでも、津波を引き起こせるのじゃぞ。
カステラ:そうすると、今の私たちの一挙一動も、未来に影響を与えてしまっているのではないか?
寒ぶり:未来に影響を与える……これだ!
カステラ:また何を閃いたんだ?
寒ぶり:帰る方法がわからない今だからこそ、もっと有意義な事しなければならぬ!とりあえず、観星落に帰るぞ!
カステラ:足が速いな……元気だ……
カステラ:……どうして、一つの事にこんなにも熱中出来るんだ……実に……興味深いな……
花にして花に非ずⅣ
満月前夜
観星落
月明かりの下、満開の夜桜は照らされ、一層引き立って見える。屋上にはぼんやりと二つの人影が佇んでいた。
寒ぶり:あーあ……
カステラ:その様子じゃ……また失敗したのか?
寒ぶり:……
カステラ:そこまでこだわって何になる?ここでの生活もそこそこ楽しいだろう?別に帰れなくても……
寒ぶり:黙れ!絶対に連れて帰るから、バカな事を言うな!
寒ぶり:ここは現実と全く違う世界だという事を、忘れてしまったのじゃ……鯛のお造りも昏睡に陥っている今、「現世」と連絡を取る術がないのが……
カステラ:「現世」と連絡……?何をするつもりだ。
寒ぶり:……月食を知っているか?
カステラ:月が消えたと噂される……あの夜のことか?
寒ぶり:そうだ。ここが月食の前の時空なら、「現世」にいる誰かと連絡出来るはずだ。そうすれば、あの災難を食い止める方法も見つかるかもしれん!
カステラ:……どうやら、とんでもない秘密を共有してくれたみたいだけど。
カステラ:そこまで……私を信じているのか?
寒ぶり:当たり前じゃ!わしらは同じ災難に巻き込まれた仲間だろう!あんたは胡散臭いが、悪い奴じゃないのはわかる。
カステラ:……
寒ぶり:それに、美味しい酒を奢ってくれたじゃろう?
カステラ:ふふっ、それが主な理由だろう。
寒ぶり:へへっ、あんた飲まないのか?……そう言えば、この酒なんだかおかしい気がするのじゃが。
カステラ:薬師から貰ったんだ、変な薬草を使って作ったのかもしれないな……
寒ぶり:?!!……それは早く言え!ちょっと待て……あんた、わしを毒殺する気か!
カステラ:……
寒ぶり:おいっ、なんだその顔……カステラ!またわしを騙したな?!
笑いをこらえていたカステラも遂に我慢出来ず、珍しく心からの大笑いを見せた。
寒ぶり:まあいい……わしは大人じゃ、ちび助のした事には目をつぶろう。
寒ぶり:毒が無いのなら一緒に飲もう!あと、笑った方がいいぞ、ずっと仏頂面してんな。
明月は雲に覆われている、カステラは無言で一杯のお酒を飲み干すと、自分とお酒を酌み交わした少女が既にほろ酔いになっている事に気付く。まるで何も心配事がないかのように、いつもの堂々とした笑顔を見せていた。
遠くからの足音が二人の会話を遮った。音がする方を見ると、お赤飯が提灯を下げて客人に道案内をしていた、どうやら何か話をしているようだ。
月見団子:失礼します……
お赤飯:いいえ……首座さまの事を思ってくれてありがとうございます……足元に気をつけて、お帰り下さい。
月見団子:大丈夫ですよ……明日の月祭りが無事に終えれば、輝夜様のお恵みが首座様を祝福してくれるはずです。
お赤飯:だといいのですが……
寒ぶり:月祭りだと?!
少女の声は静かな夜にとりわけ高らかに聞こえてくる。お赤飯と月見団子が屋上の方を振り返った時、紅い人影が既に目の前に来ていた。
寒ぶり:月兎、明日が月祭りだと言ったか?何か間違っていないか?!
月見団子:明日は確かに月祭りが開催する日ですよ。
寒ぶり:そんな訳あるか?!月祭りは年に一度しか開催されない、だが……先週開催したばかりじゃろ!
お赤飯:寒ぶり……また飲みすぎて酔っぱらってしまったのですか?
お赤飯:いいえ……月祭りの開催は通常通りかと思います。
月見団子はただ静かに微笑んでいる。薄い雲間の奥、赤い尾を持つ星が曲線を描いて飛んでいたが、その場にいる者は誰も気付かない。
月見団子:月の満ち欠けは世間の不変なる法則です……博士、明日の祭りをどうか楽しみにしていてください。
花にして花に非ずⅤ
月食の夜
観星落
たまに招かざる客が訪れる夢の狭間と違って、虚無の深淵を満たすのはどこまでも続く暗闇だ。
寒ぶり:……誰?
???(鯛のお造りの影):百聞館……通路……
???(鯛のお造りの影):現実に……戻るのだ……
寒ぶり:鯛のお造り?!……あんたなのか?どこにいる?ここは一体どこだ?!
少女は畳の上でまだ深く眠っている、ひそめた眉と寝言からして……良い夢を見ている訳ではないようだ。
部屋に押し入ったカステラはかなり焦っている様子だった、顔にはいくつか切り傷が出来ている。
寒ぶり:あれ、傷……?何してきたんだ?!喧嘩でもしたか?!
カステラ:早くここから離れろ!ここは……堕神に囲まれている!
カステラ:月食は……予定より早く始まったんだ。
寒ぶり:いまなんて?!
夜空をつんざく程の悲鳴が惨劇の始まりを告げた。窓の外、恐ろしい黒い影が満月を蝕んでいる、万物を照らす輝きは……今にも幕を閉じようとしていた。
……月祭りの日に、初めての月のない夜が、始まった。
寒ぶり:ありえない……これは歴史に記載された月食の日ではない……
寒ぶり:違う……百聞館……通路?さっきのはなんだ、鯛のお造りがわしに何かを伝えようとしていたのか?!
カステラ:待て!あそこは今危険だ!行くなら私も一緒に行く。
荒地
百聞館
寒ぶりが法陣の中央に座り、集中していると。彼女の前には盾となっているカステラが堕神と激戦している。幸いなことに、弾丸は次々と襲ってくる堕神に命中した。
寒ぶり:あの力を……捉えた!
カステラ:これは……?!
黒い霧が立ち込める中、蜃気楼のように徐々に現れたのは見覚えのある人影だった。周囲の堕神たちが突然低く唸りながら退却していった。
あん肝:とっ、止まれ!そこに近づいちゃダメだ!
カステラ:……?
あん肝:止まって……輝夜様が……輝夜様が怒る!
寒ぶり:人形師の兄さん、やめるのじゃ!わしの首が締まる!
ドンッ--
鈍い音の後、あん肝はぐったりと地面に倒れた。カステラは不愉快そうに銃を仕舞う。
カステラ:……面倒くさい。
寒ぶり:だが……銃で殴る事もないだろう……
カステラ:あいつに構うな……それよりあれを見ろ!
カステラが指さす方に桜の木と鳥居が現れた……だが、予想していた時空の裂け目は現れなかった。突如として眩しい光が夜を貫く。
しばらくすると、「世界」は滅んだ。
花にして花に非ずⅥ
虚無の深淵
裏世界
胡蝶の羽は闇に染められ、その重さに耐え切れず、むやみに羽ばたいているだけ。夢の通路は迷宮のようで、一本道ではない。
聞き覚えのある呼び声は深淵の底に落ちた雫となり、一滴、また一滴と静謐な空間に響き渡る。
虚空の中、青い光は点滅し、ゆっくりと鯛のお造りの輪郭を浮かび上がらせた。
鯛のお造り:どうやら貴方も逃げきれなかったようだね……だが、法陣が機能してくれたお陰で、こうして貴方と連絡が取れた。
寒ぶり:待ってくれ……ここは一体どこじゃ?もしかしてわしは今何百年前の「黄泉」にいるのか?
鯛のお造り:何百年前の「黄泉」?いいえ、今いるここも本当の世界ではない。
鯛のお造り:ここは……館主の意識空間の中だ。
寒ぶり:意識……空間?つまり、わしらは館主の頭の中にいるのか?
鯛のお造り:そうだ、分かりやすく言うと、彼女の夢の中にいる事になる。
鯛のお造り:現実と夢を繋ぐ通路が、あの和室の鳥居の中にあるんだ。貴方もそこを通ってここに来たと思うが。
寒ぶり:確かに……あの日、カステラとあの裂け目に吸い込まれて、気付けば何百年前の「黄泉」と全く同じ場所にたどり着いたのじゃ。
鯛のお造り:なるほど、私は通路に落ちてからすぐこの虚無に辿り着いた。どうやら、この夢には少なくとも二つの異なる「世界」が存在しているようだ。
鯛のお造り:貴方の気配を途切れ途切れに感知はしていたが、法陣で連絡する事は出来なかった。
鯛のお造り:だが少し前、法陣の接続が急に良くなって、それに……微かだけど、通路からの力を感じた。
鯛のお造り:試しに貴方に伝言を送ったら、強烈な揺らぎが起こり、接続も切れてしまった。
寒ぶり:それだ!さっき鳥居を見つけたのじゃが、通路が現れなかった!それから強烈な力が急に噴出し、それに揺られて気を失ったのじゃ……
鯛のお造り:……どうやら、まだあの「世界」に閉じ込められているようだね。
青い光が揺らいでいる、鯛のお造りの姿も蝋燭の灯りのように歪んだ。
鯛のお造り:この法陣は長く持たない、通信がいつ切れてもおかしくない。
鯛のお造り:手短に話す。あの「世界」に戻ったら、どうにか……通路を探して。
鯛のお造り:私の推測では、私のいる場所は虚無だ、百聞館の実体はないため通路を開ける事は出来ない。だから、貴方に糸口を見つけて欲しい。
寒ぶり:わかった……そうだ、元は鳥居も見つけられなかったが、月食のせいで力が揺らいだため、法陣で結界を解除する事が出来た。もしかすると、これらには何か関係があるのかもしれぬ。
鯛のお造り:月食……?この件にはきっと私たちが想像している以上に複雑だ。
鯛のお造り:そう言えば、カステラも一緒に付いて来たと言っていたね。
寒ぶり:そうじゃ。
鯛のお造り:彼は百聞館の者だ、今回の事件は彼も無関係とは言えないだろう、情報の共有は控えた方が良い。
寒ぶり:彼は信頼出来る。
鯛のお造り:この期間で……かなり友情を深めたようだね。だけど、念のため、少なくとも当分の間は、私と連絡を取った事は秘密にして欲しい。
寒ぶり:わかった……約束しよう。今は、この夢から脱出する事が最優先だ、残りの事はここから出てからにしよう。
鯛のお造りは頷いたが、依然として眉をひそめ、困った顔をしている。いつもののんびりとした姿とは打って変わって、憂いている首座様を前に寒ぶりは何かを思い出していた。
寒ぶり:その表情……なんだかさっきまでいた「世界」の鯛のお造りを思い出す。
鯛のお造り:……?
寒ぶり:あの世界の「あんた」は昏睡しているが、眉間にずっと皺を寄せている、何か悪夢を見ているようだ。
寒ぶり:そして……「あんた」から二つの異なるおかしな力を感じるのじゃ……
これを聞いて鯛のお造りは表情を変えた、口を開いて何か言おうとした時、その姿はパッと消えてしまう。再びこの空間に暗闇だけが広がった。
花にして花に非ずⅦ
祭りの夜
百聞館
幾重にも重なる夢の世界では無数の道が分岐している、むやみに進むと、帰り道がわからなくなる。
顔を軽く叩かれた寒ぶりは、苛立ちながらも目を開けた。すると、視界に入ったのは見覚えのある星空と……傷だらけのカステラの顔だった。
寒ぶり:月食は……終わったのか?
カステラ:いいえ……月は消えていない。どうやら、もっと前の時間に戻ったようだ。
寒ぶり:?!
遠くない小道から微かに見える提灯の灯りが、薬師の青白い顔を照らす。
ふぐ刺し:コホッ、探したよ、月祭りはそろそろ始まる……
寒ぶり:月祭り?……まさか!
「ヒューンッ!バンッ!」音と同時に、夜空に花火が咲いた。彩光によって幻惑な明月がより一層引き立って見えた。
身に覚えのある光景、だが何か微妙な違いも感じる。
寒ぶり:違う……薬師、今日はあの人形師の兄さんは一緒じゃないのか?
ふぐ刺し:人形師の……兄さん?
寒ぶり:あん肝の事じゃ……あの声が小さくて、いつも人形を抱えている。
ふぐ刺し:貴方の覚え違いでは?百聞館にはそのような者はいない……
寒ぶり:……
ふぐ刺し:ゴホンッ……とりあえず、花火もそろそろ終わるとこだ。カステラと、その……ご友人も一緒に祭りに行こう。
カステラ:薬師、先に行ってくれ、すぐに追いつく。
ふぐ刺し:わかった……遅刻しないように、コホッ……でないと、輝夜様が怒るよ。
ふぐ刺しは提灯を持ってゆっくりと祭りへ向かったようだ。微妙な表情で彼を見送る寒ぶりを見て、カステラは口を開く。
カステラ:……行ったみたいだな。さっきから何か言いたげな顔をしているが……何かあったのか?
寒ぶり:カステラ、わしらが今いるこの世界は……現実じゃない、何もかもが偽りだ。わしらは館主の夢の中に閉じ込められているのじゃ。
カステラ:館主の夢……
カステラ:ここは数百年前の「黄泉」なんぞじゃない事ぐらいは気付いていた……なんせここのあらゆる物事が常軌を逸しているからね。
寒ぶり:そうじゃ、それにこの夢にも何か変化が起きているようじゃ……どこがどう変なのかはうまく言えないが……
寒ぶり:心配するな!一緒に現実に戻ると約束したからな!
カステラ:一緒に……
寒ぶりの言葉を聞いてカステラは目を輝かせた、まるで月の光が注がれたかのように。しばらくすると、彼は笑いながら首を振った。その表情は珍しく真剣なものだった。
カステラ:別に心配していないよ……ただ、こんな時に私の事まで考えてくれて、ありがとう。
寒ぶり:おっ、いきなりなんだ……そんな真面目な顔、なんだか落ち着かない!
カステラ:ふふっ……良い顔になった、さっきまで眉間に皺を寄せていたからね、まるで爺さんのようだった。
寒ぶり:爺さん?!ぷはっ……よく見抜けたな……
カステラ:……?
寒ぶりはすっかりご機嫌になったようだ。彼女は辺りを見回し、荒地に立つ。目を閉じると、力の波動を……先程よりも更にはっきりと感じ取れていた。
寒ぶり:あんたの言う通り、心配する事はない!すくなくとも、ここに戻れたという事は、あの通路をまた探れるという事じゃ。
カステラ:やはり、貴方は立ち止まったりしないのだな。
寒ぶり:何?
カステラ:いいえ、ただ……自分のひとを見る目は正しかったなと。
カステラ:貴方こそ、私が深く関わりたいと思う者だ。
寒ぶり:ぷはははっ……わしの長い人生で、食霊からそんな事を言われたのは初めてじゃ!
カステラ:わし……
寒ぶり:えっ……
カステラ:前から聞きたかったのだが、貴方はたまに妙な事を口走る……もしや、本当に爺さんなのか?
寒ぶり:……
カステラ:本当にそうなのか?では……その格好……
寒ぶり:おいおい、別に変な趣味とかないぞ!小娘の格好をしていた方が行動しやすいからのう!
カステラ:……女の子の格好をしていた方が危険が増すのでは?
寒ぶり:だから、危険なんぞより、もっと別の面倒事を避けたいのじゃ……
カステラ:例えば?
寒ぶり:はぁ、そんな話しているとせっかくの酒も不味くなるじゃろ!機会があればゆっくり話してやる。
寒ぶり:だが……さっきから眉間に皺を寄せて、もしやわしの年齢を聞いて嫌気がさしたんじゃ……
カステラ:いや、寒ぶりという名の食霊と交流したいだけだ、小娘ではない、嫌気がさすもなにもない。
寒ぶり:ははっ、やはりあんたは良い奴じゃ!
花にして花に非ずⅧ
数日後
観星落
早朝、荷物をまとめた寒ぶりは軽やかな足取りで中庭に入った。彼女の足音につられ、ポロポロと地面に落ちる桜の花びらを片付けている人たちは一斉に顔を上げた。
寒ぶり:ああ……
鏡餅:うぅ……寒ぶり姉さん久しぶり、こっそり一人で遊びに行っているの?
お餅:寒ぶりの姉御、一緒に花びらを集めようよ!姉御がね、桜餅を作るって!
寒ぶり:今日はダメじゃ、用事がある。
お餅:待って!寒ぶりの姉御!またあの百聞館に行こうとしているの?
寒ぶり:……
鏡餅:本当?あそこは変なひとばっかりらしいじゃん、寒ぶり姉さん……
お赤飯:最近、カステラという方とかなり親密になっているようですが……百聞館の者ですから、どうか気をつけてくださいね……
お餅:カなんとかラってヤツに騙されたから、遊んでくれなくなっちゃったの?!
寒ぶり:……いや、ちょっと忙しいだけじゃ。それに……カステラも悪者ではない、わしの友人じゃ。
風が吹くと、桜の花びらが舞い上がる。優しい笑顔を浮かべた男性がゆっくりと庭に入って来た。その浴衣にも雅な花があしらわれていて、桜よりも際立っている。
カステラ:皆さん、私の事をそこまで警戒する必要はないよ。
カステラ:ふふっ、待ち合わせ時間になっても来ないから、寝坊したのかと思って来てみれば……まさかここで皆さんとお喋りをしているとは。
カステラ:皆さんの邪魔になったのであれば、謝りますが。
お餅:おいっ、あなたががそのカス……カステラなのか?!寒ぶり姉御をイジめるなよ!わかってるな!
寒ぶりの背後から出てきたお餅は、大槌を目立つところに置き、敵意に満ちた目でカステラを睨んだ。
鏡餅:そうだわ!寒ぶり姉さんを悲しませたら、われも承知しないぞ!
カステラ:ふふっ……イジメる?悲しませる?寒ぶりを見くびっているようだな。
カステラ:まさかこんなにも人望があるとは……このチビッ子たちは皆貴方を守ろうとしているんだね。
寒ぶりは自分の前に出た二人を引っ張って、彼らの頭を撫でた。
寒ぶり:だから、カステラは信頼できる友人だ、イジメられないし、安心するのじゃ!
お赤飯:かしこまりました……桜餅をとって置きますから、早く戻って来てくださいね。
寒ぶり:……わかった、ありがとう。
二人が観星落を後にした頃、太陽は既に大地を照らしていた。寒ぶりが振り向くと、まだ小さな人影が見えた。彼女は参ったという表情で首を横に振った。
寒ぶり:おいっ、あんたもここの食霊たちは館主の意識が投影されたものに過ぎないとわかっているだろう、どうして彼らの言葉に構うんだ。
カステラ:だが……誰かさんは私よりも真剣に対応していただろう?口に出した言葉に責任を持ってもらわないと、本気にするよ。
寒ぶり:……
寒ぶり:えっ!待て!引っ張るな!百聞館に行くんじゃなかったのか?
カステラ:酒を飲みに行こう。
寒ぶり:酒?!おいおいっ、今日はまだ……
カステラ:一日くらい問題ない。それに気分が良い、奢るよ。
寒ぶり:気分が良い?……珍しいな。
カステラ:ふふっ、一番信頼できる友人だからな。
寒ぶり:ぷっ、だからか。ちび助……はぁ、誰も「一番」なんて言ってないぞ、テキトーな事を言うな!
カステラ:私にはそう聞こえた。
花にして花に非ずⅨ
夜
極楽
夜桜を照らす春の月、赤い欄干の間から芳醇なお酒の匂いと、三味線の清らかな音が聞こえて来る。
ほろ酔いの寒ぶりはカステラとお酒を交わし、空に懸かる月を見ながら感激していた。
寒ぶり:ここに来てから、今日ほど月をじっくりと眺めたことはなかったな……
寒ぶり:確かに、こんなに美しい月光を見たのは久しぶりじゃ!
月見団子:そうですね……このように美しい月を、もっと大事にしないといけませんね。
いつの間にか、月見団子が二人の前に現れた。顔には相変わらずの優しい笑みを浮かべている。
寒ぶり:月兎……?
月見団子:またお会いしましたね、博士。
寒ぶり:また……?
月見団子:……どうやら博士は忙しいためか、色んな事を忘れているようですね。
月見団子:極楽の酒は十分美味しいが、月祭りの良酒には敵わない。博士は毎回泥酔するまで飲んでいましたね……
カステラ:一緒に飲みたければ座るといい、立ったまま喋るのは疲れないのか。
口角を上げて微笑んでいるように見えるが、彼の瞳には冷たい炎が燃えている。月見団子は彼に視線を送り、ゆっくりと頷いた。
月見団子:どうやら……博士はお忙しいようですね、失礼します。
月見団子:お二人の邪魔をして申し訳ございませんでした、ごゆっくり。
寒ぶり:こいつ……現実の月兎よりも腹立つな。
寒ぶり:それに、さっきの「また」というのはどういう事だ?新しい「世界」に入ってから、彼に会うのは初めてだよな?
カステラ:彼に構わなくていい……飲もう。
寒ぶり:はぁ、そう言えば……あんたらの喋り方若干似てないか?回りくどくて、意味深。
カステラ:……
寒ぶり:だが、月兎の方がよりそうじゃ……
カステラ:ふふっ……つまり、私の言葉の意味はすぐにわかるということか?
寒ぶり:こんな事にいちいち突っかかるような奴じゃないだろう……わかりやすいというか、あんたの事をもっと知りたいからじゃな。
カステラ:博士はどうしてこんなにも自信があるんだ?
寒ぶり:ケホッ……「博士」はやめろ、ちび助……あいつの真似をするな!
寒ぶり:それに、これは自信なんかではない、あんたを信じているのはわしらの間に情があるからじゃ、命の危機を共に乗り越えた仲じゃからな!
カステラ:情……そんな物よりも、この酒のおかげなんじゃないか?
寒ぶり:わしを見くびるな、わしが飲んだ事のない酒などない、酔うのももってのほかじゃ。
カステラ:博士は自信に満ち溢れているようだ。年齢が高くいくにつれて、酒は弱くなっていくものだ。
寒ぶり:そっ、そんな事ある訳がない!ちび助!今夜は酔っ払うまで帰らせないからな!
月華は夜という杯に溶けていく、優美な旋律が二人の鼓膜を優しく撫でる。お酒で顔が真っ赤になった寒ぶりは不満そうに手を振って抗議しているのを、隣のカステラはただ微笑んで見ていた。
さほど遠くない荒涼とした山道の中、月見団子は歌舞伎町の賑やかな灯りを振り返り、一人で佇んでいた。
月見団子:どうやら、「門番」の子はきちんと隠れているようですね。
月見団子:「探し物」はここにもないようです。
譫言変奏Ⅰ
虚無の深淵
裏世界
酩酊と夢は紙一重。肉体に囚われている魂はこの時だけ、檻から解放される。
重い瞼を開けると、虚無の中に青い光が漂っていて、ぼんやりと二人の輪郭をなぞって示してくれる。片側の楕円形の水鏡に、青髪の青年が映っている。
最中:うおっ、やっと成功した!寒ぶり、鯛のお造りと何回試したかわかるか!
寒ぶり:鯛のお造り?!それと最中も?!法陣が機能しているのか?!さっきまで飲んでいたはずじゃが……
最中:飲んでいた?……はぁ、寒ぶり、向こうの「世界」で楽しい生活を送っているようだな。
寒ぶり:ゴホンッ……前回の通信以来、もう一つの新しい「世界」を見つけ、月祭りの当日に戻れた。あれからずっと鯛のお造りと連絡を取るよう何度も試したが、失敗した。
寒ぶり:それと同時に「月祭り」に関するあらゆる情報も調査しているが、収穫はない。
最中:飲んでいたという事は、寒ぶりの性格からして、きっと酔っ払って寝込んでいるのだろう?
寒ぶり:よくわかっているな……飲むと決めたら、酔うまで帰らないに決まっておるじゃろ。
鯛のお造り:当たりだね。
寒ぶり:えっ?
鯛のお造り:法陣が機能した二回とも、貴方は夢の中かもしくは昏睡中だった。おそらく、その状態になることでしか、私がいるこの虚無に接続できなかったのだろう。
鯛のお造り:まさしく、貴方がいる「世界」で眠っている私のように……
寒ぶり:まさか……あんたの言ったことが確かなら、あの世界の「あんた」は館主が作った虚像ではないということか!
鯛のお造り:そうだ、あれは私の本当の「肉体」のはず。そして私の意識は「世界」の深層、この虚無に飛ばされているという事だ。
寒ぶり:だからあの鯛のお造りから、対立している二つの力を感知したのか、肉体と魂が分かれている事が原因だったとは……
鯛のお造り:前回この事について話していたから、この結論を導き出せた。
寒ぶり:……という事は、あんたは今館主の夢の中で夢を見ているが故に、夢の深層に辿り着いたという事なのじゃな。
最中:夢での力の波動が頻繁になっているのもそれが原因らしい、だから夢の中からここに接続出来る可能性も大いに上がっているんだ!
寒ぶり:なるほど!法陣が機能する条件がわかれば、陰陽術で少し改良し接続を安定させる事で、より頻繁に連絡が取れるな。
鯛のお造り:これが良い知らせだ、でも悪い知らせもある。
寒ぶり:悪い知らせ?
鯛のお造り:肉体と魂が分かれているせいか、自分の霊力が段々と弱まっている感じがする。恐らく、肉体も同じように衰弱しているだろう。
寒ぶり:?!
鯛のお造り:通路を再度開ける件については、貴方に頼むほかないようだ。もう少し急いで動いた方が良い……
鯛のお造り:しかし、あまり心配しすぎる必要はない。きっと……最悪の状況でも、幸運に恵まれている私ならきっと乗り越えられるだろう。
寒ぶり:わかった……安心してわしに任せ……
言い終わらないうちに、青い光が揺れ、通信が途切れてしまった。鯛のお造りと最中はお互いの顔を見合わせる。
最中:どうやらまた誰かに「起こされてしまった」ようだな……
譫言変奏Ⅱ
最中:どうやらまた誰かに「起こされてしまった」ようだな……
鯛のお造り:彼女の陰陽術の腕ならば、すぐに連絡を取る方法を見つけられるだろう。私たちにはまだ他に解決しなければいけない問題がある。
最中:待ってくれ……霊力が弱まっている事を何故私に言わなかった?
鯛のお造り:必要でなければ言わなくても良いと思ったんだ。私にとって大した事じゃないから、貴方たちに教え悩ませたくはなかったから。
最中:おい!大した事じゃないって……早く教えてくれれば一緒に解決策を見つけてやったのに!
鯛のお造り:大丈夫さ、私は私の幸運を信じている、私は生まれながらの吉兆だからね。
最中:……
水鏡には最中の顔が映っている、固く結ばれた唇はその心を表しているようだ。それと比べて鯛のお造りはただ彼を慰めているように微笑んだ。
鯛のお造り:最中、貴方と寒ぶりは例えこの世界が滅んでも、憂う事がないだろう。そのままの貴方たちでいて欲しいんだ。
最中:君というヤツは……こんな大事になっているのに、何故まだのんびりしていられるんだ……はぁ、まったく。
最中:まあいい、安心しろ、私と寒ぶりでなんとかする……その「他の問題」ってのはなんだ?
鯛のお造り:寒ぶりが言っていたんだ、旧「世界」の鳥居が現れ、月食が始まったと。
鯛のお造り:当時、ここにも尋常じゃない力の揺らぎ起きた。その力の欠片をいくつか集めたんだが……
そう言って、鯛のお造りは手にあるものを見せた。手のひらに濃い赤色の結晶が数個、まるで血の雫にようだ。
最中:これは……?
鯛のお造り:この中には記憶のようなものが保存されているようだ。
鯛のお造りが手の平に複雑な結界を描くと、結晶は空気で出来た透明な水晶玉に包まれた。彼が呪文を唱えると、水晶玉の壁にはおぞましい光景が浮かび上がった……
月光は闇に呑まれ、万物が慟哭し、血の河が全てを埋め尽くす。疫病は燃え盛る炎のように、逃げ惑う生き物を狩る。闇夜の呪いは、人間にも食霊にも等しくあった。
鯛のお造り:これは百年前……本当の月食の夜の記憶だ。
最中:月食の夜は……こんなんだったのか……
鯛のお造り:もう何百年も前の事だけど、再び目にすると、昨日の事のように思い出せる。
最中:……「百鬼」らの気持ちが、ほんの少しだけわかったような気がする。
鯛のお造りは何も言わず手のひらで水晶玉を覆い、そっと握るとさっきまで見えていた光景は雲のように消え、再び赤色の結晶となった。
鯛のお造り:盲目の復讐は逆効果をもたらす、そんな事をしてはいけない。
最中:君の言う通り……少なくとも、私たちは今正しい道を進んでいる。
鯛のお造り:これらの記憶こそ、館主が月食の夜を再現する源……この中には「破壊」の力が満ちている。
最中:つまり、寒ぶりがいる「世界」を滅ぼすためか……それか侵入者が標的か?なんにせよ、この計画は明らかに成功していないようだな。
鯛のお造り:ええ、月食の再現は館主の夢にも影響を及ぼした。やはり……彼女自身もその歴史を体験しているのだろう、だからあの夜になると夢の力は乱れてしまう。
最中:その場合……あの鳥居は館主によって意図的に結界に隠されていたとしたら、月食の夜が一番綻びが出やすいという事か。寒ぶりならきっとその隙を見逃さないはずだ!
鯛のお造り:そうだね、しかし、前回の状況からすると、鳥居の通路が再び開く前に寒ぶりはすぐに別の「世界」に巻き込まれてしまったようだ。
最中:大丈夫!法陣の接続が安定してきたら、次の月食の夜、彼女と共に結界を解けるはずだ。
最中:事前に法陣の準備を整えれば、三人の力で通路を見つける事ができるはず。
鯛のお造り:だが、もう一つ問題がある。もし館主も月食の夜が夢の世界に及ぼした影響に気づいたら、もう簡単にあの通路は使えないでしょう。
最中:確かに……
水鏡越しの最中は顎を支えながら考え込んでいる。視線が鯛のお造りの手にある決勝に辿り着いた時、何かを閃いたようだ。
最中:……考えがある!月食を待つより、先手を打とうじゃないか。
最中:私達は今夢の深層にいるなら、これを利用して「世界」に影響を与えるというのはどうだ?
水鏡の向こうからコンコンと誰かがドアを叩く音が聞こえて来る。
譫言変奏Ⅲ
夜
百聞館
桜の大半が散った頃、木の下で、それぞれの目的を持つ二人は机の前に座っていた。
カステラ:月見、夜中に訪ねて来るなんて、「お月見」に付き合ってくれというだけではないだろう。
月見団子:ふふっ……明月には酒は欠かせません。ちょうど崇月の清酒を持っているのですが、一杯いかがですか?
カステラは、どんよりとした光を放つ欠けた月を見上げ、口角を上げた。
カステラ:酒は結構だ。貴方と酒を交わす気分ではない。
月見団子:そうですか……この酒がお気に召さないのですね。
カステラ:いや、元々酒はそんなに好きではないんだ。
月見団子:どうやら、あの方は貴方にとって大切なようですね……いつも楽しそうに飲んでいるじゃないですか。
月見団子:だが……「飲み友達」選びには気を付けた方が良いですよ。
その一言の後、月見団子は杯にお酒を注いだ。カステラに軽く一礼すると、一気に飲み干した。
カステラ:その台詞そっくりそのまま返すよ。目の前の者が「飲み友達」に相応しいかどうか、きちんと見極めないと。
月見団子:どうやら、私と手を組む気はないようですね。
カステラ:相性が良くなければ、どんな酒でもまずくなるだろう。
月見団子:では、あの方となら相性が良いという保証はどこにありますか?
カステラ:貴方の言う通り、彼女は私の「友人」だ、私たちは……困苦を共にしている腐れ縁にすぎない。
月見団子:困苦を共にした相手は確かに大事です……しかし、道同じからざれば相為に謀らず、という言葉もありますからね。
カステラ:……
月見団子:私の情報が確かなものであれば、観星落側の主張は貴方のとも私のとも、かなり掛け離れたもののようです。
月見団子:貴方たちが対立した時、彼女が貴方という「友人」を取るか、それとも自らの「道義」を貫くか、誰が保証出来るでしょうか。
桜の枝がそよぐと、花びらもポロポロと落ちてくる。月見団子は手にした杯をいじり、目の前の人物が自分の予想通りの怪訝な面持ちを見せて来たのを見ていた。
カステラ:ふふっ……なら貴方はどうやって私たちの主張は一致していると保証するのか?
月見団子:わかっています。貴方と私はあの「黄泉」と呼ばれる場所に嫌悪感を抱いているという事を、そしてあの土地にいる人間に対してもです。
月見団子:私たちは……月が空に在る桜の島に戻るべきです。
カステラ:貴方が言いたいのは、神器を破壊して、「黄泉」と「現世」を逆転させるという方法だろう。
月見団子:……いやはや、予想よりも情報通のようですね。
カステラ:ふふっ……回りくどい者を相手にする時はずばり言わないと疲れると、誰かさんのおかげでわかってきた気がするんだ。
カステラ:むしろ、私とどう「協力」したいのか、はっきり言ったらどうだ。
月見団子:それなら、単刀直入に言わせてもらいます。
月見団子:当初、全ての神器を発見したと思っていたのですが、最近になってもう一つ見逃していた神器がある事に気づきました……
月見団子:それはとても特殊な神器で、輝夜様が意図的に作った物ではない可能性が高いです。
カステラ:その神器を探す手伝いをして欲しいと?
月見団子:そうです、その神器は今この夢の世界に隠されているようなんです……それを見つけられれば、私の計画も進む事でしょう。
月見団子:そして、「現世」に戻れる日も近いです。
カステラは顎に手を当て、真剣に考え始めた。短い沈黙の中、夜風の音しか聞こえない。
カステラ:残念ながら、昔の私なら、貴方の提案に乗っていたかもしれない……
月見団子:……
カステラ:しかし今の私は、「現世」に戻ることにこだわっていない。
カステラ:この場所で、私は欲しい全てを見つけたからね。
譫言変奏Ⅳ
昼
観星落
カステラは自分の家に帰るかのように観星落に入った。しかし、寒ぶりの部屋の前に辿り着くと、大槌を持ったお餅に呼び止められた。
お餅:寒ぶりの姉御なら今日用事があるから、客人の相手はできないよ!
カステラ:私は客ではない。
お餅:来るな!!!一歩でも近づいたら、手を出すからね!
カステラ:ふふっ、子どもをいじめるのは趣味ではない。
お餅:誰が誰をいじめるか、まだわかんないんだから!
カステラ:どうしてもと言うのなら、やってみたらいいよ。
「ギーッ」と、襖が少しだけ開いた。寒ぶりは中から頭を出して、とても不愉快な表情を見せている。来客を確認すると、やっと眉間の皺が少しだけ緩んだ。
寒ぶり:やけにうるさいなと思えば、あんたか、どうしたのじゃ?
お餅:寒ぶりの姉御!あいつに邪魔しちゃダメって警告したのに、ずかずかと入って来ようとしているの!
カステラ:見張りまで頼んで……何をコソコソしているんだ?
カステラ:襖も開けてくれない……まさか、その部屋に何か秘密でも隠されているのか?
寒ぶり:べっ、別に何も隠しておらぬ!えええっ、ちょっと、勝手に開けようとするな!
お餅:やめろ!早くやめてってば!
襖が力強く閉じられる前、カステラはチラっと中を覗いた。たくさんの儀式用具が散らかっている部屋から、後ろめたそうな寒ぶりの声が聞こえてくる。
寒ぶり:すまないカステラ、今日はその……ちょっと気分が悪いのじゃ!また後日飲みに行こう。
カステラ:……わかった、では今日は失礼するよ。
カステラ:ガキ、見張りは頼んだぞ。
お餅:フンッ!ずかずかと入ってきたのはそっちじゃんか!図々しい奴め!
ようやく外が静かになり、寒ぶりは再び腰を下ろし、印を結んで自分の心臓に当てた。すると、彼女はすぐにゆっくりと深い眠りについた。
虚無の深淵
裏世界
鯛のお造り:……聞こえてはいるが、映像がどうも安定しないようだ。先程どうして急に通信が途切れたんだ?
寒ぶり:なんでもない、もう解決した。
寒ぶり:この催眠秘法はとても古い陰陽術じゃ、それを法陣と組み合わせてみた……こんな事をした陰陽師はわしが初めてじゃろ。
寒ぶり:今はまだ慣れていないが、あと何回か練習すれば安定するじゃろう。
鯛のお造り:流石寒ぶりだ、たった数日で通信方法を確立するとは……私の想像を遥かに超えているよ。
寒ぶり:あんたの「体」に関わるからな、この数日間一秒でも惜しいぐらいだ。
寒ぶり:そうじゃ。先程言った、月食の発生を加速する方法……わしにも何か手伝えるか?
鯛のお造り:あの力の結晶に保存された記憶を使って、この深層世界に影響を与える方法は確かに効いている。
鯛のお造り:しかし、この力を制御するのは容易ではない。そうだな……外の「世界」を観測していて欲しい、異変が起きたらすぐに知らせて。
寒ぶり:……わかった。
鯛のお造り:うまくいけば、月食はすぐに発生するだろう。
鯛のお造り:月食の夜、時間通りに百聞館へ行って法陣の準備をして。全てを整えたら、最中と私に連絡をして欲しい。三人で力を合わせて通路を開けよう。
鯛のお造り:通路は向こうの「世界」が破滅する寸前にしか開かない、本当に一刻も争う事態になるだろう。
寒ぶり:問題ない!わしら三人の陰陽術さえあれば、絶対成功する!
鯛のお造り:はい。
青い光に照らされて、鯛のお造りはやっと表情を緩ませ、安堵の笑みを浮かべた。
譫言変奏Ⅴ
神社鳥居
百聞館
闇夜に包まれている荒地に、鳥居がそびえ立っている。鳥居越しに人の形をした何かが揺れている。
???:侵入者共は懲りないようじゃ……
月見団子:ええ、最近寒ぶりは各地で法陣を仕掛けているようです。恐らく、何かを企んでいるかもしれません。
???:まだ諦めていなかったのか……
???:この夢は……ますます不安定になっている……彼女の仕業やもしれぬ……
月見団子:他人の夢を邪魔するとは、実に失礼極まりないですね……安心してください、彼女の動向は随時監視しています。
???:そう……他の侵入者も貴方のように大人しくしてくれたら、この夢ももっと美しくなるのに……
月見団子:それぞれに長所があります、それで平衡が保たれているのです。
???:ふふっ……
月見団子:しかし……貴方の「門番」の姿は、一向に見当たりませんね。
月見団子:月食の夜の後、寒ぶりたちと同じようにこの「世界」に入ったはずです。しかし、あらゆる場所を探っても、どこにもいないみたいです。
???:あいつか……
???:本来なら、彼はまだ夢の中にいるはずじゃ……
月見団子:ここにいないという事なら、もしや夢の中に存在する他の「世界」にいるのかもしれませんね。
???:ありえぬ……この夢は私自らの手で築いた世界じゃ……私が感知出来ぬ「世界」が存在する訳がない。
???:月見……全ての権限を開放すると約束した以上……もう隠す必要はない……
月見団子:ふふっ……決して私たちの約束を疑っている訳ではありません、あの子の事です、隠れるのが上手なだけかもしれませんね。
目を瞑り、荒地の中央に立つ月見団子は、息を潜めて何かを待ち伏せているようだ。物が一切なかったはずの空間から、突然草むらを歩く音が聞こえて来た。
月見団子:招かれざる客のご登場……ですね。
???:また侵入者か……月見よ、今日はこの辺にしておこう……
月見団子がゆっくりと目を開けて振り向くと、自分の後頭部を見据えているカステラがいた。彼の服は夜風でなびいて胡蝶の翼のように見えた。
カステラ:ふふっ……月見、今日も「お月見」か?
月見団子:ちょっと話をしたかったのですが、貴方がもう寝ているかと思い、一人で散策していたところ、気づいたらここまで来てしまいました。
カステラ:私と一体どんな話をしようとしていたんだ……
月見団子:興の赴くままに来て、興が尽きれば帰る。ほんの気まぐれでしたので、何の話をしたかったのかさえ忘れていますよ。
月見団子:月を見上げていたら、眠くなりました、では私はこれで。
カステラ:……また。
月見団子が去った後、カステラは荒地のある一点をじっと眺めた。
カステラ:まだいるようだね。
カステラ:……
カステラ:取引をしないか。
譫言変奏Ⅵ
数日後
観星落
午後は、蒸すような熱気が立ち込めている。庭の緑は日頃の世話を感謝するように、日陰を作ってくれた。お赤飯とお餅は紙製の提灯を屋根に吊るすのに忙しそうだ、この和気藹々な雰囲気を破ったのは招かれざる客だった。
お餅:おいっ!また来たのか!
頬を膨らませているお餅を見て、お赤飯は彼の頭を優しく撫でた。
お赤飯:お餅、寒ぶりは彼のことを友だちだと言っていたでしょう?なら私たちもそれなりのおもてなしをしないといけませんよ。
お餅:わかったよ……姉御がそこまで言うなら……フンッ、入れ!
カステラ:どうも。
お赤飯:寒ぶりはまだ取り込み中のようです、急ぎの用件がなければ、しばらくお待ちください。
カステラ:最近ずっと会っていないんだが、何をそんなに忙しくしているんだ?
お赤飯:首座さまのために……
お赤飯:首座さまは長い間昏睡状態にあります、体も徐々に弱ってきています。幸い寒ぶりは非常に博識で、一時的に首座さまを安定させる方法を見つけたようなのです。
カステラ:……
お餅:寒ぶりの姉御の陰陽術が一番すごい!姉御、心配しないで!首座様はきっと元気になるよ。
セミがミンミンと鳴いている、木陰はカステラの瞳を闇色に染めた。瞬きをしてそれをかき消そうとする彼は、優しく微笑んだ。
カステラ:しばらくは終わらないだろうから、一緒に提灯を吊るすのを手伝わせてくれ。
お餅:あれ?どうして急に親切になったの……?
カステラ:簡単な手伝いにすぎない。
お赤飯:ちょうど高い所に手が届かず困っていました、お願いしてもよろしいですか?
日が暮れた頃、ようやく用が済んだ寒ぶりは部屋から出た。庭にやってくると、カステラとお餅が楽しそうに話しているところを目にした。
お餅:……本当か?それからそれから?!
カステラ:悪鬼共を始末した、一匹も残さずね。
お餅:……すごい!
寒ぶり:ゴホンッ!
寒ぶり:あんたたち……何をしておるのじゃ?
お餅:カステラ兄さんが、悪鬼を倒した話をしてくれた!そうだ、夏祭り用の提灯を吊るすのも手伝ってくれたよ!
寒ぶり:カステラ……兄さん?いつの間にそんなに仲良くなったのじゃ?!
カステラ:お餅、貴方の寒ぶり姉さんに相談したい事がある、また今度違う話をしてやろう。
お餅:うん!じゃあぼくは姉御のところに行くね!寒ぶり姉さん!またね!
カステラ:最近百聞館に来ないと思ったら……なんだ、通路を探すのを諦めたのか?
寒ぶり:別の方法で通路を探しているのじゃ。だが……なかなか上手くいかない。
カステラ:なるほど。寒ぶり博士は医術の研究ばかりして、この件をすっかり忘れたのかと。
寒ぶり:……
カステラ:……鯛のお造りのために色々と手を打っていると聞いた。虚像のためにそこまでする必要はあるのか?
寒ぶり:……これは、通路の件に深く関わっている。だが……詳しい事はまだあんたには話せないのじゃ。
カステラ:最近、私と貴方の間には……共有出来ない秘密が増えているようだね。
寒ぶり:必ずあんたを連れ出すから、それだけは信じてくれ。
夕暮れの中、二人は無言のまま夕日を眺めた。
カステラ:まあいい……忠告をしに来ただけだ、明日は夏祭り、確か酒を奢ってくれると約束してくれたな、忘れるなよ。
寒ぶり:……ああ。
譫言変奏Ⅶ
夏祭り
山
山頂、涼しい夜風が昼間の暑気を和らげてくれる。遠くを見ると、街は提灯で鮮やかに飾られ、空には一際美しい月が見えた。
寒ぶり:カステラ、せっかくの祭りだというのに、ここで酒を飲むだけでいいのか?
カステラ:ここは眺めが良い、花火もよく見えるだろう。
カステラ:他にやりたいことがあるなら、花火が終わってからにしよう。
寒ぶり:用意周到じゃな、確かに眺めは良さそうじゃ、それに涼しい。
カステラ:何より、ここは変なやつに邪魔される心配がない。
寒ぶり:ほう?まさか私より酒にうるさい奴が現れるとは!
「バーン!」と音と共に、花火が夜空一面に咲いた。蜃気楼のように儚く、すぐに消えていった。
寒ぶり:綺麗じゃな……
寒ぶり:夏が終わる……ここに来て、もうすぐ半年か……外はどうなっているのじゃろう……
カステラ:外?……言ってくれなかったら、とっくに忘れていたよ。
カステラ:ここにいると、わざわざ戻る必要なんてあるのかと思うようになる。
寒ぶり:……ここがどれだけ良くても、ここは所詮夢、偽物の世界じゃ
カステラ:嘘か本当か、そんなのどうでもいいだろう?私にとって、楽しく生きられる事、それが一番大事だ。
カステラ:それに、ここで貴方という友人にも恵まれた。
寒ぶり:はぁ……あんたと出会えてわしも嬉しく思う。少なくとも、酒の相手は出来るからな。
花火の音が空に響く、ほろ酔いの二人は静かに夜空を見つめた。
カステラ:一つ聞いていいか?
寒ぶり:……なんじゃ?
カステラ:この「世界」が永遠にこの姿を保てるなら、私と……一緒にここにいてくれるか?
寒ぶり:……
カステラ:月食も「永夜」もない……ただ穏やかで普通な生活を繰り返していく……
寒ぶり:ダメだ……あんたが言ったように、確かにここにも楽しい思い出はいっぱいある、だがわしには戻らないといけない理由があるのじゃ。
寒ぶり:全ては、決して自分のためだけではない……
最後の花火が上がった後、夜空に美しい軌跡を残した。
カステラ:ふふっ、そうか……
寒ぶり:いや、その……離れがたいのはここの月のせいなら、安心しろ!
寒ぶり:言ったじゃろ?我が観星落は、月を現実の世界に戻す方法を必ず見つけると。その時は、一緒に本物の月を眺めながら酒を飲もう!
カステラ:……
カステラ:私がこだわっているのは月そのものではないが……
カステラ:まあいい、酒がまだある内に、小話を二つしよう。
譫言変奏Ⅷ
カステラ:まあいい、酒がまだある内に、小話を二つしよう。
寒ぶり:なんだ、今日は飲む気満々のようじゃな!
草木の間を蛍が飛び交っている。まだ活気に満ちている街とは違って、ここは静かだ。カステラはゆっくりと酒を一口飲んで、ぽつぽつと語り始めた。
カステラ:むかしむかし、桜の島には一人で孤独に暮らしている少年がいた。
カステラ:ある日、彼は偶然にも人形を拾った。彼らはお互いにずっと仲間でいようと誓い合ったのだ。
カステラ:初めての友どもが出来て、自分はもう一人ぼっちじゃないと彼はとても喜んだ。そのため、彼は人形の事をとても可愛がっていた。遊ぶ時も、寝る時も、どこにいても一緒だった、そして何でも話した。
カステラ:しかし……あの人形は、普通の人形とは違った、人々はそれを妖だと認識していたのだ。次第に人々は、少年にも嫌悪感を抱くようになった。
寒ぶり:妖?……人間の思う食霊と似ているな。
カステラ:ああ……弱い者をいじめ、強い者に忖度するというのが人間の性だろう。例え相手が何も知らない子どもであっても、奴らは容赦しない。
カステラ:人々は呪われることを恐れ、人形に近寄る勇気がなかった。
カステラ:代わりに優しい少年に悪意をぶつける事にした。
寒ぶり:……
カステラ:しかし、少年はそれらを友人に……人形に黙っていたのだ。
カステラ:傷だらけになっても、帰る前には必ず涙を綺麗に拭った。家に足を踏み入れた瞬間に、一番明るい笑顔に切り替え、いつものように人形を抱きしめる。
カステラ:幸せな生活に夢中になっていた人形は、少年の異変に何も気づかなかった、こうして穏やかな日々は過ぎていった。
寒ぶり:……だが、人間の悪行は止まらない、むしろ勢いは増していった。
カステラ:そうだ。我慢して、悪意をのさばらせると、例え小さな邪念であっても、やがて大きな災となるのだ。
カステラ:雪が次々と降り積もると、どんなに逞しい山でも支えきれなくなり、やがて雪崩が起きた。
カステラ:少年はとても優しかった、他の人間から見たら彼は「バカ」だったのだろう。
カステラ:だからか、彼は騙されても文句は言えないと思い込んでいたのだ。
カステラは淡々と語り続ける。間をおいて、お酒を一口飲んだ。
寒ぶり:……それから?
カステラ:全ては、月が原因だった。
寒ぶり:月……?
カステラ:少年が生きた時代には、月はとっくに消えていたが、詩歌や物語の中にはまだ生きていた。
カステラ:--旧世界を彷徨う幽霊のようだ。
カステラ:人々が憧れる幽霊……誰もが本物の月を見てみたかった、少年も例外ではなかった。
カステラ:それは、子どもの素朴な願いだったのだ……しかし、奴らは彼とその願いを葬ったのだ。
寒ぶり:……
カステラ:黄泉の門をくぐれば、本物の月を見れると彼らは少年に教えたのだ。
寒ぶり:黄泉の門?!あれは堕神の集まる場所……いや、周りの瘴気だけで人間は命を落とすだろう!
カステラ:ああ、人間どもの嘘を見破れなかった少年はその言葉を信じきって、一人で黄泉の門へと向かったのだ。
カステラ:彼は人形のために書き置きを残した。
カステラ:「月を見に行こうと思うんだ。でもそこには食霊に聞く呪いが掛けられているらしい、だから連れて行けない」
カステラ:「大丈夫!帰ってきたら月を描いて見せるから。本物の月は、絶対綺麗なんだろうな……」
カステラ:しかし……彼は二度と帰らなかった。
譫言変奏Ⅸ
無邪気にはしゃぐ少年の姿が今にも目に浮かぶ……記憶の片隅できらめいている。
カステラはおぼろげに浮かぶ幻影に手を伸ばした、だが何も掴めない。
カステラ:すまない……少しぼんやりしていた。
寒ぶり:あの少年は、あんたの友だちなのか?
カステラ:ただの旧知に過ぎない。
カステラは首を横に振り、酒を飲み干すと、空に浮かぶあの遠い月を見上げた。
カステラ:彼がもしここにいたら……この月を見れていたら、きっと喜ぶだろう。
カステラ:偽りであったとしても、そんなのはどうでも良い事だ。
寒ぶり:……
寒ぶり:この苦痛は、彼が受けるべきものではない。
寒ぶり:「黄泉」から月が消えて以来、人々の心の中で邪念が芽生える速度は早くなっていった……そして知らず知らずのうちに、全てが変わった。
カステラ:ふふっ……邪念は元から人々の心にある、あの世界を地獄にしたのは彼ら自身だ。
カステラ:残り僅かな優しさと幸せも……とっくに暗闇に呑まれた、そこにはもう未練はない。
寒ぶり:あんたの気持ちは……わかる。
寒ぶりはお酒を一気に飲み干し、カステラの肩を優しく叩いた。そして残りの酒を二人の杯に注ぐ。
カステラ:話したい話はもう一つ……
寒ぶり:話せ。
カステラ:錠と鍵の由来を知っているか?
寒ぶり:錠と鍵……?
カステラ:錠と鍵の関係は、友か?それとも敵か?
寒ぶり:……錠は鍵が扉を開けるのを阻止するために存在するのなら、対立関係と言えるじゃろう。
寒ぶり:だが、錠にとって鍵によって開けられる事が宿命だとしたら、対立とは言えない。
カステラ:実際、錠であるなら……鍵によって解錠される宿命を、例え自分を危険にさらしてでも受け入れなければならないのだ。
カステラ:それでもいいんだ……錠は自ら、自分を傷つけていい権利を鍵に与えているから。
寒ぶり:おい、カステラ、お話をしてくれるんじゃなかったのか?どうしてまたそんな訳のわからない事を。
カステラ:ふふっ……話はもう終わったよ。
寒ぶり:……?!
カステラは袖から輝く何かを取り出し、寒ぶりに手渡した。それを受け取った瞬間、彼女はその冷たい触感に驚いた。手を広げてよく見てみると、刃の形をした氷のような飾りだった。
カステラ:これは私からの贈り物だ。
寒ぶり:どうしてこんなおかしな物を……まあ、初めての贈り物だし、受け取ろう!
寒ぶり:……ちょうどあんたの分も用意した!
小さな白い杯がカステラに渡された。「寒ぶり」の文字と小さな魚が刻まれたそれは、月に照らされて白い光を放っている。
寒ぶり:これを見る度に、飲みに誘え。だが、ちゃんと良い酒を持ってこいよ!
カステラ:ああ、約束する。
断夢帰塵Ⅰ
夏祭り
観星落
夏祭りが終わり、夜色は濃くなった。観星落に灯されている提灯が帰途を示している。灯火でぼやけた視界の中、思索にふける人物が佇んでいた。
月見団子:博士、おかえりなさい。
寒ぶり:月兎?夏祭りに行ってないのか……どうして一人でこんな所にいるんだ?
月見団子:こんな素敵な夜ですが、どうしても落ち着かなくて、祭りを楽しめないのです。
寒ぶり:どういう意味じゃ?
月見団子:博士たちは、私が想像していたよりも焦っているようですね。
寒ぶり:……?
月見団子は絵に描いたような笑みを浮かべている。その笑顔の裏には一体何を隠しているのかを必死に捉えようとする寒ぶりであった。
夜空には何か異変が起きたと感じ、寒ぶりはすぐに空を見上げた。夜空に赤い尻尾が持つ星が過った。
寒ぶり:わしの記憶が確かなら……明日は満月のはず。
月見団子:ええ、月の満ち欠けは世間の不変なる法則です。
月見団子:約束の日を、人の行動に委ねているならば、この月を長く輝かせる事を多めに見てくれないでしょうか?
寒ぶり:弓につがえた矢を飛ばさない道理はない。
月見団子:……分かりました、博士が焦る理由のもわからなくもない。
月見団子:首座様のところへ行ってください。彼の具合は、また悪化したようですよ。
事態は深刻だと、寒ぶりは誰よりも知っている。月見団子の話を聞いて慌ててここを後にし、鯛のお造りのところへと向かった。残った一人は彼女の背中を見送り、残念そうな顔をした。
月見団子:どうやら、これが限界のようですね……
ギーッ……寒ぶりは重い扉を押し開け、横になっている鯛のお造りの様子を急いで確認する。眉間に皺を寄せ、血色のない顔色、そして、力が乱れていて黒い霧が纏う……
寒ぶりは集中し、素早く印を結び、地面に腰を下ろし、そしてすぐに目を閉じた。
虚無の深淵
裏世界
怪しげな白い光が鬼火のように虚無の深淵を彷徨っている。少し経つと、やっと鯛のお造りの影像が現れた。
寒ぶり:月食は、もうすぐ来るのか?
鯛のお造り:ええ、ここでした事がようやく効果が出たらしい。
鯛のお造り:しかし、ここは既に混沌に陥り始めている、何が起きるかは把握できない……この前に言った事を、どうか向こう側で早めに準備していてくれ。
寒ぶり:わかった、任せるのじゃ。
寒ぶりはいつものような笑顔を浮かべたが、通信はすぐに途切れた。静寂の中、彼女は目を開け、心配そうに鯛のお造りの顔をしばらく見てから、部屋を出た。
断夢帰塵Ⅱ
終焉の夜
百聞館
もうすぐよるがやってくる、荒地の中様々な儀式の道具が置かれていた。隣のカステラは沈んだ顔をしていて何も言わない、寒ぶりが道具の位置を調整しているのをただ見つめているだけ。
寒ぶり:……これでよし!
カステラ:ここまで呼び出して、その法陣や儀式を見せるためか?
寒ぶり:落ち着け、月が出るのを待つのじゃ……今日こそ帰れるはずじゃ。
カステラ:……
カステラ:何故、あの「現実世界」をここまでこだわるんだ……
カステラ:言っただろう、ここで……穏やかで平和な生活を送れると……
寒ぶりは、決意が少しも変わっていないと示すかのように、一際真剣な表情で首を横に振った。
寒ぶり:わしらが生きる場所はここじゃない。
カステラ:……何故そう言い切れるんだ?「現実世界」なら滅びる可能性がないと言いたいのか?
寒ぶり:それはもちろん、解決方法を見つけているからなんじゃが……詳しい話はまた後で……
カステラ:まただ。
カステラ:では聞こう、「黄泉」以外の「現世」が極楽浄土と言う証拠はどこにある?
カステラ:もしその「現世」と言うのが、人々が少年を惑わし彼に「黄泉の門」をくぐらせるための「月」に過ぎないとしたら?
寒ぶり:今回は違う。今回は、わしがついてる!あんたと一緒に「黄泉の門」をくぐるんだ。
カステラ:貴方は……
話している間、夕焼けをまるごと呑み込むかのように夜が訪れた。姿を現したばかりの月に、悪夢のような影が覆う。光が……消えていく。
カステラ:月食?!
カステラ:そんな馬鹿な……!「彼女」は約束してくれたはずだ……
月は急速に光を失い、影には不気味な緑色の光が潜んでいて、魔物が襲い掛かろうとしていた。
寒ぶり:月食の進行が早くなっておる!……それと厄介な堕神め……!
カステラ:……
寒ぶりは目を閉じて座り、眠りについた。空を見上げていたカステラが正我に返ると、いつになく暗い顔をしていたが、彼は本能的に銃を抜き、突進してきた堕神を素早く射殺した。
虚無の深淵
裏世界
寒ぶり:月食が始まった!計画通りに法陣を起動してくれ!
深淵に声が響き渡り、青い光が揺らぎ、虚無の中から最中の姿が見えた。
最中:準備は全部整っている!そっちの状況はどうだ!
最中:力の乱れが原因かもしれない、二人で試そう!
寒ぶりと最中は顔を見合わせた。悲惨な慟哭が急に豹変し、激しい力となり彼らに叩きつけられたのだ。
寒ぶりが再び目を覚ました時、自分が崩れかけている鳥居の前にいることに気づいた。空には血色の月が懸かっており、カステラは片手に銃を持っていて、浴衣は血まみれだ。
断夢帰塵Ⅲ
神殿
夢の核心
万象は虚ろになり、生死は一瞬で決まる。夢見る者は黒い河に姿をくらまし、流れてきた提灯が道を照らす。
神殿の前、小さな人形が神棚の上に鎮座していた。遠くから泣く声が黒い河に波を立たせている。
???:どうして……兄様……私に返事をしてくれないの?
???:全てが、終わるというの?
鯛のお造り:……そろそろ、終わりの時だ。
???:侵入者……全ては貴方たちのせいじゃ!どうして私の夢を踏みにじるの……
鯛のお造り:ずっと夢に浸っていたら、現実を忘れてしまうよ……
???:夢?現実?そんなの関係ないわ……私はただ、兄様と一緒にいたいだけ……
鯛のお造り:月がまだ存在していた時代はとうに過ぎ去った、貴方の子民は今暗闇に覆われている……自分と我々を偽物の夢から解放して欲しい。
???:……
鯛のお造り:それに、「彼」から本当に返事は来たのか?
鯛のお造り:この夢の中に、貴方の「兄様」は実在しているのか?
???:ありえない……ありえぬ!!!
泣き声はすぐに止まった、提灯が一つずつ消されていく。鯛のお造りは目を閉じ、虚無に戻った。遥か前方に、見慣れた青い光点が待ちわびていた。
終焉の夜
崩れた鳥居
血に染まったような緋色の月光に包まれながら、寒ぶりは執拗に様々な印や呪文を試みていた。
寒ぶり:変だ……鳥居が現れたのに通路が開かない。
青い光は蛍のように明滅し、そこから誰かの声が微かに聞こえてきた。
寒ぶり:法陣の準備は整えた、そっちの状況は?
青い光は今にも消えそうに、夜風の中で揺らいでいる。寒ぶりは素早く印を結び、せっかく捉えた信号を法陣で固めようとしたが、無駄のようだった。
寒ぶり:ダメだ……通信が完全に途切れてしまった!
先程からずっと黙っていたカステラは口を開いた。汗で濡れた髪が風の中なびいている、それは激戦の証だ。彼の悲しい瞳は必死で何かを訴えようとしている。
カステラ:この全ては……貴方たちの計画か……?この月食も計画の一環なのか?
寒ぶり:……
寒ぶり:すまぬ……わざと隠していた訳じゃない。緊急事態だ、ここから出てからきちんと説明する……
カステラ:ハッ……出る……?
巨大な音が鼓膜を強く叩く。空に大きなヒビが入り、漏れ出したのは煌く星々と見覚えのある人影だった。
そして砂ぼこりが巻き起こされた。一つの障壁のように、寒ぶりの視界を遮った。カステラは銀河と共に、塵に隠れて見えなくなった。
断夢帰塵Ⅳ
どんよりとした空を背景に、緋色の月が地面に影を落とす。薄い障壁の中、時空は凍てついたように、塵や砂礫が宙に浮かんでいる。カステラと鯛のお造りはただ無言で顔を見合わせていた。
鯛のお造り:……カステラ、この世界はもう挽回する余地がない、もう手を引いてくれないか。
カステラ:もう全部わかっているのか……流石首座様だ。
鯛のお造り:巻き込まれた侵入者同士、敵対する必要なんてないだろう。
カステラ:すまないが、これも私の本意ではない。ただ……寒ぶりを連れて行って欲しくない。
鯛のお造り:この世界はもうすぐ崩壊する、夢が崩壊したらどうなるか、貴方もわかるだろう。
カステラ:……
鯛のお造り:彼女が永遠にここに囚われ、無に帰すのを……貴方は望んでいるのか?
カステラ:ふふっ……私なら、彼女自身に選ばせる。
カステラ:未来も含めて……
塵や砂礫が消え、視界は再び鮮明になった。崩れた地面が峡谷に分かれ、寒ぶりが鯛のお造りに向かってよろけそうになった。
寒ぶり:鯛のお造り!もたもたすると間に合わない!早く通路を開けねば!
寒ぶり:通路は何かに塞がれているようじゃ!だが陣の中心がどこにあるのか見当もつかぬ!あんたなら……
鯛のお造り:いえ、この結界は多分貴方にしか解けない……陣の中心の在処は、貴方の友人に聞いてみるといい。
崩れて行く瓦礫の中、カステラは思いのほか冷静な表情を浮かべていた。まるで傍観者のようにこの一連を見つめている。
寒ぶり:?!
カステラ:道同じからざれば、相為に謀らず……だが、もし、現世に戻る事が貴方の願いならば、私が叶えてあげよう。
カステラ:--友人として。
寒ぶり:何を言っておる?!
カステラ:錠と鍵の話、まだ覚えているか?
カステラが手を上げると、寒ぶりの腰にさげられた飾りが反応したかのように、ゆっくりと寒ぶりの手のひらに落ち、鋭い氷の刃に変わった。
カステラ:·それが私という「錠」を開ける鍵だ。
カステラ:--私の血を道しるべにしないと、通路は再び開かない。
寒ぶり:どうして?!結界……通路……館主が仕掛けた結界がどうしてあんたの身に……!?あんた……最初から全てを知って……
あらゆる感情が複雑に絡み合い、顔面蒼白になった寒ぶりを見て、カステラは視線を逸らした。
カステラ:知っていただろう……私はここで平穏な暮らしがしたいだけだ……貴方という友人と共にな。
激しい爆発音が耳になだれこんだ……力の揺らぎだ。衝撃波は空間ごと曲げられる強烈なものだった。鯛のお造りと背後にある銀河にも大きな影響を及ぼし、ぶっ飛ばされて消えていった。
カステラ:そうだ……ここはすぐに崩壊する。でも……貴方の友人のいる「世界」はこっちよりも早く滅びそうだな。
寒ぶり:カステラ、言ったはずだ……私たちが生きる場所はここじゃない。
カステラ:もうそんなことは聞き飽きた。奴を助けたければ、手を動かせ……
カステラ:だが、これだけは言っておく。そっちを選ぶなら、これからはお互いに何の貸し借りもない、ここで起きた事は全て夢だという事にしておこう。
廃墟から空を見上げると、目に映るのは血のように赤い月だ。まるで月の下で一緒に酒を飲んでいた時のように、カステラは相変わらずの笑顔を見せた。
寒ぶりはしっかりと氷の刃を握り締めた、血の粒がポロポロと手のひらから零れ落ちてきた。慟哭の夜風が鋭い刃に触れた途端、二つに断ち切られた。
氷の刃が稲妻のように閃き、寒ぶりは鬼神のごとく刃を振り、立ち塞がるもの全てを切り倒した。時間は止まったかのように、世界には静寂が訪れた。
カステラ:実際、錠であるなら……鍵によって解錠される宿命を、例え自分を危険にさらしてでも受け入れなければならないのだ。
カステラ:それでもいいんだ……錠は自ら、自分を傷つけていい権利を鍵に与えているから。
カステラ:……
カステラ:本当に……友だち思いだな。こんな友人を持てるのは、たしかに幸運に恵まれている……
鍵が錠を突き破り、血が大地に落ちる。緋色の月光に照らされた蝶の羽が、地面にひらひらと舞い落ちた。
美しい夢は、ここで幕を下ろした。
断夢帰塵Ⅴ
早朝
観星落
朝、鳥の囀りが寒ぶりを呼び起こした。太陽が穏やかな光を部屋の中に注がれ、空中を飛び交う塵が不思議に舞い踊っている。
寒ぶりが躊躇しながら襖を開けると、陽の光が直に差し込んだ。観星落の皆は木陰に座り、談笑している。
お赤飯:良かったです……体の具合はいかがですか?
寒ぶり:ここ……は?わしは帰って来たのか?
お餅:寒ぶり姉さん、何を言ってるの!昨日首座様が連れて帰って来たんだよ、覚えてないの?
お餅:あっ、そうだね!でも……その時の寒ぶり姉さん……全身血まみれで……本当にビックリしたよ!負傷してると思って、みんな心配してた!
お餅:幸い、あれは寒ぶり姉さんの血じゃなかったみたい……もしかして誰かと喧嘩でもしたの?
寒ぶり:……
お赤飯:寒ぶり、顔色が悪いですよ。具合が悪いならもう少し休んだ方がいいですよ。
お赤飯:首座さまでしたら、今観星落にいらっしゃいません。また百聞館に行かれたようです。
寒ぶり:百聞館?!
お赤飯:そう言えば、百聞館へ首座さまを探しに行ったきり、何日も帰って来ませんでしたね。何かあったのかとずっと心配していました。
お赤飯:幸い、昨日首座さまが連れ戻してくださいました、お二人とも無事で本当に良かったです。
寒ぶり:現実では……たった数日しか経っていないのか……
鏡餅:あれ、首座さまが帰ってきた!
涼しい風が紅葉を巻き上げ、鯛のお造りが絨毯のように積もった落ち葉を踏んでゆっくりと庭へ入り、相変わらずのんびりしていた。
鯛のお造り:ええ、館主も今日中に目を覚ますだろう、あの夢も……そろそろ終わるはずだ。
寒ぶり:……そうか。彼の様子は……どうじゃ?
鯛のお造り:まだ目覚めていないが……命に別状はない、安心していい……
寒ぶり:良かった……
夢の世界から帰ってきたばかりだからか、現実の風景も不思議に見えてきた。気持ちのいい風にあたりながら、まだ夢が覚めていないように、ぼんやりしている。
鯛のお造り:寒ぶり、ずっと夢に浸っていたら、現実を忘れてしまう……
寒ぶり:……
寒ぶり:わかっておる……ありがとう。
お赤飯:全員無事に帰ってきた事ですし、和菓子を作るので皆で食べましょう。
お餅:ヤッター!この前の和菓子とっても美味しかった!それが食べたい!ぼくもお手伝いする!
鏡餅:うっ……わ、われも一緒にやる!
寒ぶり:いいぞ!
断夢帰塵Ⅵ
神殿
夢の核心
夢の名残は蝋燭の火のよう、燃え尽きたが、完全に冷めてはいない。灰が蝶のように飛んでいる。
倒壊した神社の中に隠された神殿……夢の温床は、崩壊寸前だ。
???:兄様……
???:兄様……どこにいるの……
???:私を……置いていかないで……
カステラ:ハッ……まだ終わっていないのか、まさか貴方がこの夢にこんなに執着しているとは。
???:貴方……この美しい夢を維持してくれると約束してくれたじゃない!どうしてその結界は簡単に破れたの?!
???:その様子じゃ、きっと裏切られたのじゃろう……侵入者共の言葉に耳を貸すんじゃなかったわ……
胸に痛みが走り、既にかさぶたになって治りかけている腹部の傷まで伝わった。カステラの浴衣は、初秋の紅葉と同じ色に染まっている。
この「世界」は夏に固定され、まだ秋の風景を一緒に楽しめていない……残念だ。
カステラ:ふふっ……もういいんだ。
カステラ:どうやら貴方も私と同じで……気に入った相手に見捨てられたようだな。
???:黙りなさい……!貴方たちに……私の何がわかる!
カステラ:めんどくさい……貴方と一緒に夢の中で滅びるのは御免だ。
カステラ:館主よ、そろそろ終わりにしよう、……いや、輝夜様と呼ぶべきか。
???:いや!!!兄様は私を見捨てる訳がない!
人形は赤い涙を溢した。繊細な血の花が神棚の上に一輪咲いた。過去の記憶が噴水のように溢れ出す。
カステラ:面白い……これが神器だったのか……
カステラが人形に手を伸ばすと、触れる前に焼けつくような眩しい光が過り、神殿と夢の世界は静まり返った。
午後
百聞館
春のあたたかい陽射しが差し込む和室、生温い触覚がカステラを呼び覚ました。少し昼寝をしただけかのように、そっとあくびをした。
カステラ:戻ったか……
窓の外で聞き覚えのある声がした。カステラはのんびりと襖を開くと、眩しい日差しに刺されて少し目を細めた。
雛子:薬師!今回の薬どうしてこんなにまずいのよ!前の薬を持ってきて!
ふぐ刺し:ゴホン……以前の処方は全て変更しなければ……苦いけれど、こっちの方が安全だ。
雛子:フンッ!バカな下僕の安全を考えるなら、そうするしかないわね!
あん肝:ひっ、雛子……ごめんなさい……
雛子:あんたは黙りなさい!あたしが薬を飲む間に喋るんじゃないわよ!噎せるじゃない!
カステラ:ふふっ……雛子、久しぶりだね、相変わらず元気そうでなによりだ。
雛子:えっ?カステラ?何日もあんたと館主姉さんの姿が見当たらなかったけど、どこ行ってたの?
カステラ:別にどこにも行っていないよ。
雛子:寝てたの?まさか、このバカな下僕と同じで、月の夢でも見たんじゃないでしょうね?
あん肝:ひっ、雛子……
カステラ:……ふふっ、なるほど。
カステラ:当たり、さすが雛子だ、察しが良い。確かにそんな夢を見た……それはそれはとても美しい月だったよ。
断夢帰塵Ⅶ
夜
崇月
明太子:おいっ!八岐、それはオレ様の串焼きだ!返せ!
タコわさび:はぁ、そうか。
明太子:クソッ!!!食うな!許さねぇ!
雲丹:あら、あの二人ったらまた喧嘩を始めちゃって。うーん……美味しいわ。
中華海草:まずいです!……雲丹先輩……明太子様が転びました!
雲丹:もうっ!転んだっていいじゃない、転んで泣くようなやつじゃないし。
中華海草:で、でも……姉御のお酒を……姉貴の新しい着物にこぼしてしまったみたいです……
雲丹:いまなんて?!
ホッキガイ:……
明太子:おっ……オレは……あはは……うわあああん!助けてー!!!
月のない夜空に星々が散りばめられている。涼しい風が爽やかに皮膚を撫でる。庭の中はとても賑やかで、皆は机を囲んで談笑していた。二人だけは周りの雰囲気と全く違い、少し離れた木陰で酒を酌み交わしている。
月見団子:なんだかすみません、あの子たち、すぐじゃれ合ったりするんです……もう一杯どうですか?
カステラ:もう一壺飲み干しているだろう、そろそろ崇月まで呼び出した理由を教えてくれ。
月見団子:ふふっ、思い出しました……前回こうやって貴方と酒を飲んでいた時、空には「明月」がありましたね……
月見団子:実に……夢のような時間でした。
カステラ:いくら懐かしんでも、夢は所詮夢だ。
月見団子:どうやら貴方は、あの夢を完全に手放せたようですね。
カステラ:あの夢も、この「世界」も……私にはもう何の未練もない。
月見団子:ならいっそのこと、新たな「世界」へ……私と同じ事を考えていますね。
カステラの表情は淡々としている。コツコツと指で机を軽く叩いた後、空っぽになった白い杯に視線を落とした。
カステラ:そう言えば、前に言っていた崇月の酒を持ってきたか?飲んでみたくなった。
月見団子:もちろんです。月がないとは言え、良夜にも良酒は欠かせません。
遠くから見れば、杯を交わす二人は昔からの友人のように見えた。
月見団子:どうですか、このお酒は口に合いますか?
カステラ:今の私なら、その旨みがわかるような気がするよ。
月見団子:では、今後ともよろしくお願いします。
カステラ:礼は必要ない、お互い様だ。
月見団子:なるほど……「情」に頼るより、こうした方が確実ですか。
カステラ:……貴方に奢ってもらった以上、それなりの礼を返さないといけないね。
カステラ:貴方が興味がありそうな話を一つ持ってきた。
月見団子:拝聴します。
カステラ:夢が崩壊する寸前、ある意外な収穫があった。
カステラ:--最後の神器の在り処がわかったかもしれない。
月見団子:……本当ですか?
月見団子:なるほど……私がずっと探している物が、まさか目の前にあるとは……
カステラ:少し遠回りはしたが、ようやく見つけたから喜ばしいではないか?
月見団子:その通りですね。ふふっ……もう一杯どうぞ。
月見団子:ようやく同じ道を歩めることに、乾杯。
夜闌月隠
プロローグⅠ
古き時代、かつて栄えていた種族はより強い力を求めていた。すると、あらゆる災いがこの土地に解き放たれた。
殺戮と混沌は神々の怒りを買い、神々は罰を下し、業火で戦乱を止めた。
神の怒りは隈なく大地を焼き続けていた。しかし、この島だけが難を逃れたのだ。
神々に仕える者は、民が滅びるのを見かねたのか、自らを犠牲にして人間に救いの手を差し伸べた。
「黄泉」、存在しないはずの幻の地は、陰の中に隠れている。
闇夜の夢のように、神々の目から逃れられた。
決して交わることのない二つの「世界」にはそれぞれに守り人がいる。約束の時間になると、世界を回転させた。
百年間、人類はここで生活し続けた。
しかし、ある日……約束の時間になっても世界は変わらなかった、代わりに起きたのは「月食」だったのだ。
女の子:月食?それは何?
???:月が闇に喰われた夜のことじゃ……
???:万物が呑み込まれ……血色の河が流れ、悲鳴が響き渡り、悪鬼が蔓延った。
???:少女たちは恐怖のあまり目を見開いて、布団にしがみついて身を隠した。
???:それ以来、島の半分は捨てられたように月が消えた。
???:兄様も……いなくなった。
囁きは揺らいでいる蠟燭の光の中に消え、少女たちは猛烈な眠気に襲われた。
???:さあ……良い子たちよ、寝なさい……今日の話はここまでじゃ……
プロローグⅡ
幻夢前夜
百聞館
雛子:ねえ、薬師!今日の丸薬は?もうすぐ夜なのに、どうしてまだ出来ていないの?
ふぐ刺し:雛子嬢……来たのか、コホッ……もうすぐ出来る。
雛子:フンッ!グズグズしてないで早くしてよ!お腹空いたの!
ふぐ刺しは壺から青黒く光る薬鉢の中から一粒の丸薬を取り出すと、雛子の後ろにいる臆病な青年に手渡した。
ふぐ刺し:お待たせ、ゴホンッ……どうぞ。
あん肝:……
雛子:ねぇ、バカ!ボーっとしてないで早く飲みなさい!
あん肝:うっ、うん……ごめんなさい、雛子の許可を待っていたから……
青年は恐る恐る薬を飲み、いつも通りに「少女」の後ろに引っ込んだ。しかし次の瞬間、彼の表情は一変し、ぐったりと畳の上に倒れた。
雛子:おいっ、バ、バカ……?!
青年は固く目を瞑っている。慌てる「少女」は彼の胸元にうつ伏せ、彼を呼び覚まそうとしているが……その呼び声は紛れもなく、青年の口から出ていた。
雛子:薬師!こいつ……一体どうしたの?
あん肝の顔に緑色の斑点が浮かび上がっている。まるで瘴気の毒のようだ。ふぐ刺しは、壺に残ったわずかな残滓に手をつけ、顔を顰めた。
ふぐ刺し:ゴホン……どうやらこの処方はやりすぎたようだ……
薬室に突然冷たい風が吹き込み、女性の囁きが聞こえた。
???:こいつもそろそろ限界じゃない……いつ堕神になってもおかしくない……薬師よ、何か策はないの?
雛子:館主姉さん……バカは……死ぬの?彼を助けて!
???:あら、かわいそう……泣かないで、薬師ならきっと助けてくれるわ。
???ねぇ?薬師。
ふぐ刺し:解毒剤を開発するには、ある薬草を見つけないと……コホッ、今から行って来る。
ふぐ刺しは既に薬箱を準備していた。薬室を出る前、長椅子に横たわっている青年を心配そうにチラリと見た。腕の中の「少女」はぐったりとしているが、まだむせび泣いたままだ。
プロローグⅢ
幻夢前夜
観星落
机の上の水滴は命が宿っているかのように動いている。いくつかの形に変わった後、やがて蟻の行列のような三つの小さな漢字になった。
その漢字を読むと、鯛のお造りは顔を顰めた。水滴は突然弾けて、地面に転がっていった。
鯛のお造り:百聞館……?
鯛のお造り:まさか……あそこに関係があるのか?
少女の爽やかな笑い声と共に扉が開かれた。振り返ると、酒壺を抱えている寒ぶりがいた。
寒ぶり:おいっ!部屋に閉じこもって何をしてんだ!暇じゃから、飲みに付き合え!
鯛のお造り:今日の授業は終わったのか?
寒ぶり:げっ……今日は天気が悪いから、半休にしたのじゃ!
鯛のお造り:天気が、悪い?
窓から外を見ると、そこには晴れ渡っている空が広がっていた。時折そよ風も吹いている。
寒ぶり:ゴホンッ……日差しが強いのじゃ!病弱な子供たちは食霊と違う、熱中症になったら大変じゃ!
鯛のお造り:貴方って……
鯛のお造りは仕方なさそうに首を横に振って、やれやれとため息をついた。自分が招いた吉兆だからか、のんびりしすぎるところも自分にそっくりだった。
目の前にいる首座の考えを見透かしている寒ぶりは、満面の笑みで腰を下ろし、お酒を二杯注いだ。
鯛のお造り:ちょうど、貴方に頼みがあったんだ。
寒ぶり:おや?酒を奢ってもらった上に頼み事とはな。
鯛のお造り:わかった、前に飲んだ酒は何本か残っている、持っていくといい。
寒ぶり:へへっ!話が分かるのお、首座様は何がお望みじゃ?
鯛のお造り:貴方は私より占星術に精通している。ここ数日星の様子を見ていて欲しい。
寒ぶり:お安い御用じゃ、任せろ!ほら、飲め飲め!
プロローグⅣ
幻夢前夜
崇月
午後、ホッキガイが机の前に座っていた。毛筆を走らせると、すぐに迫力に満ちた字が書き上がった。
雲丹は隣で静かに見物しているが、その瞳から賞賛の色が溢れ出ている。
雲丹:流石姉御!素敵!
ホッキガイ:気に入ったのなら、あげるぞ。
雲丹:えっ?!
ホッキガイは微笑みながら書いた字を雲丹に手渡した。それを両手で受け取った雲丹は、字を一つ一つ眺めるが……何が書いてあるのかはさっぱりだった。
雲丹:あっ!なるほど……!姉御!ありがとう!
ドアを叩く音が響いた。雲丹が襖を開けると、月見団子がそこにいた。
月見団子:外からでも雲丹の声が聞こえていましたよ。何か良いことでもありましたか?
雲丹:見て!姉御がくれたの!
雲丹はとても嬉しそうに、月見団子に見せびらかすように和紙を高く掲げた。
月見団子:おや……どうやら、また上達したようですね。
月見団子:そうでした、ボスを見ませんでしたか?
雲丹:ボス?またどこかでサボってるんじゃない?
月見団子:崇月を探し回りましたが、どこにも姿が見当たりません。
ホッキガイ:なら、愛する刀を見に行ったんじゃないか?
月見団子:天羽々斬……?
ホッキガイ:数日前、大切な刀の様子がおかしいとか、刀身から変な音が聞こえるとか言っていたぞ。
ホッキガイ:たまにあることだが……
雲丹:あっ、その時あたしもいたわ。おかしいのはボスの方よ!ずっと独り言を言っていたわ、最後は襖にぶつかってたし。
月見団子:そうですか……分かりました、では失礼します。
ホッキガイ:どうやら、これからは忙しくなりそうね。
プロローグⅤ
幻夢前夜
神国
神国の昼、絢爛な極光はいつもより輝き、空に色とりどりの光を映した。
窓の外を見ていたかき氷は大きく背伸びをした。昼寝でもしようと思っていた矢先、りんご飴が慌てて扉を押し開いた。
かき氷:煎餅先生がいなくなるのはよくある事でしょ、また散歩の途中で猫ちゃんとか迷い込んできた人間とかに絡まれたんじゃない。
りんご飴:違うよ!見て先生の置き手紙!
「キノコを採ったらすぐに戻ります」、その手紙にはこの一言だけが書かれていた。
かき氷:キノコ……?それって?
りんご飴:そうよ!あの荒れた丘に行った事を覚えている?変なキノコがいっぱい生えていたよね!
りんご飴:帰って先生にその事を教えたの、そしたらすごく興味が湧いたみたいで、しばらくキノコ炒めを食べていないってブツブツ言っていたわ。
かき氷:あの通路は丘に繋がっているのかな……でもそこには強烈な堕神の気配が……先生……
りんご飴:えー?先生は大丈夫だよね?!先生は強いからきっと……でも一人だし……ダメだ!
りんご飴:抹茶さんに知らせようとしたけど、出掛けているみたいで……ねぇ、かき氷、私たちで先生を探しに行かない?!
かき氷:抹茶さんは最近、天沼様と瓊子様が突然昏睡した件の調査で忙しいし……きっと余裕がないはず。
かき氷:よしっ!急いで出発しよう!
りんご飴:うん!
プロローグⅥ
幻夢前夜
観星落
日差しが降り注ぐ庭の中、寒ぶりは悠然とお酒を飲んでいた。ふと何かを思い出したかのように、術で水を球体にして掌の上に浮かばせた。
宙に浮かぶ球体は広がり、やがて鏡の形に変わると、青い髪の青年が鏡の中に映った。なんだかとても困惑している様子だ。
寒ぶり:なんだ、何かないと連絡しちゃいけないのか?鯛のお造りじゃなくて悪かったのお!
最中:いや、そんな事はない!一体どうしたんだ?
寒ぶり:もちろん用はある、ほら!
そう言いながら、寒ぶりはニヤニヤと酒壺を鏡の近くに掲げ、そしてぐるっと回した。最中が見えるように、なるべく鏡に近づかせた。
寒ぶり:あー言葉に出来ない程の香り、そしてふわっとした甘味、……ああ、実に良い酒じゃ!
最中:おいおい……待て、見せびらかすためにわざわざ連絡してきたのかよ?!
寒ぶり:この前興味津々じゃったろ?せっかく手に入れたんだからこの喜びをあんたとも分かち合いたくてな。へへっ……
最中:一滴も飲めないのに……酷い事をするな!
寒ぶり:♪~
鏡越しに抗議する事しか出来ない最中を酒の肴にして、寒ぶりはとても上機嫌のようだった。名も知らない歌を口ずさんで、杯に入れたお酒を一気に飲み干した。
寒ぶり:まあまあ、「現世」に行ける日が来たら、良い酒をたくさん奢ってやるから!
寒ぶり:ここ最近見かけてないな、何か用か?
最中:こちらでおかしな事が起きた。神国の天沼と瓊子が原因不明の昏睡に陥ったんだ……
最中:瓊勾玉の様子もおかしい、時々耳をつんざくような音を出す。
寒ぶり:おや?確かに変だ……わかった、彼が帰ってきたら代わりに伝えておこう。
最中:助かる。じゃあ……私はこれで。
寒ぶり:ええっ!何を急いでいるんじゃ!まだ飲み終わってないじゃろう!
最中:一人でゆっくり飲めばいいだろう……
その言葉を発した瞬間、最中は素早い動きで通信を切った。彼はあの酒の味を想像していたのか、口寂しいようだった。
侵入者Ⅰ
幻夢降臨
百聞館
闇夜の中、月見団子は誰もいない庭に佇んでいた、まるで誰かを待っているようだ。
???:すまない、待たせたわね、月兎。
???:知らないうちに眠ってしまうなんて……貴方と会うことを忘れるところだったわ。
月見団子:構いません。夜中に私を呼び出して、何かありましたか?
???:最近よく変な夢を見るわ……きっと神器と関連があると思う。
月見団子……どんな夢ですか?
???:光る勾玉が変な音を立て続けているのじゃ。
???:そして、その勾玉はこの時空に存在していないみたいじゃ……
月見団子:……
???:月兎……神器は、本当に全部回収できているのか?
月見団子:勾玉……まさか……
夜風が急に強くなり、中庭の奥で眩しい光が一瞬だけ差し込んだ。落ち葉が舞い上がると、周りにはもう館主の気配がなくなっている。月見団子は怪訝そうに顔を顰めた。
月見団子:館主……?
月見団子:まだ……ここにいますか?
返答がなかった。しかしよく見ると遠くないところで何かが光っている。月見団子はしばらく考え込んでから、光を追って小道に出た。
行き止まりにあったのは、黒い霧に覆われた和室。桜の花びらが飛び交う中、鳥居がそびえ立っていた。
月見団子:……?
鳥居と桜の間にどこからともなく裂け目が現れた。突然光が途絶え、月見団子はその光と共に夜の闇へと消えていった。
侵入者Ⅱ
幻夢降臨
観星落
深夜、鯛のお造りは夢の中から覚めた。こぼれたお茶の雫がゆっくりとうねりながら机の上に、はっきりと「百聞館」と三文字を示した。
鯛のお造り:また百聞館か……
鯛のお造り:何を隠しているのか、探るべきか。
翌日の朝、鯛のお造りは百聞館を訪れた。周囲は妙に静かだった、子の静寂の中、彼は怪しい力の波動を感じた。
カステラ:こんなに早くからお客様がいらっしゃるとは……どちら様でしょうか?
鯛のお造り:鯛のお造りと申します、観星落の首座を務めています。貴方は……百聞館の者か……?見ない顔ですね。
カステラ:これはこれは大変失礼しました。首座様ほどの大物が私のような端くれを知らないのは当然ですよ……ふふ。
カステラは優しく微笑んでいるが、鯛のお造りを見る目は意味深だった。
鯛のお造り:なるほど……館主は今どちらに?彼女に大事な話があります。
カステラ:館主?そういえば昨夜月兎も……
鯛のお造り:月兎もここに?
カステラ:そうですよ……しかし当分の間、館主に会えないかもしれません。
カステラ:彼女は昨夜から行方不明になりました。百聞館を探し回ったが、どこにも姿が見当たりませんでした。
鯛のお造り:行方不明……いや……
鯛のお造りは自分の指先を見ると、いくつかの水滴が必死で何かを形作ろうとしているように湧き上がっている。手を引いて、チラっと周りを見た。
鯛のお造り:大事な話なので私も探してみます、失礼。
カステラ:そうですか、ではごゆっくり。
雑草が生えた小道を進み、手前の枯れ木を押し退けると、そう遠くないところに和室があった。
鯛のお造り:怪しい気配……この近くに……
水の玉が手の平から浮かび上がり、水鏡になった。
最中:百聞館?私の水晶玉から凄まじい力を感じている、貴方……神器か何かに近づいているんじゃないのか?
鯛のお造り:神器……あっ?!
不気味な風が矢となり、水鏡を射抜いた。和室の扉はギーッと音を立てて開くと、鳥居と桜の間に裂け目が出来、そこから眩い光が漏れた。
侵入者Ⅲ
幻夢降臨
夢の狭間
夢を見る者は大概、何かしらに執念を持っている。それらの執念は緻密な網となり、夢の世界に迷い込んだ彼らの魂を待ち伏せている。
あん肝:雛子……雛子……
あん肝:置いていかないで……どこにいるの……?
あん肝:雛子……
???:侵入者か?魂が欠けているわ……どうやら大切な物を失ったようじゃ。
???:だが、こんな魂が好き……妙に親近感が湧く……
???:兄様、彼を残して……私たちの代わりに大切な場所を守ってもらうのはどうだ?
あん肝:雛子……雛子……
???:雛子?それが貴方の大切な者かしら?
あん肝:あなたは……誰?雛子はどこ?
???:その「扉」をちゃんと見張ってくれれば、「雛子」に会えるかも知れないよ。
???:良い子だから、言う事を聞いてくれるよね……
明月は夢の瞳のように、空高く懸かっていて一人一人の言動を影で冷ややかに監視している。
目を覚ました時、あん肝は夜風に優しく頬を撫でられながら、空に浮かぶ月をぼんやりと眺めていた。
あん肝:鳥居……扉……雛子……
あん肝:雛子……?誰?
あん肝は名前をブツブツと繰り返しながら、人形を抱きしめた。しかし、頭の中は朦朧としていて、何も思い出せないままだ。この時、コツコツと扉を叩く音が彼の回想を遮った。
ふぐ刺し:ゴホン……月祭りがもうすぐ始まる……一緒に行こう。
あん肝:月祭り……うん、行こう。
笑顔を作って返事した時、あん肝はふと思い出した……月祭りとは、輝夜様の誕生を祝う祭りである事を。遅刻したら大変なことになる、急がなければ。
侵入者Ⅳ
幻夢降臨
夢の狭間
暗闇の中、蛍火はあちこちで明滅している。灰色の蝶は散った花のようにひらひらと舞い落ちて儚い月光に溶け込んでいった。
???:また侵入者か……
???:嫌だわ、全員があの子みたいに言う事を聞いてくれる訳じゃないから。
???:でも、今回の侵入者の中に、一人だけ特別な物を持っているの……兄様も感じたでしょう?
夢を見る者は誰かと相談をしているようだ。しかし、暗闇の中から返事は届かない。
???:ええ……「希望」の力のようじゃ。
???:なんて強い願望……
虚無の更に奥には、彼女ですら到達できない深淵が広がっている。侵入者は、半ば眠っている状態で、時間を忘れ、自分を忘れて、彷徨っている。
水滴は球体になり、広がって水鏡になっていく。
鯛のお造り:……
最中:今どこにいるんだ?真っ暗じゃないか!
鯛のお造り:……わからない。ついさっきまで百聞館にいたはずだ……和室の中……鳥居……裂け目……
鯛のお造り:そうだ、百聞館のあの裂け目をくぐってここに来た。
最中:……?
鯛のお造り:最中、百聞館は神器に接触しているかもしれない……占い結果もそう示している。
最中:もしかして、貴方が訳もなくここに連れこられたのも神器が原因か?
鯛のお造り:詳しい事はわからない。最近、各地にある神器にも異変が起きているらしい。貴方が言っていた神国にある瓊勾玉もだ。
鯛のお造り:全ては繋がっているかもしれない。
最中:確かに疑わしいな……とにかく、今は貴方をその変な場所から助け出す事を最優先とする!
夢の漣Ⅰ
初の月食前
現実世界
神国の午後、最中は一心不乱に水晶玉に映る影像と話している。突然、激しく扉を叩く音がした。
影像は一瞬で消えた。最中が扉を開くと、抹茶が暗い顔で何かを考えこんでいた。
抹茶:いいえ、お二人の事でしたらまだ調査中です……ただ、りんご飴、かき氷と煎餅先生が行方不明になりました。
最中:行方不明?!
抹茶:はい、最中さんに前に使った方法で彼らの位置を探ってもらいたいです。
最中:前の方法というのは……銅銭で物を探す方法の事か?
抹茶:はい。この前、最中さんはその方法で随分前に失くした茶器を見つけてくれましたでしょう?
最中:そうだけど……物を探す方法で人を探せるかどうかは……いや、試してみるよ。
抹茶:お願いします。
懐から銅銭を数枚取り出し、振り落とさないように両手で包み、数回投げた。
最中:ふむふむ……西……山の麓……
最中:一時的に閉じ込められているようだが、深刻な状態ではない、すぐに脱出できるだろう。
抹茶:西……?今回現れた通路もその方角にあるようです。
最中:なら「向こう側」に行った可能性が高い……遅くても三日後には戻ってくるから心配する必要はない。
抹茶:なるほど。
三人とも無事のようでホッとした抹茶は、占いに使った複雑な文字が描かれた和紙を眺めた。
最中:こう見えて私は初心者で、まだまだだ。
最中:友人にすごく精通している者がいて、私はまだ少ししか習っていないんだ。
抹茶:機会があれば、是非会ってみたいです。
最中:ああ、きっといつか……会えるはずだ。
夢の漣Ⅱ
初の月食前
夢の深層
虚無の深淵では、昼夜の分別がなく、時間でさえも意味を失っている。鯛のお造りは虚無の中で座禅していた。
時折、流れ星のような閃光がピカっと現れる。鯛のお造りが手にした砂時計を拾い上げると、最後の一粒が落ちているのが見えた。
鯛のお造り:どうやら、規律がわかるかもしれない……
虚無の中で水の玉を集め、徐々に鏡に変えていく。
鯛のお造り:ちょうどいい……たまに奇妙な光が点滅しているのが見えるんだ、その頻度を昼と夜で記録してみた。
最中:光?一日掛けてこれを記録したというのか?ずっと閉じ込められているから頭おかしくなった?
鯛のお造り:いいえ……最初は確かに退屈でしたが、これらの光は無意味に点滅している訳ではない。
鯛のお造り:手元にくじとかはないか?
最中:あるけど、何をして欲しいんだ?
鯛のお造り:私の指示通りの位置に置き終えたら、呪文を唱えて欲しい。
二十四本のくじは地面の違う方向に置かれ、最中は言われた通り真ん中に立ち、印を結び呪文を唱えた。
しばらくすると、神秘的な青い光が浮かんで、ゆらゆらと「夢」という一つの文字が現れた。
最中:夢?
鯛のお造り:夢路は多岐に渡る、万物真の姿を現せ。
最中:え?どういう事だ?
鯛のお造り:どうやら私は誰かの夢に紛れ込んでしまったようだ。
鯛のお造り:そして、この「夢」に入った客人は、私一人ではないらしい。
夢の漣Ⅲ
初の月食前
現実世界
りんご飴:かき氷……この道、こんなに続く?私たち……迷子になったんじゃ?!
かき氷:今の状況から見れば……そうかもしれないね……
りんご飴:探偵社で方向を判別する方法を勉強したけど、おかしいな……ここでは全然効かないみたい!
かき氷:ここは瘴気が酷い、もしかしたらその影響を受けているのかもしれない。
遠くない草むらから音が聞こえ、二人はすぐに警戒態勢に入った。
りんご飴:また堕神?!
かき氷:かもしれないね、気をつけよう!
草むらの中から、人影が現れた。それはかがみながら、地面で何かを探しているようだ。
りんご飴:フンッ、怪しい奴め!食らえ!
りんご飴の攻撃を受け、その人物は、くぐもった呻き声と共に地面に倒れた。箱が転がり、床にはいくつもの薬草が散らばった。
りんご飴:しまった!堕神じゃない?!
かき氷:見てみよう。
顔面蒼白でか弱い青年は、痛みを必死にこらえながら、眉をひそめて草むらに倒れ込んでいた。
りんご飴:だっ、大丈夫?ごめんなさい!わざと襲った訳じゃないの!あの……堕神と勘違いして……本当にごめんなさい!
ふぐ刺し:ゴホンゴホン……構いません
りんご飴:あっ!どうして血を吐いているの……そんなに力入れていないのに……
ふぐ刺し:いいえ、これは薬の副作用だ……貴方のせいじゃない。
りんご飴:薬……?
かき氷:本当に大丈夫?
ふぐ刺し:ええ……コホンッ、少し休めば大丈夫だ。
ふぐ刺し:貴方たちはどうしてここに……?
かき氷:友だちを探しにきました、この辺で行方不明になったみたいなので。
ふぐ刺し:……行方不明?
ふぐ刺し:キノコ狩りに行ったきり、帰ってこなかったとか……?
りんご飴:煎餅先生の事を知ってるの?!
ふぐ刺し:ゴホッ……彼なら今私の住処にいる。
ふぐ刺し:でも……コホッ……散らばった薬草を拾ってもらえないか……今の私はまだ動く気力がなくて……
りんご飴:はい!任せて!薬草がいっぱい……あなたはお医者さん?
ふぐ刺し:いいえ……普通の薬師だ。
夢の漣Ⅳ
初の月食前
夢の表層
極楽の夜、提灯が赤い欄干を照らし、お酒の香りと弦の音が心をくすぐる。
寒ぶり:うーん……上手!実に良い音じゃ!
遊女:お客様が気に入ってくれて何よりです。
寒ぶり:遊郭で聞いたのよりよっぽど上手だぞ。
カステラ:何一人で遊郭に来てるんだ?
寒ぶり:面倒事を避けるために……それと、酒を飲みにな!
遊女:ふふっ……お客様ったら、実に豪快な飲みっぷりですわ、おかわりを注ぎます。
寒ぶり:気が利くのじゃ……あれ?なんだか良い匂いがする……
遊女:ふふっ、お気に召したのですね?もう少し近づいて、何の香りか当ててみてくださいよ。
寒ぶり:ヒクッ……沈香、丁子、白檀……他にも花の香りがする、良い匂いだ……
遊女:鼻のよく利くお客様ですね、もっと近寄ってみたらどうです?
カステラ:……
寒ぶりは遊女の袖をそっと鼻まで引っ張った。彼女も顔を隠してふふっと笑う、隣のカステラはやや不満そうにしている。
寒ぶり:なんだって?飲む!わしはまだまだ飲める!もう一杯注いでくれ!
遊女:お客様、わっちの袖を掴んでいたら、お酌が出来ませんよー
遊女:あれ?お客様……?お客様?
寒ぶりは首を傾け、ぐうぐうと大きないびきをかき始めた。その手にはまだ、遊女の袖が握られている。
純米大吟醸:ふふっ……寒ぶりは酔ったら男みたいになるでありんす。
カステラ:……
遊女:とってもお可愛らしいお客様です。
純米大吟醸:そんな事を言ったら、誰かがヤキモチを焼くよ。
遊女:あら?
カステラは指でこめかみを抑え、寒ぶりの手を引っ張って、彼女を一気に肩に担いだ。
遊女:あら?!お客様?もうお帰りになるのですか?おっ、お会計の方……
それに応えるように小さな袋が床に落とされた。カステラは振り返る事なく、極楽を後にする。
純米大吟醸は「ほらね」という顔をしながら、手にしたパイプを吸った。
夢の漣Ⅴ
初の月食前
現実世界
お餅:ふぅ……この先が百聞館か。
お餅:それにしても、ここはかなり寂れているし……なんか寒い!
鏡餅:そうね……鳥肌が立つわ!
お餅:?!
お餅:鏡餅?!どうしてここにいるの?!……ぼくを尾行したの?!
鏡餅:尾行って何よ!出かける時から「百聞館ー百聞館ー」ってずっと一人でつぶやいていたじゃない?われは途中で何回も声をかけたのに!
鏡餅:寒ぶり姉さんと首座さまが心配だから、われも一緒に行くって言ったのに!
お餅:……もうっ、ここら辺は堕神が出るから、気を付けて……
鏡餅:おっ、堕神……
お餅:まあでも堕神が襲いかかってきてもぼくがやっつけてやるよ……うん?なんか顔真っ青だよ?
鏡餅:う、後ろ……!
黒い影が数体、咆哮しながら二人に突進してきた。お餅は鏡餅を庇いながら、必死で大槌を振るう。
鏡餅は全力で扇子を投げ、お餅の後ろで暴れている堕神の触手を切り落とした。鋭い咆哮が響く、次の瞬間、血まみれの堕神が鏡餅に向かって跳んで来た。
お餅:クソッ!彼女に指一本でも触れたら!このぼくが……!
鏡餅:う、動けない……
お餅は一生懸命大槌を引きずり、火花を散らした。堕神の爪が鏡餅の顔に差し迫っているのに、彼女は動けないでいた。
閃光の中、堕神の体は鋭い刃によってバラバラにされ、地面に倒れて大きな音を立てた。刃は命が宿っているようにゆっくりと青年の手に戻り、和傘に変形した。
お餅:す、すごい!
鏡餅:だっ、大丈夫……
草加煎餅:二人とも大丈夫ですか。
お餅:さっきは助けてくれて、ありがとう!えっと……あなたどこの食霊なの?見た事ないよ!
草加煎餅:私は草加煎餅と申します。二日前、偶然にここに来ました……今は百聞館に置いて貰っています。
お餅:百聞館?この二日間、ずっと百聞館にいるって事?
草加煎餅:はい。
お餅:じゃあ、その……お爺ちゃんみたいな喋り方をする女の子と、何をやってものんびりしている男の人を見なかった?
草加煎餅:お爺ちゃん……のんびり……貴方たちは……お爺ちゃんとお婆ちゃんを探しているのですか?
お餅:えっ……それは違うよ……
草加煎餅:すみません、百聞館では薬師と昏睡している人形師にしか会っていません。
鏡餅:じゃあ、寒ぶり姉さんと首座さまはもう百聞館にいないの……
草加煎餅:もう暗くなります、堕神ももっと増えて来るでしょう。何か聞きたい事があるなら、一緒に百聞館に行きませんか?薬師帰ったら直接彼に聞くといい。
お餅:いいや……二人とも百聞館にいないなら今日はもう帰るよ!姉御を心配させちゃまずいからね!
お餅:ありがとう、煎餅兄さん!
鏡餅:煎餅兄さん、ありがとう、さよなら!
草加煎餅:いいえ……ああ、もう行ってしまいましたか。
夢の漣Ⅵ
初の月食前
夢の表層
夕方、空は雲に覆われ、ぼんやりと三日月が見える。カステラが百聞館に戻ると、あん肝が中庭に一人で座り、「雛子」を抱えて物思いにふけっていた。
カステラ:ああ……
あん肝の様子は変わらないまま、おずおずとしている。カステラはあの古ぼけた人形に視線を落とした。
カステラ:そう言えば……雛子は最近、随分静かになったな。
あん肝:雛子?雛子って……誰?
カステラ:……
カステラ:忘れたのか?貴方がずっと抱えているそれは……なんだ?
あん肝:これは……私の人形……
カステラ:どうやら大切な者の事を忘れているようだね、それは貴方の一番の「友だち」だ。
あん肝:友だち……?
あん肝:あんたとあの赤い服の女の子みたいな……友だち?
カステラ:……ああ。
あん肝:でも……どうして……何も思い出せないんだ。
あん肝:友だち……雛子……友だち……
彼は何度もその二つの言葉を繰り返した。しかし、頭の中で何も思い浮かばなかったのか、ただカステラを見つめている。その目には言い知れぬ悲しみが浮かんでいた。
あん肝:大切な事を……忘れてしまったようだ……
カステラ:それはダメだ、大切な事はしっかりと思い出さなければならないよ。
夢の漣Ⅶ
初の月食前
夢の表層
百聞館の荒地に月光が降り注ぐ、雑草に覆われた小道の先には寂れた夜空が広がっている。
月見団子:ここにいますよね……
月見団子:最近、そこにいるはずのない「侵入者」が増えています。きっとその件で大変悩んでいるでしょう……私に相談してみませんか?
静かな暗闇の中で、聞き覚えのある女性の声が響き渡った。
???:貴方……?私と一緒に眠りに陥った侵入者……
月見団子:やっと姿を現しましたか。
???:相談?貴方に?貴方の存在があったから、閉じていたはずの夢の世界が乱れ始めた……だから次々と侵入者が増えているのじゃ、全ては貴方のせいじゃ……
月見団子:それについては、お詫びいたします。貴方の夢を邪魔するのは私の本意ではありません。これは……事故です。
月見団子:償うと同時に、手助けさせてください……協力しませんか?
???:どうやって?
月見団子:夢の世界を維持すると同時に……侵入者たちの挙動を監視する……さぞかし疲れる事でしょう。私を貴方の「目」として使ってください。
???:「目」?悪くない条件だわ……貴方は何が欲しい?
月見団子:私が欲しいのは、貴方の「庇護」と「許可」だけです。
???:ふーん?言ってご覧なさい。
月見団子:夢の主である貴方なら、この世界のあらゆるものを支配する権力を持っているでしょう。
月見団子:侵入者を一掃する計画があるのなら、どうか私の安全を確保してください、これが「庇護」です。
???:小賢しい……それで、「許可」とは?
月見団子:情報を集め、侵入者を監視するにはこの世界の隅々まで出入りしなければなりませんので、そのための許可をいただきたいのです……
???:……貴方はどうしてそんな事をする必要がある?侵入者同士ならば、同じ陣営であるべきじゃろう?
月見団子:私は彼らとは違う……夢を壊す者が大嫌いなので。
月見団子:しかも、私はこの世界をとても気に入っているんです。微力ながら、世界を維持する協力をさせてください。
???:わかった……真実を語ってくれているといいけど。
???:約束を守ってくれれば、貴方が望んだ物も手に入るじゃろう。
暗流襲来Ⅰ
終焉の夜 前夜
夢の深層
どこまでも続く闇は長い夢のよう、万物から色や形を奪い、永遠の檻に閉じ込めた。だが……声はまだ聞こえる。
雛子:いつまで寝るつもりよ!このバカ!
雛子:もうっ!怒った!起きたらただじゃおかないんだから!
雛子:バカ……うぅ……
雛子:一人にしないでよ……
雛子:私たち……もうお互いしかないのに……自分さえも忘れるつもりなの……
虚無に彷徨う魂は必死にもがいている。女の子の呼び声と泣き声は火炎のように、聞こえた者の心に焼き付く。
夢と現実はどれも水の泡に……大切な物とは一体……
あん肝:大切な物……
あん肝:私は誰……?さっき泣いていたのは……誰?
あん肝:雛子……!雛子!雛子が泣いている!
あん肝:雛子のところに行く!
影が散らばり、檻の向こうから微かな光が差し込んできた。彷徨う魂は、飛んで火に入る夏の虫のように、前方に何があろうとも知らずに、ただただ前へ進んでいく。
再び目を覚ますと、恋しい少女は記憶のままの姿で、ただ陶器のような頬はやや赤く、目も涙でいっぱいになっていた。
あん肝:雛子……良かった……
あん肝:思い出した、私の雛子だ……雛子がいれば、もう迷ったりはしない……
雛子:あ、あんたね!うぅ……心配したんだから!
あん肝:なっ、泣かないで……まだ怒っているなら、私に罰を……
雛子:バッ、バカ!黙れ!罰なんか……そんなの……うぅ……
あん肝:ごめんなさい……私が悪かった……私がバカだから……
雛子:バカ!自分の事をバカって言うな!あんたの事をバカって呼べるのはこのあたしだけよ!
暗流襲来Ⅱ
終焉の夜 前夜
夢の表層
???:クッ……月食でも侵入者どもを排除し切れないというのか!
???:貴方……私の代わりに侵入者どもを監視してくれると約束したでしょう?月食という大事な日に彼らに隙をつかれるとは……許せない!
月見団子:私の考えが甘かったせいです……彼らが月食の時にあの場所に逃げ込んで、まして結界さえも破れるだなんて……予測出来ませんでした。
月見団子:しかし……私の情報が確かななら、貴方は既に一人の「門番」を手配しているのでは?
???:フンッ、あの役立たず、もうどっか行ってしまったようじゃ……せっかく希望の力を増幅してあげたのに、もったいない事をしたわ。
月見団子:それなら……日頃に強化していた結界が簡単に破られた原因は、そう単純なものじゃないと思います……
???:月食よ……月食の記憶が私の心を揺るがすから……結界が弱くなったのはそのせい……
月見団子:……では、この手はもう使えないと?
???:この世界は出来上がったばかりで、とても脆い。いざ、世界の障壁が十分に固くなったら、私の心も安定するじゃろう。
月見団子:分かりました。
月見団子:彼らの行方をきっちり監視しておきます。
???:せいぜい頑張りなさい。でないと、奴らを排除する時の貴方の安全は保証できない。
月見団子:承知しています。
???:あの逃げ足の速い奴の行方も探ってきて頂戴、何しろ侵入者だからね、これ以上の面倒は御免じゃ。
???:もう帰っていいよ。少し休むわ……最近よく変な夢を見るのじゃ……
女の声が聞こえなくなったら、月見団子は何か思いついたように顔を上げて、新月を見上げた。
月見団子:探し物が見つからない今、この夢をそう簡単に破らせませんよ。
暗流襲来Ⅲ
終焉の夜 前夜
夢の表層
カステラ:なんだ。
寒ぶり:毎日持ち歩いているその板はなんだ?どこの娘からの贈り物か?
カステラ:贈り物?いくら貴方でも、こんな物を贈り物にしないだろう。
寒ぶり:ゴホンッ、当然でしょう?そもそも娘じゃあるまいし……
カステラは、寒ぶりがブツブツ言いながらも、腰にある絵馬を不思議そうに見ているのを見て、いっそ絵馬を外して、寒ぶりに手渡した。
カステラ:これは普通の板じゃない、絵馬と言うんだ。
寒ぶり:絵馬?それって神社で願い事を書くために使う物じゃろ。
カステラ:そうだ。何か願い事があるなら……そこに書けばいい。
寒ぶり:本当か?叶うのか?
カステラ:やってみればいいだろう。
寒ぶり:あんた……願い事を書かせといて、わしの秘密を覗き見するつもりじゃないだろうな?
カステラ:信じないならもういい……
寒ぶり:ええっ!だから冗談じゃ!書いてみよう!
優しい月光を借りて、寒ぶりは机に伏せ、真面目に願い事を書き始めた。カステラは気にしないフリをしながら酒をがぶ飲みしているが、目は絵馬から離れなかった。
寒ぶり:よしっ!書けた!書いた後はどうやって保管するんだ?
カステラ:私に渡せばいい。
寒ぶり:あんたに渡す?
カステラ:そうだ、普通の絵馬なら神社に奉納するように、貴方が書いた絵馬は私に渡さないと効果がないんだ。
いきなり敬語で言われて、カステラは失笑した。絵馬を受け取り、内容を見ると顔色が変わった。
カステラ:早く現世に戻れますように……そして鯛のお造りが無事でいられますように?
寒ぶり:おいおいっ!読み上げるな!秘密にしないと叶わないじゃろ!
カステラ:ふっ……
パキッという音がして、カステラは絵馬を真っ二つに折った、そしてそれをさりげなく捨てると、表情は元に戻った。
寒ぶり:……なっ、何で折るのじゃ!
カステラ:願い事は叶わないただの板だからね。
寒ぶり:なんじゃ!子どものイタズラか?!
カステラ:その手には乗らないよ。
寒ぶり:はいはい……じゃあ、もう一枚くれ!
カステラ:ちょっ、おい!
カステラの制止を振り切り、彼からもう一枚の絵馬をひったくると、素早い筆さばきで文字を書き込んだ。
「カステラとずっと親友でいられますように」
寒ぶり:はい!今度は折るなよ!
カステラ:……幼稚。
寒ぶり:えーいらないのか?喜ぶと思ったのじゃが。
カステラ:……預かる。
寒ぶり:へへっ、やっぱそう言う事じゃったか、素直じゃないのお。
カステラ:願い事は秘密にしないと……叶わない……
寒ぶり:あ?なんか言ったか?
カステラ:いや、何も。酒を飲んでいろ。
暗流襲来Ⅳ
終焉の夜 前夜
現実世界
朝の薬草畑で、ふぐ刺しが身をかがめて薬草の手入れをしている。草加煎餅は熱いお茶を飲みながら、近くに座っていた。あたたかい光に包まれているこの空間は、とても穏やかで静かだ。
りんご飴:かき氷、あなたの予想は当たったよ!煎餅先生は本当にここにいたわね!
かき氷:うん、でもちょっと考えればすぐにわかったよ。この二日間、ずっと薬師と一緒にいたみたいだから。
りんご飴:あれ?言われてみれば、あの二人……なんだか仲が良さそうね。
草加煎餅:おや……貴方たちはどうして……
りんご飴:えー!先生、また忘れたの?今日は一緒に帰るって約束したじゃないですか!
草加煎餅:帰る……ああ、すっかり忘れていました、今日は帰る日でしたね。
ふぐ刺し:もうお帰りですか……それなら、これを持って行くといい……ゴホンッ。
ふぐ刺し:この薬草は……瘴気の毒に効果がある。万が一怪我した時も、これで応急処置が出来る。
りんご飴:良い匂い……薬師さん、ありがとう!
ふぐ刺し:コホッ……あと、煎餅、キノコの毒は全部抜けたはずだ……だけど次はそうもいかないから。
ふぐ刺し:色鮮やかなキノコは大抵猛毒を持っているものだ。
草加煎餅:ええ……わかりました、次からは気を付けます。
りんご飴:あれ、なんか今の先生は大人しい生徒みたいだ!
草加煎餅:……
りんご飴:先生、もう出発してもいい?
草加煎餅は熱いお茶を両手でしっかりと握りしめていて、立ち上がる気配がない。ふぐ刺しは薬草の手入れに没頭しているし、二人とも無言だった。
かき氷:りんご飴……まだ片付けてない荷物があるのを思い出した、一緒に行こう。
かき氷:ほら、とにかくついてきて。
二人の姿が見えなくなると、草加煎餅はそっと湯呑みを置き、同時に目の前で顔を上げた薬師を真剣な視線を送った。
草加煎餅:ずっと言い忘れていましたが……本当にありがとうごさいました。
ふぐ刺し:いいえ……そのキノコの毒のおかげで、新しい薬の研究が出来た。
草加煎餅:うん……私たちは……また会えますか?
ふぐ刺し:ここが貴方たちの国と同じような太陽を迎える時には、きっとまた会えるだろう。
草加煎餅:ええ……貴方ならきっと「解毒薬」の研究に成功すると信じています。
暗流襲来Ⅴ
終焉の夜 前夜
夢の表層
深夜、薄雲の間に欠けた月が見え隠れし、見知らぬ訪問者は安らかに眠る鳥たちを邪魔する。
カステラ:月見、また貴方か。
カステラ:実は私にも同じ疑問を持っているよ……最近よく深夜に百聞館を訪ねているようだね。
月見団子:なんせ……夜の方が何かとやりやすいですから。
カステラ:ふふっ、その口ぶりだと、どうやら計画はうまく行ってないんだな。
月見団子:はい、ある方が私が想像していたよりも執着しているからです。
カステラ:貴方の目標が神器なら、他人を巻き込まないで欲しいね。
月見団子:もちろんです。私の目的に抵触しない限り、誰とでも仲良くしますよ……
月見団子:ただ、どうしても目の上のたんこぶになるというのなら、除去するのみです。
カステラ:そう……自分の能力を高く見過ぎているんじゃないのか。
カステラ:私もいる事を忘れるな、そう簡単には思い通りにはさせない。
月見団子:それは困りますね。正直に言って、私は貴方の敵になりたくないのです。
カステラ:貴方を敵に回すのは相当な勇気がいる、出来れば私もその選択肢を避けたい。
カステラ:となれば一つだけ忠告をしてあげよう。彼女より、影にいる敵の方が厄介だよ。
月見団子:影?
カステラ:これほど巨大で精巧な夢……他の時空が存在していてもおかしくない。
カステラ:まだ把握していない情報こそ、致命的だ。
月見団子:……
月見団子:カステラ、貴方の事がますますわからなくなりました。
カステラ:そう……貴方が私を理解しようとしていないからじゃないのか。
月見団子:情報提供ありがとうございます。もう遅いので、私もこれで失礼します。
暗流襲来Ⅵ
終焉の夜 前夜
現実世界
コンコンと扉を叩く音がした。最中は手に持っていた水晶玉を慌てて仕舞い、机の上の盆栽をいじるふりをしていると、訪問者が彼の肩を優しく叩いた。
抹茶:この前の占い結果が示した通り、彼らは無事に帰って来ました。この事を知らせにきました。
最中:そうか……良かった、怪我はないか?
抹茶:煎餅先生は毒キノコを誤って食べてしまいましたが……道端で会った薬師に助けられて、すぐに治りました。
最中:危なかったな……
抹茶:はい。それと、彼らは薬草を持って帰ってきてくれました。帰還してすぐに花が咲いたそうで、りんご飴が全部庭に植えました。
最中:それは、不思議だな……
最中:え?い、いや。
抹茶:さっきからずっと上の空でしたよ。
最中:ちょっと眠くなったのかもしれないな!昼寝の時間だし。
抹茶:でしたら僕もこれで失礼します、お礼を言いに来ただけですから。
最中:いやいや!私は大した事していないよ、占っただけだ。
抹茶:最中さんの占いで安心しました、皆が無事に帰って来られたのも先生のおかげです。
最中:言い過ぎだよ。へへっ……私にもっと実力があれば、色んな危機を防げたかもしれないのに……そしたら皆ももっと幸せに暮らせただろうな……
そう言いながら、最中は何かを思い出したのか、再び眉間に憂いの色を浮かべた。
抹茶:最中さん、ゆっくり休んでください。僕はこれで失礼します。りんご飴たちも貴方の占術に興味を持っているようです。また日を改めて来てもらう事にしますね。
最中:ああ、彼女たちによろしく伝えてくれ。
抹茶が部屋を後にすると、先ほど仕舞った水晶玉を取り出し、軽く球面を撫でると、影像がぼんやりと現れた。
黒が虚無を包み、虚無の壁には月食、殺戮、鮮血と慟哭、おぞましい光景が移し出されている。
影像の中央には、真っ青な顔の鯛のお造りがいた。彼が赤い結晶を呼び戻したら、影像もすぐに途切れた。
最中:順調か?顔色悪いよ。
鯛のお造り:あんな気味の悪い影像を見せられたからだろう……大丈夫だ。
鯛のお造り:貴方の言う通り、ここで月食の光景を作り出せば、表層にも影響を及ぼすことが出来る。先日、寒ぶりから連絡が来た、あちら側はもっと不安定になったそうだ。
最中:良かった……となると、月食の日はいずれ来るだろう。寒ぶりと一緒に脱出することが出来るな!
鯛のお造り:……すまない。少し疲れた、少しだけ休ませてくれないか。
最中:ああ……何かあったらすぐに連絡してくれ。
暗流襲来Ⅶ
終焉の夜 前夜
夢の表層
夜風が草を撫で、サラサラとした音を立てる、それはまるで幽霊の囁きのようだ。
???:取引……?侵入者の貴方が私と取引をするなんて……面白い。
カステラ:私なら、この夢が永遠に壊れないように出来る。
???:あら?言ってみるがいい。
カステラ:私の知る限り、貴方は通路に色んな結界を張っているのだろう。
カステラ:しかし、相手も凄腕の陰陽術の使い手だ。直にあれらの結界は破られる、これじゃ前回と変わらない……
???:フンッ、前回はただの事故、月食さえなければ……
???:あの侵入者の腕は確かなものだが、私の結界はそう簡単には破られないわ。
カステラ:そう……しかし、前回のような事故が二度と起きないと誰が保証できるのだろうか。
???:私が築いたこの夢に、私の許可がない限り、月食の日が訪れる訳がない。
カステラ:もちろん、この夢では貴方は全てを司る神だ。
カステラ:でも……私なら、危険をもたらす全ての可能性を排除する。だって、せっかくの「良い夢」なんだから。
???:貴方の言う取引とはいったい何なのじゃ。
カステラ:簡単な事だ、最後の結界を私の体に設置すればいい。
???:何故そんな事を?
カステラ:どんなに精巧に構築された陣法や結界でも必ず、隙はある。
カステラ:最も破るのが困難な結界とは人心……情だ。
???:人の心……情……?
???:面白い話を持ってくるじゃない。そう言えば、もう一人の侵入者とは随分仲がいいみたいじゃな。
???:取引をするなら、貴方の望みは?
カステラ:私の望みは貴方と同じだ、この夢が永遠に続く事。
???:いいわ……取引成立じゃ。
体にやや違和感を覚えた、それほど痛くはないが、住処まで歩くだけでも精一杯。よほど体力が削られたようだ、そんなだるい体で強引に移動した結果、カステラは玄関前で倒れた。
最後の力で手のひらをかざすと、点々とした光の粒は一本の光柱となり、やがて小さな氷の刃の飾りとなった。
カステラ:彼女は知らない……「願いの力」……これも結界を破る方法の一つだ。
カステラ:この鍵は貴方の物…貴方には選択権がある……
カステラ:貴方にとって……私という友人があれらと比べて……寒ぶり、貴方はどちらの方が大事だ?……
カステラは目を閉じた。手にしっかりと握られた飾りは、蛍火のように点滅している。
落月無痕Ⅰ
悪夢の幕が下りる
百聞館
雛子:薬師、今日もあのまずい薬を飲まないといけないの?
ふぐ刺し:ゴホン……心配しないで、雛子嬢。今日は甘草を入れて改良してみた、これで苦味を少し抑えられたはず。
雛子:フンッ、仕方ない味見してやる、おい、バカ、早く飲みなさい。
あん肝:うっ、うん。
あん肝は薬の入った椀を手に取ると、一気に飲み干した。
ふぐ刺し:どう?
雛子:うっ……少しマシになった気がするわ。薬師!次はもっと甘草を入れて!
ふぐ刺し:コホッ……雛子嬢、薬草の比率には決まりがある。味を改善するために、無闇に変えたりすると、予測できない変化が起こるんだ。
雛子:フンッ!わかった、じゃあこれでいいわ……
雛子:不思議ね、今日の薬は甘いだけじゃない、なんだか飲んだら……不思議な感覚がする……バカはどう?
あん肝:そ、そうだね。体が満たされて……空腹感がない……すごくいい感じだよ。
ふぐ刺し:ケホッ……それは……良かった。
雛子:あれ、薬師、もしかして、何か他の薬草とかも入れたの?
ふぐ刺し:どうやら……順調に臨界点を突破できたようだ。今の処方が正解なのかもしれない……ゴホンゴホン……ゴホン!
雛子:あたしたちの病気、もうすぐ治るってこと?!
ふぐ刺し:ゴホン……はい。残念ながらその薬草は希少なものだ、病気を治るにはもうしばらく時間がかかるかもしれない。
雛子:薬師!大丈夫?!口から血が出てるよ!
ふぐ刺し:大丈夫……です……よかった……
ふぐ刺し:この世界を苦しませた「病」をやっと……治せる……
落月無痕Ⅱ
悪夢の幕が下りる
百聞館
月見団子:館主、ようやく目を覚ましましたか。
???:……私……どれぐらい寝ていたかしら……何も覚えていないわ。
月見団子:ほんの数日だけですよ。
???:長い夢を見たわ……変ね……夢の内容がどうしても思い出せない。
月見団子:夢は意識の投影に過ぎません、あまり気にしないでください。
???:確かに……どうせなら、実在する物にこだわった方が……この前言っていた神器の事、調べてくれた?
月見団子:まだ調べています、何か糸口を掴めたら、すぐに館主に報告しますよ。
???:うん……ところで、今日は何しに来たのじゃ?
月見団子:前回、館主が突然昏睡に陥り、何日も起きられなかったので、心配で様子を見に来ました。
???:心配かけてしまったわ。
月見団子:ご無事でしたら何よりです。では、私はこれで。
月見団子が館主の部屋から出ると、揺れる木々の間から、一人がゆっくりと姿を現した。
カステラ:どうやら彼女は本当に何も覚えていないらしいな。
月見団子:これでいいのです。神器の在り処を知る第三者がいない証ですよ。神器自体も、その事に気づいていません。
カステラ:ああ……それはともかく、観星落のやつが察知する前に計画を進めた方がいい。
月見団子:もう観星落の方には未練はないようですね。
カステラ:元からそうだろう、私には関係のない連中だ。
月見団子:前から気になっていました。あれほど夢に執着していた貴方が、どうして……
月見団子:鍵を作り出して彼女に渡したのか……貴方らしくないですよ。
カステラ:そうか?月見が考える私なら、どんな手を使うんだ?
月見団子:それは多分、私と同じで--目的を果たすためなら、どんな手を使ってでも、計画を邪魔する全てを抹消するでしょう。
カステラ:それは違う……道理や目的で解釈できないものだってこの世には存在している……たまには暴れたくなるものさ。
月見団子:そうですか。貴方はますます面白くなりましたね。
カステラ:貴方もだ。
落月無痕Ⅲ
悪夢の幕が下りる
百聞館
寒ぶりは夜空の星を眺めてぼんやりしていたら、足音が聞こえてきた。
鯛のお造り:私の部屋の前にずっといたのか?何かあったか?
寒ぶり:今日……百聞館に行ったのじゃろう?ずっと帰ってこないから心配して……
鯛のお造り:そうか。館主はどうやら夢での記憶を失ったみたいだ、疑念が消えないため色々と聞いていたら時間が掛かってしまった。
寒ぶり:記憶を失った……?
鯛のお造り:ええ……それに最近、月兎はよく百聞館に通っているらしい、これもまた何か裏があるのだろう。
寒ぶり:それだと厄介だな……
寒ぶり:そうだ、あの…
鯛のお造り:どうしたんだ?私が知っている寒ぶりはこんなグズグズするやつじゃないよ。
寒ぶり:百聞館の……彼は?彼は今…どうしている?
鯛のお造り:やはり彼の事を心配しているのか。安心して、彼は元気にしているよ。
鯛のお造り:百聞館で彼に会ったんだ、これを貴方に渡してくれとな。
渡されたのは小さな白い杯であった、小さな魚が泳いでいる。
寒ぶり:……
鯛のお造り:その杯をどこで手に入れたのか、もう覚えていない。夢の中で何が起こったのかもほとんど忘れてしまったと。
寒ぶり:忘れたのか……そうだな、それでいい。
寒ぶり:大丈夫!ちょうど使い慣れた杯が手元になくて困ってたところじゃ!これで気持ちよく飲めて良かった!
鯛のお造り:何事もほどほどに……酒も、想いもだ。
寒ぶり:あんたね、年寄りじみた事ばかり話して……心配などいらん、わかっておる。
落月無痕Ⅳ
悪夢の幕が下りる
百聞館
水鏡が向こう側の世界の景色を映し出し、銀色の月光が部屋の中に降り注いだ。最中は鯛のお造りの語りに静かに耳を傾けている。
最中:なるほど!月食の時、寒ぶりとの連絡が途切れた後、そんな事があったのか。
鯛のお造り:ええ……さて、夢が終わったとはいえ、現実にはまだ解明されていない謎が盛りだくさんだ。
最中:そうだ、瓊勾玉は夢の終わった時に元に戻ったし、瓊子様と天沼様も目覚めた……夢での出来事は全部忘れたらしい。
最中:そしてほぼ同時に神国からそちらへの通路も閉鎖された。流石に偶然だとは思えないな。
鯛のお造り:そうか……瓊勾玉……夢……
鯛のお造り:最中、私はこの前、あるはずのない通路が百聞館の近くに現れたと教えたのを覚えているか?
最中:ああ、おかげで探偵社の者らがそこに迷い込んで、百聞館に行ったらしい。ただ、その間の出来事はすでに羊かんによって浄化されたはずだ。
鯛のお造り:そうか……神器は往々にして共鳴し合っている。それに瓊勾玉は願いの力で出来ているため、その中に宿っている精神力はとんでもない量のはず。
鯛のお造り:もし、それに似ている神器が通路を開いて、それを通して瓊勾玉と共鳴していたら……
最中:まさか……百聞館には神器が隠されているのか、しかもあの通路で瓊勾玉と共鳴までしているのか。
鯛のお造り:ええ、もしかしたらあれは輝夜様でさえ知らない存在……
最中:しかも、食霊に守られていない!このままでは「百鬼」の連中は狙ってくるだろう。
鯛のお造り:月兎は既に動いている。ただ……彼の真の目的は未だにわからないままだ。
最中:まさに貴方の言う通り…夢が終わったとしても、まだ終点には程遠い。
鯛のお造り:辿り着くさ、きっと。
沈黙の中、鯛のお造りは鏡越しで彼方の月を見つめた。その銀色の輝きは、言葉を失うほどに冷たく、心を揺さぶるものだった。
落月無痕Ⅴ
悪夢の幕が下りる
神国
庭の中、草加煎餅は花畑の前にしゃがんでいる。前に植えた薬草はすくすく育っていた。
りんご飴:煎餅先生、何をしているの?
草加煎餅:薬草の様子を確認しています、前より成長が早くなっているような気がします。
りんご飴:あれ?本当だ!こことそこ!昨日まで何も生えていなかったのに。
りんご飴:あれ、そう言えば、この薬草はいつここに持ってきたんだっけ……神国で初めて見たよ。
草加煎餅:ええ、私もよく覚えていません……ただ、これはとても大切な薬草だと思います。
草加煎餅:きちんと世話をしてあげないといけません。
りんご飴:神国の環境はこの薬草の成長に適しているようね、定期的に草むしりと水遣りをすれば大丈夫なはず。
りんご飴:本当に……花がいい香りがする……なんだか懐かしい……
草加煎餅:そうですね、この懐かしい匂いは何かを思い出させてくれる……誰かがこの薬草について色々と教えてくれたことを覚えている、彼の地域ではとても珍しいものだとね。
りんご飴:あれ?あの人は先生の友だち?
草加煎餅:友だち?うーん、そうかもしれません。ただ、彼の顔すら思い出せません。
りんご飴:……最近、皆物忘れがひどいね。
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