ハカール・エピソード
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ハカールのエピソード
命を人に与え、気まぐれに奪う。やがて、最後にはアンモニア水で執拗に洗われた部屋しか残らない。彼女は光のない場所で暗躍し、笑顔を見せた時、殺戮が始まる。それでも僥倖を願う人がいる……なぜなら……誰もが彼女が約束した不老不死を追い求めているから。
Ⅰ.闇の童話
肇始一日の0時に出掛け、ぬかるんだ田舎道や人混みの多い広場を横断する。
活気があればあるほど腐臭を覆い隠せる。月夜が露骨な犯行を隠してくれる。
「1つ、2つ……母を知らず……3つ、4つ……父を忘れる……名もなき死体、深い深い穴に埋まる……」
最近流行りの名もない童謡を口ずさみながら、邪魔になるほど伸びたドレスの裾をそっと撫で、手術台にアンモニア水を何度も何度もかけた。皮膚の最後の一片まで濁った排水溝に流すように。
この人体組織は、グルイラオのある聖職者のものだった。
カレは貴族のような上品な名前だったはず。ハンサムだけれど、唯一ワタクシを魅了したのは、死に際に問いかけてきた純粋な質問だった。
「先生……不死とは、こんなにも素晴らしいことなのでしょうか?」
凡人は死に直面したことがない。だから新生が何であるかを知る事が出来ない。
ワタクシは彼の目を閉じさせた。
「司祭、神の国へ行けますように」
彼はひとつため息をつくと、満足げに目を閉じた。
人間は、偽善で、矮小で、そして、どこまでも貪欲だ。
富、地位、生死……食霊にとってはどうでもいいような物事が、我々の「創造主」をここまで狂わせるとは。
餌を仕掛け、カレらに自らの手で偽善の仮面を剥ぎ取ってもらう……あぁ、滑稽な遊戯みたいだ。
彼らの選択は決してワタクシの期待を裏切らない。
永遠の命の誘惑に抗える者なんているのかしら?
メスを置いて、次のお客さんを迎えようとした時、突然腰部を強打され、よろめいた。
おや、どうやら今宵の訪問者は礼儀正しくないようね。ただの無知なモルモットかもしれないけど。
「……女?」驚愕した声が聞こえてきた。
厚底の革靴が水で湿ったタイルの上で音を立て、カレは躊躇いがちに歩き、銃の引き金を引こうとはしなかった。
ワタクシは散らかった髪を耳にかけ、招かれざる客を振り返った。
「女性の部屋に勝手に上がりこむなんて失礼ですわ、エドガー閣下」
エドガーはワタクシの目をじっと見つめた。まるで、ワタクシの目の中から後悔や罪悪感のようなものを見つけようとしているかのように。
しかし、カレの目的は叶わないだろう。
「オルファ、彼女を見張れ」
入口に立つ若い従者はカレの言葉に応じ、暗い銃口をワタクシの胸に向けた。
ワタクシはリラックスしながら、エドガーがワタクシのコレクションを物色しているのを興味深く見つめる。
「オルファと私が調査したところ、ヘンリーはこの近くで姿を消したはずだ」
やがて、カレはキャビネットの前で立ち止まった、その瞳にはホルマリン漬けの老人の頭部が映る。
恐怖が遅れてやってきたのか、突然銃を握る手の震えが止まらなくなった。
「貴様が犯人か……」
ワタクシはカレが好きだった。とても優しくて立派な……正義の紳士。
「ワタクシを追究する前に、温かいお茶を飲みながら落ち着いて話し合いましょう?」
エドガーは冷たく「黙れ、人殺し」と拒絶した。
あまりの真剣さにワタクシは笑ってしまった。
「ワタクシは医者よ?閣下、アナタのような方は、医者から離れられないでしょう?医学のために命を捧げようとする人を、ワタクシたちが拒める訳がないわ」
カレは一瞬言葉を失った後、「狂人め!貴様は人を殺しているだけだ!」と叫んだ。
「あら?じゃあ閣下にとって、道徳は個人の利益よりも重要なのかしら?」
メスを回し、冷たく光る切っ先を通し、先ほどまで固まっていたはずのエドガーの目から、決意が崩れるのが見えた。
「ワタクシは自分が何をしているのかわかっているわ。閣下……終わりのない殺戮でしか新たな命を育めない。そして、新たな生命が何を指し示すかもね……」
「……アナタは“永遠の命”に興味はないのかしら?」
Ⅱ.永遠の命
カレはきっと戻ってくる。
数日後、珍しく晴れた日にエドガーは再びワタクシを訪ねた。
診療所の奥に小さな丸テーブルを置き、美しい花に共犯者になってもらった。この危険な世界を優しく見せるために。
紅茶の香りが漂う中、エドガーは扉をノックした。
ノックを3回、優しくそして丁寧に。
あぁ、だから好きなの。醜い本当の姿を早く曝け出して——
カレはワタクシの紅茶を丁重に断り、代わりに持っていたスキットルを開け、ジントニックを一口飲んだ。
カレはワタクシを恐れている。道徳的な外面に隠れている貪欲な魂を隠すには、酒を飲むしかなかったのでしょうね。
ここ数日の珍しく気持ちの良い天気や、その他の簡単な会話を交えた。そして、最近ミドガルの宮廷が優秀な医師を求めている事も。
「我々はもう友人ではないか?その……」
カレはワタクシを探っている……ワタクシをミドガルの宮廷に送り込むのと引き換えに、永遠の命の神秘を知り得るかを。
「ワタクシは言ったはずよ、閣下。永遠の命の神秘は、世の中の法則では測れないの。ワタクシが求めているのは、もっと特別なものよ」
カレは知らない。ワタクシが人間でないことも。そして人間が求める名声や富に食霊たちは興味がないことも。
「何が欲しい?私の命だって差し出せる……」
やはり熱心に迫ってくる。
おや?ワタクシの予想ではカレ自身が不老不死を求めているのだと思っていたけれど、どうやら面白い事になりそうね。
「確かに誰かの命が欲しいけれど、アナタの命は別に要らないわ」
エドガーは少し驚いた様子で、「誰が欲しいんだ?」とより切実に聞いてきた。
微笑んでいる金色の瞳孔はすでに獲物を捉えており、あとは血管に牙を突き刺し、皮を剥ぎ取るだけだ。死にゆく獲物は必ず藻掻こうとする、だけどできるのは這いながら死んでいくことだけ。
「ワタクシが欲しいのは……貴方が危険を冒してまでも巻き込みたくない人よ……」
エドガーはワタクシが指した方を見た。扉の外で馬を落ち着かせようとしているオルファに視線を移す。そう、あの可愛い従者だ。
「アナタの家系は一子相伝、彼の父はアナタを救うために命を捧げたと聞いているわ……それ以来、貴方はオルファを自分の息子のように扱っている。もちろん、養子を奴隷と同じように扱うという事が……アナタたち人間が愛と呼ぶそれなのかは知らないけれど」
ワタクシは、エドガーが大衆に向けてついたウソを暴いた。
養子というのは、いつまでたっても卑しい身分から抜け出せない。どう頑張っても所詮は奴隷、なんとも滑稽な話なのだろう。
エドガーは驚いたように目を見開き、口を歪めた。分厚い胸は怒りに満ち溢れているのだろう。
「ワタクシが欲しいのはカレだけよ。閣下」
脆い磁器を床に投げつけ、砕け散る音は弔鐘よりも心地よい。紅茶が地面を緋色に染めた。彼は急いで立ち上がり、現実が作り出した狂気の悪夢から逃れようとした。
「よく考えたほうがいいわ、閣下。これは不死の代償よ。人類が夢見る永遠の命——」
「——それは、このような卑しい物なのよ」
Ⅲ.煌めく宝石
薄暗い路地の隂に立ち、貴族の屋敷の門がゆっくりと開くのを見た。
オルファは手際よく場所を走らせる。その手は荒れているが力強く、過酷な労働に慣れているようだった。
その時、馬車の中で少女の咳き込む声が響いた。その声はまるで産まれたての子猫のように弱々しい。
街角で耳を澄ました花売りの少女が、その音を聞きつけ急いで窓に寄ってきて、白い花束を掲げた。馬車の中にいるであろう少女に向かって「アミスト様!今朝摘んだばかりの白バラです!きっと今日の貴方のドレスにぴったりですーー」と叫んだ。
馬車の中の囁くような会話の後、鹿革の手袋を着けた手が窓から伸びてくると、白バラの花束を取り、銀貨を一枚車外に投げ捨てた。
銀貨は何度も地面で跳ね、最後は泥水の中に落ちた。
銀貨の汚れをまったく気にせず、少女は手を伸ばそうとしたが、ずっと見ていたワタクシが止めた。
ワタクシはコートのポケットから真新しい銀貨を取り出し、彼女の手に握らせる。
少女の戸惑いと警戒の表情は消え、冷たいコインが暖かくなるまでしっかりと握りしめ、従順そうにワタクシに微笑みかけた。
「さっきの馬車に乗っていたのは誰なの?」
ワタクシは少女の顎を上げ、カノジョに尋ねる。彼女の呆けた顔に思わず笑ってしまったが、無邪気な少女はその笑いを優しさと受け取り、それに応えるように顔を赤らめた。
「か、彼女はエドガー様の一人娘です!」
しかし、少女はこの情報が銀貨1枚分の価値もないと思い、必死に話し続ける。
「アミスト様はとても優しい方です!ですが彼女の乳母によると、子どもの頃から体が弱かったらしいです……どのお医者様も10歳までは生きられないと言っているみたいで……」
「半年後には彼女の10歳の誕生日なんです……エドガー様もきっと急いでおられると思います……アミスト様に何かあれば、市長の息子は……他のご令嬢に奪われてしまいますから……」
馬車は通りの角を曲がって消えてしまった。
先ほどの疑問が解け、考え込むように轍のある方向を見つめる。
エドガーは一族の栄光のため、市長と姻戚関係を結ぶために、ワタクシから永遠の命を得ようとしている。
一族の栄光と継続のためなら、その代償が自分の命であっても、簡単に捨てることができるのだ。なんと単純な男だろう……貴族はそんな馬鹿げたもののために永遠の命を求めるのか。
ワタクシは考えるのをやめ、花売りの少女が地面に落ちている汚れた銀貨に手を伸ばすのを許した。
耳元で軽いため息が聞こえてくる。横に目をやると、眉をひそめながら少女を見つめるウェルシュラビットがいた。
「アナタの好きな人間というのは、とても醜い生き物なんだと、前に言ったでしょう?」
「……要件はなんだ?」
ウェルシュラビットは冷たく答えた。
「慌てないで、きっと喜んで協力したくなるから」
ワタクシはにっこり笑って、話を切り出した。
Ⅳ.虚妄の夜
開け放たれたガラス窓に暴雨が吹きつけ、雪に覆われた空は稲妻に引き裂かれた。
嬉々として目を閉じると、3秒後に心地よい雷鳴が聞こえた。その音に驚いた子どもたちが泣き始める。
ウェルシュラビットは部屋に入り、雨に濡れた斧を慎重に壁際に置くと、濡れた髪を拭きながら窓を閉めた。
雨音が徐々に小さくなっていく。
「大変だったわね……この天気で薪を切りに行くと斧が滑りやすいでしょう?」
「狩りの準備だ。苦にならない。何故窓を開けていたんだ?雨なんかでハゲタカの悪臭は隠せないだろう」
ワタクシがハゲタカね……フフッ、悪くない、そう思いながら膝の上のペストマスクのクチバシを指でなぞる。カレがワタクシの答えを期待していないのは知っていた。でも、リンゴの樹の薪をそっと暖炉に入れて、ワタクシは答える。
「お客様を待っているのよ」
燃え盛る炎はもぎたてのリンゴのような甘い香りがした。
あぁ、なんて甘い香り。
「気色悪い……おいっ、本を勝手に椅子の上に置くな。邪魔だ!」
ワタクシの思考を遮るように、ウェルシュラビットはクッションの上にあった古い医学書をこちらに投げつけた。
その分厚い本は落ち、赤黒い羊皮紙のページが広がるのを冷ややかに見つめる。
「君が……やったのか?」
カレはしゃがみこみ、不思議そうに、そして警戒しながら羊皮紙についた黒ずんだ血痕を眺めた。
「ワタクシは医者よ、なぜ大切なノートを汚す必要があるの?」
自分は笑っている、だけどその笑みに感情がない。
「これは、ワタクシの偉大なる御侍閣下が残された唯一の遺産よ……」
まるで数多の童謡の冒頭のようだ。
昔、昔、あるところに高名な医者がいた。
カレは既に富と地位と名声を持っていたが、カレはより高い地位と金のように魅惑的な賞賛に惑わされた。
カレの成し得た事はカレの野望を満たすことができなくなった。それなら奇跡を起こせばいいとカレは思ったのだ。
こういった執着のもと、その医者はある食霊を召喚する。人間と食霊の違いを研究するために、そして実験体として。
……当時、そのような議題は医師会で十分話題に成り得た。
そこで、カレは自分で暗い実験室に閉じ込め、傷を癒す道具を用いて新たな苦痛を生み出し、己の偽善的な探究心で健全な食霊の心と体を歪に歪めた。
だが残念ながら、その妄想が実現する前に、カレは肺病で死んだ。
苦しみしか持たない、空虚な食霊は何度も自分の名前を唱えた。
ハカール……ハカール……そして唱えているうちにやっと気づいたのだ……それが自分の名だと。
突然、診療所のドアが激しく揺れ、銃声の後に崩れ落ちた。
ワタクシが我に返ると、ウェルシュラビットは既に警戒しながら立ち上がり、ドアの外にいる狼狽えている男ーーエドガーを見つめていた。
「おかえり」
大切なおもちゃを取り戻したかのように、満面の笑みを浮かべた。
「……何が欲しいんだ!富、名声、土地、地位……全部お前にやる!だから!だから、彼女を救ってくれ!我が家は破産寸前なんだ……あの子が結婚しなければ……」
アミストはすでに危篤状態だった。だが強風のせいで木が倒れ、病院への道が塞がってしまった。
狂乱しているエドガーの懇願を前にしても、ワタクシは動じない。
一族の生死を、か弱い少女の婚姻に委ねるなんて、あまりに残酷な話ではないか。
もう、ワタクシが終わらせた方がいいでしょう?
「ワタクシが何を望んでいるか、おわかりでしょう?」
身を寄せ、彼の耳元で囁いた。
エドガーは苦しそうに目を覆い、声を震わせた。彼はワタクシに従わなければならない、欲望に従わなければならないのだ。
「……お前の欲しい男は馬車にいる……頼む……娘を救ってくれ……」
あぁ、人間とは、なんと醜く哀れなのでしょう。
エドガーを置いて、ワタクシは扉の外にある馬車に向かった。
「ウェルシュラビット、その貴族はアナタのものよ」
すると、ウェルシュラビットは笑いながら、血に飢えた斧を振り上げた。
そして、メスの影が恐怖に歪んだ青年の目に映った。
Ⅴ.ハカール
エドガー卿と従者はその夜姿を消した。行方は誰も知らない。
病弱な少女は母の腕の中で亡くなり、かつて活気に溢れていた貴族の館は、今や憔悴しきった未亡人と年老いた執事しかいない。
嵐の後は再び晴れ渡る空。
月は全ての罪を飲み込み、前夜の惨劇の痕跡を残さない。
またある一族が滅んだ。だが彼女の、ハカールの遊戯はまだまだ終わりそうにない。
「バカね?永遠の命なんてある訳ないでしょう?」
ハカールは、メスを箱に丁寧に収納すると、満足げに誰もいない診療所を見回した。
彼女は活力を失った窮屈な田舎に嫌気が差し、新しい土地に旅に出ようと考えている。
「結局、なんだったんだ?」
と、ウェルシュラビットは、馬車で出発しようとする彼女に問いかけた。
ハカールは甘い笑みを浮かべた。
「まぁいいでしょう。手伝ってくれたお礼に教えてあげるわ。簡単なトリックを見せるだけで、おバカな人間たちは簡単に餌に食いつくのよ」
「だけど、食霊のような強い存在であっても、永遠の命を与えることは出来ない」
「結局のところ……不死なんてのは、食霊の特権なのだから」
人間と食霊の間には、多くの違いがある。
偽善的な人間はそのような不確かな物のために、永遠の命のために、惜しみなく自分以外の全てを犠牲にする。
なんて滑稽なのだろう。
——そうでしょう?御侍閣下?
ハカールはこのように自分のかつての主に問いかけた。
彼が証明したがっていた議題を、丁寧に解剖してあげたわ。
「勇敢な戦士、雄弁な哲学者、死は皆を同じように扱う」
「高貴な王も、卑しい奴隷でも、人は皆同じ物を求める」
「……あら?閣下も永遠の命を求めているの?じゃあ、ワタクシについてきて……」
分かれ道で童謡が歌われた。不気味な童謡はパレイシからミドガルへ。ハゲタカは探しているのだ。次なる獲物を。
自身の空虚を埋めるために代償を問わない高貴な者は尽きることがない。まるで自分を童謡の一節にしようとしているかのように……
彼女は優しく歌う。
「高貴の仮面、それを剥げば……皆同じ腐肉なのよ」
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