トマホークステーキ・エピソード
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目次 (トマホークステーキ・エピソード)
トマホークステーキのエピソード
魔導学院によって特殊な方法で「作られた」食霊。彼は自分を縛る契約をものともしていない。彼にとって、自分のやりたい事が出来ない事の方が、契約違反の反動の痛みよりも耐え難い。しかし、仲間のために彼は人間が自分に課した「使命」を遂行すると決めた。衝動的で喧嘩っ早いように見えるが、冷静沈着な性格をしており、軽率な行動はしない。仲間の前では、更に幼稚な一面を見せる。戦闘後は時折疲れた表情を見せ、常に眠そうにしているのは、何か理由があるようだ……
Ⅰ.傲慢
もし全員が動かなければ、魔導学院の訓練場にはおそらく1万体ぐらい堕神が収容できるだろうなーー寝るのにはちょうどいい。
「トッ、トマホークステーキ、訓練しないならまだしも、今日は試験日だ。流石に参加しないと……」
「おいっ!聞いているのか?降りてこなければまた罰を与えるぞ!」
……こういううるさい研究者がいなければもっと良いんだがな。
高地を模した高台に横たわり、目を開けて見下ろす。
白衣を着たガリ勉二人が、ボロいファイルを後生大事に握りしめて、あたふたしていた。
「あいつイカれてんのか?聞こえないフリをしやがって。魔導学院に召喚されたのなら、なんでも言う事を聞くはずだろう!」
「言葉に気をつけろよ。怒らせたらまた殴られるぞ」
「殴られる?契約があるのに、そんな事が出来るのか?」
「……君は新入りだからな。彼は特殊なんだ……少なくとも私には彼を罰する良い方法が思いつかない……」
思わず吹き出してしまった。俺は足を揺らしながら、あいつらに良いアドバイスをしてやった。
「俺に罰を与えたいんだろう?ほら、こっちに来て殴らせてくれれば、お望み通り契約違反によって罰せられるぞ!」
親切に提案してやったのに、それを受け入れず、眉間に皺を寄せ、怒り始めた。だけど、何の手出しも出来ない。
「信じられない!たかが兵器ごときに何もできないだと!」
「方法がまったくない訳ではない。もしかすると、トフィープディングを呼べば……」
「おい」
俺は体を起こし、足元の人間たちを見下した。
「妙なことをするなよ……」
人間たちは一瞬固まった後、下衆な笑みを浮かべた。
「なんだ、仲間が弱点なのか?いいだろう、巻き込みたくなければ、今すぐ降りてこい!」
「……いいだろう、俺の拳もちょうど疼いていたんだ」
……
人間はとても弱い、しかもその自覚がない種族だ。
高所を恐れ、水を恐れ、痛みを恐れ、死を恐れる。だがあいつらは自分の目で死神を見るまで、役に立たない傲慢さを決して手放すことは出来ないのだろう。
「トマホークステーキ!お前っ、私たちを下ろせっ!」
高台に置き去りにされた研究員は、ボロボロで傷だらけになっていた。怯えながら叫んでいるが、さっきよりは少しましな顔になった。
斧についた髪を払い、そのまま訓練場を後にする。
何しろ、契約違反による痛みは尋常じゃないからな。
あいつらは、俺が痛みを感じないから契約を違反し、何度も彼らの所謂「権威」を煽っていると思っているらしいが……
あいにく俺も鋼鉄で出来ている訳じゃないし、何も感じない訳ではない。
契約に蝕まれる痛みは、頭蓋骨の上から毒を注入されているようで、脳から四肢に至るまで窒息するような麻痺が広がる。
体の内側から少しづつ引き裂かれていくような感覚だ……
まるで誰かに心臓を鷲掴みにされ、潰され、火の海に投げ込まれたような感覚。
血生臭い焦げの匂いがするほど。
毎回、毎回、死にたくなるくらい痛い。
だが、それよりも自分がしたい事が出来ないよりましだ……
死んでも嫌だ。
終わりのない痛みを和らげようと、自分自身を傷つけたこともある……
斧で足に傷をつけてみたり、レンガに頭をぶつけてみたり……
切り傷だろうが、打ち身だろうが、どうせ痛みやアザはいずれ消えるのだから、どうでもいい事だ。
まあ、面倒くさいのはこれだけじゃない。
「何故またこんな事に?」
血色の視界の先、ルーベンがやってきて俺の前にしゃがみ込んだ。
顔をしかめ、不機嫌そうだ。これはまた怒っているな。
「我慢して、あいつらの指示に従う事は出来ないのですか?とんでもない要求をされる訳でもないのに……」
目の前の血が少しずつ拭き取られる。そして腕と手のひらも、白いハンカチが真っ赤に染まっていく。
俺は笑いながら彼の頭を撫でてやった。幸いにも、聴覚はまだ無事の様だ。
「あいつらの言う事を聞くぐらいなら死んだ方がましだ……人間たちのあの独りよがりの態度が、どうしても気に食わない」
「しかし……このままですと、いつか他の者も巻き込む事になります!」
彼は赤く染ったハンカチを見つめながら、見るからに不安そうな表情を浮かべていた。
こいつはいつも一人で色々考える癖があるな……
「安心しろ、何があってもお前を守ってやるよ」
踏ん張って彼の肩に手を伸ばしたが、次の瞬間には叩き落とされた。
「貴方に守られる必要はない!」
「チッ、かわいくねーな」
「そもそも可愛くない……って、おい!」
「はいはい、頭がまだ痛むんだ。もう少し付き合ってくれよ」
魔導学院の冷たく青白い研究室と質素で陰鬱な寮の間に、狭くて暗い通路がある。
頭上の太陽がどんなに熱くても、その温度はここには届かない。
雨と雪と冷たい風だけがここを行ったり来たりする。
でも時々、そこで血と汗を乾かそうとしていると、ルーベンが珍しく一緒に壁際に寄り掛かって座ってくれる……
そういう時、建物が崩れ落ち、光が暗闇を飲み込む幻覚を見るんだ。
Ⅱ.取引
魔導学院は、俺たちを召喚する前に全てを決めていたようだ。
膨大な数の堕神を対処するためには、常に大局を考える指揮官、事態を把握するブレイン、そして敵を恐れず全力を尽くす戦士が必要だった……
おかしな事に、あいつらは俺に弱点がない「無敵」の存在という位置付けをしていた。
だが俺が本当に恐れ知らずだと知った瞬間、あいつらはビビり始めた。
「心配するな、お前たちは眼中にない。少なくとも今のところ、お前たちをどうこうするつもりはない」
向かいに座っていた老人は、白髭を撫でる素振りをしながら、咳き込んだ。この歳で魔導学院の校長の座に座り続けるのは大変なことだ。
「知っていますとも。”貴方たち”が仲睦まじい事も、それもまた私たちが当初から望んでいたものですから」
こいつの言葉に裏がある事に気付き、思わず顔をしかめる。
「俺たちの関係が良かろうと悪かろうと、お前らの望みとは関係ない」
「ほお……つまり、彼らの安全のために、当分は無茶な事はしないと……何にしろ、貴方と違って、契約違反の痛みは彼らにとっては命取りになりますからね……」
彼は水を一口飲み、なんとか呼吸を整えているように見えた。
「で、今日私の所に来たのは、私を安心させようとしたからではないでしょう?」
「取り引きがしたい」
「取り引き?」
彼は眉をひそめ、狡猾な本性を一瞬露わにする。
「お前たちが何を考えているのかはわかっている。俺を除いた”スペクター”全員は、契約違反の反動に耐え切れない。だからお前たちの命令に背けず、逃れられない……」
「あいつらのために俺もここに留まる事しか出来ない。お前たちの馬鹿げた命令に従わざるを得ないでいると」
斧を床に刺し、ソファーの後ろで緊張した面持ちの研究者二人をチラっと見て、思わず笑ってしまった。
「だが、お前たちも忘れているようだな?御侍が死ねば契約も解消される……食霊として、俺たちは色々な意味で特殊だが、俺たちの御侍は……普通の食霊よりも少しばかり多いだけだ」
「まさか……」
「ああ、そうだ。例え魔導学院の全員を殺しても、俺は反動で死ぬ事はない……信じられないのなら、遠慮なく試してみるといい」
「試す……よく言うよ。私たちの命を代償にしろというのですか?」
人間は食霊と違って弱い。だから常に用心深くずる賢い……ギャンブラーを除いてだがな。
だがまあ、ありがたい事に、この老人は長生きを望んだ。
「では、お互いのために貴方は何を望むのです?」
「堕神を全部殺してやる。その後俺たちを解放しろ」
「自由、ですか……」
彼は意味深な笑みを浮かべた。
「堕神をどれだけ殺す必要があるのはご存じですか?」
「魔導学院の学生より多いだろうな」
「それで本当にいいんですか。良い取引とは思えませんがね?」
「知らなくていい。お前の誠意を見たいだけだ」
彼は目を閉じ、しばらく考え込み、ようやく再び口を開いた。
「貴方たちがナイフラスト地区の堕神を駆除し終わる前に、私たちの新たなる食霊召喚計画も終わっているはずです……貴方たちに自由を与える事は、魔導学院にとっても損失にはならない」
「幸いな事にお前はまだボケていないようだな……お前にとって契約なんてただの紙切れに過ぎない事も知っている、今日、俺の脅迫を覚えていれば十分だ。あとは誠意だな……」
俺は立ち上がり、外に出る準備をした。
「明日、トフィープディングがお前らのところに来て、”スペクター”に新たなる食霊の加入を要求するだろう……それに同意しろ」
「つまり、私に会いに来た事を彼女に知られないようにということですね……いいでしょう」
「それと」
そして、俺はドアの前に立ち、黄昏に差し掛かりながらも権力と栄光にしがみつく老人を振り返った。
「ルーベンに二度と”予知能力”を使わせるな」
「なっ……」
「俺の言葉を忘れない方がいいぞ、さもなくば……お前は無様に死ぬ事になる」
Ⅲ.兄弟
魔導学院が設立された時、全財産はボロい実験室だけだった。
研究資金を得るため、そして、賞賛や栄光、地位を得るため……
この実験室のオーナーは、ナイフラストのとある王国と繋がりを持った。
王国は彼に多額の資金を提供し、それに伴い、堕神共から身を守るための強力な武器を開発しなければならなくなった。
ーー王国の領土を拡大させるための武器を。
だから、初期の魔導学院は長い間、至る所に軍隊の影が見えた。
特に、俺たちが召喚された時はそうだった。
研究員たちが具体的に何をしたかわからないが、俺たちは召喚された後すぐには目覚めず、巨大な培養皿の中で眠り続けた。
目覚めるまでに、連日実験をされていたようだった。
目を開けた時、まだ培養液の中にいたルーベンが見えた。
濡れた髪が頬に張り付き、まるで雨に打たれた子猫のようだった。
銃を持った兵士の姿に一瞬驚いた様子を見せたが、それはすぐにレンズの後ろに隠された。
どうやらタフな猫らしい。
「誰が猫だ!」
初めてその呼び方を聞いたルーベンは、怒って俺の腹に肘鉄を食らわせた。
ほぉ、噛みつくタイプの猫だったのか。
「コホッ……」
訓練場を守る兵士が何度か咳払いをして、早く訓練を終わらせるようにと注意を促してきた。
先程まで活発だったルーベンの顔が、たちまち暗くなっていった。
「契約で縛られている以上、命令には逆らえないのでしょう?それなのに、何故監視が必要なのですか?」
「仕方ないだろう、あいつらは自分が戦場に行けなくても、まだ価値があるとアピールしないといけないからな」
「戦場……私たちには選択肢すらないのに、この世に来てすぐこんな目に遭うなんて……」
「誰もそんな目に遭いたくないからな」
トレーニングで乱れた髪を撫でてやった。
「他の奴らは臆病だが、お前は勇敢な子猫だ」
「もう一度呼んでみろトマホークステーキ!」
ルーベンと戯れながら、ついでに堕神の模型を粉々に叩き壊し、煩わしい測定をすぐ終わらせてやった。
この間、監視役の兵士は更に何度も不満げな咳払いをしたが、例外なく全て俺たちの笑い声と怒鳴り声で打ち消された。
その時、あいつらは俺たちに嫌な顔をした。
俺はルーベンを一瞥すると、練習場にあった石を拾い上げ、その男の尻をめがけて投げつけたーー
「痛っ!」
「アハハハッ!」
レンズの奥に隠れたルーベンの目には、珍しく子どものように笑い涙が輝いていた。
胸に微かに焼きつく契約違反から来る痛みも、すぐに収まった。
「……ルーベン、あまり考え過ぎるな。戦争が終わったら、俺たちは自由が手に入る」
「自由?」
彼はとんでもない事を聞いたかのように、驚いた顔で俺を見た。
「そうだ……普通の人と同じように、家に住み、柔らかいベッドで寝て、人間の食べ物を食べて、堕神を駆除する以外のことをするんだ……」
ルーベンの目は俺の言葉と共に輝きを増し、闇を呑み込めそうなほどになった。
「私たちは本当に、そんな未来を手に入れる事が出来るのですか?」
「その可能性を信じなくてもいいが、俺だけは信じろ」
硝煙の臭いを消すように、また髪を撫でてやった。
「だから、俺たちが誕生した理由みたいなもう変えられない事を考えるな。戦う事しか能のない食霊をどう養うかについて考えろ」
「……貴方を養うのなんて簡単ですよ、肉さえ与えればいいでしょう?」
「クソガキ、俺を何だと思っているんだ?」
「ただのバカでしょう」
「おいっ!」
笑いながら彼の首を絞め、汗と血の匂いが混ざり再び2人で騒ぎ始めた。
夕焼けは黄土色の大地を焦がし、蒸し暑さは宙に浮き、まるで多彩な夢だ。
夢……
……
「トマホーク……おいっ……起きてください……」
戸惑いながら目を開けると、手の届くところにルーベンの皺寄った眉間があったから、撫でてやろうと手を伸ばした。
「何をする?!」
ルーベンは驚いて俺の手を躱し、冷たい目で俺を怒鳴った。
俺は思わず固まり、そして周りを見渡す
ーー
豪邸、ふかふかのソファー、大げさなクリスタルのシャンデリア……
あぁ、今がその「未来」か。
ただ、こんな未来になるとは思ってもいなかった……
Ⅳ.未来
「……昨日はどこに行っていたんですか?」
ルーベンは怒りをこらえているのか、眉間に皺が寄っている。
昔のこいつなら……俺に対して怒りを抑える事などなかったはずだ。
「ああ、用事があったんだ」
ソファーから立ち上がり、朦朧とした頭を思わず押さえた。
「私たちの誕生日よりも大切な用事とは?」
「……お前には関係ない」
彼は一歩下がって、傷ついたような表情を一瞬チラつかせた。
俺は立ち上がり、彼の顔を見ずにその場を立ち去る。
「……毎日のようにケンカしたくないなら、ルーベンに説明したらどう?」
廊下の角を曲がると、トフィープディングが困ったような顔で立っていた。
「どうして部屋から出たの?身体は大丈夫?」
「たった数歩の話だろう、俺よりお前らは……」
彼女は再びため息をついた。
俺よりほんの数秒早く目を開けたから、「スペクター」の長女となった食霊は、戦時中より更にやつれた顔をしていた。
「貴方とルーベンはとても仲が良かったでしょう……彼は貴方が毎日何をしているのか知らないだけよ。貴方が”スペクター”の事がどうでもよくなったって勘違いしているだけ……貴方が頑張っている事さえ知れば……」
「ウソをつくくらいなら、憎まれたほうがましだ」
「……憎む……でも……貴方は私たちのために……」
「あいつは俺を憎むべきだ。あの時、あいつを守れなかったから」
トフィープディングは何か言おうとしたようだが、口をつぐんだ。
そして、またため息を漏らした。
「もう嘆くな。方法はあるはずだ……先に”あっち”を見てくる」
「もう少し寝なくてもいいの?」
「ああ……寝るのは嫌いだ」
トフィープディングはそれ以上何も言わず、俺も自分の部屋に戻った。
ベッドに横たわり、目を閉じる。
再び目を開けると、そこは無縁墓地だった。
不毛な砂地、枯れた木、ボロボロに散乱した墓石……
さっきまでの事が冗談のように思えてくる。
俺は地面から立ち上がり、箱から綺麗なハンカチを取り出し、半分ほど水が張った木製のバケツの中に入れた。
気候も暑くなってきた。パンドーロやデビルドエッグの傷口も以前より頻繁に掃除する必要がある。
そして、ルーベンも……
あいつは何重もの鎖によって木に縛られ、眠っている。
よく見ると、黒と赤の霧があいつの周りに漂っていてまるであいつの体を支配しようと襲っているかのようだ。
ずっと藻掻いていたのだろう、鎖の赤い跡が傷になり血が滲み出している。
俺はあいつの前にしゃがみ込み、湿らせたハンカチで丁寧に血を拭き取った。
かつて俺がされたのと同じように。
俺があいつの体に触れた途端、あいつは抵抗し始めた。
それは、あいつの体に宿った堕神の悪念が、本能的に強力な霊力を持つ食霊を拒んでいるからだ。
だが……
「クソガキ……もう少し俺を信じてくれないのか?”スペクター”の事が大事じゃない訳がないだろう……」
「俺はただ、お前を守らなければいけないんだ」
……
人間は約束を守らない、それはずっと前からわかっていた事だ、それに本気であいつらから「自由」を得るつもりはなかった。だがまさか堕神を片付ける前に「スペクター」を狙うとは思いもしなかった。
今思えば、食霊を自在に召喚できる魔導学院にとって、堕神の存在は不可欠だったのだろう。
俺たちの犠牲は、堕神がまだ存在するから価値があるんだ。
あの悪夢のような夜を思い出したくはないが、忘れる事も出来ない。
人間の裏切りによって、俺たちは傷つき、堕化し、徐々に弱体化し始めた。
俺たちは墓の中に眠り、偽りの夢を見る事しか出来ない。
これが「スペクター」の「未来」か。
俺は地面に座り、目の前にある全てを黙って見つめた。
生ける屍となった「家族」、不毛な墓地、至る所にある血と悪念……
俺だけが、目を開けて、ここに座っている。
孤独なのか?
どうだろう、よくわからない。
だがは夢の世界では、「スペクター」はお互いに寄り添い、決して一人ではない。
今のところ、それだけで十分だ。
しばらく休んだ後、立ち上がって辺りに異常がないかを確認した。
魔導学院は、何年経っても俺たちを見逃したりはしない、絶対に油断してはならない。
今度こそ、「スペクター」を守る……
俺の家族を……きっと……
Ⅴ.トマホークステーキ
人間からすると、長い時の流れの中、堕神に苛まれた苦難の歴史があった。
家族を失い、家を壊され、食べる事はともなく、生き延びる事ですら運次第だった。
堕神と比べれば、人間はとても弱い存在だ。
ちょっとした衝撃で怪我をしたり血を流したり、一陣の風で死んでしまうこともある。
だが、人間には知性がある。
生きるために必死に抗い、そこから生まれる執着と希望は、どの種族にも劣らない。
そして、人間の希望は、堕神と戦うための存在である食霊を呼び寄せたのである。
しかし、それだけでは、到底足りなかった。
より多くの食霊を召喚するため、人間の未来のために、光と自由のために、「対堕神兵器」という名のプロジェクトは極秘裏に始まった。
人間は知恵と執念で、やがて自分たちの何千万倍もの力を持つ存在ーー「スペクター」を作り出した。
人間自身は弱いままだ。
彼らは自分たちが生き残るための選択を迫られた。
こうして「スペクター」は血と汗を流した戦場に永遠に幽閉されることになり、ほんの一部の記録にしか残らない存在となった。
トマホークステーキはこの事を理解しているが、人間の選択を恨まないという理由にはならない。
「スペクター」が欲しかったのは平穏であり、自由だったからだ。
共存出来たはずなのに、人間は恐怖心から彼らを裏切ったのだ。
今日の世界は、彼らの犠牲のおかげで、人間たちは衣食住が確保され、権力や名誉のために互いに攻撃する余裕ができた人間も何百万人いる。
自分たちが平和な世界で生きていくために、ある食霊たちが墓地で徘徊する幽霊となっている事を、彼らは知らないし、そして気にもならない。
トマホークステーキは、どうしようもない憎しみの中で生きていたくはなかった。
彼は「スペクター」に、自分の家族に光と希望を見せたいと思ったのだ。
そこで、トフィープディングとの努力により、完璧な夢の世界を構築した。
戦争画終わり、人間から自由を与えられ、これで安心して暮らせると、単純な食霊たちはそう思っている。
トマホークステーキは、彼らの夢を壊したくはなかった。
だから、堕化したルーベンサンドとレイチェルサンドの治療法を見つけるまでは、どんな困難があってもその夢を守ることを選んだのだ。
目を開ける事は彼にとって、家族を治し、体を拭き、周囲に異常がないかを点検する事である。
目を閉じる事は、夢の世界に入り、トフィープディングと話し合い、霊力を分け与えて夢を維持する事だ。
一世紀近くも続くと、「無敵」である彼であっても次第に疲れが溜まってくる。
かつては毎日トレーニングをサボって寝る場所を探していた彼だったが、今では寝る事が嫌いになってしまった。
眠っている時は夢の世界で家族と一緒にいられるが、体は休まらない。
その上……家族を騙している事で、二重に疲弊してしまう。
しかも、一度眠ってしまえば、堕神や魔導学院の脅威に対して家族が無防備になる事を意味する。
彼は熟睡など出来ないのだ。
例えその代償が、家族と一緒にいられない事であっても、或いは家族に誤解される事であっても、眠りに就くことは出来なかった。
ただ……
時折、少し息苦しさを感じる事もある。そのため、ルーベンサンドの体を拭く時に少し力を込めて発散したりしている。
「クソガキ、あの頃は甘えてくれていたのに、今は俺をなめやがって……俺を怒らせてそんなに楽しいか?」
怒った彼はさらに二度ルーベンサンドの顔をつねったが、黒と赤の霧に包まれた瞳に向けて手が止まってしまった。
「何故、全ての責任を自分に押し付けるんだ……俺がお前たちをちゃんと守らなかったからだろう……」
ルーベンサンドの堕化は、人間への裏切りだけでなく、未来を変えられなかった自分への激しい憎しみが原因だった。
だから、堕化しても誰もきずつけない、自分を傷つけるだけだった。
だが……
「俺はお前を守る」
トマホークステーキは、散らかった薄暗い墓地に片膝をつき、研究室や寮の建物に包まれた路地裏に戻ったような気分になった。
光は飲み込まれてしまったが、それでもきっと戻って来ると信じている。
「俺を信じてくれ……お前におかしな考えを押し付けたクソ野郎共に、どんな事をしてでも償わせてやる……」
彼は既に計画していた。
パンドーロとデビルドエッグがもう少し成長したら、全てを知っているトフィープディングとヴィーナー・シュニッツェルにここを任せ、魔導学院に向かうつもりだ。
100年以上に渡って「スペクター」を縛り付けている契約を破棄するために。
予想外だったのは、この計画が前倒しになった事だ。
「ルーベンが消えた」
トフィープディングは極めて険しい顔でトマホークステーキを見て、何を言っても無駄だと悟ったーー
彼はもう何も聞き入れてはくれない。
その夜、トマホークステーキは、近くの森や、これまで近づかなった邪神遺跡の危険な中心部まで含めて全ての場所をくまなく調べた。
だが、ルーベンサンドの姿はどこにもなく、まるでこの世から消えてしまったかのよう。
「スペクター」にとって、この戦場を勝手に離れる事は契約違反に等しく、反動を受けることになる。
トマホークステーキは、枯れ木に残った鎖を見て、ゆっくりと拳を握った。
「全てを犠牲にしてでも”スペクター”を守る」という決意は、軽々しい言葉ではない。
今まさに、全てを犠牲にする時が来たのだ。
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