【HoK Wiki】バックストーリー(未実装ヒーロー分)
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【掲載日:2026年1月22日(木)】
「Honor of Kings@人物百科事典」のYouTubeチャンネルを開設いたしました。
こちらのチャンネルでは、本ゲームの各種公式アニメの日本語字幕付き動画を制作しています。
本Wikiと併せて、よろしくお願いいたします。
Honor of Kingsに登場する未実装ヒーロー(非プレイアブルヒーロー)のバックストーリーを載せています。

目次 (バックストーリー(未実装ヒーロー分))
① 帝俊(ていしゅん)
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バックストーリー
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| 帝俊──それは、古き神々の時代において「創世の理」を司った存在である。かつて女媧と並び、方舟の上で新世界の礎を築いたが、その思想はあまりにも冷徹で、あまりにも合理的であった。 彼は「十二の奇跡を同時に起動する」という計画を提唱し、世界の進化を加速させようとした。しかしその不確実な計画の裏には、無数の生命の犠牲が含まれていた。帝俊はそれを「神の選択」と呼び、躊躇うことはなかった。 女媧は彼に反旗を翻し、両者は神々の戦争「神隕(しんいん)の戦い」の渦中で決裂した。帝俊は陥落し、その莫大な神力は法具・雲篆儀(うんてんぎ)に封じられた。だが、溟月が保存した彼の一縷の神識は今なおこの世界を彷徨っている。 そして千年の静寂を破り、「朔(サク/ついたち)」の影が再び動き始めた時、世界は知ることになるだろう──帝俊という名の真神が、沈黙の中で今もなお「新たな創世」を夢見ていることを。 |
| 詳細バージョン「旧き日の裂痕」 |
| この断片的な頁は、ある古代の遺跡から発見されたものであり、特殊な材質ゆえに比較的良好な保存状態を保っていた。ほとんどすべての頁の冒頭には、「来た、見た、記した」、「中立を保て、客観を保て、真実を保て──これこそ優れた記者のたしなみ」、「たとえ喉を締め上げられようとも、真実を書き記す」などの文が記されている。 しかし欠落した頁があまりに多く、筆者の正体や時代、稿件の順序を知ることはできない。各頁の内容も連続性を欠いており、ただ一つ確かなのは、その記述が世を驚かすほど大胆で、太古の神々にまつわる秘史を描いているということだ。 大多数の歴史学者は、これをある先人の狂想曲に過ぎないと見なしているが、わずかに信憑性を認める者もいる。真相を確かめるには、さらなる原稿の発見、あるいは過去へ遡り筆者本人に問うしかないだろう。 以下は、その残頁の一つに記された本文である。 ──誰もが知っているとおり、帝俊は寡黙な男である。 新世界の設計を巡り、共識庁の諸卿が口の隅に泡を溜め、殴り合い寸前の口論を繰り広げていたとき、「帝俊殿にも一言意見を」と誰かが言い出して初めて、彼らは気づいた──帝俊はそもそも会議に出席していなかったのだ。 共識庁の者たちにとって、これはあまりに規律を欠いた行いであった。だが帝俊の信奉者たちにとっては──それがまた、実に格好良かった。 おそらく、多くの人が思うだろう──最先端の科学者とは、帝俊のように無口で、言葉を発すれば一語一語が珠玉のように鋭く、冷淡で、非情とも言える辛辣さを持ち、学識は絶対的に高く、誰を見てもその知性を値踏みするような眼差しをしているものだと。 だが、もしあなたが「方舟」の中でそんなことを言えば、間違いなく大勢が反論するだろう。 それは、科学者に対する偏見であると。 なにしろ、方舟のもう一人の最高峰の科学者・女媧は実に人間味にあふれ、よく喋る。 かつては、もっと多弁だった。 今では少し口数が減ったものの、帝俊を議事庁に引きずり込み、隅の席に座らせるくらいは朝飯前だ。 「昨日あなたが提案した『十二の奇跡による新世界の発展方針』、読んだわよ。全体の構想は悪くないけれど、少し急進的すぎない?」 女媧が言った。 帝俊は黙っていた。 「たとえば、第二十三頁にある『十二の奇跡を同時に起動する』という案──もちろん、理論上は最も効率的よ。あなたの仮定した大規模モデルでのシミュレーションでも、成功率は七十六パーセントと出ている」 なおも帝俊は黙っていた。 「でも、私は確認したわ。あなたのモデルには、『あの地域』の生物が含まれていない。その七十六パーセントの成功率の裏には、彼らが絶滅する確率が九十九・七パーセントも含まれているの」 「......それは、旧世界でよく議論された『トロッコ問題』というものだろう。だが女媧、忘れるな。私たちはいま、新世界の神なのだ」 帝俊がようやく口を開いた。 旧時代から方舟に乗り込んだ者たちにとって、女媧と帝俊の議論は見慣れた光景だった。冷たい金属の廊下の中で繰り広げられる、その論戦は一種の風物詩でもあった。 共に最高峰の科学者である二人は、実験・仮説・理論──あらゆる事柄で激しく議論を交わし、時に女媧が帝俊を説得し、時に帝俊が女媧に同意し、そしてごく稀に、どちらも譲らぬまま終わることもあった。 そんなときだけは、普段会議を欠席し、無表情を貫き、滅多に口を開かない帝俊が、思う存分に己の意見を述べた──長年血の気を失ったように蒼白な顔にも、わずかに紅が差すほどに。 そしてそれを傍で聞いている者にとっては、帝俊という男の「生き返ったような姿」は一種の珍景であり、誰もが目を離せなかった。もちろん映像記録を残したい者も多かったが、そんな勇気を持つ者は一人としていなかった。 帝俊の信奉者たちの目にとって、その日の帝俊は──「言葉を多く発する帝俊様」──いわば、最高にクールなように映っていた。 だが、いつからか、二人が不機嫌なまま別れる場面が増え、意見の一致を見ることが減り、議論は次第に火薬の匂いを帯びていった。議事庁の者たちは皆、自然と二人のいる隅の席から距離を取るようになった。 「あなたは、私たちがどこから来たか、もう忘れたの?」 「何度も言っているだろう。私たちは、いまこの世界全体に対して責任を負っているのだ」 「でも、彼らだって世界の一部よ」 ──長い論戦の果てに、今回はどうにか互いに一歩ずつ譲り、かつてのように冗談を交わせる空気に戻った。 「どうすれば、あなたみたいにそんな『死人の如き顔』を保てるのかしら?」 女媧がふいに尋ねた。 「感情神経の剥離手術をすればいい。簡単な処置だし、真神にも相応しい」 「あなたみたいに無表情なら、そんな手術の手間も省けそうね……。そういえば、また『神』の話題を出したわね。まださっきの話を引きずってるの?」 「それなら本題に戻ろう──もしかすると、君には『仮面』が必要かもしれないな」 「乱暴だけど、悪くない提案ね。考えてみるわ」 それきり、二人の間に沈黙が落ちた。 やがて女媧が他の同僚たちに軽く挨拶をして去っていったが、帝俊はずっとその場に座ったまま、無表情のまま、深い眼差しをたたえていた──まるで、仮面をつけているかのように。誰も、彼が何を思っているのかを知る者はいなかった。 客観と中立を保つことが、この記者の信条である。だが、それでも私は心の底から願わずにはいられない。女媧と帝俊が、かつてのように心を通わせ、再び手を取り合う日が来ることを──少なくとも、方舟に乗り込んだあの頃のように。 旧世界の残党である私たちは、これ以上、何も失うわけにはいかないのだから。 |
② 伏鶴(ふくかく/ふっかく)
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バックストーリー
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| 玄都観(げんとかん)に生まれた若き道士・伏鶴は、いつも軽やかな笑みを浮かべていた。どんな嵐の中でも、彼の口からこぼれるのは「逢凶化吉」──すなわち、禍いを転じて福となす心構え。 師匠・趙懐真の教えを胸に、彼は奇跡事務司の一員として多くの仲間を導き、その明るさで誰の心にも灯をともしてきた。 建木(けんぼく)での戦いが始まったとき、伏鶴はナタクや空空児と肩を並べ、雲篆儀(うんてんぎ)を守るため最前線へと歩み出す。卦が不吉を告げても、彼は笑って空を見上げた。運命が凶を示すなら、自らの手で吉に変えればいい──それが彼の信条だった。 まだ若きこの道士の背に、奇跡司の未来が静かに揺らめいている。 |
| 詳細バージョン「来日方長」 |
| 「天が崩れ落ちても、師匠が支えてくれる」──それが、伏鶴が玄都観で最初に学んだ道理だった。 あの頃、彼はまだ幼く、不運な父親によって玄都観へ修行に出されていた。家族と離れ、全く知らぬ場所へ来ることは、幼い子どもにとってまさに天が落ちたも同然だった。 鼻をすすり、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら「父上と母上に会いたい」と泣き喚く。観に仕える道長たちは、道術に長け、弁も立つが、子どもをあやす術にはとんと不慣れ。皆が右往左往し、慌てた者の中には、己の髭で子どもを笑わせようとする者までいた。 ちょうどその時、趙懐真が例行の修習のために玄都観を訪れていた。伏鶴が大騒ぎを起こす寸前、彼はさっと現れ、わずか三言と一つの小さなあめ細工で泣き止ませ、観主の山羊髭を救ったのだった。 こうして、玄都観の「天」は何とか崩れずにすんだ。 それからというもの、趙懐真が観を訪れるたび、その背には必ず小さな影がぴったりとついていた。 「師匠、今日はどんな修行をするの?」 「師匠、今度は一緒に家に帰ろうよ!」 右から左から声をかけて離れない。 趙懐真は何度も言った。 「俺のことを師匠と呼ぶ必要はない」 だが、伏鶴は聞く耳を持たず、「師匠」と甘えるように呼び続けた。その呼び方の甘さに、観中の誰もが微笑むほどだった。 この頃すでに、伏鶴の「口のうまさ」は片鱗を見せていた。何せ、彼の父は飴売り。事情を知る者は皆、「これもある意味、家業を継いでいるようなものだ」と笑い合った。 趙懐真が来ない日は、伏鶴は観主のもとで修行をする。しかし心は上の空で、口を開けば「師匠、昨日は来たのに今日は来ないのかな」、「師匠にもらったお菓子、もう食べちゃった。次はいつ買ってくれるかな」などと呟くばかり。 観主はそのお喋りに疲れ果て、ついに部屋に籠って閉関修行を始めた。結果、小さな厄介者は他の師叔や師爺たちを困らせる羽目に。そうして間もなく、伏鶴の指導役は趙懐真に正式に引き継がれることとなった。 趙(ちょう)師匠は歳こそ少し上なだけだが、幼い頃より修行に励み、慧根深く、勤勉にして誠実。幼子の指導も難なくこなした。 初めのうち、趙懐真はこの子の境遇を哀れみ、無理に修行を迫らなかった。だが、やがて伏鶴が悪戯盛りの年頃となり、問題を起こすたびに彼がその尻拭いをすることになった。 春が過ぎ、秋が来るたびに伏鶴の胸には確信が芽生えた「天が崩れ落ちても、師匠が支えてくれる」と。 冬が過ぎ、夏が来るたびに趙懐真もまた確信する──「この小僧、見た目は人畜無害そうで実は抜け目がない。これ以上甘やかしてはならないな」と。 そしてある日、優しかった師匠が急に厳しい師匠となった。怠けの小細工を容赦なく見抜き、頭を押さえて座禅させ、経書を読ませる。伏鶴は泣きながら思った。 「あぁ、今度こそ天が崩れた......」 だが幸いにも、趙懐真が玄都観に来ない日もある。そんな日は、伏鶴は屋根の上で寝転がり、果物をかじりながら、次はどんな理由で授業をさぼろうか、祭りの帰省で両親にどう言い訳をしようかと考えていた。なぜ家伝の八卦術が一向に上達しないのか──その原因を問われることになるからだ。 長安の空はたいてい晴れ渡っていた。青空に白雲、悠々と飛ぶ鳥。彼はそんな空が大好きだった。 若者というのは、いつだって「来日方長(らいじつほうちょう)」──未来は長いと思い込むものだ。今は三日修行し二日怠けても、いずれ悟れる日が来ると信じる。 仮に天が崩れたとしても、師匠が支えてくれる。自分はその背中で声援を送ればいい。それも悪くない。 だが後に、長安の空は本当に崩れ落ちた。 「両儀門(りょうぎもん)」に災厄が生じ、長安城は滅亡の淵に立たされた。幸い師匠が身を挺してそれを食い止めたが、その代償として彼は二度と玄都観を出られなくなった。 伏鶴には、幼い頃から二つの願いがあった。 一つは、年節のたびに家に帰り、しばしの休息を得ること。両親に八卦術の進歩を問われるのは気まずかったが、母の料理と父の飴細工があればそれで幸せだった。 もう一つは、師匠が玄都観に来て共に修行すること。どれほど厳しくなっても、彼はいつも菓子を忘れずに持ってきてくれた。 伏鶴は夢見た──「もし、師匠がずっと玄都観に住んでくれたら……」と。だがその願いが現実となった時、彼は少しも喜べなかった。 能天気だった少年も、今では己を責めるようになった。もしあの時、怠けず家伝の八卦術を真剣に修めていれば──両儀門が破られた時、少しでも師匠の力になれたかもしれない。 師匠は多くの人々のためにこの空を支えた。しかし彼自身は、その玄都観の小さな方形の空しか見上げられぬ身となった。 伏鶴はそれが嫌だった。 ゆえに彼は父の足跡を辿り、奇跡司を訪ねた。幾多の修行と試練を乗り越えた末、師匠はついに言った。 「弟子卒業はまだ早いが……外の世界を見ることも修行のうちだ」 玄都観を去るその日、伏鶴は荷物をまとめ、いつものように屋根に登って果実を失敬し、陰陽二気に叩きのめされた。それでも師父や師叔たちに甘言を弄して小さな護符をもらい、身を守る支度を整えた。 香の煙が立ちこめ、参拝客が途絶えぬ玄都観。伏鶴はその人波を逆らって大門を抜け、振り返った。そこには、彼が育った道観が静かに佇んでいた。 その時、ふと一つの問いが胸をよぎる。 ──これから先、もし天が崩れたら、誰が支えることになるのだろう? 「え……俺?」 まだ少し嫌々で、まだ少し怠け心を残しながらも、伏鶴は一歩を踏み出した。 長安の空は広く、果てしなく青い。孔子が言っていた──「この外には、もっと広い天地がある」と。伏鶴はそれを見に行きたいと思った。 そしていつか、師匠にもその空を見せてやりたいと、心から願った。 |
③ 令狐聞(れいこぶん)
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| かつて、魔神・帝俊(ていしゅん)に仕えた聖職者・令狐聞。その名は、美の終焉を恐れ、永遠の瞬間を追い求めた男のものだった。 真神が墜ちたあの日、彼は世界から「至高の美」が消え去るのを恐れ、凍てつくような祈りを捧げた──せめて一匹の蝶だけでも、この世に留めてほしいと。やがて、その願いは神に届き、彼の魂は時の牢獄へと閉じ込められる。 幾千年の孤独の果て、李白の詩がその囚籠を切り裂いたとき、彼は悟った──美は滅びることなく、滅びさえもまた、美の一部なのだと。 ゆえに令狐聞は再び歩み出す。帝俊の意を継ぐ聖職者として、崩壊した世界を「完全な美」へと再構築するために。 今、建木の地に蝶の羽ばたきが響く。その軌跡は、永遠を閉じ込めようとする彼の新たな祈りの形であった。 |
| 詳細バージョン「至高の美」 |
| 「天地とは、万物の旅路なり……」 望月(ぼうげつ)回廊は幽かに長く、そして寂として冷たい。そこに、本来ならばすでに命絶えたはずの男が横たわっていた。指先が、詩集の文字を一字一字なぞる。 彼は詩の世界に酔いしれ、声をあげて吟ずるたび、古傷が裂けようと気にも留めなかった。 そのとき──一羽の月光蝶が詩集に舞い降りた。破れかけた翅が震え、彼の意識をかすかに現実へと引き戻す。 令狐聞の脳裏に、初めて蝶を見た日の記憶が蘇った。 千年前、溟月が帝俊の命を受け、雲中(うんちゅう)に月神台(げつしんだい/げっしんだい)を築いていた頃。彼は「築玉(ちくぎょく)師」として選ばれ、その神聖な工事に携わる栄誉を授かっていた。 完成の日、真神が降臨する。神が月神台に立ったその瞬間、光が大地を覆い、凡なる命が昇華した。暗夜に覆われた世界に、初めて光が差したのだ。 雲中に蝶が群れ舞い、「至高の美」がこの世に生まれた。 一羽の蝶が偶然にも令狐聞の肩にとまり、彼は息を呑んだ。心臓は激しく脈打ち、指先が肉に食い込み血が滲む。逡巡の末、彼はついに口を開く。真神に願いを乞うたのだ──「この瞬間、この美しき奇跡を、永遠に留めさせてください」──せめて、この蝶だけでも残せるようにと。 真神は静かにそれを許した。 溟月は新たに聖職者へと昇った令狐聞を助け、そのまだ幼い神力によって、雲中蝶を月光蝶へと凍結させ、「美」を記録した。 それから幾千もの歳月、令狐聞は溟月と共に月神台を守り続けた──いつの日か、再び真神と相まみえるその日を夢見ながら。 彼は神の美に、神の無私と偉大さに心服した。この世界が真神の導きによって完璧へと至るのなら、すべての生命は昇華し、「至高の美」は手を伸ばせば届くものとなる。 彼はその日を思い描きながら、幾千夜を過ごした。だが、真神は堕ちた。信仰は崩れ去った。 完璧なる美が滅びるはずがあるのか? 至高なる存在に、どうして欠けが生じようか? その後の千年、彼は世を彷徨い、宝石を集め、美人を求めた。しかし、彼の眼にはどれも俗にして脆い。何を以て「美」と呼べようか。 そして──あの剣閃が走った。 記憶は月光蝶とともに砕け散り、気づけば再び、幽長なる回廊に立っていた。 千年のあいだ守り続けた「至高の美」は、もはや欠け落ちていた。それでも、彼の口元には微かな笑みが浮かんでいた。 傷は癒えぬまま、痛みは骨の髄まで貫いていた。だが彼は嘆かず、苦しまず、ただ澄んだ眼差しで前を見据えた。 なぜなら、ようやく真なる「至高の美」を見つけたのだから。 李白の剣が閃くその瞬間、彼の眼に迷いが一瞬走った。そのわずかな揺らぎに、令狐聞は千年前のあの日を思い出す──真神の恩寵を授かった瞬間の言葉。 「──もしこの世に情というものがなければ、いかなる詩景も無に等しい」 そうか。この不完全な世界にも、美は在る。欠けているがゆえにこそ、美しい。 「光陰とは、百代の旅人なり──」 李白……彼の詩は魂を揺さぶる。まだ未熟ではあるが、令狐聞にはわかっていた。時が流れれば、彼の詩は必ず「至高の美」に至る。 その日を待つ時間は、息苦しくも胸を焦がす。しかし、彼は待つことに慣れていた。真神を失い、美を失った千年の時を経て、彼の世界は朔月のごとく光を失っていたのだから。 だが、望日は近い。真神は再び還る。完璧なる新たな世界は、神の足跡とともに訪れる。その日、世界は神に捧げるだろう──「至高の美」と名づけられた詩篇を。 望月回廊は、再び静寂に沈む。響くのはただ一つ、執念にも似た心臓の鼓動のみだった。 |
④ 窮蝉(きゅうぜん)
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バックストーリー
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| 冷たい風が吹き抜ける夜、窮蝉は音もなく現れ、そして音もなく姿を消す。彼の刃は命令のために振るわれるが、その心は完全には凍りついていなかった。 任務と「情」──その狭間で揺れ動く感情を、彼は誰にも見せようとはしない。 雲篆儀をめぐる戦いの渦中、窮蝉は建木にて奇跡事務司の一隊と対峙する。任務の成功だけが存在理由であり、裏切りを許さぬ掟が彼を縛っていた。 だが、その心の奥底には、わずかに残された光があった。もしもそれを見抜き、掬い上げる者が現れるなら──窮蝉という影は、やがて「朔(サク/ついたち)」の闇を裂く刃となるのかもしれない。 |
| 詳細バージョン「囚われの獣」 |
| ・その1:飢えた獣 夜はすでに更けていた。 狭苦しい薪小屋の空気は、古びた木屑の黴臭と、家畜の糞の酸い匂い、そしてどこか鉄錆を帯びた甘い生臭さが入り混じっている──それは、彼の鋭い爪が無意識に腕を何度も引っ掻き、滲んでは乾いた血の匂いだった。 闇は純粋ではなく、また完全な閉塞でもない。年久しく修繕されぬこの小屋の木板は腐り、隙間という隙間に風が通う。屋根の瓦は欠け落ち、窓枠も歪み、そこから月光と冷風が入り込む。前者は静かに地を照らし、後者は牙を剥き、みすぼらしい子どもの衣を容赦なく叩いた。 月は公平だ。 華麗な庭園には惜しみなく降り注ぎ、囚われた怪物の檻には冷たく沈む。だがそれは偏ることなく、ただ在り続ける。冷たく、遠く、永遠に大地を撫でるだけだ。 この小屋を満たす月光は、まるで野獣を閉じ込める罠であり、また幾筋もの蒼白い傷跡であり、さらに言えば──飢えた子の夢に浮かぶ米粥のようでもあった。 飢えもまた公平だ。 父も兄たちも温かな灯りの下でご馳走を囲んでいる。だが、それが飢えを遠ざける理由にはならない。飢えは慈悲を知らぬ。薪小屋に閉じ込められ、カビた野菜や腐臭漂う肉片を拾い、命を繋ぐ子どもにさえ容赦はない。 飢えは骨に噛みつく疫のように、生きとし生けるものを等しく蝕む。尊卑の別なく。 そして今、その公平な飢えが、彼の腹を刺す痛みとなって襲う。父の鞭の痛みよりもはるかに鮮烈で、現実的で、逃れようのない苦痛。これこそが、生きるという行為に支払わねばならぬ最も原始的で、最も残酷な代償。 窮蝉は、飢えていた。 彼は月光を喉の奥へと流し込むように、大きく息を呑んだ。 人生は、決して公平ではない。月光は平等に差し込むのに、その光は彼の隅に潜む暗闇を一寸も拭えない。飢えは平等に訪れるのに、それは彼から二つを奪った──生きる糧と、生きる意味。愛という名の温もり、そして人としての資格。 彼は母の命と引き換えに生まれた「怪物」であり、父の目には、二度と外へ出すことのできぬ恥として、この小屋に鎖された存在だった。 細い腕を伸ばすと、常人にはない鋭い爪が月光を反射して冷たく光る。 窮蝉はその爪を見つめる。そこに恐れも嫌悪もない。ただ、何かを確かめるような原始的で、ほとんど祈りにも似た眼差し。 この爪で朽ちた木を裂ける。この爪で厨房の窓をこじ開けられる。そして──この爪で、鶏の喉を裂ける。 命の誕生も存続も、常に他の命の死と隣り合わせだ。母の死──それが、彼の人生最初の「授業」だった。 そして夜な夜な厨房に忍び込み、生肉を盗むたびに、兄たちが獣を屠るたびに、血が噴き出し、命が消えるたびに、彼はその真理を確信していった──生きるとは、他の死の上に立つことなのだと。 外では父や兄たちの酒宴の声が次第に遠ざかり、月光だけが寂しげに輝く。窮蝉は力を振り絞り、歪んだ窓枠をこじ開けると、音もなく闇に溶け出した。 鶏小屋は近い。無邪気な小さき生き物たちは、人の影を恐れぬ──たとえ、それが人の皮を纏った獣であっても。 鋭い牙が羽を貫き、温かい肉を裂いた。窮蝉は喉を鳴らし、噛みちぎった肉も羽も、食べられるものも食べられぬものも、すべて飲み込んだ。断たれた羽軸が喉を裂き、血の味が広がっても構わず飲み下す。獲物の血と己の血が混ざり、腹を満たし、飢えは鎮まった。だが同時に、別の欲が生まれる──殺すことへの、原始の渇望。 それが、小さな獣としての初めての狩りだった。しかし、それが最後ではない。 幾夜を越えて、窮蝉はその牙を、その爪を確かめ続ける。鈍らぬように、怯まぬように。 愚かな家畜を裂くために。荒原の獣を裂くために。魔族を裂くために。そして、兄たちを、父の喉を──裂くために。 流される血ごとに、彼は登る。己の血でも、他者の血でも。血と骨で築かれた階段を、冷たく、鋭く、力の頂へと。そこに待つのは、究極の公平──「死」だった。 ・その2:悪しき獣 窮蝉は、幾千もの「死の声」を聞いてきた。 長刀が皮膚を裂く「ズシャッ」という音。血が管を破って流れる「ブシュッ」という音。骨が力に砕かれる「メキッ」という音。 だが、それだけではない。理解できぬ声もあった。死にゆく者の喉から絞り出される「助けて」。その惨状を見た者の「やめろ」、「いやだ」という叫び。そして、父が血の海に沈んだ瞬間、兄が発した怒号した──「お前、何をした!」。 窮蝉には、それらがただ煩わしかった。死に際に言葉など、必要あるだろうか? 人は生きるために他を殺す。獣を屠り、穀物を刈り、薪を割る。菜食を貫く者でさえ、腹の中は植物の屍で満ちている。ならば、死を受け入れることのどこが難しい? 今、窮蝉は己と同じ年頃の男を足元に踏みつけていた。所属組織・朔から与えられた標的。長刀をあと一寸下ろせば任務は終わる。だが窮蝉はその刃を止めた。男の瞳に宿る怒りと悔恨──「なぜ自分が」と問う光。それが面白かった。 窮蝉は言う。 「お前が死ねば、俺は生きる」 それが、万物の摂理。永遠不変の理。 ──一日目。 男は逃げた。窮蝉は追わない。全力で駆ける男は、自らの足に自信を持っていた。十分に距離を取ったと思い、振り返る。そこに、牙を覗かせ笑う獣が、手を振っていた。 「獲物が知らぬ間に、自ら罠に入る」──それが、窮蝉が狩りで学んだ教訓だった。 ──三日目。 男は刃を研ぎ始めた。金属の擦れる音が、夜の静寂を裂く。窮蝉は目を閉じて想像する。自分が、あるいは男が死ねば──腹を空かせた獣たちが血肉を喰らい、植物はその骨に根を張り、花を咲かせる。命は巡る。 その想像に、背筋を這うような熱が走る。期待と恐怖が混ざり合い、彼の全身を満たした。 しかし、冷静でなければならない。死に臨む者に必要なのは激情ではない。冷静だ。獲物にとっても、狩人にとっても。 ──五日目。 窮蝉は眠りの中で襲われた。敵は小物ではない。計算された奇襲、絶妙な機会。刃先があと一厘進めば、首が飛んでいた。 だが、狩る者であれ狩られる者であれ、窮蝉は常に警戒していた。その瞬間、彼は目を開き、獣のように反撃した。 ──七日目。 正面からの戦い。二つの刃が火花を散らす。男は幾度も勝機を掴みかけ、そのたびに窮蝉の逆撃に打ち倒された。 窮蝉の動きは、ただの剣戟ではない。導くような、嘲るような舞。獲物を挑発し、追い込み、己の刃へと誘う。 男は悟る。窮蝉は楽しんでいる──猫が鼠を弄ぶように。だが同時に、彼もまた理解していた──「油断した獣ほど、死にやすい」という真理を。 男の攻めは鋭さを増し、ついに窮蝉の身体に傷を刻んだ。血が滲む。だが窮蝉は笑う。狩人と獲物の立場が何度も入れ替わる。血の舞踏。それが彼にはたまらなかった。 弱き者が絶望の淵で放つ一撃。それは過去、この世の摂理に抗って牙を磨いた「飢えた獣」の姿そのもの。彼はその瞬間を愛した。 窮蝉は死を恐れない。むしろ、それを待ち望んでいる。だがこの日も、死が訪れたのは自分ではなかった。 少しの落胆、だが唇は笑う。まるで、完璧ではないが刺激的な前菜を食べ終えたかのように。 ならば、次はメインディッシュだ。 任務を終え、望月回廊へ戻った窮蝉は、突如として長刀を抜き放つ。そして、最も近くにいた仲間へと振り下ろした。 金属がぶつかる音。驚愕、怒号、そして笑い。朔には、強者しかいない。絶望から這い上がる弱者を見るのも、強者を狩るのも──どちらも彼を昂らせた。 それは任務ではない。憎悪でもない。ただ、狩るという本能を満たすための愉悦。 月裔(げつえい)たちは彼をこう評する──「窮蝉は飼い慣らせぬ犬だ」と。彼の牙は敵の胸を貫き、時には「主」の喉をも裂く。 窮蝉はそれを否定しない。世界の摂理とは、狩るか、狩られるか。その二つしかない。 誰もが狩人であり、誰もが獲物だ。これほど公平なことが、ほかにあるだろうか。 |
⑤ 晟(ショウ)
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| 晟は珠城(しゅじょう)の第二王子として生まれ、誰よりも誇り高く、誰よりも孤独だった。兄・ハロルドが自由奔放に振る舞う一方で、彼は秩序と理想を追い求めた。珠城という名の都を、ただの繁栄の象徴ではなく、真に「英雄が生きる場所」として再生させたい──それが彼の願いだった。 しかし、願いはやがて執念に変わる。関市の混乱により長城へと拘束され、兄の手で救われたあの日から、晟は信じるようになった──美も正義も、力なくしては守れないのだと。 彼は賭けた。この都を賭し、魂を担保にしてでも理想を現実に変えてみせる。たとえその手を血に染めようとも。 いま、雲篆儀をめぐる争いの波が、静かに珠城へと影を落としつつある。晟の選択が、王族の夢と都の運命を二つに分かつ時が近づいていた。 |
| 詳細バージョン「囚徒」 |
| かつて、珠城の朝陽は必ず十二本の高くそびえる玉柱の頂から昇り、やがてゆっくりと宮殿を照らし、市街を照らし、人々の声が満ち始めるとともに、新しい一日が始まった。 だが今や、その半数の玉柱が損なわれて以来、この城に差す太陽は、まるで遅れて昇るようになった。 晟は珠城で最も高い塔の上に立ち、足元を走り回る職人たちを見下ろしていた。彼らは蟻のように柱の間を行き交い、重い玉石を背負い、ひび割れを塞ぎ、崩れた基座に新たな素材を積み上げている。その光景は、彼の記憶にある牢獄の鉄格子を思い出させた──あの、氷のように冷たい鉄の檻を。 あの頃の晟は、時間が自らの潔白を証明してくれると固く信じていた。だが、兄・ハロルドが玉石を満載した車を連ね、金で彼を救おうとしたあの日、その信念は崩れた。 「金で済む話なら、済ませればいい。大したことじゃないさ」 兄は笑いながら、守衛に宝石を投げ渡した。 晟は顔を背け、馬を駆って走り去った。清白とは、金で量るものではないと信じていたからだ。 「……もう百人、増やせ」 無意識のうちに、その言葉が口をついて出た。声は自分のものだが、意志は違った。冷たく蠢く毒蛇のような「何か」が、精神を締め上げ、言葉と行動を蝕んでいた。 珠城の創建以来、玉柱の修復は栄誉ある事業だった。しかし、どれほどの栄光も、苛烈な徴用の前では塵に等しい。 街には噂が溢れた──民の口々に、第二王子は珠城に垂れ込める陰霧のように語られた。兄の英雄譚を妬み、無用な再建に民を酷使する者。夜ごと享楽に溺れ、民の苦しみに背を向ける者。そんな言葉ばかりが広がっていった。 「よくやった、殿下。お主は己の価値を証明したのだ」 頭の中の声が再び囁く。晟は必死に抵抗しながら、顔の微笑を崩さぬまま言葉を絞り出した。 「玉柱の修復には、まだ時がかかります。秘玉会(ひぎょくかい)の件も──」 だが、その続きを別の声が奪った。 「あの連中か。令狐聞にも言っただろう──自分の手足以外は信じるなと……。なあ、殿下?」 次の瞬間、晟の手が勝手に動き、首を掴んだ。指が喉を締め、息が詰まりかけた瞬間──彼は力づくで意識の支配を断ち切った。 冷静な表情を取り戻しながらも、肺は酸素を求めて悲鳴を上げる。だが彼は必死に呼吸を抑え、内心の震えを隠した。 調べ上げた真実は、予想どおりだった。英雄の夜の戦いで、秘玉会は大きな損害を被り、その背後にある朔とは完全には手を組んでいなかった。 その不協和こそ、彼が朔へ潜り込むための唯一の道だった。 珠城には、正統な支配者が必要だった。地底に眠る魔神の力を、玉柱を通じて引き上げる──そのための「器」が。 そして、兄の光に隠れ、秘玉会の糸に操られる王子・晟ほど、格好の駒はなかった。朔は彼を完全に支配できると信じ、晟はその誤信を利用した。 雲の奥に広がる暗月が、珠城を押し潰すように垂れ込める。晟はその闇に身を投じた。少しでも息ができるように。たとえその代償が、永遠に光へ戻れぬことだったとしても。 「お主、思ったよりも使えるな。今のほうが、『英雄』の兄よりよほど王らしい」 毒蛇のような声がまた嘲る。 晟は静かに答えた。 「……自由に見える世界ほど、牢獄に近いものはない。囚われた狭間にこそ、真の自由があることもある」 「例えば、あの小さな王位のように?」 「──ああ、まさにそれだ」 しばらくして、その意識は霧のように薄れた。晟は目を閉じ、体内を通り抜けた冷たい痕跡を感じた。朔の刻印は消えぬ呪いのように残っていたが、構わない。彼は学んでいる。何度でも、支配と共存する術を。制限された枠の中で自由を見つける術を。そして、玉柱から滲み出る魔神の力を、密かに取り込む術を。かつて秘玉会がそうしたように。 この身が「支配される器」になれるのなら、同時に「支配を囚える牢」にもなれるはずだ。 これは賭けだ。民衆の労苦、珠城の未来、地底の魔神の力、そして、己の魂と自由──そのすべてを天秤にかける、一世一代の博打。 晟は知っている。古き玉柱が崩れても、新たな玉柱は再び築かれる。朔は珠城の支配を諦めず、魔神の復活をも捨てないだろう。 だからこそ、彼は賭ける──すべてを失ってでも、朔の崩壊と永き平穏を手にするために。 珠城の第二王子は、いまこの城に「値札」をつけている。命にも、未来にも。 彼の脳裏に、牢獄の日々が蘇る。あの頃、彼は囚われていても心は自由だった。自らの潔白を信じ、いつか真実が明るみに出ると信じていた。 だが今、彼は珠城の頂に立つ。夜風が唸り、視界は果てしなく広がっている。それなのに、十二の玉柱はまるで鉄の柵のように天へと伸び、城全体をひとつの巨大な牢へと変えていく。 そして、その中に囚われる「囚徒」とは──果たして誰のことなのだろうか。 それを決めるのは、他でもない。彼自身だった。 |
⑥ 淵(えん)
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| 簡略バージョン |
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| 淵──それは、かつて混沌たる雲中を人の手で変えようと足掻き続け、やがて真神の月光の中に救いと帰るべき道を見出した月裔の軍師の名である。 道理も制度も恐怖も、この地の腐朽を覆すことはできなかった。ゆえに彼は自らの過去も執念もすべて捧げ、真神の奇跡のために歩むことを選んだ。 だが、ある戦いの果てに淵は光なき深淵へと呑まれる。永遠の闇と痛みの狭間に囚われながらも、彼の意識は消え去らなかった。 そしていつしか淵は、死の淵でもがく者たちの呼び声に応えるように、冷ややかな月光のごとき声で囁く存在となる。 |
| 詳細バージョン「逐光」 |
| ・その1:旧きこと 「たかが一匹の犬だ」 淵がそう吐き捨てた時、その口調には何の起伏もなかった。脛から伝わってくる痛みはひどく鮮明だった──あの畜生の牙は深々と食い込み、骨すら噛み抜かんばかりだった。だが淵は頭すら下げず、なおも楊戩と渡り合いながら、ただ足を上げてその黒犬を蹴り飛ばした。 黒犬は呻きながら這い起き、血のついた牙を剥き出しにし、喉の奥で威嚇するような低い唸り声を漏らした。 そのしつこさは、飼い主そっくりであった。 そしてまた、ここで彼の前に立ちはだかる、すべての「犬」どもにもそっくりであった──女媧の「犬」ども。こやつらは「十方天枢(じっぽうてんすう)」と呼ばれるこの奇跡を我が物顔で占拠し、それに触れようとする者すべてに向かって狂ったように吠え立てる。 「お前の負けだ」 淵は楊戩の奥義を防ぎ切れなかった。三つ目の聖職者が振るう三叉戟の切っ先は、ほとんど彼の喉元に触れんばかりであり、周囲では聖職者たちが封印の陣を組み上げていた。 計画は失敗した。おそらく他も似たようなものだろう。彼には、軍勢が斬り結ぶ際の兵刃の澄んだ衝突音と、同胞たちが真神へ捧げる呼び声とが、どこかから聞こえた気がした。 月裔の軍師たる彼は、もとより小をもって大を制することに長け、死地の中から唯一の生路を見出すことを得意としていた。だが今、聖職者の大軍を前にして、たしかに逃れる可能性はわずかに残されていたとはいえ……この身には、ほかにこそ成すべき、そして成すに値することがあった。 怒号もなければ、狂気じみた発作もない──彼はただ、かすかに笑った。 楊戩は猛然と戟の穂先をさらに半寸だけ前へ押し込み、鮮血が飛び散った。 「もう遅い」 淵はそう言った。 喉元の痛みよりも先に襲ってきたのは、骨髄の奥底から炸裂するような激痛であった。銀白色の、凛として冷たい光が彼の皮膚の下から滲み出る。初めは淡く、夕刻の落日に掻き消される月光のようであったが、やがてそれはますます眩く、ますます烈しく輝き始めた。 一輪の明月が、十方天枢の上空高く懸かった。 その直後、月は轟然と砕け散った。 淵の目に映った最後の光景は、途切れ途切れであった。 彼は女媧の聖職者たちの愕然とした顔を「見た」。あの犬が主人の裾を噛んで引くのを「見た」。楊戩が法身を召喚するのを「見た」──この愚かな偽神の信徒は、よりにもよって凡身で奇跡の威能を食い止めようとしたのだ。さらに彼は、十方天枢が寸寸に崩れ砕け、空間全体が崩壊し始めるのを「見た」。 彼は落ち始めた。 下へではない──内へ、である──空間が無理やり引き裂かれたその先に口を開けた、底知れぬ暗黒へと。 爆発の核と空間の破砕とから生じた、異様にして得体の知れぬ力が、消え散ろうとしていた彼の意識を包み込み、さらに四散した肉塊を無理やり貼り合わせ、固定し、本来いかなる「存在」も留まるはずのない虚空へと引きずり込んだ。 彼はそこへ落ちた。 その後にあったのは、永遠の静寂であり、永遠の闇であり、崩れ裂け、また寄り集まることを繰り返す肉体の永劫の激痛であった。 この場所では、時間に意味などない。 一瞬であったかもしれず、千年であったかもしれぬ。 彼はこの空間の中で身を丸めていた──もっとも、この強いられた、支離滅裂な歪みを「身を丸める」と呼べるのならば、だが。ここには方向もなく、尺度もなく、ただ人を狂わせるような「逼塞感」だけが四方八方から彼の壊れた知覚を搾り上げていた。 そしてまた、「死寂」──それは思考を圧し潰し、外界に対してなお残るかすかな想像の一切をも圧迫した。 ただ痛みだけが、自分がまだ生きているのだと彼に教えていた。時折よぎる記憶だけが、なお生き続ける理由となっていた。 彼は思い出していた──遠い遠い昔、神々がまだ到来していなかった頃のことを。 彼はあの混沌たる雲中を変えたいと願い、そのために数えきれぬほど多くの方法を試した。穏当なものもあれば、狂気じみたものもあり、迂遠なものもあれば、直截なものもあった……。かつては道理が人を説き伏せると信じ、やがて制度が人を縛ると信じ、その後には恐怖によって人を脅しつけようとすらした。 彼はまるで頑迷な職人のようであった。ゆっくりと崩れていく砂の塔を前に、絶えず継ぎ当て、補強し、材料を差し替え続ける──力尽きるまで、そして己のあらゆる努力が、ただその崩壊の過程に新しい様式をいくつか添えていただけなのだと悟るまで。 そしてようやく、彼は理解した──この雲中の腐朽は、人の力で変えられるものではないのだと。 彼はまた、真神が降臨したあの日を覚えていた。 皎々たる月光が降り注ぎ、神は決して説得も修復も試みなかった。ただあらゆる罪悪を余さず消し去り、帰る場所なき者に家を与え、死にゆく者に新生を抱かせた……。 彼は、自ら月へと歩み寄った時の昂りと敬虔をも覚えていた。それはまるで、迷宮の中で頭皮を破り血を流すまで壁にぶつかり続けてきた者が、ついに出口の光を見た時のようであった。 彼はひざまずき、自分自身を、それまで背負い続けてきた重く無益な過去もろとも、すべて神へと差し出した。 そしてあの爆発も、彼は覚えていた……。 ――その時──。 かすかでありながら細く長く続く呼び声が、無数に重なった分厚い空間の障壁を透かし、ここへと滲み込んできた。 続いて、さらに多くの「さざ波」が伝わってきた。微弱で、乱雑で、四方八方から、果てることなく──淵の心を落ち着かなく掻き乱し、いったい誰なのか、確かめたいと思わせるほどに。 ゆえに、淵は「目を開けた」。 彼は、死にきれず死にかけている無数の者たちを見た。闇の縁で最後の一縷の光を掴まんと、必死にもがくその姿を見た。 その時、ふいに悟ったのだ──自分は外界と再び繋がったのだと。 それは目や耳を通してではない。こうした最も原始的で、最も強烈な生への執着を通してであった──虚空の中に居る自分と同じ、生き延びたいという欲を通して。 淵は意識の一筋を切り分け、その波紋を辿り、死にかけた一人の人間の脳裏へと滲み込ませた。 彼は高みから見下ろすように、その消えかけた命を「見た」。消えるまいとする小さな火種を見た。 そして淵は、口を開いた。 その声は静かで、ひとすじの冷ややかな月光のようであった。 「まだ……生きたいか?」 ・その2:耳目 この大陸の各地には、ひどく怪奇な噂が広まっている。 重傷を負って今にも死ぬはずだった者が、もはや息も絶えようとし、家では白布すら用意されていたというのに──翌朝になると、ひとりでに起き上がった、というのである。傷は残ったまま、心も衰弱したままだが、命だけはたしかに繋がっている。 あとで尋ねても、その者は皆、昏睡の最中に誰かが自分へ話しかけてきたような気がした、とぼんやり語る。だが何を言われたのかは、一字たりとも思い出せない。 さらに奇妙なのは、その後であった。 生き返った者たちは、時おりまるで別人のようになる。これまで決してしなかったことを始めるか、あるいは見ず知らずの相手と急に関わりを持ち始めるか、どちらかであった。 そしてある深夜、その者はふいに身を起こす。傍らの者がいかに呼びかけようと、まるで聞こえぬかのように──まるでその肉体の内に別の魂が宿っているかのように、そのまま闇の中へ歩み入り、そして音もなく姿を消してしまう。 …… 淵の耳目とは、まさにこうした者たちであった。 生と死の狭間でもがき、心の底に在る最後のひとかけらの火だけはまだ消えていない者たち。その火の名は、不甘であり、怨恨であり、まだ手放せぬ人と事への執着であった。 要するに、どうしても生きねばならぬという執念が、少しは要るのである。 彼の声は、意識が散り果てる寸前に響く。高すぎも低すぎもせず、ただ死にかけたその心に、ちょうど届くだけの声で。 「まだ……生きたいか?」 彼はよくそう切り出した。その語気は、まるで今日の天気でも問うかのように淡々としていた。 もし相手の胸の奥に残るその火が、ひとつでも揺れたなら、取引は成立する。 彼は蜘蛛の糸よりも細い一筋の意識を分け与え、その不甘に絡みつかせ、生への欲が焼き開いた通路を伝って、わずかな力を渡す。その力だけで、今にも途切れそうな命はかろうじて繋ぎ止められ、傷口はどうにか塞がり、心臓はなおも鼓動を続ける。 代償はある──以後、この目も、この身体も、この命も……もはや完全には自分自身のものではなくなる。 淵は時おり、彼らを通して「人の世」を眺めた。 長城の外で風砂がいつ向きを変えるのかを見、長安の花灯がいつ明滅するのかを見、雲中砂漠の珠柱がまたどれほど修復されたのかを見た。彼には色や形を見分けることはできたが、温度は感じ取れなかった。木の葉が舞うのは「見えて」も、風の流れは一絲たりとも感じられなかった。 月が昇る時、牡丹道士(ぼたんどうし)は花影の中で物思いに沈み、棋局に潜む変数を推し量っている。高塔の上に立つ王子は寒風に向かい、亀裂の入った美玉を指先でなぞっている。 彼らの視線は、いずれも目に見えぬ力に引かれるように、空へと向けられていた。 その絶対の闇、痛みだけが永遠である闇の狭間にあって、淵はまるで地の底深くに埋められた囚人のようであった。天井に穿たれた無数の小さな穴にすがりつき、切り裂かれ、砕け散った月を貪るように覗き見ていた。 どの月も千山万水を隔ててはいたが、それでもたしかに同じ一輪の月であった。 皎々たる月華は、はっきりと見える──だが同時に、決して手の届かぬ彼方にある。それはあまりにも過去に似ていて、そして過去ではなかった。 それでも、それで十分だった。 月光のかたちを忘れずにいられるだけで十分だった。神が再び昇るためなら、自分はすべてを捧げるべきなのだと、忘れずにいられるだけで十分だった。 脚の不自由な斥候が寝返りを打ち、いびきが次第に静まる。侍女は荷を整え、遠方へと歩み出す。明世隠は一子を落とし、その音は冴え冴えと響く。晟は視線を引き戻し、誰にも気づかれぬ冷笑を口元に刻む……。 淵はなおも耳を澄ませ、なおも待っている。 次なる、不甘のまま沈み果てることを拒む魂が、絶望の底であの微かな、取引に足る火を灯すのを待っている。 そしてその時、彼はまた囁く──生と死にまつわるあの声は、永遠に途絶えることがない。 なぜなら人の世には、消えかけながらも、なお必死にもう一度だけ明るく燃えようとする火種が尽きることはないからだ。 そして深淵は、いつだってわずかな光を借り受けながら、あの月がなお天に懸かっていることを、祈るように待ち続けているのだから。 |
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