【黒ウィズ】アシュタル編(新人王2016)Story
目次
story1 狂犬
不思議なもので、安寧が訪れるのを見計らったように悪夢はやってくる。
治安のいい土地などそうあるものではなく、ようやく滞在できそうな街を見つけたと思ったらすかさず夢がアシュタルを襲うのだ。
もちろんミツィオラの夢だった。
眼が……眼が痛いの……ッ!
うっ……ぐっ……ああっ……!
悶え苦しむミツィオラを前に立ち尽くしながら、言葉にならないうめき声を漏らすだけだった。
早く、私を殺して、アシュタル……。
自分でありながらも自分ではない存在が、痛切に死を乞うミツィオラを斬り上げ――
――飛び起きる。
……はぁ……はぁ……クソッ。
いつもここで目が覚める。
ミツィオラを斬る瞬間の生々しい感触は何度味わっても色あせぬ苦しみを伴う。
手の震えが止まらない。
脂汗にまみれたアシュタルは宿を抜け出し、路地裏で夜風に当たる。
悪夢の余韻を振り払おうと、今に集中する。
月が明るい。少し肌寒い。どこからか花の香りがする。
今夜も眠れないのか。
振り返ると、セリアルが立っていた。
お前もなかなかどうして、難儀な男よな。
ほっとけ。
ほっとくわけにもいかない。
私は別に構わないが、ルミアにはそんな顔見せるなよ。ひどいものだ。
額の汗を拭う。鏡で見ずとも、ひどい顔であろうことは容易に想像できた。
……ああ、気をつける。悪かったな。
力なく頭を下げると、セリアルは決まりが悪そうに目をそらす。
ああ、いや、こっちこそすまない。お前の胸中は察するに余りある。
私に、なんというか、いわゆる、包容力みたいなものがあればよかったんだが。あいにく持ち合わせてなくてな。
んなもん期待しちゃいない。
こうして気にかけてくれるだけでも、十分すぎるほどだ。
酒……は飲まないんだったか。
……せっかくだから、もらおうか。
下戸が無理をするな。
くれ。
このままでは、どうにも眠れそうにない。
……そうさな、こんな夜だ。少しやろうか。
セリアルは軽い足取りで宿に戻ると、琥珀色の酒が入った瓶と杯を持ってきた。
ほら。お前には勿体ない上等な酒だぞ。
誰の金で買ったと思ってる。
おまけに、揃いの杯もアシュタルが作ったものだった。
アシュタルはセリアルから注がれた酒をまずそうにあおった。
酒が喉が灼き、空っぽの胃にじんわりと染み込む。
アシュタル、起きて。ごはんだよ。
二日酔いというのはひどいものだ。
普段なら耳に心地よいはずのルミアの声でさえ、頭に響いて痛む。
お酒くさい。
ルミアが眉根を寄せる。
アシュタルは頭が悪い。
……うるせえ。頭が痛いんだよ。
ルミアに起こされてからしばらく置いて、どうにか寝床から這い出る。
顔を洗ってむかむかする胃に豆と芋のスープを流し込む。
再び寝床で横たわる誘惑を振り払い、もう酒は飲まんと誓いを立ててからあてもなく散歩する。
下戸のくせに無茶しおって。だらしない男だ。
背後からセリアルに声をかけられる。
返す言葉もなかった。あったとしても、頭痛と吐き気でしゃべれそうにない。
まあ、止めなかった私の責任もあるがな。私からすれば、ルミアだけじゃない、お前も子どもみたいなものだ。
なんの因果かお前たちとー緒に旅をしているが、わたしが心配なのは、ルミアだけじゃない。
私には包容力がないかもしれんが……もっと甘えていいんだぞ。
真剣な表情でつぶやいたセリアルだったが、すぐにいたずらっぽい笑みを浮かべ――
いきなりべ夕べ夕甘えられても、困るがな。
軽口を叩いて、立ち去っていった。
セリアルの背中を睨みながら、もう酒を飲まんとー層深く誓い直す。
昼近くなってから街の外れに借りた工房に行き、陶芸用の土をこね始めたところでようやく気分がマシになる。
今日は大皿を作ろうかと思った矢先、工房にルミアがやってきた。
アシュタル、大丈夫?
ああ。どうにかな。
……すごく、つらそうだった。私、アシュタルのこと……。
安心しろ。酒はもう飲まん。
違う。そのことじゃない。……昨日も、夜中うなされてた。
気のせいだ。犬の遠吠えかなにかと間違えたんだろ。
アシュタルはルミアのほうを見向きもせずに言った。
……馬鹿にしないで。そんな子どもだまし、通用しない。
ルミアはアシュタルのこねている粘土質の土塊を奪うように取り上げる。
私にできること、ないかな。私……アシュタルの……。
俺の心配なんてしなくていいんだよ。なんか、あれだ、勉強ちゃんとやれ。セリアルにでも教えてもらえ。
ごまかさないで。今は、アシュタルの話。
ルミアはじっとアシュタルの目を見つめる。
物怖じしない、意志の強そうな目。それでいて、包み込むような優しさがある。
根負けしたアシュタルはルミアから目をそらす。
(……こんなところまで似てきやがって)
***
その男の名を知るものは少ないが、姓を知るものはもっと少ない。
根無し草同然の生活をするその男が名乗る機会はほとんどなく、とりわけ姓を名乗ることはあえて避けていた。
人々から怪物、あるいは狂犬と呼ばれるその男の名はアシュタル・ラド。
覇眼のー族、ラド家の当主。
もっとも、ラド家の生き残りは傭兵として戦地を転々としているアシュタルただひとりなのだから当主もクソもないのだが。
その日、アシュタルは傭兵の仕事をこなした後、久しく戻っていない家に帰ろうと思っていた。
夏の夕刻。賊同士のくだらない縄張り争いだった。
死ねやクソどもがああああああああ!
まずひとり斬り殺したら、浴びた返り血の臭いに酔い痴れるまま、手当たり次第に斬った。
美しさや鮮やかさとは程遠い、荒々しい剣捌き。それは剣を冒涜するようであり、剣に魂を捧げるようでもあった。
やがて、斬る相手がいなくなる。
あっけなさすぎて、殺生の実感はなかった。
全身にまとわりついた脂くさい血潮の臭いで、ああ、殺したのだなとおぽろげに思う。
アシュタルはこの臭いが好きだった。臭いがー層強くなる、今日のような蒸し暑い夏だと尚いい。
血にまみれて佇んでいると、男がおっかなびっくり近づいてくる。
さ、さすがだな!
アシュタルを傭兵として雇った、賊の首領だった。
いやあ、俺は知ってたんだよ、あんたの強さを。……いや、あんたの強さの秘密を。
男は辺りに散らばる死体を見渡しながら、自らの手柄を誇るような調子で言う。
あんた、アシュタル・ラドだろ?覇眼っつう力を持ってるらしいじゃねえか。
……なんでそれを知ってんだ、てめえ。
アシュタルの強い語気にひるみ、男は媚びたような笑顔を浮かべる。
w実はここだけの話、俺は昔、あんたの親父と仕事をしたんだ。そこで、覇眼の力の世話になったもんだぜ。
当主間の盟約で使用が禁止されている覇眼の力。
ラド家を没落させたあの男は、その力の使用を仄めかしていたのか、力に呑まれて実際に使っていたのか。
いずれにせよ無様なものだとアシュタルは思う。
やっぱり、血筋ってのは偉大だ。あんたの覇眼も圧倒的じゃないか!
それが男の最期の言葉となった。
アシュタルが男の首を刎ねたのだ。
……何が覇眼だよ。クソったれが!
首領が殺されるのを見て、賊たちの半分が逃げ出しもう半分が果敢にもアシュタルに向かっていく。
地に落ちた男の頭を蹴り飛ばし、アシュタルは笑みを浮かべて賊たちを斬る。
辺りは静まり返っていた。
気がつけぱ宵で、生ぬるい風が血まみれの髪を撫でた。
愚かな。
いつの間にか、アシュタルの目の前に生白い肌の女が立っている。
女からは濃密な死の匂いがむんと香った。
血の臭いではないし、臓物の臭いでもない。しかし何より死を想起させる、不思議な匂いだった。
静かに、しかし確かにアシュタルは興奮を覚える。沸々と血が沸き立つ。
改めて女を見る。冷たい目をしていて、生気を感じさせない。
まるで死を体現しているかのようだった。月の光を映して輝く大鎌もまたいい。
誰だてめえ。
ハクア・デスサイス。名前など、告げたところで意昧はないのですが。あなたの命を、刈りにきました。
わけわかんねえこと言ってんじゃねえよ!
怒声をあげたが、アシュタルの口元は綻んでいた。嬉しくてたまらないのだ。
こいつは只者じゃない。
身体中に、荒々しく血が巡り渡る。
本能が危険だと告げるのはー体いつ以来のことか。
久しぶりに、逃げろと本能が大音声で喚いた。
アシュタルは歪んだ笑みを浮かべて、喚き散らす本能を綸り殺す。
ここで逃げたら、何のために生きているんだ?
死ぬために生きてきた――そんな背反こそがアシュタルの人生だった。
その目は危険だ。
……あ?
覇眼は、人間が持っていていいものではない。おとなしくそれを渡しなさい。
こんなもんいらねえけどよ、てめえにくれてやる道理はねえな。
道を踏み外した者が道理を語るのですか。聞くに堪えません。
そりゃ違いねえな。
騎士道を気取るつもりはないが、気まぐれに名乗ることにする。
俺の名は……アシュタル。アシュタル・ラドだ。
名乗り終えた瞬間――アシュタルは駆け出す。
大鎌を手に悠然と佇む、冥い目の女。隙だらけのようで、ー切隙がない。
あの体勢から鎌の刃をどう奔らせるのか。全く読めない。
それでもアシュタルは相手の懐に突つ込んでいく。
力量をはかるような真似はしない。殺せるなら初手で殺す。
剣を鋭く横薙ぎに振るう。
その軽やかな動きに息を呑んだ瞬間には既に女が間合いに飛び込んでいる。
どこにそんな力があるのか、疾風の如き大鎌のひと振りを放つ。
咄嵯に剣を出し、辛うじていなす。
速い。途轍もなく速い。そして重い。
てめえ……人間じゃねえな。
……死神。鬼畜に堕した者の魂を刈るのが、私の仕事。
いいじゃねえか……ぶっ殺してやるよ!
アシュタルは剣を持った腕をだらりと下げ、ハクアに向かっていく。
その構えにもなっていない構えは、アシュタルが得意とするものだった。
あえて隙を作って、誘い込んだ敵を斬り上げる。そうやって効率よく殺す。
そのまま隙を突かれた場合は、為す術なく己が死ぬだけだ。
命を惜しいとも思わない、アシュタルだからこその戦法だった。
***
はぁ……はぁ……。
アシュタルは肩で息をしていた。
対して、ハクアは全く呼吸を乱していない。
終始、攻め続けたのはアシュタルだ。攻めさせられていた、とも言えるかもしれない。
その剣がハクアの身体をとらえたのはただのー度もなく、掠りさえしなかった。
アシュタルも、ひと振りで命を刈り取るであろう大鎌を食らいこそしなかったが、人間のそれとは比較にならないほど重い蹴りを何度かもらった。
化け物が……。
アシュタルは血を吐き出し、口元を拭う。そして、笑った。
……おもしれえなあ。おもしれえよ!
ー気に駆け寄り、真正面から斬り上げるように剣を振るう。
ハクアは大鎌の刃で軽々とそれを受け止める。
打ち合うたびに、死の匂いが強く香る。
生気のない、冷たい死を体現したかのようなこいつの血は、熱いのだろうか――
思い描いた熱い血潮はしかし、幻に終わる。
突如、ハクアは微かに顔をゆがめ、飛びずさって間合いを取った。
この世界には、殺戮が溢れている。
小さいが、不気味なほどによく通る声だった。
殺戮の力を行使する咎人がいるー方で、そんな咎人を生み出す、更なる悪がいる。私はそれを刈らねばならない。
何をごちゃごちゃ言ってんだ。今更ビビったのか?
あなたとの児戯に付き合っている暇はなくなりました。全く。悪運の強い。
その眼を、使ってはなりません。
使わねえっつってんだろうがクソが死に晒せやあああああああ!
ハクアの首を狙って力任せに剣を振るうが、空を切る。
ハクアの足元の闇が濃くなったかと思うと、そのまま地に飲まれるようにして消えた。
しばし呆然とした後、アシュタルはその場に頽れた。
死を取り逃がしたと思った。
殺せなかったことを惜しんだのかもしれないし、自らの死に時を逸したことを悔いているのかもしれなかった。
ハクアとの決着がつかなかったことに対する憤怒も後悔もなく、ただひたすらに疲労と倦怠だけが残った。
アシュタルは予定通り、屋敷に戻る。
めったに帰ることはないが、野盗に荒らされたり乞食に住み着かれたりということはない。
昔、屋敷に踏み入った者を何人か斬ったら瞬く間に噂が広まり、見事に誰も寄り付かなくなった。
だから、屋敷の窓から漏れる灯りを見てアシュタルは少し驚いた。
化け物屋敷に立ち入って、あろうことか灯りまでつけているとは。
命知らずか、世間知らずか。いずれにしても取るに足らない存在だろう。
特に警戒することもなく屋敷に入る。そこで再び驚く。
中にいたのは、女だった。
女は血まみれのアシュタルをじっと見つめる。物怖じする様子はない。
ひどい臭い。人間とは思えないわ。
それが女の最初の言葉だった。
それを最期の言葉にしてやってもよかったが、ひどく疲れていて剣を振るう気が起きなかった。
死神がひとりの命を救った格好になる。皮肉なものだ。
ここへは何度か来ていたの。やっと会えたわね。
女は友好の意を示すように、アシュタルにー歩近づいた。
いい女だとアシュタルは思った。
顔もよければ面構えもいい。おまけに、家柄のよさに関してはその身なりから疑う余地もなかった。
――今日はわけのわからない輩にやたらと会う日だ。
誰だ、てめえは。
ミツィオラ・スア。挨拶回りで寄らせてもらったの。
……挨拶回りだ?
ああ、あなたは知らないでしょうね。スア家当主、私の父が亡くなって、その跡を私が継ぐことになったの。
スア家の当主が代替わりしたんだから、ラド家当主、アシュタル・ラドのところへ挨拶に伺うのは当然でしょう?
ミツィオラはまっすぐにアシュタルの目を見つめながら言った。
その力強い眼をー瞥して、アシュタルは目をそらす。
密約で覇眼の使用が禁止されているとはいえ、こうも馬鹿正直にまっすぐ相手の目を見る覇眼持ちはまずいない。
私は、ラド家の現状を認めない。
カンナブルの中心に戻るべきよ。すぐには難しいと思うけど、少しずつでも、他の家を動かしていくから。
余計なことすんじゃねえよ。……殺すぞ。
ミツィオラに動じる様子はなかった。
また、日を改めるわ。ラド家の未来のためにも、あまり無茶はしないで。
怪物や狂犬と呼ばれて忌避される男に殺すと言われたのに、動じることなく、また来ると言った。
大した女だと思った。
story2 獣の道
自分の生にすら無頓着なアシュタルだが、剣のこととなると、話は別だった。
ハクアとの戦いが、どうしても忘れられない。
重ねたー合ー合を、すべて思い返してみる。
そして思考を巡らせる。自分は、どうしたらあの首を刎ねることができたのか。
好き放題できる想像の中ですら殺せなかった。
ー方で、自分が殺される様はありありと想像できた。
そして、その想像通りの死に方ならば、悪くないとさえ思った。
――再びミツィオラがやってきたのは、そんなことを考えている折だった。
ミツィオラにとって、ラド家のカンナブル復帰は冗談ではないようで、頼んでもいないのに現在のカンナブルの情勢をあれこれ説明する。
率直に言って、ラド家の復帰を望んでいるのはスア家以外にいない。
ー拍置いて、ミツィオラはかぶりを振る。
いえ、語弊があるわね。私以外に、ラド家の復帰を望んでいる者はいない。
……一体何が目的だ?
何って……私がそうしたいだけよ。そうしたいし、そうあるべきだとも思う。
ミツィオラは力強く言い切る。
それにしても汚い屋敷ね。使用人くらい雇ったら?
ずけずけと物を言う女だとアシュタルは思った。
噂じゃスア家ってのは和を尊ぶって話だけどな。ずいぶんと好き勝手やってくれるじゃねえか。
それは先代、私の父のことよ。私は、上辺だけの和になんて興味ないの。
真の和のためなら、いくらでも波風を立てるわ。
アシュタルは足りないと自覚している頭をひねって考えた。
……イレを潰したいんだろ?そのために俺を利用するって話だ。
そんなことは考えてないわ。イレが支配するカンナブルの現状を肯定するつもりはないけれど。
それに、あなたを頼るくらいなら、ロアとルガに謀反を持ちかけるわよ。
だったら何が目的だ。
今日はそれを話すつもりで来たの。……聞いてくれる?
帰れと言って、ミツィオラが帰るところを想像できなかった。ああ、とアシュタルは生返事をする。
よかった。怪物ラドなんて言われてても、やっぱり話せばわかる人なのね。これでも、結構怯えてたのよ?
勝手に人の屋敷に上がりこんで、勝手に人を信頼している。この女はー体何なのだろう。
まだラド家がカンナブルの中心にいた頃、既にイレ家が権力を握っていて、ロアとルガがそれに続いていたわ。
そして、権益に絡むことができなかったスアとラドは没落しかかっていた。
それでも生き残ろうとしていたラドは、危険な選択をしたの。密かに覇眼の力を使って、近隣の都市を襲って利を貪りだした。
ミツィオラは大きく2度、まばたきをする。
その情報を手土産にイレに取り人ったのが、スアというわけ。ほどなくしてラドは追放。
真偽は定かではないけど、ラド家当主が戦死した裏には、イレがー枚噛んでいたという話もあるわ。
……これが和を尊ぶスア家の正体よ。
特にどうとも思わなかった。
強いて言えば、やはり自分の親父はクソがつくほどの愚か者であったということぐらいか。
確かに、密約を破ったラド家当主にも問題はあるわ。でも、他に道はなかったのかと考えてしまうの。
それは俺たちの親父同士の問題だ。俺たちの問題じゃねえだろ。
だけど、私の父があんな選択をしなければ、あなたはもっと別の人生を歩めたはずよ。
よくもまあ他人のためにここまで熱心になれるものだ。
大した女だと思う。立派なものだと思う。しかし、それを受け入れるかとなれば話は別だ。
……そんなクソみてえな理由でくだらねえ情けをかけんじゃねえよ。
腹の底から絞り出すような声だった。
あなたの噂は聞いているわ。まるで、人を斬るために傭兵をしているらしいじゃない。
今からでも遅くない。まっとうな、人の道を歩みましょう。
死にてえのか。
……死にたくはないわ。
だったらすぐに失せろ。
***
それからもミツィオラはしっこくやってきては、まともな道を歩んでカンナブルに復帰するよう、アシュタルに詰め寄った。
自らの懺悔とアシュタルヘの説教が入り混じっだ小言を漏らしたかと思えば、お互いのことを知ろうと言って他愛のない雑談をしたりもする。
人間らしい情を植え付けようとしているのか、もうすぐ1歳になるという娘の話がやたらと多い。
もっともミツィオラにそんなつもりは毛頭なく、娘の話をするのは母親として当たり前の感覚なのかもしれなかった。
どちらにせよ、そんな話はアシュタルに曹陶しさ以外の何物も与えなかった。
この辺りは、緑が多いわね。子どもを育てるには、カンナブルの中心よりよっぽどいいくらい。
……娘ほったらかしでいいのかよ。
よくないわ。だから、あなたばかりに時間を割きたくないの。
これ以上強情な態度をとるなら、この辺りに別荘でも建てようかしらね。……案外いいかもしれないわ。
俺は飯を食うために傭兵やってんだよ。やめられるわけねえだろ。
確かに、それもあると思うわ。だいたい、こんな世界だもの、戦わずに生きていくほうが難しいわよ。
……だけど、あなたはそうじゃないでしょう?いろいろ噂が聞こえてくるし、人を使って調べもしたわ。
相変わらず意志の強そうな目を向けてくる。
あなたは間違いなく、人を斬ることを生きがいにしている。
ミツィオラが鋭いのか、傍から見れば誰でもそう思うのか、アシュタルにはわからなかった。
だからどうしたっていうんだよ。
このままではいけない。戻ってこれなくなる。人の心が無くなってしまうわ。
人の心なんてものは持っちゃいねえよ。
いいえ、あなたにはまだ、人の心がある。目を見ればわかるもの。
目を見てその人間がわかるというのか。
あるいはそうかもしれないとアシュタルは思う。
ミツィオラの目から感じた、気高い意志と、慈しむような優しさ。
まさしく、このお節介で暫陶しいこの女そのものだった。
だとすれば、自分にはまだ人の心が残っているというのだろうか?
昔ー度だけ、あなたを見たことがあるの。今から10年くらい前だったと思うわ。
アシュタルは虚を突かれる。それは予想していないひと言だった。
父とー緒に、馬車でこの辺りを通りかかったの。男の子が飛び出してきて、剣を向けたわ。
スアに向けた剣というわけではなく、旅人から略奪をしようとしたところに、たまたま私たちが通りかかっただけだと思う。
ミツィオラの声から張りがなくなり、その目からも力強さが消えた。
その子の目は……ひどいものだった。全てを恨むようでありながら、どこかで助けを求めているような目。
あとで、あれはラドの息子かもしれないと父が言ったのを聞いて、合点がいったわ。
ミツィオラの声が、微かに震えだす。
信じられないかもしれないけど、今でもたまに、夢に出るのよ。
覚えはなかった。
しかし、そんな目をしていたというのなら、そうなのだろう。
あの頃は、周りの全てが恐ろしい敵だった。
もっとも、今だって周りの全てが敵だ。恐ろしいか、恐れるに足らないかの違いでしかない。
あなたの目にはまだ、あの頃の名残りがある。
今更遅いかもしれない。でも、手遅れではないと思うの。アシュタル、あなたは変われる。
ミツィオラがアシュタルの手を取る。その手は震えていた。
あなたに、正しい道を歩んでもらいたい。そのために、ラド家をカンナブルに復帰させる。今の私は、それができる立場にある。
変われねえし、変わるつもりもねえよ。
私にとって、あなたはありえたかもしれないもうひとりの私なの。あなたのこと、他人とは思えないのよ。
……ふざけたこと抜かしてんじゃねえよ!
ほんのー瞬、アシュタルはありえたかもしれない別の人生を思い描いた。
自分もミツィオラのように、誰かのために尽力することができただろうか。
それは、うまく像を結ばなかった。
所詮自分は、自身の命すら顧みることなく、他者を屠るだけの存在なのだ。
***
当分暮らしていけるだけの蓄えはある。
しかし、どうにも心が鎮まらず、戦場に出た。人を斬り、血を浴びれば落ち着くと思ったのだ。
いつも通り、つまらない戦いに傭兵として参加する。
国の命運を左右するような戦いにはほとんど縁がなかった。
もっとも、それとてアシュタルにとってはつまらない戦いなのかもしれない。
領土がなんだというのか。権力がどうしたというのか。
名声を上げたいとは思わなかったし、煩わしい指揮官の命令をいちいち聞く気にもなれなかった。
斬れば弊れる。それだけだ。
大局などに興味はない。その身を以て為す命のやりとりにだけ興味がある。
いかに相手を斬り殺すか。それ以外には、何も考えない。
クソッ……ふざけやがって。
しかし、今日はどうにもよくない。
目の前にいる敵を殺めることに、集中できない。
(あの女め……余計なことほざきやがって……)
しきりに、幼い頃の記憶が蘇る。
親父は、恐怖の対象でしかなかった。
睨むか、殴るか、蹴飛ばすか。
今にして思えば、負の感情を与え続けて覇眼の発現を促していたのかもしれない。
あるいは単に、苛立ちを我が子にぶつけていただけかもしれない。
親父が戦死して清々したものだった。
母とさえ呼びたくもない、何ひとつしてくれなかった”親父の女”も後を追うように死んだ。
'奴らが残したものといえば、辺鄙な場所に立つ屋敷と、大量の武器と、忌まわしい覇眼だけ。
ひとりで生きていく上で、人を殺す覚悟などするまでもなかった。
飯を食うのに覚悟がいるだろうか?
ー方、殺される覚悟を決めるのには少し時間がかかった。
だから、昔は殺し合いが怖くて仕方なかった。
恐怖を乗り越えた――否、人間らしいその感覚が麻痺したのは、血の臭いによるところが大きいかもしれない。
がむしゃらに目の前の敵を斬り続けて、おびただしい量の返り血を浴びたとき、特別な力が湧いたかのような全能感に包まれた。
これだ、と思った。自分の人生はこのためにあるのだ、と思った。
それからは、血の臭いだけを求めて生きてきた。
自らの命さえ、殺生の快楽に混じる夾雑物(きょうざつぶつ)に過ぎなかった。
そうだ……俺の命は……このためにあるッ!
向かってくる雑兵を立て続けに斬る。
ぬらぬらとした返り血を浴びると、自分が生きていることを実感する。
自分の居場所は、ここにしかない。
どうしてよ……。
屋敷に帰ると、ミツィオラがいた。
どうしてそんなに満ち足りた顔をしているのよ。あなた、人を殺してきたんでしょ!?
どうしてもクソもねえよ。これが俺なんだ。
お願い……こんなことはもうやめて……。本当に、あなたは人でなくなってしまうわ!
ミツィオラが声を荒げた。涙がひと雫、頬を伝う。
アシュタルは命乞いの涙以外、見たことがなかった。
ミツィオラの瞳からこぼれたそれが、理解の及ばない不思議なものに映り、妙な胸騒ぎがした。
ミツィオラは指先で涙を拭い、大きく2度、まばたきをした。
その目はもう、毅然としている。
あなたはこんな生き方をしていていい人間ではないわ。
ミツィオラに見つめられ、頭に血が上っていくのを感じる。
覇眼なんてものを背負ったー族だからこそ、気高く生きてほしいのよ。
……うるせえ!どう生きようが俺の勝手だろうが!
斬り殺せば済む女相手に、なぜこうも感情を昂らせているのだろう。
自分の力だけで生きてきたんだ今更手え差し伸べられたってどうしようもねえんだよ!
喚きながら、アシュタルは気づく。
自分の命に価値はないと思っていたが、自分がどう生きてきたかということに対して、それなりに思うところがあったのだ。
それこそが、辛うじて残っていた人間らしさなのかもしれない。
そんな人間らしさが、ミツィオラに対し、殺意を抱かせた。
もはや、人間とは言えないだろう。
アシュタルは剣の切っ先をミツィオラの喉に突きつける。
殺す。ミツィオラ・スア!てめえを殺す!
ミツィオラはそれを覚悟していたかのように、うろたえなかった。
あなたは、私を殺さないわ。アシュタル……あなたは変われるのよ。
俺を買いかぶるな。てめえひとり殺すくらいわけねえんだよ!
俺はそうやって生きてきたんだ!たったひとりでな!
だけど、もうひとりじゃないわ。今、あなたの前に、あなたのことを想う人間がいるのよ!
血走った目でミツィオラを睨む。
ミツィオラは目をそらさない。その目は、アシュタルの怒りを受け止め、許すような慈しみをたたえている。
力強くも、包み込むような優しさに溢れていた。
(殺す……殺す……殺すッ!)
その日から、アシュタルにとってミツィオラは最大の脅威となった。
誰でも躊躇なく殺せると思っていたが、ミツィオラを殺すことができなかったし、これから先も殺せないだろうと悟った。
アシュタルはミツィオラから逃げるように傭兵として戦地を転々とし、やがて海を越えて別大陸へと渡った。
ミツィオラの優しさに包まれ、自分が変わっていくことが、ただひたすらに怖かったのだ。
story3 まなざし
遅かったわね。
それが数年ぶりに再会したミツィオラの第ー声だった。
まるでアシュタルが戻ってくることを予見していたかのような物言いだ。
一体どこをほっつき歩いていたのよ。
ミツィオラはまじまじとアシュタルの目を見る。
少しはマシになったみたいね。
実のところ、アシュタルは自分がなぜ数年ぶりに屋敷に帰ってきたのか、よくわかっていなかった。
故郷を恋しく思うなどという情緒は皆無だし、カンナブル復帰を期待しているはずもなかった。
強いて言うなら、ミツィオラと”会わないこと”を期待していたのかもしれない。
殺せない人間がいるから、屋敷に戻れない。
そんな、自分の意思に反して近づけない場所がこの世界にあるということが、なんとも気持ち悪かったのだ。
しかし、アシュタルの期待はあっけなく砕けた。
ミツィオラはいた。
さも当然という態度でいた。
……ふざけやがって。
もうー度、長い旅に出かけるという選択もあったが、屋敷で過ごすことにした。
いつまでもミツィオラから逃げ回っていることに嫌気が差したのかもしれなかった。
ミツィオラは相変わらずしつこく来訪し、改心を説いた。
子育てはいいのかと言ったら、あろうことか娘を連れてきた。
成長した娘のルミアを見たからだろうか。ミツィオラが随分母親らしくなったように見えた。
そして、アシュタルは気づいてしまう。
ミツィオラが自分に向ける目とルミアに向ける目には、どこか似通ったところがある。
導くような力強さと、見守るような優しさ。
こんな人でなしに構うことなく、全ての情をルミアに注いでやればいいのにと思う。
それとも情というものは、際限なく湧いてくるのだろうか。アシュタルにはわからない。
ミツィオラから力強くも優しい目で見つめられ、ルミアからは怯えた目で見つめられる。
そんな居心地が悪い日々に嫌気がさしていたある日の午後――
ついにイレの了承を得たわよ!
いつにも増して、ミツィオラの声は弾んでいた。
ー体何の話かわからなかった。
ラド家が、カンナブルに戻る許可を得たの!
呆れるな。まだそんなことやってたのか。
あら。あなたはそのために帰ってきたんじゃないの?
カンナブル復帰なんて興味ねえよ。
いつまでもふらふらしてないで、ラド家当主として責任ある態度を取るべきよ。
これからは当主会議で意見も表明してもらうわ。くれぐれも、私の顔に泥を塗るような真似はしないことね。
カンナブル復帰が、いよいよ現実の話となってしまった。
そう簡単に受け入れることはできなかった。
再び逃げて傭兵生活をするべきか。あまり気は進まない。
この数年、敵を斬ったところで、ミツィオラの説教が脳裏をよぎり、気が晴れることはなかった。
ならば、もうー度ミツィオラに剣を向けるか。
殺すと息巻いて、踏ん切りがつかなかった数年前。
今だったらどうか。想像してみる。
(……ダメだ……まるで話にならねえ)
現実ではない、頭の中ですら、殺せないどころか剣を向けることさえはばかられた。
だったら、カンナブルに復帰し、心を入れ替え人の道を歩むか。
きっとカンナブル復帰がゴールではない。その後もミツィオラのお節介は続くだろう。
そうすれば、スア家の立場が悪くなるのではないのか。
それに、こんな人殺しが近くにいては、ルミアの心も穏やかではないはずだ。
今日もミツィオラに連れられて来ているルミアをー瞥する。それだけでルミアの顔が青ざめる。
俺は……。
言いかけたところで、ミツィオラがゆっくりとかぶりを振った。
あなたは自分のこともままならないんだから、人の心配なんてしなくていいのよ。
大体、ラド家復帰を推し進めている時点で、イレからは煙たがられているんだから。
そして、柔らかな笑みを浮かべ、手を差し伸べる。
まずは心を入れ替えて、真っ当に生きなさい。
……ふっ。
思わず笑いが漏れた。
数年来に渡る、ミツィオラとのやり取りを思い返す。
まず、初手を取られた。思えばあの晩から既に、絶対に退かないという意志がミツィオラにはあったのかもしれない。
その後はいくら突っぱねても向かってきて、こちらの殺意はことごとく受け止められた。
長い時を経ても、救いの手を差し伸べる意志が弛むことはなかった。
挙句、こちらの心の内を読んでいるときた。
敵わないと思った。
ミツィオラ・スアは殺せない相手ではない。敵わない相手なのだ。
そして、敵わない相手が目の前にいることに、不思議な安堵を覚えた。
無茶な生活はやめて、カンナブルでぼちぼちやっていく――案外、うまくいくかもしれない。
……そうだな。悪くないのかもな。
ー応、ラド家復帰にあたってイレからひとつ条件を出されたけど、まあ、単なる名分みたいなものね。
カンナブルの北にある廃村に反乱分子が潜んでるらしいんだけど、その討伐隊に参加してほしいの。
そこで戦果を上げたという理由で、ラド家がカンナブル復帰という筋書きよ。
ずいぷんと回りくどい真似をさせるものだ。それが政治だというなら、自分には全く不向きだとアシュタルは肩をすくめる。
昔みたいな、無茶な戦い方をしないようにね。
ああ。
――あなたは変わったって、信じてるわ。
自分は変わったのだろうか。あまり自信はなかった。
未だに、血の臭いを嗅ぐと感情が昂る。しかし、その快楽に溺れるまま狂ったように戦うことはなくなった。
まじないは……嫌いでしょうけど。
ミツィオラから小さな宝飾品を渡される。
スア家に代々受け継がれてる、耳飾りよ。戦場に出るときには、必ずつけていくの。
まあ、あなたは戦死するような人ではないでしょうけど。身につけていくといいわ。
いらねえよこんなもん。
邪魔なら売ればいいわ。悪くない値段で売れるはずよ。
売っちまっていいのかよ。代々受け継がれてる大事なもんじゃねえのか。
そういう気遣いができるのね。なかなか善意のある青年に成長したじゃない。
からかっているのかと思ったが、ミツィオラは本気で感心しているようだった。
……クソが。
***
ラド家の当主を配下に指揮を執るなど、身に余る光栄だ。
反乱分子討伐隊の指揮官は、ヤーボ・ブラックモアという男だった。
この若さでそれなりの地位にいるのだから、腕が立つのだろう。
しかし、自ら前衛の第ー陣を希望されるとは。さすがは怪物ラドといったところか。こちらとしても、作戦を立てやすかった。
俺は斬ることしか能がねえからな。他の奴らとの連携はあまり期待してくれるな。
こたびの討伐の戦果を理由に、カンナブルに復帰されるらしいが。……全く、血筋というのは偉大だな。
怪物やら狂犬やらと呼ぱれて戦場を転々としていた男が、4家と並んで当主会議に列席できるのだから。
まあ、血筋だけではなく……スア家の当主が随分熱心に動いたらしいが。
そう言って、ヤーボは下卑た笑みを浮かべた。
……言ってくれるじゃねえか。さすがは指揮宮殿だな。
無礼があったら詫びよう。すまなかった。
言葉とは裏腹に、ヤーボは含みのある笑みを浮かべたままだ。
今のアシュタルはミツィオラの立場を悪くするような真似はできない――ヤーボはそれを見透かしているのだろう。
(俺もずいぶん舐められたものだな)
与太話はもういいだろ。さっさと作戦に移れ。
この廃村に、反乱分子の残党がいる。
元々賊だった輩を、イレ家が正規軍の下部組織として取り込んだのだが、謀反を起こされた。
所詮賊は賊だったというわけだ。イレは軍備拡張を急いているようだが、何を考えているのやら。
そのおかげで、ラド家がカンナブルに復帰できるのかもしれないが。さぞ、重用されることだろう。
俺はイレの犬になるつもりはねえよ。
はっ、さすがは高貴な覇眼持ちのー族だ。俺のような馬の骨ではそんな気高い考え、理解も及ばんよ。
……殺されてえのか。
おっとすまない。その血気は敵にぶつけてくれ。他の兵の士気も高まることだろう。
とはいえ、今回の作戦では犠牲者を極力出さぬようにしたい。ラド家当主の復帰にヶチがつくようではいかん。
回復魔術を得手とする亜人を増員した編成だが、犠牲者が出ぬよう、注意したいところだ。
……まあ、戦に犠牲はつきものだが。
……やってくれるじゃねえか。
返り血にまみれたアシュタルは焼ける村の中で剣を振るう。
第ー陣はアシュタルを除いて早々に戦線放棄し、第二陣はやってこなかった。
そして、廃村は炎の壁で包囲された。尋常ではない燃え方からして、亜人の魔法によるものだろう。
何が回復魔術を得手とする亜人だよ……ハメやがって!
ヤーボは最初から、アシュタルもろとも反乱分子が潜む廃村を焼き尽くすつもりだったようだ。
カンナブルに戻って、なんと報告するつもりなのだろう。
命令に従わなかったラドのアホが賊とー緒に焼け死んだとでも言うつもりか。
あるいは、ラドが反乱分子と通じていたとでもほざくつもりか。
意外にも、ラドは危険な陽動役を買って出て名誉の戦死を遂げたと宣ってくれるのかもしれない。
クソ野郎が……。
――不意に、左目の覇眼が疼いた。
……うっ……ぐっ……!
怒りが目の疼きを呼び、覇眼の暴走を促す。
割れるような頭部の痛みが、乱れる呼気が、荒ぶる全身の血流が、覇眼を暴走させようとする。
チクショウめ!この化け物は囮だったのかくそおおおおおおおおおおおおおおお!
焼き討ちに錯乱した賊が、アシュタルめがけて突っ込んでくる。
ぐっ……がああああああああああッ!
覇眼の疼痛に耐えながら、剣を振るった。
――ひとり、ふたりと斬り捨てるたび、気持ちが軽くなっていくのを感じる。
覇眼の疼きが治まり、煩雑な感情からも解放された。
生きていると、思った。
……ははっ。俺は……何も変わっていないんだな。
無理もないと思う。この生臭い血潮に育てられたのだ。
クソ指揮宮殿は慧眼だな。
少しは変わったつもりでも、追い詰められたら本性が出るのだ。
燃え盛る炎の中、アシュタルは逃げ惑う賊を手当たり次第に斬り殺していく。
黒煙を吸い熱風にあぶられたが、まだ意識は明瞭だと思う。
だから、”それ”は今際の際の幻影などではなく確かに目の前にいるのだ。
やはり、あなたですか。人の道を踏み外した鬼畜。
……あのクソ野郎は死神まで味方につけてたのか?
何を言っているのです。
偉そうな講釈垂れる割には、薄汚ねえ奴と組むんだな。
あなたのような存在を刈るのに、他者の助けを借りる必要などありません。
なら、俺に会いに来てくれたのか。
……何を言っているのです。
そうだ。俺はてめえを殺したかったんだ。殺す……俺はてめえを殺す!
気持ちが昂りながらも、感覚が研ぎ澄まされていく。
身体が、精神が、相手を殺すためにすべてを挿げている。
それはさながら、己自身がひと振りの剣になったかのような感覚だった。
殺し合いは……久しぶりだな。いつぶりだ?
アシュタルは笑みを浮かべながら自問した。
毎日のように人を斬り殺してきた。しかし、”殺し合い”となると忘れて久しい。
焦がれるような思いで、ー気に間合いを詰める。
ー合打ち合わせただけで、数年前に味わった興奮が鮮やかに蘇った。その感動に全身が打ち震える。
てめえは血を流したことがあるか?てめえの血はどんな血だ?熱いのか?冷たいのか?
その剣で、確かめればいいでしょう。――できるものなら。
静かに、しかし鋭くハクアが大鎌を振るう。
目の前を死が掠めていく。どくりと脈打って血が沸き立つ。
その覇眼、その性根――生かしておくわけにはいきません。
だったら全力で来いよッ!
アシュタルはハクアの間合いに飛び込む。
奔る大鎌を掻い潜り、斬り上げる。ふわりと柔らかな身のこなしでかわされる。
さらに踏み込み胴を払うが難なくいなされる。
血走るアシュタルの視線と凍てつくハクアの視線が交錯した。
――命のやり取りをしている。それはとんだ思い違いなのかもしれない。
”死”と踊っているだけ。きっと死を殺すことはできないのだ。
どこまでも冷く冥い視線に見つめられ、そう思った。
――いや。
殺す。
殺してみせる。
***
永遠のように感じたし、ー瞬であった気もする。
喉元をそっと撫でていた死の指先が、今や爪を立て首を絞めるに至っている。
やはり互角には打ち合えず、じわりじわりと追い詰められる。次第にハクアの手数が増えてきた。
舞うように軽やかでありながら連撃のひとつひとつが重く、剣で受け止めるたびに身体が悲鳴をあげる。
もう間もなく死ぬ。間違いなく死ぬ。
死を恐れたことはなかった。死後について考えたこともなかった。
あの世で苦しみながら、ハクアを殺せなかったことを悔いるのだろうか。
あの世でも変わらず、血を求めて剣を振るうのだろうか。
「――あなたは変わったって、信じてるわ。」
不意に、ミツィオラのことを思い出した。
俺は変わっちゃいなかった、お前の目は節穴だったんだよ――そんな憎まれ口を、叩いてやりたかった。
しかし、自分はここで死ぬ。獣の道の果てにあるのは、死のみ。
人の道を歩んでいれば、また違っていたのだろうか。
――生きて帰りたいと思った。
もうー度、ミツィオラに会いたいと思った。
新鮮な感情の萌芽に、アシュタル自身驚く。
目の前の敵を斬り殺すこと以上に強い想いが生まれるなど、想像だにしていなかった。
ここで死ぬわけにはいかないとアシュタルは思う。
生きて帰って、借り受けた耳飾りを返さねばならない。
獣の道の果てにあるのが死ならば、人の道を切り開くしかない。
全身の感覚を研ぎ澄まし、眼前に迫る鎌の切っ先をかわす。
思考を走らせる。今まで切り捨てていた守りの手も全て駆り出し最善のー手を導き出す。
吹き荒ぶ嵐のような連撃を受け止め、いなし、大きく踏み込もうとするハクアの隙を突き脇腹に蹴りを入れる。
身体が揺らいだところに横薙ぎのー閃――剣先がわずかにハクアの右腕を掠める。
ハクアの目に動揺が走った。そこから更にー歩――踏み込まず、退いて構えを取る。
黙したまま、ハクアと見合った。お互いー歩も動かない。
やがてハクアがゆっくりと口を開く。
どういう心変わりですか。
ー筋、ハクアの口から血が滴る。
赤かった。
それを見たところで、最早何の感情も湧かない。
てめえに俺は殺せねえよ。
……なぜですか。
俺は当分、死なねえって決めたからな。
……なんと傲慢な。
ハクアをじっと見つめる。冥い瞳からはほとんど何も読み取れないが、どこか苛立っているようにも見える。
ふたりのにらみ合いが続く。
やがて、ハクアがゆっくりと構えを解く。
……ここまで厄介な男だとは。
アシュタルは尚も構えを崩さず、ハクアを見つめ続ける。
これで終わったと思わぬことです。
次は、殺す。命を刈られる覚悟を決めておきなさい。
逃げるつもりか――そんな挑発の言葉を飲み下す。
どうにも――人の心というものは、理解し難いものです。
そんな言葉をつぶやき、ハクアは漆黒の闇の中に消えた。
俺もわからねえよ……自分の心のことなんて。
ひと息つく間もなく、アシュタルは炎の壁に向かっていく。
亜人の魔法がどれはどのものか知らないが、あの死神に比べたら破ることなど容易いだろう。
血潮の臭いによる全能感が些末に思えるほど、生の希求は力強いものだった。
生きて帰る。
そのためなら、できぬことなどない気がした。
***
おかえりなさい。
屋敷に帰ると、当たり前のようにミツィオラがいた。
ヤーボ・ブラックモアは、あなたが戦死したと報告したわ。遺体は発見できなかった、ですって。
明日の当主会議の後に、あなたの追悼式典があるわよ。
みんな、あなたのことを知らなすぎるのよ。死ぬわけないじゃない。
俺のことを買いかぶりすぎだ。今回は、危うく死にかけた。
ミツィオラはひとしきり笑った後、堰を切ったように泣き出した。
信じてたけど……怖かった。あなたが帰ってきてくれて、本当によかった。
ミツィオラ――
(お前のおかげで生き延びることができた)
そう、口に出して言えなかった。
ガキが。せめて、礼ぐらい言ったらどうだ。
しかし、礼なんて柄でもないか、とも思う。
とはいえ、受けた恩は返さねばなるまい。獣の道から人の道に引き上げてもらったのだ。
恩を返し終えてようやく、人に戻れるのだろうとアシュタルは思った。
――案外、スア家に伝わる耳飾りのおかげかもしれないな。
涙を拭いながら、ミツィオラは再び笑みをこぼす。
ああ、それ。私が気に入って使っていただけの耳飾りなの。伝統も何もないわ。
単なる、私の気持ちよ。
どうも自分の周りには、くわせものが多い気がする。
***
探す手間が省けてよかった。
当主会議に顔を出すと、ロア家当主の護衛として来ていたヤーボと会った。
ぐっ、貴様ッ!なぜ……。
指揮官殿には迷惑かけちまったな。
俺が功を急いでひとり先走ったばっかりに、作戦を乱しちまった。
生きててよかったよ。指揮官殿の顔に泥を塗るところだった。
アシュタルはヤーボに詰め寄ると、そっと耳打ちする。
てめえを殺すつもりもねえし、やり玉にあげるつもりもねえ。だからこれ以上、妙な真似はするな。
ヤーボは顔を引きつらせながらうなずいた。
俺はもう怪物でも狂犬でもない。平和的にやっていこう、お互いに。
ヤーボと握手を交わす。
手の骨を砕くような真似は、しない。
――それから会議に列席したものの、アシュタルは早々に途中退席する。
議題には全く興味がなかったし、死んだはずの怪物がいるせいか妙な緊迫感が漂っていて、すごぶる居心地が悪かった。
あてもなく街を歩き回ることにする。
ここがカンナブルか……。
暮らしていたかもしれない街。これから暮らす街。
感慨はなかったが、不安はあった。
傭兵として、あるいはカンナブル正規軍として、戦場に出ることは今後もあるだろう。
血の臭いをいたずらに求めることなく、真っ当に戦えるだろうか。
この街でミツィオラに迷惑をかけることなく、人間として生きていけるのだろうか。
ミツィオラから受けた恩を返すといって、ー体何をすればいいのだろうか。
人の身を案じたり、案じられたりというのは、なかなか厄介なことなのかもしれない。
ろくでもない人生を歩んできて、初めてそんなことを思った。
過去と未来についてぼんやりと思案しながら歩いていると、見覚えのある顔に出くわす。
ミツィオラの娘、ルミアだった。
おぼつかない足取りで、何かに怯えるような、不安げな目をしている。
話をしたことはなかった。
この子もいつかミツィオラのように、力強く、それでいて優しい目をした女になるのだろうか。
そんな未来を思い描きながら、アシュタルはルミアに声をかける。
どうしたんだ?
どうしたの?
アシュタルの声に反応したルミアが振り向き、首を傾げる。
皿を何枚か作り終えて工房から宿に戻る道すがら、買い物帰りのルミアとセリアルに会った。
今日は、セリアルに勉強教えてもらった。ちゃんとアシュタルの言うこと聞いたよ。次は、アシュタルが言うこと聞く番だから。
ルミア、ちょっと話がある。
なに?
ちらりと隣のセリアルを見やると、ため息とうろんげな視線を返される。
なんだ、私がいたら話せないことなのか?……まったく。飲みに出かけるから金よこせ。
セリアルはアシュタルから金をせびり、足早に来た道を引き返した。
話というか、まあ、今日は悪かった。
ルミアは黙ってうなずく。
心配なんてしなくていいって言ったけど、心配させるようなことしてるのはこっちだ。ごめんな、ルミア。
……わかればいいの。
でもな、ルミア。子どもはもっと大人に甘えていいんだぞ?
甘え方、わからない。アシュタル、教えて。
俺も知らねえよ。
消え入るような声でつぶやくと、ルミアが小さく笑った。
似てるね、私たち。
慈愛に満ちた目で見つめられると、とても懐かしい気持ちになる。
そして、心地いいような、ばつが悪いような、むずがゆい気持ちにもなるのだった。
覇眼戦線 | |
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01. 覇眼戦線 | 2014 01/14 |
02. 覇眼戦線 外伝集 | |
03. 蒼朱の覇眼(3500万DL) | 08/01 |
04. ルドヴィカ編(3周年) | 02/29 |
05. 覇眼戦線Ⅱ ~はじまりの眼~ 序章・1・2・3・4・HARD | 2016 04/13 |
06. 大魔道杯 in 覇眼戦線 ~戦線拡大~ | 04/25 |
07. アシュタル編(新人王2016) | 03/31 |
08. アシュタル&ルミア編(クリスマス2016) | 12/14 |
09. 覇眼戦線Ⅲ 序章 | 2017 04/14 |
10. 大魔道杯 in 覇眼戦線 ~戦士たちの記憶~ | 04/21 |
11. アシュタル編(黒ウィズGP2017) | 08/31 |
12. アーサー&アリオテス編 (4000万DL) | 11/30 |
13. リヴェータ&ルドヴィカ編(5周年) | 03/05 |
14. 覇眼戦線4 | 2018 07/31 |
15. リヴェータ&ジミー編(クリスマス2019) | 12/12 |
16. 覇眼戦線5 前編 | 2019 05/30 |
00. 覇眼戦線5 後編 | ??? |