菖蒲酒・エピソード
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菖蒲酒のエピソード
明るく大らか。医者だからか、あまり性別を気にしない。薬草と毒草の研究が好きで、たまに特別な効能がある薬草を使って周りの人にいたずらする事がある。どんな薬草もそれ自身に価値と存在意義があると考えている。
Ⅰ.牽機(けんき)薬
「今日はどう?傷口はまだ痛む?」
私は新しく作った丸薬を持って、地下室の隅で縮こまっている食霊に尋ねた。
地下室の空気は冷たくて湿気が多い、陽の光も届かない、居心地が悪いだろうけど、私には彼をどこか別の場所に移す権利はない。
全身傷だらけで、左目の視力が落ちている食霊は、しばらく経ってから返事をしてくれた。彼の声はかすれ、息遣いも不安定だった。
「服用する時、は、苦しいが……体の、傷は、良くなっている、立ち上がる事も出来る……迷惑を掛けて、すまない」
御侍が彼に使った薬は、全て猛毒だった。
いくつかこっそりとすり替えたけど……あまり効果はなかったみたい……
彼は乙三十九番、かつては御侍の「実験体」だった。
御侍は遊び飽きた後、後片付けをするのが面倒でいつも「処理」を私に任せていた。
実験体たちはほとんど三日ももたない。目の前の乙三十九番は一番長く持ちこたえてくれている、私に彼を救う可能性を残してくれた。
「そうね、この前の処方は効いているみたい。ただあなたの体に残っている毒には対抗できなかったようね、今回は少し量を増やしてみたわ……」
ダダダッ――
浮ついた足音が近づいて来るのに気付いた私は口を閉ざした。しばらくすると、御侍はゆっくりと地下室に入って来た。
ぶつかり合う鎖が、金属の擦れ合う音を立てた。乙三十九番は身を起こし、じっと御侍を見つめたが声は出さなかった。
「おや、何日も会わないうちに、なんだか元気になったようだな、どうして叫ばないんだ?」
憎悪によって自我が侵蝕された御侍はニヤニヤと笑ってから、私の方を見た。
「菖蒲酒、このゴミはどうして元気になってるんだ?毒を試すと言っていただろう?一体何をしているんだ?」
「御侍様、比較的状態の良い実験体で毒を試さないといけないわ。そうじゃないと、毒の威力を確認出来ない」
「フンッ、手に持っているのは何だ?」
「新しく作った毒の丸薬です……」
「それを食わせろ、一体何を企んでいるのか見てやるよ」
私は仕方なく手の中の丸薬を乙三十九番に与えた。この薬は毒をもって毒を制する方法をとっているため、彼が御侍から受けた毒と同じくらいの劇薬だった。
御侍が来なければ、私は針で彼の苦しみを軽減する事が出来たけど、でも……
乙三十九番の前身は痙攣し始めた、手足の関節が硬直し身体が反っていくのを見て、御侍は喜びながら拍手喝采した。
「はははは、良きかな良きかな。これはどんな毒だ、実に面白い」
御侍の目には恨みと憎しみが溢れかえっていた。私は静かにため息をつき、俯きながら小さな声で答えた。
「この薬を飲むと、体の制御が効かなくなり、数十回折り曲がった後、最終的には頭と足がついてしまう。名を牽機と言う」
Ⅱ.血が枯れた
かつて、私の御侍は名望が高い医者だった。
しかし妻や子どもたちが食霊に殺されてから、性格が豹変した。
彼は聖教に洗脳され、食霊を極悪と定めた。
聖教に加入してからの行動や手段はますます残忍になっていった。
もちろん……私も同じ食霊だから、契約の縛りがあっても、彼は私を信じてはくれない。
「薬の記録を見せろ!」
幸い、私が使ったのは全部毒薬だったため、記録に綻びはない。
御侍はやっと満足して頷いた後、指示を出してきた。
「聖教は近い内に新しい薬石が必要だ。手元の実験体を始末してから、新しい物を作れ」
私は無意識に隅にいる乙三十九番を見た。
風に吹かれる雲のような御侍の軽い一言は、私が今日までして来た事を放棄することを意味していた。
同様に、既に息も絶え絶えになっている食霊を、永遠の死の淵に突き落とす一言でもあった。
御侍は意味ありげに含み笑いをした、まるで私の返答など必要ないかのように。
事実、私は断れない。これは全て私にとって公務だ。
私はその合間で、彼らのために或いは自分のために、一縷の希望を残そうとしただけに過ぎない。
御侍の足音が遠のくのを待って、私は乙三十九番の苦痛を和らげようと彼に近づいた。
しかし彼は一足先に私を制止した。
「ゲホッ、必要ない……助けるな……全て聞いていた……」
「わかっている、御侍には……逆らえない……私はこのような、苦しみの中にずっと耐えてきた……もう十分だ……もはや救いようがない……」
「助けてくれた事は、感謝している……しかし……終わらせてくれ……あまり苦しくない方法で……」
「心配するな……そして自分を出すな……きっと……もっと多くの人を……助ける事が出来る……」
「……」
その傷だらけの顔を見ていたら私は何も答えられなかった。
結局、彼は逝った……
私は全力を尽くして安らかな最期を彼にあげたが……
例え最終的に何人助けられようと、数え切れない同胞である食霊たちが私の手で亡き者になったのは事実だ。
乙三十九番。
御侍が決して踏み入れる事のない小さな庭に、彼が存在していた事を証明するための小さな墓石が増えた。
「……結局、彼の名前を知る事は出来なかった……あぁ、雨が降ってきた……」
Ⅲ.断腸
息が詰まるような日々は、繰り返し繰り返し続いた。
救える者、救えない者。
状況に応じて違った処理の仕方をしてきた。
「救えない」実験体を処理する時の震える両手を抑える事で、より多くの「救える」実験体を救える。
こんな日々が続いて……窒息しそうだ……
畑にある毒物だけが、辛うじて私に安らぎを与えてくれる。
それはこの世で最も強い毒性を持っているが。
調合後、人を救うための霊薬になる。
私もある日、人を救う霊薬になれるのかしら……?
私が開発した霊薬が増えていくにつれ、いつの間にか私は「毒医」という名で知られるようになった。
聖教内の一般人たちの私を見る目は知らず知らずのうちに恐怖が含まれていた。
まるで私を長く見つめれば見つめる程、恐ろしい猛毒に掛かってしまうかのよう。
こんな果てしない努力をしているのは、私だけだと思っていた時。
私は気付いた、この大きな聖教の中には私と同じ事をしている人がいるようだ。
続々と送られてきた食霊の体には、傷が治療された跡があった。
隠されていたけど、私にはわかった。
聖教にいるのは、食霊を憎んでいる者以外、長生、権力、財力を求めているか、願いのために狂った狂人しかいない。
どうしてこんな者がいるのかしら?
仲間を見つけたいという希望を持って慎重に調べていると、その者を見つけた。
彼女は質素な服を着た琴師だった。彼女は琴の音色を使って、バレないように負傷者を治療していた。
ただ彼女の行動は、少しばかり目立っていた。
私は薬を届ける名目で、彼女に注意した。
蓮の実スープという者は怯えていたけれど、彼女の両目は澄みきっていて何の悪意もないことがわかった。
次に会ったのは私の薬草畑でだった。
彼女は珍しい薬草に対する好奇心と興味を見せた、ここではそんな顔をする人はもう見つからないでしょう。
彼女は私を恐れないようだった、逆に柔らかな声で私から医術を教わり、たまに薬草畑の世話をしてくれた。
優しい言葉の中には、仲間に害を及ぼす悪行を見過ごせない気持ちが含まれていた。
彼女はそれほど強い力はないため、巨大な聖教に抵抗出来ない。ただ自分の琴の音で彼らの苦しみを少しでも和らげる事しか出来ない。
これは一時しのぎでしかないと、彼女もわかっていた。
それでも、小さな灯が燃え続ければ、いつか大きな希望の炎を燃やしてくれると信じていた。
彼女はいつか私たちが全ての人を救って、全員を連れてここから離れられると信じていた。
私は彼女の清らかな琴の音が好きだ。雲霧や水煙のような音色は、心の中の悩みと疲れを一つ一つ拭い去ってくれた。
そして更に好きなのは彼女の弱そうに見えて、心の中に強い意志が宿っている所。
彼女はとても優しい、手にはまだ仲間の血が付いていない。
私はまず彼女と彼女の御侍を助ける事に決めた。
ただ、聖教は私たちの考えを遥かに超えていた……
「で、妾に何をして欲しいのですか?」
妖しく笑うチキンスープを前に、私は袖に隠している手を握り締めた。
蓮の実スープの琴の音の秘密は、結局バレてしまった。
しかしそれを発見した者は、何故か私の前に現れた。
「蓮の実スープを助けてくれるのは、決して善意ではないでしょう、聖女様」
「毒医様はそんなに警戒しなくても、自分の仲間がこのような被害を受けているのを誰が喜んで見ていられますか?ましてや、あの善良で美しい琴師様は無理でしょう」
「何がしたいのかしら?」
「フフ、毒医様焦らないでくださいよ。すぐにわかりますわ」
聖女と呼ばれているチキンスープは妖しく残忍だ。彼女が口角を上げて出した言葉は言い知れない圧力があった。
彼女の視線に晒され、まるで毒ヘビに囲まれた獲物のような気分だった。
しかし、私は彼女の申し出を断るわけにはいかなかった。
バレずに人を救い出せるのは、確かに目の前のチキンスープだけだった。
私は彼女の申し出に応え、彼女の手配のもと裏切り者を処刑する薬を、仮死状態になれる薬にすり替えた。
そしてチキンスープが彼女たちの「遺体」を安置するため、聖教から連れ出す算段だ。
しかし、結局は一歩遅かった。蓮の実スープの御侍は彼女ほど強くはなかった。あの優しい琴師は重責に耐えられなくなり、自死を選んだ。
Ⅳ.長寿
「本気であのチキンスープと手を組むつもり……?彼女の心の内は計り知れない怪しさしかない、もしあなたが酷い目にあったら……!」
次に会った時は既に聖教の外だった。
「あなたは―― 既にそこから離れてるじゃない――」
だけど、向かいの蓮の実スープは動じる事なく、私のためにお茶を淹れてくれた。
「熱いので、気をつけてください」
「貴方の心配も勿論わかっています、しかし、私はここで諦めたくないのです」
「これ以上そこと関わって欲しくない貴方の気持ちはわかっています、しかしそれ以上にもう後悔したくないのです」
「以前の私は臆病でした。これからは、例え煉獄に身を投げ出そうとも、彼らと最後まで戦うつもりです」
彼女の柔らかな両目を見ると、話そうとしていた言葉が詰まってしまった。
チキンスープの言う通り、蓮の実スープは自分の決意と考えを持っている。彼女が恐れないのであれば、私も無条件に彼女を信頼しよう。
自分の聖教に対する憎しみは否定出来ない。
そこは暗闇を吸い込む底なし穴の様、奥に行けば良く程怖い罪悪が潜んでいる。いつでも光と希望を呑み込もうと虎視眈々としている。
もしかしたら私も蓮の実スープと同じように、もう少し大胆に動くべきなのかもしれない。
弱い力で巨大な怪物を倒そうとしても、結局は強い力がなければ至難の業だ。
だけど私のような「毒医」が最も得意としている事こそ、骨にも染みる猛毒で巨体を蝕んで瓦解させる事じゃないのかしら?
卑劣に聞こえるかも知らないけれど、私の両手は既に血だらけだから「卑劣」の二文字なんてどうって事ない。
ふふっ。
より多くの人を救出するためには、より多くの情報を得なければならない……
私は更に高い立場に上り詰めなければ。
Ⅴ.菖蒲酒
「なあ聞いたか?新任の医官様は前医官の食霊である菖蒲酒らしい、あの毒を得意とする毒医だ」
「この聖教で彼女の名前を知らない者はいないだろう。噂によると、前医官様は遊び呆けて、如何わしい場所に行き、五神散を大量に服用したそうだ。それで可笑しくなって、聖主によって任を解かれたらしい」
「老人から聞いた話だと、五神散は長寿の薬として珍重され、滋養に良いそうだ。しかし大量に服用すると、四肢が爛れ、狂って最終的には市に至るそうだ!なんという恐ろしいことか!」
「前医官様はもともとこの薬で風邪を治そうとしたらしい。しかしどういう訳かその薬に依存するようになって、狂ってしまい、長寿を求めるようにしきりに叫ぶようになったと……誰かがな、毒医様が工夫を凝らしてそうなるように仕向けたと言っていた。そうでなければ、この医官の席がたかだか食に回って来ないだろうとな……」
「その五神散は毒医様が……」
「シッ!これは私たちが口にして良い事ではない?人に聞かれたらどうするんだ……早く行くぞ!」
壁際での議論はピタリと止んだ。
慌てて去っていくいくつもの後ろ姿を見て、菖蒲酒は口を噤んだ。
彼女は流言など気にした事はない。彼女にとって、本心に従う事こそ自分の為すべきことだ。
自分の住居に戻った後、庭いっぱいに広がる薬草の香りで彼女の心を少しだけ穏やかになったが、妖しい招かれざる客のせいで心を休める時間は終わった。
「邪魔をしてしまって、申し訳ございません。毒医様にお伝えしたい事がございました故」
チキンスープは口角を上げ、いつもの余裕そうな笑顔を浮かべた。
「雄黄酒と彼の御侍は……悪都で死んだ……?」
「悪都は全滅しました、誰も生きて脱出する事は出来ません」
「残念だけれど、雄黄酒の力は無駄になってしまった。彼はあまりにも愚かだった、身を挺して他の人を庇い、助けようにも助けられませんでした」
脳裏で一瞬空白が過ぎった、菖蒲酒の思考は急に遠のいた……
彼女は日夜丹房にこもっていた痩せた姿を思い出していた。
彼女はこの時初めて雄黄酒の事を人から聞いた。
あの時、軍師と雄黄酒は「薬石」の精錬に成功し、一躍聖教内の人気者となった。そしてより多くの罪のない実験体が被害を受ける事となった。
そのため、菖蒲酒はいつも彼を疎み、彼と接触する事を避けた。
ある日チキンスープが訪ねてきて、彼女の手を借りようとした。
「毒医様は、自分で助けた者たち、そして杏仁豆腐の事をバラして欲しくはないのでしょう?」
その時の彼女はチキンスープがどうやって自分が裏で人を助けていた事を知っているのかを知らなかった。ただ自分が拒絶できない事を知っていた。
チキンスープが彼女に頼んだのは、解毒する作業。
「雄黄酒の御侍は懐疑的で、誰も信じようとしない、こっそり近くの者に毒を仕掛けていました」
「毒医様の毒への造詣は常人を超えていると聞いたため、伺いました」
何を企んでいるかがわからなくとも、チキンスープには別の目的がある事だけはわかっていた、だから菖蒲酒は手伝いたくはなかった。
ましてや、自分が疎んでいた食霊のためなど。
「フフッ、毒医様が何を気にしてらっしゃるのかわかっていますわ。現実は貴方の思っていたのと違うかもしれない、その目で見てみると良いですわ」
「しかも、毒医ご自身もこの毒に悩まされた事があるでしょう?」
魂をも捉えそうなその両目の底が見えない、どんな秘密も彼女の前では無意味なようだ。
菖蒲酒は歯を食いしばり、強迫されていると知りつつ、承諾した。
その毒は狡猾で、表面には現れない。直ちに解毒薬を服用しなければ、永遠に毒を盛った者に支配される。
中毒者の体質によって、解毒薬も異なるため極めて複雑だ。菖蒲酒自身の時も、散々試してどうにか御侍の目を掻い潜って解毒薬を作り出せた。
彼女は仕方なくその食霊を観察し始めた。
彼女はこの機会を使って、どういう者なのかを見極めようとした。
ただ、その過程で、彼女は自分は何かを誤解しているのではないかと思うようになった……
最初は雄黄酒も悪事に加担していたと決めつけていたが、実は彼も騙され、利用されていた可哀想な者に過ぎなかった。
御侍の願いを自分の願いにして、欲望が一歩ずつ実現に近づいても、彼が得たのは聖主の褒美だけ、心から感謝すら得る事はと出来なかった。
色々考えあぐねた後、菖蒲酒は解毒薬をこっそり残す事を選んだ。たとえ彼が最初から最後まで何も気づいてないとしても。
ただ、薬を作る優秀な才能をこのまま終わらせたくはなかっただけ。菖蒲酒これを口実に自分を説得した。
しかし、自分が助けた者は、結局このような結果になった。
菖蒲酒は思わず苦笑いした。当時と同じように、彼の死の知らせも他人の口から伝えられることになろうとは。
思い出が少しずつ消えていく、菖蒲酒はただそっと手を握り締める事しか出来なかった。
彼女は自分が過去を変えられない事を知っている。ただ、いつか罪がなくなるように願った。
彼女がここで過ごす事が運命だとしたら、彼女はずっと前からこの泥沼の中にいたのだ。
そして破滅に向かって一歩ずつ進んでいくのを見ている。
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