ザバイオーネ・エピソード
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ザバイオーネのエピソード
ザバイオーネの御侍はタルタロス大墳墓計画の発案者。権力闘争の中、彼は遊び人を装って社交界を渡り歩き、御侍のために情報収集をしていた。御侍が殺された後、彼は敵対派閥を皆殺しにしたため、タルタロス大墳墓に逃げ込んだ。対外的にはタルタロスが収容している囚人だが、タルタロスの中では看守をしている。
Ⅰ.放蕩児
強烈な香水の臭い。
悪臭を放つ葉巻の煙。
安くてまずいワイン。
チープで眩しいシャンデリア。
貴族の舞踏会なんてのは、この世で最も退屈で愚かなものかもしれない。
「今夜の宴にご満足いただけましたか?」
そばにいた男がにやにやしながら近づいてきた。あまりの重さにソファが沈み、座った時の衝撃によってワインもこぼれそうになる。
思わず笑ってしまった。
「もちろんだ、これは俺が今まで見た中で最も……完璧な舞踏会だ、ボガート侯爵」
侯爵は笑みを浮かべ、霧のような煙の中、私にこの忌まわしい舞踏会の真意を教えてくれた。
「貴方の御侍……サドフ大臣は、最近とてもお忙しいようで」
「ええ、あのタルタロス計画のために、こんな素晴らしい舞踏会を欠席するなんて……馬鹿らしい、侯爵もそう思わないか?」
「恐れ多い、サドフ大臣は陛下が最も信頼する大臣ですからねぇ。彼が担当しているのであれば、国全体ひいてはナイフラスト全体のためになる大事な事なのでしょう」
俺はワインを一口飲んで、ダンスフロアにいる厚化粧の「フラミンゴ」と、キャーキャーうるさい「スズメ」を見て笑った。
「食霊牢獄を建てるだけだ、そんな大袈裟な」
「食霊は戦闘兵器ですからね、契約以外に縛る手段などないでしょう?」
「おや?侯爵には捕まえたい食霊でもいるのか?ふむ……もしや俺だったりして?」
「……ハハハ、ご冗談を」
「フフッ……」
侯爵はこのやり取りで機嫌を良くしたのか、香水と煙が混じった臭いが更に近づいてくる。
「陛下の食霊と違って、貴方は何を楽しむべきか、何を欲しがってはいけないかを知っていますからね……貴方は庭でくつろぐ孔雀です、何故冷たい檻が必要なのでしょうか?」
権力を象徴し、威嚇の意味合いも込めた手を俺の肩に置く。俺は敢えてわからないふりをし、笑みを更に深めた。
「檻である必要はない。サドフは魔道学院と契約して、タルタロスはどうやら学院が開発した特殊な新材料で作るらしい……聞いた話によると、鍵をかけていない部屋だとしても、食霊たちは逃げられないという」
「ほほぉ、それは本当ですか?」
「信じないのなら、何故俺に聞くんだ?俺はそんな事に全く興味がないが、侯爵のためにわざわざ聞いてきたんだ」
「もっ、もちろん、信じているとも!そうでなければ、貴方のためにこの舞踏会を開催する意味などないでしょう?」
男は手を叩いて笑い、さらに多くの踊り子たちが現れた。会場の笑い声も大きくなり、より一層鼓膜に突き刺さる。
「心配しなくとも、貴方の御侍が陛下に気に入られているのは今だけです……私が公爵になった暁には、彼を消して、貴方を”自由に”させますとも」
可笑しい鬘を着けている頭には、おそらく「自由」が何かも知らないだろうが、俺は柔らかく笑ってやった。
「それなら侯爵の良い知らせを待っていよう」
……
夜明けが近づいてから、ようやく世界が静かになった。
疲れ果て、屋敷に戻り、いつも鍵がかからないドアを開ける。
ベッドに横たわる老人は、俺を見て、笑みを浮かべた。
「ありがとう、ザバイオーネ」
「いや、無知な放蕩児のフリをするには、貴方様のためだけではなく自衛も兼ねている」
そうでなければ、陛下の食霊と同じように、俺も国の敵とみなされるだろう。
「貴方様の言う通りボガートに知らせました。この後、タルタロス計画への支持率は大幅に上がるだろう」
「ああ……成功にまた一歩近づいたな」
彼の膝の上に置いてある手紙をちらりと見たが、俺は気にしないフリをして、枕元の引き出しにある薬の小瓶を取り出し、彼に渡した。
「陛下は老い、その将軍と大臣も……前者は打ちのめされ、後者は寝たきり……もはや手を焼く必要はあるのか?」
「いや、これは臣下としての義務だ」
「仕事が終われば、誰も貴方様の事を気にしたりしないだろう……まあいい、そんなことより、今日先生はなんと言っていたんだ?」
「あぁ、計画が実行される日まではなんとか生き長らえることはできそうだ」
「計画実行後はどうするつもりだ?」
「……心配ない、既に陛下の許可は得ている。その後は……私の跡を継ぐか、ここを離れるかは貴方と自由だ」
「そんな事は聞いてない」
「なんだ?」
「何もない。俺も疲れたので休む、貴方も早く休むと良い……サドフ」
俺は彼のベッドカーテンを下げ、部屋を出た。
ドアを閉める瞬間、部屋にいた老人が窓から澄んだ夜空を眺め、ゆっくりとため息をついているのが見えた。
そのため息は、まるで己の残り少ない人生を顧みているようで……哀愁が漂っていた。
Ⅱ.扇動者
立派な「放蕩児」にとって、一番重要な仕事は貴族たちが開催する「高貴」なイベントに参加することだ。
今日は仮面舞踏会、明日はオークション、明後日はカジノ……同じことの繰り返しで、目新しさなど微塵もない。
手洗いに行くことを理由に、くだらない自慢話しかない退屈な馬場を離れて、少し息抜きをしようとした時だった。
とある貴族たちがとても興味深い話をしていたーー
「タルタロス計画も、まず食霊を投獄すると言われてもな……そもそも捕まえられないのなら意味がないだろう?あの食霊の力で勝利したのはこれで何回目だ?私からすると……あの王位に座る者はそろそろ変わるべきだ……」
「ええ、陛下が王位を守れたとしても、帝国もあとどれ位保てるのです?サドフの食霊はただの穀潰し……目の保養にはなるが、サドフのように役には立たない」
「まぁ宴会を司る大臣という役職があったのなら、奴でないとなれないだろうな……ククク」
「その通りですわ。学院が開発した材料で監獄を作るぐらいなら、美しい食霊を調教するのに使った方がいいのでは?」
貴婦人は下品に笑い始めた。顔に塗った白粉は襟元に落ちていて、その姿に思わず吹き出してしまった。
見えないところでは俺を蔑むくせに、俺に会った時は馴れ馴れしく接し……俺の口からくだらない情報を得るために、金山銀山を俺に貢ごうとする。
彼らが恐れ、媚びを売っているのが、まさかただの「穀潰し」だったとはな。
……実に、面白い。
貴族たちの死角に立ち、どうやって脅かそうと考えていると、突然、視線が向けられたのかを感じた。
ーーなんたる偶然、まさか食霊がいるとは。
俺の視線にも動じず、乗馬服に覆われていない素肌は隠れ、まるでたまたま涼みに来たようだ。
俺は彼女に歩み寄り、笑顔で話しかけた。
「心配しなくてもいい、魔道学院はあの材料をタルタロスの建設に使うだけだ、あのような貴族の手には渡らない」
「……何故そう言い切れるのですか?」
「そうだな……あの材料を作った者は、俺の御侍の友人で、金銭や権力で動じる方ではない、安心しろ」
「……どうして私が心配していると?」
「おや……君は宮廷画家のモデルだろう?あぁ、噂通り、美しい方だ」
あと冷淡で無関心な視線は、俺の声に一瞬驚いたように目を細めたが、すぐに元に戻った。
遠く離れていた貴族たちもすぐにこちらを見た、先ほど警戒していた顔もすぐに阿呆を見るかのように嘲笑っているものに変わる。
「さすが放蕩児、もう新しい標的に目を付けているとは。恐れ入りますわ」
「お恥ずかしいところを見せてしまったな、マダム。俺はただ同じ食霊として、親近感が湧いただけだ」
「ところで、明晩の舞踏会、どうかパートナーになってくれないか?」
彼女は俺を見て、そして遠くにいる貴族の男を見つめた。男は頷き、彼女は無感情にこう答えたーー「喜んで」
……
夜は宝石や金銀に彩られ、まるで昼間のように明るい。
しかし、どのように輝かしい夜も、混雑した舞踏会に閉じ込められてしまう。
ダンスフロアでは、誰もが無意味に踊り回り、その片隅にいる二人の食霊が何を話しているのか、誰も気に留めなかった。
「なんと美しいステップ、君の御侍が教えてくれたのか?」
「……まさか、本当に踊るためだけに私を呼んだのですか?」
その口調は相変わらず平坦で、まるで疲れ切ってぐったりとしているオウムのようだった。
「おや?どうやら御侍について触れたくないようだ……まあ、今日見た限りでは、彼は貴族の輪から追い出される寸前のようだしね」
「だから?」
「だから君はいつかあの貴族に売られて、彼らのペット、いや……家畜になるだろう」
「私が聞いたところでは、あの人たちにとって貴方も私とそう変わらないはずですが?」
「ああ、だから今日君を誘ったんだ」
彼女が少し顔をしかめたので、耳元で囁いた。
「もうすぐある食霊が玉座に就き、この気色の悪い現状を打破してくれるはずだ」
「あの反乱を起こした食霊……シャンパンのことですか?」
「ああ、同じ食霊として、彼を助けたいと思わないか?」
「反乱軍に参加しろというのですか?」
「いや、俺も命令されるのはちょっと……ただ……あのバカ貴族たちに仕え続けるよりは……あいつ等の主人になった方がましだろう」
「……何が言いたいんですか?」
あぁ、俺は何が言いたいんだろう……
展示品になるのはもううんざりだから、武器になりたいのか?それとも道具……はたまたチップになりたいのか?
ーーだから兵士に?商人に?それともギャンブラーになるのか?
貴族の主になっても、新たな貴族になっただけに過ぎない……繰り返す運命に何の意味がある?
踊りを止め、人ごみを抜け、ワイングラスを手に取り、彼女に向かって掲げた。
「一緒に、この貴族たちを殺さないか?」
俺の周りの貴族たちは依然と快楽に耽っていた。危険が迫っていることに気づかないまま。
「シャンパンが王になったら、貴族たちはどうせ死んでしまうだろう?最後の歓びの中、人生で一番怖い思い出を作ってあげられたら、素晴らしいと思わないか?」
「いえ……そんな変態的な趣味はないです」
「まあ、失礼ながら、君はその貴族たち……ご自身の御侍を含め、冷たい目で見ているだろう。君もそう思っているはずだ。この愚か者たちにとって最適な場所は墓地であるということを」
そう、この貴族たちは、所詮祖先の七光りに過ぎない。民衆や食霊を自分たちと同じ生き物だと思っていないし、商品や玩具だと思って尊厳を踏みにじっている。
そして、王が誰に変わろうとも、自分たちは常に貴族であり、常に特権と富を享受できると幻想している。
もう、いいだろうーー目を覚ます時だ。
「ああ、今こそが最高の時だ。どうか……どうか!俺と一緒にこのつまらない舞踏会を、幸せに満ちた葬式にしよう!」
Ⅲ.胸騒ぎ
残念ながら、俺は優秀な扇動者ではなかったようだ。
彼女は俺を宴会場の外にある小さなバルコニーに案内したが、彼女の目は相変わらず冷淡だった。
「私は……生きているだけでいいです……どうせ、人間たちの寿命はどうあがいても100年しかありません。貴族の玩具にされても、我慢すればいいのです。貴方の手伝いをするのは……」
「申し訳ありませんが、あまりにも面倒です……お断りさせていただきます」
俺は何も思っていない顔で、首を横に振った。
「いや、謝る必要はない」
「……貴方は噂通りの紳士ですね……」
嫌な風が吹いている。酩酊が夜風に吹き飛ばされるのを感じながら、少し不安になった。
「フフッ、お褒めの言葉感謝する。先程のは酔っぱらいのつまらない戯言にしてください。ではそろそろ失礼する」
彼女に軽く頭を下げて帰ろうとしたが、彼女の声に呼び止められた。
「あの、やはり言わなければなりません……」
「なんでしょう?」
「私が貴方と一緒に舞踏会に来たのは、実は……あの貴族たちが貴方の御侍を殺害しようとしているからです……私は……御侍から貴方を引き離すための……」
「ああ……」
どうやら面倒な事になったーー
「教えてくれてありがとう……出来るだけ穏便に済ませよう」
彼女は目を見開き、驚いたように俺を見た。
俺は震えた。笑いが止まらないのだ。
夜が近づいてくる、黎明を飲み込もうとーー
その瞬間が、自分たちの最期だと知らずにーー
やがて、広大な宴会場に残ったのは、弱り切ったモデルだけになった。
杖を振り、その上についていた血を飛ばす。
あぁ、あまりにも簡単すぎた、食霊にとってこんな事など朝飯前だ。
そうだろう?モデルさん……いや、こう呼ぶべきかーー
「0044号、タルタロス計画へ貢献していただいたこと、感謝する。タルタロスで最初に収監される囚人として、君は終わりを迎えるまで安全に過ごせるよう保証する」
彼女は血の海で横たわっていたが、その姿はまるでワインに溺れる赤い蝶のようだった……同情すべきだろうかーーいや、自業自得だ。
悪いのは彼女自身だ。
あの貴族たちの命令を受け、俺を引き離し、その隙にサドフに手を出そうとするとはーー
愚か者め。
「まあ、反省の色を見せたようだし、真相を教えてあげよう」
俺は彼女の横に座った。ブヨブヨに太った貴族の腹の上に。
「タルタロス計画は、悪い食霊を幽閉するだけでなく、善良で罪のない、人間から蔑まれ虐げられている食霊を守るためのものでもある」
「強い食霊の契約が切れても、この監獄にいれば好き勝手出来ないと分かれば、人間たちも食霊と共存する事を考えてくれるだろうーー」
「だから、タルタロスは計画の最初から43名の食霊をターゲットに決めていて、あとは計画の実行と逮捕をするだけだった……」
杖を手のひらに乗せるが、重心が不安定な杖だからまったくバランスを保つことができない。まさに、今均衡が崩れている世界のよう。
「しかし、このような完璧な計画には多くの反対者がいる……現王はいつまで持ちこたえられるかわからないし、シャンパンが王になれば、タルタロス計画はさらに難しくなるだろう……」
「一日も早く実現するために、理論が現実のものとなりえる可能性を反対派に示すことが必要だった。つまり、凶悪な食霊が大罪を犯し、タルタロスに収監される、皆が納得するようにね……」
「偶然にも、君が現れた」
彼女は頑張って目を開いて俺を見た。その目には、怒りや恨みではなく、同情の念しかなかった。
「偶然……じゃないです……」
「ああ、それは知っている。君も明確な目標があるのだろう……自業自得だが」
「もう……説明する……ちから……があり……ません……」
突然雨が降り始めた、嫌な雨だ。冷たく体の内側まで冷えそうだ。
「私は……貴族のために……ここにいるのではありません。サドフ様のために……ここにいるのです」
「サドフ様は……私の……養父です……」
「早く……彼を……」
Ⅳ.血に飢えた悪夢
なぜこんなに焦っているのだろう……
屋敷には、護衛がいる。敵が軍隊でない限り、サドフに危険はないだろう。
だが……
俺の御侍というのは、何をするかわからない人だ。
「護衛はどこだ!執事は!誰もいないのか?!」
門を蹴り飛ばし、自分の声が響く以外は、屋敷は死んだように静かだった。
サドフの寝室に近づいてから、やっと異様な物音が聞こえてきた。
使用人が出入りしやすいように開け放していた扉は、しっかりと閉じられていた。
一瞬の躊躇もなく、扉を叩き割る。
1、2、3、4……よく見たら7人、見知った顔がベットの周りを囲んでいた。
そして、ベッドの上にいるサドフは、両手を家畜のように縛られていたを
焦げた顎髭、血まみれの指、青白い唇……
「どうやら美人さんの魅力は足りなかったようだ、ザバイオーネがこんなに早く帰ってくるとは。まあいい、ショーもまだ始まっていないしね」
「おや……俺が戻らなかったら、何をするつもりだったんだ?」
女は薄汚れた口を開けて何か言おうとしたが、次の瞬間、葉巻を吸っていた男と共に壁に叩きつけられた。
「き、貴様っ、気でも狂ったか?!」
「おや、やっと気づいたのか?」
「き、貴様……」
他の者に騒ぐ機会はもう与えない……
体はすぐに汚れた血で覆われ、どう振り払っても落ちない……まるで足元に横たわっている愚か者の怨霊のようだ……
俺は上着を脱いでベッドに跪き、サドフの手足に巻かれた縄を解いた。
「守衛たちは?」
「俺が……彼らを……解雇した……」
「狂ったのか?タルタロスが完成するのを見るつもりじゃないのですか?貴方の宿願だろう!」
彼は口角をゆっくり上げると、血が毒蛇のように流れ落ちた。
「タルタロスのためだ……例えあの娘に責任を取らせたとしても、お前は……私の食霊として捕まる事になる……お前には証拠もない、彼らの証言によってお前は……げほっ……」
「それなら俺を捕まえたらいい!何故こんなことをするんだ!」
「私の食霊は収監されてはいけない……少なくとも今は……お前が自分の潔白を証明するには、私が死ぬしかない……食霊は御侍を殺せないからな…… 」
サドフが少女の養父である理由がわかった……
彼女が進んで責任を取らせるだけじゃない……
忠実な大臣が貴族に虐げられて死んだのだから、養父の仇を討った食霊は、どんな罪を犯して何人殺しても、おそらく軽い罪で済まされる。
食霊にとって死より軽い刑罰とはーー死ぬまで幽閉されること、つまりタルタロスだ。
全てが完璧のように見える……
「……何故、そんなにタルタロスにこだわるんだ?自分の命を犠牲にしてまで」
彼は乾いた唇を開き、その声を震わせた。
「食霊が……嫌いだからだ……」
……
はっ、本当に狂っていたのはこの人だったのか……だから何十年も前から、召喚された瞬間から、親友がどうこう……世界をどうこうというのは……
全ては周到に計画された復讐だったのか?
あぁ、だからか、俺があの貴族たちにどんなに蔑まれても、貶されても、何も気にせず、褒めて励ましたのか。
あぁ、だからか、俺があの馬鹿げた宴会の中で放蕩児を演じている間も、一人でこっそりと地下牢で後継者を探していたのか。
そうか……そうか……
「どこへ……行く……?」
「食霊が嫌いなんだろう、生憎俺も人間が嫌いでね」
「お前……」
「心配ご無用、タルタロス計画は成功させる。だが同時に、貴方の死を無価値で無意味なものにしてやろう」
貴族の死体から跨ぎ、最後に彼を一目見た。
「タルタロス計画の反対派を皆殺しにして、計画だけが実行されるようにするだけだ……どうだ、素晴らしいだろう?」
「やめろ……」
「大丈夫だ、俺は45番目の囚人となり、貴方……タルタロス計画の発案者は、永遠の笑い種にしてやろう」
外に出ると、自分の声の反響だけしか聞こえない、誰もいない、あぁ、死の静寂がこの屋敷に訪れたようだ。
「貴方が選んだあの後継者、ブランデーか……すぐに、彼も死刑囚にしてやる」
「タルタロスは地獄になるのか、それとも貴方の想像していた楽園になるのか?フフッ、残念だ、貴方はもうそれを知る事はない」
Ⅴ.ザバイオーネ
ザバイオーネは、サドフの5歳の誕生日パーティーで召喚された。
華やかなで男前な食霊は、人々の視線を奪い、人間の子どもの晴れ舞台に水を差してしまう。
サドフはケーキで汚れてしまったシャツを隠しながら、長いテーブルの下に隠れた。
こうすれば大人たちも自分のことを思い出すだろう……彼はそう思った。しかし、時間が経つにつれて、自分がいなくなったことに誰も気が付かない……徐々に忘れられたのでないかという恐れが大きくなっていった。
その時彼は気づいた。自分は所詮無名の貴族の子に過ぎず、それ以上の存在ではないと。
悲しくなった彼は涙を流し、それが次第に嗚咽に変わり、今にも泣き出しそうな時、テーブルの下に人が入ってきた。
正確には食霊だったが。
「ずっと探していたんだ、何故ここに?」
サドフは食霊の問いに答えたくはなかったが、そのまま出ていくのも恥ずかしかったので、幼稚な怨念を込めて悪口を言った。
「お前なんかキライだ!」
口から出た言葉があまりにきつい言い方だったので、相手を傷つけてしまったのではないかとサドフは後悔したが、驚くことに食霊は楽しそうに笑った。
「フフッ、憎しみはこの世で最も役に立たない感情だ。無意味な攻撃や、逃避を生む……何かを憎むぐらいなら、それを変えた方がいい」
「変える?」
食霊は近寄り、なんと自分の袖にあった汚れを美しい花に変えたのだ。
「そう、このように穢れが憎いのならば、美しい花に変えればいい。同じように、俺が嫌いなら、周りの人が俺を嫌うように仕向ければいい、俺を見たら皆が出ていきたくなるようにな。もし食霊が嫌いなら……」
「それなら、世界を変えればいい」
食霊の言葉は、サドフの幼い心に根を張った。
彼は世界を観察し始め、世の中には自分の嫌いなものがたくさんあることに驚いた。
月桂樹にへばりついている害虫、厨房から聞こえる噂話、宴会外でのいじめ……そして自分の食霊を手に入れようとする貴族も……
嫌いなものがどんどん増えていったが、いつしかザバイオーネはそのリストから消えていった。
「いい加減認めたらどうだ。本当は俺という食霊が好きなのだろう」
青年のサドフは、目の前のラベンダーを払いのけ、本から食霊の顔へと視線を移した。
「パーティーでわざと嫌いな貴族を困らせて、その始末を私にさせなかったからな」
「はぁ、彼らが悪いんだ。貴方のような人間がどうやって反乱を起こすんだ?食霊を召喚したから?そんな不謹慎なことを言わせてはいけない。特にあのような危険な場所で……だから俺は貴方を守っただけだ」
「まぁ、そうだな。確かに変化が必要だ……実はいいアイデアがある。聞きたいか?」
そうして、ある夏の午後、タルタロス計画が始まった。
ザバイオーネは、サドフを再び反逆者として陥れたくないから、この計画を立てたと思っていたが。
実際タルタロス計画は、サドフが自身の幼稚な思いに対する償いに過ぎなかったのだーー
彼は、食霊を人間と対等な立場で、恐れられることも拒絶されることもなく、この世界で生活させたかった……あぁ、そして人々に彼らを嫌って欲しくないという気持ちがあっただろう。
少なくとも、自分の食霊につまらない噂のために疲弊させる必要がないように……
「あぁ……だから君たちは消えなくてはいけないのだ」
ザバイオーネは杖を振りながら、タルタロス計画28番目の反対者の体を跨いだ。
霊力を奪う材料を独占し、不当な富を得るために、サドフを謀反人に仕立て上げ、貴族に虐殺させようとした愚か者。
この時のザバイオーネは、まるで血の海に浮かぶ灯台のようだった。世界は彼の定めた道を進んでいるように見えたが、彼を導く光はもうなかった。
1週間が過ぎ、1ヶ月が過ぎ、血の匂いに窒息しそうになっても、彼はその場にとどまっていた。
一方、シャンパンは初の食霊の王となった。
だが彼はザバイオーネの逮捕を命じなかった。ザバイオーネが殺したのは、全て自分と帝国の敵でもあったからだ。
ビクター帝国は徐々に平和になった。タルタロス計画も順調に進み、現在最も激しい争いは、シャンパンと文官や軍人の日常的な諍いや、神子との言い争いぐらいだろう。
だが平和の背後にある血と残酷さは、たった一人の男ーー無学で無教育な放蕩児が背負っていたことを誰も知らない。
「ほら、タルタロスの計画はうまくいった……貴方の死には価値がなかったのだ、この俺でさえ……」
「俺さえ囚人になれば、貴方はそんな愚かな死に方をする必要なんてなかったんだ」
彼は、実は、全てを知っていたのだ。
5歳の少年がどれだけ自分のことを嫌っていたか、そしてその憎しみはとっくになくなっていたことを。
タルタロス計画は世界をより良くすることができ、正義を実現し、権力を単なる暴力に終わらせないことができる。だから一刻も早く実行に移すべきだと考えた。
だから、その理想を守るために、自身の御侍と共に奮闘した。
だが、今、彼は血の海にただ一人で立っている、彼はもう進むべき方向を見失っている……方向などとっくに必要なくなったがーー
……
深海に作られたタルタロスは、その設計者が到来するまで何十年もかかった。
タルタロスの内部事情についておそらくこの世で一番詳しいザバイオーネは、迷うことなく典獄長室へと向かった。
シンプルで素朴な部屋、整然と並べられた囚人ファイル、深海では珍しい暖かくて乾いているベッド……
と復讐者という身分のねじれによって頭が痛んだ。
そして、若く単純で、頑固な魂を持つ食霊が部屋に入ってくる。
ザバイオーネは微笑みながら、ずっと考えていたセリフを話したーーサドフとの約束通り、現在の典獄長であるブランデーを死刑囚に戻し、タルタロス計画を完璧なものにするために。
その食霊を壁に押し付け、血の海が再び自分を包むのを感じ、怒りと殺意が解き放たれようとした……
その食霊は必死に抵抗をし、杖の先端の鋭い刃が皮膚を軽く切り裂いた時、ザバイオーネはやっと正気を取り戻した。
掌の下にある青白い首筋を見て、ふと別の面白いことを思いついたのだ。
「これから同僚になるんだ、よろしくお願いしますね……オイルサーディン典獄長」
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