白酒・エピソード
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白酒のエピソード
自らを山河陣に封じた玄武帝が転生して生まれた食霊。玄武の記憶をある程度持っているが、昔の仲間の事は忘れており、天下統一したい、光耀大陸を守りたいという執念だけを覚えている。玄武だと思われるのを不快に思っているが、玄武のしたことは認めており、君主を失った仲間たちの才能も認めている。
Ⅰ.転生
ここにどれくらい沈み、浮かんでいたのかは、もう覚えていない。
残りの意識は暗闇に呑まれ、身を切るような寒さに伴って、朽ちてゆくような感覚に支配されている。
意識が戻った時、いつもあの囁きが聞こえてくる。
支離滅裂な言葉は意味が分からず、たった二文字だけしか聞き取れないーー
「天命……」
どこからか微かな光が輝き、弱い光の柱の下には、やせ細っている後ろ姿が照らされていた。
……夢?
彼は、誰?
「天命とは……一体なんだ?」
手を後ろに組んで立っている姿。舞い上がる髪紐に悔しさと狂気を帯びているが、発している声は弱弱しく疲労が感じられる。
「千年の罪を背負っても、万人の恨みを抱えても、恐れない……弧はもう、決意したのだ」
「陛下、どうか……ご勅命を撤回してください!」
「玄武、あの連中のために、ここまでやる価値はあるのか……」
「主上……」
入り乱れる悲痛に満ちた呼び声は、三つの異なる方向から聞こえてくる。
俺は動揺を隠せないでいる。
その人物も一瞬動きを止めるが、再び前へ進み、気づかないほどの小さいため息をついた。
「山河陣が出来上がった時、以前約束した天下泰平の世が、やって来るだろう」
山河陣。
この言葉は静寂と暗闇の中に穴を開けた、やがて穴から光が溢れ出す。
ドンッーー
目の前の悠久に変わらぬと思われた暗闇が崩壊し、降り注ぐ明るい光が目に沁みる。
「おいっ!気づいたみたいだ……」
「どうなっている?聖女様はしばらく目覚めないはずと言ってた!早く報告を……!」
黒服の者たちは抑えた声で話し、慌てて新鮮な血液が滴る小刀を収めた。
俺の四肢は冷たい鎖に縛られ、傷だらけの腕に痛みを感じる。どうやら長い時間拘束されていたようだ。
「ふふっ……玄武陛下、ようやく目覚めたのですか……」
声の主はまだ見えていないが、外から艶やかな女性の声が聞こえてくる。
玄武?
先程夢の中で聞いた名では?……俺は何故か不快感を抱いた。
眉をひそめ、笑みを浮かべている金髪の女を見上げる。
俺の不快に気づいたのか、彼女は細長い目を回し、すぐに笑って言い直した。
「あら……妾の失言でしたね、白酒(ぱいじゅう)と呼ぶべきでした」
「ふふっ、白酒……聖教へようこそ」
「聖教?これが……お前らのもてなし方か?」
俺は思わず口角を上げ、手首を軽く回し、重い鎖はジャラジャラと澄んだ音を立てた。
「あら……誤解ですわ、貴方の状況が特殊だったからです。食霊として生まれ変わったばかりなので、きちんと目覚められるか不安でした」
「失礼だとは知りながら、止むを得ずにこうしています、どうかお許しください」
女は仕方なさそうな顔で首を横に振った。彼女の話した事は理屈が通っているが、顔には少しも申し訳なさが見えない。
確かに、今体の中では数種の力が混じっていて暴れ回っている。
それにしても、この鎖を破るのはそう難しくはない。
ーーだが、これは最優先ではない。
俺が反応なく目を瞑ったのを見て、女は自ら話し始めた。
「何故ここで目覚めたのか……知りたくはないのですか?貴方が食霊として転生できたのは、全て聖主のおかげですよ……」
「ほお?そうか……」
「まさしく。我らと力を合わせてくだされば……聖主の目覚めた日には、玄武陛……いや、貴方の天下統一の願いは叶うでしょう」
玄武。
こめかみがチクチクと痛む、乱雑な記憶が再び襲ってきた。
「天下統一、天下太平が、この玄武の終生の望みである!」
意気揚々と山頂に立っている青年は、髪紐までも威勢よく舞い上がっている。少し振り向いた彼の、ぼやけた横顔だけが見える。
「お前もそう思うだろう?」
「ああ……そうだ、俺もそう思っている」
幻覚は山頂のおぼろげな雲のように消えてしまった。目の前の女は疑っているような眼差しで俺を見ている。
「同意、してくれるのですか?」
「天下統一、天下太平は、俺の望みに違いないがーー」
鎖が巻き付いた腕を上げ、満足そうに余裕のあった彼女の顔に一瞬驚きが浮かんだのを見た。
ジャラッーー
鎖は割れて床に落ちた。
「自分の寝床の側で、他人がいびきをかいているのを許せようか?」
Ⅱ.昔話
光が窓を通って部屋に降り注ぐ。俺は黒檀の椅子に座り、手にした小刀を弄っている。
小刀についている血は乾き、足元に横たわる黒服の者にもう生気はない。
「聖女、お前の部下は大胆だな」
シュッーー
投げ出された小刀はチキンスープの顔を掠め、彼女の後ろの柱に刺さった。彼女は体が強張り、顔色が悪くなっている。
「ふふっ、誤解ですわ、血を採ったのは……儀式の一環です、貴方にもっと早く目覚めてもらうための」
信用ならない女だ。
だが、そんな小細工は俺には通じない、追求する暇もない。
目下、まだ解決していない疑問がまだたくさん残っている。
「さっき言っていた玄武とは、誰の事だ?」
「覚えていないのですか?……玄武とは、光耀大陸のかつての帝王、ご崩御されると共に、意識が食霊の形となり……」
彼女の目は俺を探っている、反応のない俺を見て話を続けた。
「その食霊はつまり、貴方ーー故に……貴方こそが玄武です」
俺が、玄武?
驚きと共に、雲のような幻象が目の前に広がった。
あの青年の後ろ姿がゆっくりと現れた。彼は石机の前に座り、その他に三人が彼の傍にいた。
「鬼蓋、飲み会だと言っただろう、真面目くさった顔をするな、泉先を見習え……おい、木偶の坊?弧の話を聞け!」
「陛下、酔っていますよ」
「酔っている?弧はこの四人の中で最も酒が強い、皆知っているだろう!」
「主上……もう注がないでください、こぼれていますよ」
「おいっ……玄武、酒が全て私の尾に掛かってしまっている……」
彼らはワイワイガヤガヤと、仲が良さそうだ。
しかし、疎外感を感じる、本当の意味での俺の記憶ではない……むしろ、拒絶したい程だ。
更に俺を苛立たせたのは、胸を引き裂かれるような痛みが感じること。
突然、あの青年は何かを思い出したかのように、俺の方を振り向いた。霧の中、彼の顔は段々とはっきり見えるようになった。
「やっと来たのか、皆待ちくたびれているぞ」
彼は微笑んで、こっちへ手を伸ばした。
その顔はーー俺とそっくりだった。
「これが聖主の言いつけです……聞いていますか?」
夢のようなしつこい場面が次々と消えた後、チキンスープが恐る恐る俺に聞いている姿が映る。
「ああ……聖主のことだな、続けろ」
俺はこめかみを押さえながら、気持ちを整えた。
「……玄武は生前聖主と同盟を結びました、食霊に生まれ変わった後は力を合わせると。ですから……聖教を信じてください」
「ハッ……同盟?」
「そうです。天下統一の大業を実現するには部下は欠かせません、貴方はこの世に来たばかりで、不便も多いでしょう」
「まあ、一理ある……」
俺が同意すると、彼女は喜びを抑えられない様子を見せた。無言で彼女を見つめながら、自分で主導権を握った。
「残念だが、聖教がこの大業に相応しい右腕だとは思わない」
「そんな、貴方が同意してくださるだけで……妾と聖教は必ずや約束を守り、全力を尽くします」
「それは玄武との約束だ、俺とは関係ないな」
どうやら他に役立つ情報がないようだ、俺はこれ以上時間を無駄にしたくない。
起き上がって扉を開けると、室内の重苦しい血の匂いは少し薄れた。温かい日差しが降り注ぎ、目が喜んでいる。
連綿たる青山は紺青の雲のよう。咲き誇る花は枝を押し潰し、清風が吹き渡る。
この世に、果てしない暗闇はない。これこそ……俺の山河だ。
もう一度この手に取り戻さなければ。
立ち去る前、俺は振り返って、悔しそうにしているが声を出す勇気のない女を見た。
「そうだ、覚えておけーー俺は白酒だ、玄武なんかではない。この世に玄武なんてのはもういない」
Ⅲ.噂
雨は悪臭を洗い、真紅は泥に混じり、黄昏の天幕と似た暗い色になる。
剣を鞘におさめ、地面に落ちた紙傘を拾うと、目の前で怖がって縮こまっている親子に渡した。
「もう大丈夫だ」
「あ……ありがとうございます……英雄よ」
「俺は英雄などではない。日がまだ暮れていないうち、早く帰ると良い、怪物は夜を好む」
鈍い音を立て雷が黒い雲の間で波打つ。音を頼りに眺めていると、天幕にはまだ完全に消えていない微かな青い影が見えた。
先程……あれらの青い影が俺と肩を並べて戦っていたような気がした。
どうやら、この大陸には俺のわからないことがまだ多いようだ。
にわか雨は続いているが、夕暮れはやってくる。俺は、ある茶屋に入った、ここに酒はないが、茶の清々しい香りがする。
ただしーー煩わしい声も聞こえて来る。
「お客様!前回、玄武帝が長生を求め、妖術で陣を築き、生者を生贄にしようとすることまで語りましたな……」
「あんな邪道は、もってのほかだ!途方に暮れた玄武帝が、あんな怪しげな話まで聞き入れるとはな!」
「あの時、天地から光が消え、連日豪雨が降り続いた。だが、神の怒りをもってしても、玄武帝の長生の夢を覚ませなかった……」
「大陣が出来上がった日、数千万の忠魂の骨は邪陣に埋められ、悲鳴は絶えず、人間の煉獄とも言える程だった……あの大陣こそーー山河陣だ」
また極悪非道だと言われている玄武帝の話か……
ここ最近、彼がどれ程暴虐無道で、人の命を省みぬ者かを聞いて来た。
本当にそうなのか?
記憶の幽冥の世界が、もう一度目の前に広がった。一面の暗闇の中、病気を患ったような顔色の青年は襟を正し、暗い金色の玉座に座っている。
「山河陣を……しっかり守れ。そうでないと……全てが台無しになってしまう」
パンッーー
拍子木は澄んだ音を立て、俺も夢から目覚めた。講談師は手にした扇をしまい、ゆっくりと口を開いた。
「あの玄武帝はどんな結末を迎えたのか、山河陣はどうやって光耀大陸の固い壁となったのかーー皆様、続きは次回にて」
俺は淡々とお茶を飲み、騒がしい人の声の中、器が割れる音が微かに聞こえた。
少し離れた机で、赤い服の青年は不満気に立ち上がった。後ろにいた年上の男は仕方ないという仕草で首を振り、欠片を掃除している店員に金を渡している。
二人とも強い食霊だな。
興味が湧いてきた俺は彼らを観察し、ちょうど赤い服の青年と目が合った。
彼は一瞬呆気に取られたが、すぐさま俺の前に飛んで来た。その顔は、まるで鬼を見たようだった。
「玄武……?なのか!」
彼の抑えた声は震えている。声は大きくないが、隣の人の注意を引いてしまった。
「人違いだ」
俺は不快そうに俺の袖を掴むその手を振り払ったが、やつは俺を逃さないつもりのようで、もう一度俺の袖を掴んだ。
「やれやれ、辣子鶏(らーずーじー)、どうしてその者を引っ張って離さないんだ?彼は何をした?お客さん、彼が失礼したな……」
彼と同行の男は笑ってそばに来たが、俺の顔を見ると、その笑顔も固まった。
「お主……?」
「俺は白酒、光耀大陸に来たばかりだ、お前の友人は人違いをしているようだな」
俺の堪忍袋が切れ、あの辣子鶏というやつの手を再び振り払った。
「白酒……お前は食霊で、確かに玄武である訳がない。いくらそっくりだとしても……」
辣子鶏はようやく俺の話を聞き入れたようだ、しかし彼の目に失望が浮かぶ。
「頭がおかしくなったのか、全部あの木偶の坊のせいだ。最近、玄武の痕跡に注意しろとか言うから……」
木偶の坊?
夢の中の微かな記憶と、途切れ途切れに聞いた噂話をもとに、彼こそが玄武帝の天下統一手伝った腹心のはずだ……
ーー伝説によれば、豆を蒔けば兵士となり、知謀を巡らす「仙人」だという。
「待ってくれ。その……木偶の坊とやらに、会わせてもらえないか?」
「彼に会いたいのか?」
辣子鶏は少し驚いて眉を曲げ、その後曇った表情で、何かを考えているようだ。
「いいけど……じゃあ、俺と地府に行こうか」
Ⅳ.故人
重い玄鉄門はゆっくりと押し開けられ、埃が舞い上がる。中から出て来たのはまだ物心のついていない幼い子どもだった。
「お客さま、どうぞお入りください。人参さまがお待ちしております……」
廊下の燭台で炎が点滅している、まるで鬼火のようだ。子どもは俺を誘導し、俺は彼について中へと踏み込んだ。
だが、後ろのやつらは引き止められた。
「えっ、猫耳ちゃん、なんで?」
「ま、待ってください……城主さま、人参さまは本日このお客さまにしか会わないと仰っています」
「は?!俺が大変な思いをしてこいつを連れてきたのに、あの野郎俺様を無碍に扱いやがって!」
「人参さまのご命令ですので……」
「おいっ、あの木偶の坊!覚えてろよ!」
鉄門は徐々に閉じられ、外の声はもう聞こえない。
微かな光を頼りに、曲がりくねった地宮の奥に進むと、冷たく朽ちた匂いが立ち込めている。まるで……
俺を閉じ込めていた暗い檻と同じだ。
自らをここに縛られているのは、一体何者だろうか、俺は興味を惹かれた。
静まり返った暗い部屋の奥、弱い光の柱に埃が漂う。
淡々とした青年が目を閉じたまま、奇異な記号が刻まれてある陣の真ん中に鎮座していた。その広がっている白髪は、根のように地面に張り巡らされている。
「夢の中で故人が来ることを知った、ようやく来たのですか……」
足音を聞くと、彼はゆっくりと目を開けた。
俺を見た瞬間、目に灼熱の火花が輝いたのが見えた。
彼の声と容姿は懐かしく、喉を絞められているかのように息苦しくなった。
俺は知っている。これは俺の記憶ではなく、あの悪夢のせいに過ぎない事を。
俺は素直にあの熱い眼差しを受けた。彼はボーっと俺を見ており、まるで歳月と歴史の川を通り抜け、後ろにいる遥かな虚しい人影を見ているようだ。
「お前が高麗人参だな。だが、俺はお前の探している者ではない」
俺の話を聞くと、彼の恍惚とした気持ちと共に火花は消え、全てが静まり返った。
「そうですね……そなたは確かにあの方ではない」
彼は軽く笑って、再び俺を見つめた。だがその眼差しは冷静になっていた。
「初めまして、俺は白酒だ」
「こんなところわざわざ訪れたのは、何か用事があるのだろう……率直に言ってください」
「じゃあ、俺も回りくどいのはやめる。俺が求めているものは、簡単じゃないかもしれないがーー俺は今までとは違う光耀大陸を切り拓きたい」
「違う光耀大陸?」
「そうだ。所謂天幕や……山河陣に頼らなくとも、天下太平を保ち、侵略を免れる世を」
俺は真摯に彼を見つめ、初めて慎重に自分の宿願を口にした。
「俺はこの頃、光耀大陸のあちこちを見て回って来た。この土地の豊かさを、そして暗闇と殺戮を……不吉なものも……」
「光耀大陸の安寧を永遠に守りたければ、山河陣だけでは到底足りない」
あの日、雨の中の醜い怪物とその前に跪いて自分の子を必死に守っていた婦人のことを思い出し、俺は不覚に手に持っている鞘を握りしめた。
俺は別に英雄なんかではない。怪物に襲われた無実な人を全員助ける事は出来ない……
だが、俺にはきっと他にやれる事はある。
玄武は山河陣を選んだが、俺は?
「そなたは……吾の協力を求めているのですか?」
高麗人参の顔が険しくなり、真剣に俺を見て、俺の決心を確認しているようだ。
「そうだ、俺を補佐してくれないか?俺のそばには、お前のような者が必要だ」
「そなたの性根は……彼とここまでそっくりとは」
高麗人参は軽く首を振り、微笑んだ。
「しかし、この山河陣を守り、天下太平を守るのが、当時交わした約束だ。吾が生きている限り、守るべきものだ。恐らく……そなたの願いに応じる気力はないだろう」
幽かな光は彼の青白い顔を照らし出した。陣に腰を据えている姿は石像のようにびくともしない。
散らばっている白髪は生きているかのように絡み合い、陣のヒビに入り込み地下に届いていく。
目の前の青年の心の中には、解けないわだかまりと因果があるのだろう。
「……ならば、無理強いはしない。いつか、全員で天下太平の世を見れるよう祈ろう」
Ⅴ.白酒
重い玄鉄門は開かれ、その音は地下の奥深くまで響き、暗闇の中を旋回する戯言のようだ。
暗い部屋に入ると、赤い服の青年はいつものように椅子に座り込んでいたが、苛立っているようだ。
「……修繕がうまくいっていないのですか?」
陣の中央に座っている青年は目を開け、長年暗いところにいた蒼白な顔は、更に疲労を帯びていた。
「効かなくなった石碑は多くなっている、骨を折ったがどうにもならない。どうやら他の方法を考えないとな」
「恐らく……この全ては、陣法が失効した訳ではなく、陣法の中の英霊が消え始めたからでしょう」
「英霊が……消える?いつからだ?おいっ、木偶の坊……もしかして、とっくに知っていたのか?」
「バンッ」と辣子鶏は手にした茶碗を石机に叩きつけた。飛び出た火花はちょうど熱いお茶が掛かり消し止められた。
高麗人参は仕方なく口角を上げ、苦渋に満ちた笑みを浮かべた。
「白酒が現れた後に始まりました……その時はまだ確信は持てず、すぐには伝えられませんでした」
「白酒?!あの変なやつか、またあいつかよ……」
高麗人参は答えることもなく、疲れたように目を閉じ、軽いため息をついた。
「もしかすると、光耀大陸が……ひっくり返るような変化を迎える事になるでしょう」
茶屋の隅には、遅れてきた羊方蔵魚(ようほうぞうぎょ)が、笑みをこらえながら個室の扉を開けた。
「明の旦那、申し訳ございません!少し用事があって、遅くなってしまいました」
彼のボサボサと乱れた髪と泥のついた顔を見て、明四喜(めいしき)はからかうような微笑みを浮かべた。
「雨の日は滑りやすいですから、慌てなくてもいいですよ」
「コホンッ、えっと……確かに滑べりやすかったですが、道中遭遇した堕神のせいですよ。しつこく付きまとわれなかったら、遅刻なんかしていませんでしたよ!」
明四喜は羊方蔵魚の狼狽する姿を見て、ピンときたように頷いた。
「ほお、つまり逃げていたら転んでしまったのだな」
「あは……戦いは苦手だが、こう見えて一応食霊ですし……戦わずに逃げたりしませんよ」
「そう言えば……あの白酒っていう奴に出会えて良かったな。彼のおかげで、多くの堕神を相手にも、なんとかなったんですよ……」
「白酒?」
「ええ、あの食霊は見たことはないな……おや!関係ない話に夢中になって申し訳ありません!情報は全て持ってきました、どうかご確認をーー」
個室の中の話し声は低くなり、門番をしているヤンシェズは無愛想に腕を組んで遠くを見ていた。
ガランッーー
足元に剣が転がって来て、刃は冷たい光を放っている。
ヤンシェズは条件反射で腰にかけている刀を抜き出した。
「剣をおさめてくれ、手が滑って落としただけだ」
見知らぬ青年は剣を拾って腰にかけ直すと、目線をヤンシェズの刀に向けた。
「刀は悪くない、ここで護衛をするなんてもったいないな」
青年はそっけなく言って、振り向いて立ち去った。
ヤンシェズは眉をしかめ、あの後ろ姿をよく見た。あの人の剣も……そんじょそこらの物じゃないようだ。
ギシッーー
個室の扉が開けられ、羊方蔵魚は扉にへばりついていて、笑みを浮かべながらも「帰れ」と顔に書いている明四喜を見ている。
「本当にもう少し出してくれませんか?」
「情報は全て雨水でボロボロになっている、お使い代として十分でしょう」
「ええ……しかし、脚も怪我したし、薬代を頂戴しても?それに情報はまだ何枚か読めるじゃないですか……」
雨が上がり、茶屋に留まっていた客は次々と外へ出て行った。腰に剣をかけている後ろ姿も人混みの中を通り過ぎていく。
それを見た明四喜の顔色は急に変わり、何も考えずに追いかけようとした。
まだ値段交渉したい羊方蔵魚は口を大きく開け、明四喜の後ろ姿が人混みの中で消えていくのを見つめた。
「えー!そこまで速く走る必要ある?別に……大した金額じゃないだろう」
雨上がりの晴れた町、日差しは石畳の隙間にある水たまりを照らしていた。
明四喜は呆気に取られたまま周囲を見渡した。賑やかな人混みに、騒がしい行商人、呼び込みをしている車夫……全ては日常の景色だ。
あの懐かしい後ろ姿は、海に落ちた水滴のように、消えていた。
夢のように、探す事は不可能だ。
「あの……」
後ろから呼び声が聞こえてきて、明四喜は自分の妄想を笑うように首を横に振った。
「なんでもないです。人違いだ、帰りましょう」
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