バッテンバーグケーキ・エピソード
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目次 (バッテンバーグケーキ・エピソード)
バッテンバーグケーキのエピソード
優しくお淑やかな王国の姫。チェスが好きで、チェスの棋譜を研究だけで花園で半日も潰せる。王室規範を遵守しており、必要とあらば矢面に立ち、決して逃げ出さない。代々の王に尊奉され、この国の永遠に尊い姫である。彼女は幸福をもたらす者として知られ、彼女の祝福が欲しいカップルが後を絶たない。庶民から王室まで、身分に関わらず、彼女はいつも真摯な祝福を贈る。
Ⅰ.責任
「バッテンバーグ殿下、大変です!プリンセストルタ様がまた行方不明になりました!」
朝、公務大臣ウィリアムスが慌ただしくわたくしの書斎に入ってきた。
眉を顰め、呼吸を荒らげ、額はうっすら汗ばんでいる。
「大丈夫、心配はいりませんわ。先程、連絡をもらいました。妹は町に行っただけです」
「しかし、ケント王国からの使者たちは間もなく到着します。プリンセストルタ様が立ち会わなければ、恐らく……」
「では、わたくしが代理として出席いたします」
わたくしは羽ペンをゆっくりと机に置き、立ち上がった。
「これから王子や王妃様に謁見する予定でしょう。流石に疲れが溜まってしまうのでは……」
「大丈夫です。それが姫としての役目ですから」
書類が山積みになった机の前に立ち、深くため息をつく。
春の空は澄んでいても、心のストレスを解消してはくれない。
王冠にそっと触れると、急に重みが増したように感じた。
ラスルの姫として、わたくしは自分の責務をよく理解している。
わたくしは王国の運命を背負って来たつもりだ。
国王陛下はわたくしを信頼し、姫という肩書を与えてくれた。
妹たちはまだ幼く、世間知らず。
この王国初めての食霊であるわたくしは、国王や王妃のために、民の憂いを晴らさなければならない。
皆の笑顔こそ、わたくしの幸せそのものだから。
ただ……
「最近、仕事が多すぎるかしら……」
わたくしのスケジュール表を見ると、小さな文字がびっしりと書かれていた。
羽ペンを手に取り、満杯になっている表に新たな事項を書き加えていく。
何日まともに休憩を取っていないか、もうわからない……
こめかみを擦ると眠気に襲われ、目を閉じる。
「ダメだわ、まだ気を抜いてはいけません」
まだ仕事がたくさん溜まっている事を思い出し、頬を叩いて自分を叩き起こした。
……
「では最後に、結婚式の流れを確認させていただきます」
「姫様、どうかよろしくお願いします」
目の前で優しく笑っている女性こそ、未来の王妃である。
もうすぐ、彼女は王子と結ばれる。
彼らの結婚を祝福する儀式を挙げること、それがわたくしの役割。
愛し合っている者たちへの祝辞を送るのが好きだ。
彼らがお互いの目を見つめ合う時、その眼差しは何と優しく、あたたかいのだろう。まるで神が降り注ぐ光のようだ。
だから、書類よりも、この仕事の方が好き。
愛には温もりを感じるから。
彼女は遠い異国の姫だけれど、彼女との交流はとても楽しいものだった。
いつの間にか時間が経ってしまう。
「失礼します。姫様、外国の使者が参りました」
どれくらい経ったのだろう。応接室の外から届いたウィリアムスの声がわたくしと王太子妃の会話を遮った。
時計を見ると、確かに約束の時間になっていた。
ウィリアムスが声を掛けてくれなければ、遅刻をしていたところだった。
「申し訳ございません、わたくしはお先に……」
少し申し訳なさそうに彼女に謝罪した。
「大丈夫です、行ってください。どうか結婚式のことをよろしくお願いいたします」
「光栄ですわ」
別れを告げ、わたくしは慌てて次の応接室へと向かった。
「ケント王国の外交官や使者はとても厳格な方だと聞いております……」
「厳格?」
「ええ、以前、他国の姫を泣かせたことがあるそうです」
馬車の中、ウィリアムスはこんな事を言ってきた。
わたくしは不安げに遠くの風景を眺める。これから相手にどう遅刻について説明すればいいかと考えていた。
「ああ……しかし、バッテンバーグ殿下は勤勉な方ですから、問題ないでしょう」
緊張を察したのか、ウィリアムスはわたくしを安心させるために笑いながらそう言った。
赤い絨毯を踏み締める。窓の外の風はあたたかいが、心配を吹き飛ばしてはくれない。
「遅れてしまい、誠に申し訳ありません。公務の処理をしておりました……」
応接室の中、向かいに座っている使者はわたくしの方を見て目を細めた。
わたくしは彼らに深々と頭を下げている。
やがて金縁の眼鏡をかけた男は手にしていた懐中時計の蓋を開け、無愛想に縁を押し上げた。
「公務と仰いましたか?外国から来た使者と接見するより重要な公務があるのでしょうか?」
「ご不便をおかけして、誠に申し訳ございません」
「いえ、それはもういいです……しかし私の記憶が正しければ、お会いする予定だったのは別の姫君のはずでは?」
意味ありげな視線にわたくしは思わず窮屈な気持ちになった。
「妹は……本日、諸事情により欠席することとなりました。わたくしが代理で出席させていただきます」
「そうですか。ところで、姫様のドレスについてですが……」
その言葉に、全員がわたくしのドレスに視線を向けた。
いつの間にか、ドレスに汚れがついていた。
白いドレスの上に茶色の泥水、かなり目立っている。
「貴国の姫君は大変礼儀正しい方だと聞きましたが、その程度ですか」
使者は挑発的な口調で話しながら、机を叩いた。
「貴方は……!」
ウィリアムスは顔色を変えて反論しようとした。
しかし、使者は彼の言葉を遮って、顔に軽蔑の色を浮かべる。
「基本的な礼儀さえ守れないとは、姫君に相応しいか以前の問題です」
「ご指導、ありがとうございます。これからは誠心誠意改善に努めますわ……それでは、本題に戻りましょう」
わたくしは感情を堪え、姫らしく微笑んだ。
……
「これは……疲れましたわ」
一日を終え、わたくしは柔らかいベッドに倒れ込んだ。
窓の外から月明かりが射す。
それは地上の万物を、そして今のわたくしを、静かに慰めてくれた。
昼間、外国の使者が言ったことを思い出す。
なんだか心の中がずっしりと重くて、石が乗っかっているような感覚がする。
わたくしは……姫に相応しくないのだろうか。
Ⅱ.盤面
「バッテンバーグ殿下?バッテンバーグ殿下!」
「えっ?」
ウィリアムスの声で目が覚めた。
眩しい日差しで、目がうまく開けられない。
眩いダイヤモンドのように、無数の虹色の細長い光が紙の上で揺れている。
未処理の書類やペンなどが目の前で散乱したままだ。
わたくしは……眠ってしまったのか?
これは大変、失礼なことを……
「ウィリアムス、ごめんなさい。少し眠っていました……何かありましたか?」
失態を犯したと感じ、手早く身支度を整える。
「バッテンバーグ殿下、実は、祝祭日が間近に迫っております……」
祝祭日?
もうそんな時期なのね……
手元にあるカレンダーをめくると、自分が書いた赤い印が目に入った。
「そうですわね」
祝祭日はラスル王国で最も重要な日の一つだ。
民衆はこの日だけ、皇室の者と直接交流し、王国に対する敬意と愛を伝えられる。
他にも楽しみなのは、夜に行われるパレード。
音楽隊、フロート車やユニークな衣装……目が回る程色とりどりだ。
この祭典の規模はとても大きく、毎年皇室はかなり前からこの祭典の準備を始める。
これまでの企画は毎回わたくしが担当してきた。
しかし、今年は……
わたくしはこの件をすっかり忘れていたようだ。
「今年の祝祭日の企画は進んでいるでしょうか? 」
「わたくしは……まだ準備を始めていません。少し時間をくださいませ。出来るだけ早く仕上げます」
「間に合わなければ、私が草案を作りましょう」
「ごめんなさい……では頼んでもいいかしら?ウィリアムス」
わたくしは申し訳ない気持ちで、空白の書類の束を渡した。
「お気になさらず。しかし、バッテンバーグ殿下もミスすることがあるのですね」
わたくしは呆気に取られた。
彼の言葉は小さな石のように、わたくしの心にさざ波を起こした……
「バッテンバーグ殿下?」
「……いえ、大丈夫です。ごめんなさい。少しだけ、一人にさせてくださいませ……」
ボーっとした頭を両手で支えながら、なんとか言葉を絞り出す。
「はぁ……」
ウィリアムスが部屋を出ると、体は制御が効かないままへこんだ風船のように、ぐったりとテーブルの上に倒れた。
なんだか最近……調子が良くない。
時計の針は止まることなく回り、忙しい時間も一緒に遠くなっていく。
午後の日差しは最高に心地がいい。
こういう時しか、棋譜の研究をする余裕がない。
太陽の光が盤上の駒の影を長く引き伸ばしている。
手元のラベンダーティーから心地よい香りがする。
碁盤はまるで海のよう、あらゆる感情を受け入れてくれる。
煩悩から一時的に遠ざかり、しばしの落ち着きを得た。
「もしかして……お邪魔だったかしら?」
優しい声が耳を撫で、ハッとした。
盤面に心酔していたからか、王太子妃が忍び寄ってきたことに気づかなかった。
「いいえ、気付きませんでした。王太子妃様」
わたくしは少し焦って立ち上がり、王太子妃様に一礼をした。
「礼はいりませんわ」彼女は私の手元にある駒を見下ろす。
「姫様がこんなに上手だとは……」
「上手というより、ただの趣味ですわ」
「なら、私と一局いかが?」
「それは……」
こんな要求が来るとは思ってもみなかった。わたくしは少し恥ずかしくなった。
「王太子妃様がよろしければ」
いつもより不自然な動作で駒を置く、王太子妃様の視線が痛い。
さっきから頭が重く、眠気に襲われる。
ダメだ……集中できない。
空気の中、駒と盤面の摩擦音しか聞こえない。
「ふふっ」
「王太子妃様……どうされました?」
王太子妃様の手を見ると、既にチェックメイトになっていた。
わたくしが間違えて駒を置いてしまったよう……
いつもなら、こんなミスをするはずがない。
でも今はその原因を考える気力すらない。
「おめでとうございます。王太子妃様」
「姫様は……どうしてチェスがお好きなのですか?姫様の性格から考えると、花や茶の方がお好きだと思っていたのですが」
どうして、と聞かれても。
それは多分……
「駒を指すことも自分を励ます方法の一つだからでしょうか。自分の役割を忘れないようとーー教えてくれるのです」
駒の一つ一つに役割があるように。
わたくしにもわたくしの役割がある。
「しかし、姫様は無機質な駒ではないのですよ?」
「えっ?」
「姫様は血が通っている命です。休むことも必要ですわ。無理だけはしないでくださいね」
わたくしの心を見透かしたように、王太子妃様はそう言いながらウィンクした。
そうか、王太子妃様にまでわたくしの様子が変だと気付かれていたのか。
「王太子妃様に気を遣わせてしまいました……以後気をつけますわ」
答えようとしたが瞬間、眩暈がした。
「姫様!」
わたくしの思考が停滞した。
耳元で、誰かがわたくしの名前を呼んでいるのが聞こえた。
硬い物が床に落ちる乾いた音がした。
それは……王冠の音のようだ。
Ⅲ.王冠
「よかった、お姉さま、やっと目が覚めた!」
「イートン・メス、王太子妃様……そして……」
目を開けると、目の前の者たちはホッとしたような笑みを浮かべた。
妹は唇を噛みながら、ウサギのような赤い目をしていた。
王太子妃の隣にいた女の子は……彼女の食霊かしら?
「お初にお目にかかります。エンゼルフードケーキです」
彼女はわたくしに微笑んだ。
「姫様覚えていませんか。花園で突然倒れたのです。医者によると過労だそうです。しばらく休めば回復できるかと」
「そうだよ。お姉さま、丸一日寝ていたんだよ!」
丸一日?
外を見ると月が懸かっていて、星が天の川を埋めていた。
では、祝祭日の仕事は……
休む気になれず、わたくしは急いで起き上がる。
しかし、頭が朦朧として、割れるような痛みが感じ、立ち上がる気持ちはすぐに失せてしまった。
「姫様……」
今は休んでいる場合じゃない……
皆は、まだ、わたくしを必要としている……
「バッテンバーグ様……」
王太子妃様は狼狽えるわたくしを支え、イートン・メスとエンゼルフードケーキに向かって言った。
「今日はもう遅いので、貴方たちは休んでください」
「でも……」
「子どもは早く寝ないと、背が伸びないですわよ」
エンゼルフードケーキが悪戯っぽく舌を出した。
「えっ?わっ、わかりました!すぐに寝るよ!お姉さま、おやすみなさい!王太子妃様もおやすみなさい!」
イートン・メスは慌ただしくエンゼルフードケーキの後ろについて、わたくしたちに別れを告げた。
「ふふっ、イートン・メスは本当、背が伸びないことを恐れているみたいですわ」
夜の帳が眠る大地に掛かった。
わたくしの王冠は、水のような月光の中に横たわって、キラキラと輝いている。
「少し、お話しましょう」
王太子妃はわたくしの隣に腰を下ろし、淡い笑みを浮かべていた。
「心配をおかけして、誠に申し訳ございません……仕事が溜まっていただけですから」
「でも、それだけじゃないでしょう?」
「わたくしは……」
……
「基本的な礼儀さえ守れないとは、姫君に相応しいか以前の問題です」
「しかし、バッテンバーグ殿下もミスすることがあるのですね」
外国使者の軽視、祝祭日の準備の甘さ、そして昼間の仕事の手抜き……
記憶が波のようにわたくしの脳裏を過る。
目を伏せ、心が空っぽになったような気がする。
こうして見ると、とても、立派な姫とは言えないだろう……
国王陛下から王冠を贈られた日のことを思い出す。
その日、金色の光は薄いベールのように城の大広間を覆った。
国王陛下は陽の当たるところに立っている。
皺だらけの手が重い王冠をわたくしの頭にそっとのせてくれた。
そしてわたくしは今、手で王冠を触っている。
宝石の冷たい感触が指先から心まで伝わってきた。
わたくしにこれに相応しい力があるのでしょうか?。
本当に、王国の皆を幸せにできるのでしょうか?
「実は……姫様が心配されていることは、私にも見当がつきます。私も同じですよ」
王太子妃様はなんだか苦しそうな目でわたくしにそう言った。
「わかっています。王子と私は政略結婚でしかない、私に愛情を持っているわけではないと……」
「そんな……」
「今でも……自分がちゃんとした王太子妃になれるかどうか、怖いです」
王太子妃様は片手を唇にあて、もう片手でドレスの裾を握りしめた。
視線も不安そうに揺れている。
「でも……私はわかったのです」
王太子妃は突然目を輝かせ、わたくしに向かって微笑んだ。
「身に着いていない事は力の限り尽くせばいいのです!姫様の努力を皆が見ているのと同じように」
「ええ……」
力の限り尽くす……
王太子妃の言葉はそよ風のように胸を駆け巡り、何かを吹き飛ばした。
完璧なものなどこの世に存在しない……光り輝く王冠にもキズはついている。
もしかしたら、自分にプレッシャーを掛け過ぎていたのかもしれない。
「そうでした、私と共に祝祭日に参加してくださらない?」
「えっ?」
「姫様も休めますし、それに……姫様は祭典に参加した事は一度もないのでしょう?」
王太子妃に言われて、準備に勤しんで来たため一度も参加していない事に始めて気付いた。
しかし、姫様が町でぶらぶらしているのが見つかったら、皆の不満が募るだろう……
「私は開幕の祝辞を担当しなければなりません……」
「なら、終わった後で行きましょう」
「人に気付かれたら大変なことになるかもしれません……」
「夜になればわかりませんよ」
……
王太子妃はわたくしの拒絶を全て跳ね返した。
選択する余地は、ないみたい。
なら、仕事に支障が出ない程度に、リラックスしよう……
「わかりました。ただし、仕事が終わってからですよ」
「ええ、もちろん」
返事を聞いた彼女の目は星のように輝いた。
それを見たわたくしも、久しぶりに体が軽くなったような気がした。
Ⅳ.祭典
次の日の朝、体調はだいぶ良くなった。
例によって書斎に行くと、机の上に祝祭日の草案が載っていた。
ウィリアムスに感謝しなければ……
しかし、書類の他に、テーブルの上には凝ったケーキと花束と、千羽鶴が何羽かあった。
これらは――
ケーキの下にあるカードを手に取ると、異なる筆跡で一行ずつ文字が書かれていた。
上の字はくねくねしていて、読みづらいが、その下の字は随分綺麗だった。
「お姉さま、早く元気になってください」
どうやら、イートン・メスとプリンセストルタが用意してくれたものらしい。
カードを持つ手から温もりが伝わってきて、わたくしは思わずに笑顔になった。
妹たちを心配させる訳にはいきません。
それから数日、わたくしと大臣たちは祝祭日の準備を進めた。
フロート車の規模、音楽隊の並び、店の配置……
考えなければいけないことはたくさんある。
忙しさのあまり、机の上で眠ってしまうのもしばしば。
しかし翌日目を覚ますと、いつも侍女の毛布を被っていた。
……
気付けば祝祭日の当日になった。
香りと温もりが夜風に乗ってやってくる。
様々な花の香り、桃の木が焚かれたスモーキーな香り、そしてケーキの甘い香り。
夜の喧噪を見物しているかのように、満月が空高く昇っている。
いつもはひっそりとしている路地や通りに、明かりが灯っている。
大勢の人が集まり、笑い声が飛び交った。
木の枝にはあたたかい黄色のイルミネーションが飾られ、それらは美しい海となって、そこに留まる恋人たちの目に映った。
歩行者天国のアイスクリームカートは子どもたちの目を引き、無数の人に囲まれていた。
また道沿いのブティックでは、老夫婦がお互いに似合う服を選んでいた。
皆の顔に幸せそうな笑みが溢れている。
これまでの努力は無駄ではなかったようだ。
フロート車に乗って、行き交う人々を見ていると、笑いが込み上げてくる。
ここ数日の残業も、全て報われた気がした。
「ラルスの民よ、祝祭日の開始を宣言する――」
夜空に一輪目の花火が咲き、わたくしは祭りの幕開けを告げた。
耳を劈くようなドラムの音と、トランペットの澄んだ音が聞こえてくる。
それらが今宵で最も華やかで賑やかな楽章を構成している。
「バッテンバーグ殿下、こちらです」
挨拶が終わると、わたくしは私服に着替え、王太子妃との約束した場所へと急いだ。
「では、どこから始めようかしら」
王太子妃はわたくしの手を引いて、人通りの多い散歩道に向かった。
我々はいろいろな屋台を歩き回った。ラスルの特産品で両手がいっぱいになる。
情熱的なフロート車の前に立ち、パフォーマーたちの演技を眺めた。
「パチッ」
花火は彗星のようにキラキラと尾を引きながら夜空に向かって飛んでいく。
夜闇に花を咲かせ、やがて星の滝となって散って行った。
祭典は最高潮に達した。
夜は光を放ち、ますます多くの花火が夜空に打ち上げられる。
爆発した瞬間の美しさは、清らかな月すら覆い隠した。
楽しい……
わたくしは次第に祭典の奔放な熱気に染まっていった。
気持ちもどんどん楽になった。
「バッテンバーグ殿下?」
花火が眩しかったからか、ふと、人ごみの中から名前を呼ばれた。
「姫様?本当に姫様?!」
「どうして姫様がここに?!」
人々の騒めきはますます大きくなり、ただでさえ人だかりの多い通りは、更に混雑した。
そしてわたくしは期待の眼差しに圧倒されていた。
「その……」
振り返って王太子妃に助けを求めたが、彼女は微笑むだけだった。
今となっては、自分で告白するしかなさそうだ……
「すみません、友人と遊びに来ただけです。ガッカリさせてしまって申し訳ありません……」
ラスルの姫なのに、祝辞が終わった後にこっそり出てきてぶらぶらしていたら、ろくでなしの姫だと思われるだろう……
「ガッカリ?なんで?」
目の前の男は戸惑ったように髪を掻いた。
「姫様に感謝してもしきれませんよ!」
まさかこんな返事が来るとは思っていなかったのだろう、わたくしは呆気に取られた。
「姫様がこの間倒れたとお聞きしました。この祭典のためだと」
一人のおばあさんが杖をついたまま、注意を引こうと地面を叩いた。
「そうだよ、祭典だけじゃないよ!この前、姫様に書いたお手紙に返事が来たの!」
ロリポップを手にした少女が駆け寄ってきて、わたくしのドレスの裾を引っ張った。
「昔、うちの商店が売られそうになった時、姫様が助けてくれたおかげで解決できたんです!」
「それから私も、私の結婚式もバッテンバーグ殿下にお世話になりました……」
ますます多くの人がわたくしを取り囲んできた。
彼らは待っていたかのように、淡々とそして真摯に感謝の言葉を口にした。
皆の笑顔が風のようにわたくしの心に吹いた。
そうか、わたくしのやった事を皆は覚えているのか……
「そうですわ。だから皆に好かれているのですよ。姫様」
すると、王太子妃が近づいてきて、わたくしの肩を叩いた。
「ありがとうございます、わたくしも皆様が大好きです!」
わたくしは果たして立派な姫なのだろうか?
今でも、よくわからない。
確かに今の自分は、完璧な姫とは言えないのかもしれない。
しかし未来は、皆の笑顔のために努力したい!
駒も王冠も、それらを輝かせられるのは自分自身だけ。
「バンッ!」
空にまた金色の花が咲いた。
まるで希望の光が大地に降り注ぐように、優しくて甘い祝福をもたらした。
Ⅴ.バッテンバーグケーキ
「リーン――ゴーン――」
城の時計台から、鐘の音が聞こえてきた。
新たな夫婦が誕生する事を意味している。
「これで、少し安心した……」
国王陛下は王妃様の手を引き、神聖な時計塔を見て、安堵の笑みを浮かべた。
「これまで、バッテンバーグケーキに苦労をかけた……」
国王陛下は少し申し訳なさそうにバッテンバーグケーキを見た。
王国が誕生した際、ラスル王家を覆っていた呪いは悪夢のようだった。
異国の血だけが王子の命を救えるという……
ただ、その「救世主」が呪いを解いてくれる代償は誰も教えてくれなかった。
例え彼女に救われた王子であっても。
……
「神よ、どうかこのお二人の愛が、永遠に続きますように!」
晴れ渡った空の下、バッテンバーグケーキが王子と王太子妃に祝福を捧げた。
王太子妃は手にしていた花束をバッテンバーグケーキに捧げた。
振り向いた時、王太子妃が耳元で囁いた。
「ありがとうございます。私が知っている中で、バッテンバーグケーキ殿下が最も素晴らしい姫ですわ」
花びらと一緒に金粉が空に舞った。
二人は顔を見合わせて笑う。
バッテンバーグケーキは王太子妃の言葉を思い出し、王子が王太子妃を見る目に気づいた。
熱く、優しく、愛情のこもった眼差しだった。
「愛」という名の証。
バッテンバーグケーキは口元を覆って笑った。
王太子妃が心配する必要はなかったようだ。
王子は、異国の王太子妃を愛していたのだ。
「王太子妃様――!」
人々の歓声の中、その美しく優しい王太子妃は、呪いを解きに来た「救世主」は……
呪いの言葉の通り、ひらひらと舞う花びらのように、「愛」と言う名の茨の中に落ちたのだ。
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