バニラマフィン・エピソード
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バニラマフィンのエピソード
魔導学院が創造した食霊の一人。耳としっぽは実験の産物で、それを見ると彼は魔導学院での辛い経験を思い出してしまう。そのため、馬と呼ばれると、不快感と悲しみを覚える。優しく善良な性格だが、時折ネガティブになり、不幸が起きるのではないかと心配する。そのため、いつも涙ぐんでいる。
Ⅰ.逃亡
雲間から太陽の光が差し込み、世界が淡い黄色に包まれた。
体が鉛のように重い、頭の中で嵐が起こっているかのように酷い耳鳴りもする。
ぼんやりしていると、体の下からひんやりとした感触が伝わってきた。
私は今……どこにいるのだろう?
混乱が津波のように押し寄せてくる、それに呼応するように自分の激しい息遣いだけが聞こえる。
まだ痛む四肢に力を入れ、体を起こそうとしたが、胸も何だか痛い。すると、どこからさくぐもった声が耳に入って来た……
「見ろ!馬の耳が生えている人あそこに倒れているぞ!」
「本当だ、おいっ!足も蹄の形をしているみたいだ!」
馬の耳……蹄……
もしかして……私のこと……?
どうにか目を開けると、逆光の中ぼんやりと人のような輪郭をしている何かに囲まれた。
「動いたぞ!こっ、これは……怪物だ?!」
「おいっ、服に血がついているぞ!みんな離れろ!人を食らうかもしれない!」
怪物……違う……わっ、私は……怪物なんかじゃ……
耳を刺す言葉が電流のようにビリビリと脳に流れ込んでくる。我に返った私は、無意識に口を開こうとしたが、激しい痛みで喉から声が出せない。
次の瞬間、目の前の水たまりに映し出された惨めな姿に気付いた。
耳と蹄は血と埃にまみれ、空気に晒されている。
砕け散った記憶の断片が押し寄せる。
白い服の研究員……皮膚に突き刺さる注射器……
彼らの言う通り……私は確かに……ずっと前に怪物になっていたんだ……
私は慌てて服を引っ張り、醜く異常な部位を隠そうとしたが、嘲笑は一際高く響いた。
動転、恐怖、羞恥……最後、私の脳裏に残ったのは「逃げる」という選択だけ。
誰もいないところに逃げれば、誰にもこの姿を見せなくて済む……
風景が流れて行く、もう慌てふためいている自分の足音しか聞こえない。
気付けば、周囲にはもう人の声はしなくなり、静寂な風の音だけになった。
Ⅱ.改造
尽きない時間は、果てのない円のよう。
私は広大な暗闇の中をあてもなく歩いている。
どれくらい歩いたかわからない、かなりの距離を移動したのは確かだ。徐々に前方から、小さな光点が現れた……
無機質な機械音が響き、蛍光灯の冷たい光が影を引き伸ばす。
実験台に縛られているのは、私だ。
「実験体・バニラマフィン、直ちに改造注射を開始」
思い出した……魔導学院に召喚されてすぐの私だ、ここは実験室。
次の瞬間、引き裂かれるような痛みに襲われ、我に返った。
自分の両耳と両足が歪み、変形を繰り返し、血肉と皮膚が繋がり再生し、最後は毛におおわれた……
頭の中が真っ白になり、自分が見知らぬ何かに変わっていくのをただ見ていることしかできなかった。
自分が馬のようになっていたのだ。
「もう、やめて……やめてください……!」
あまりの痛みに何度も懇願したが、向かいの者たちは聞く耳を持たず、その顔には同情の色はなかった。
その時、絶望とはこんなにも恐ろしいものなのかと初めて気付いた。
ようやく実験が終了しても、私はまだ言いようのない苦痛に沈んでいた。
馬の耳や蹄は、まるで私の体に「寄生」しているかのようだった。
全身が自分のものでない部分に抵抗している、すぐに嫌悪感が脳を埋め尽くした。
こんな自分は嫌だ……
だったら……壊してしまえば……
「……おいっ、何してんだ?!」
天地がひっくり返り、誰かに引っ張られ、私は現実に戻された。
俯くと、両手は血に染っていて、脳は鈍器で殴られたような激痛がした。
「無駄だ、既にお前の体と融合してる、破壊しても痛みが増すだけだ」
「仮に壊せたとしても、どうせまた付け直されるから、諦めた方がいいよ」
その声は、見たこともない白髪の少年から発せられたものだった。
しかし……
「耳と蹄を見る度に、苦痛を感じるんです……」
「苦しみの根源は、その耳じゃないだろ」
少年は急に真剣になり、その言葉から言いようのない寒気を感じた。
「苦しみを終わらせる唯一の方法は、その根源を突き止めて解決するしかない」
見開いたその金色の目には異様な光が宿っていた。私を掴む力も増したため、思わず後ずさってしまう。
「……フフッ、ごめん、驚かせちゃった?俺はチェダーチーズ、お前と同じここの実験体だ」
さっきとは打って変わって、彼は笑顔で自己紹介を始めた。
「私は……バニラマフィン……先程はありがとうございました……」
チェダーチーズの話では、実験室は1つではないらしい。
私と同じように苦しんでいる食霊はたくさんいる。
皆が同じ苦しみを味わっている中、チェダーチーズだけは少し違った。
彼はたまに自分の実験室から出られるのもそうだけど……
いつ会っても、彼は笑っているんだ。
楽しい事なんて一つもないのに、どうして……
「久しぶり!耳はもう治った?おウマちゃんー」
「できれば……そんな風に呼ばないで欲しい……」
少年はニッコリ笑ったが、変えるつもりはないらしい。
「なんで?おウマちゃん可愛いだろ?」
「私の……本来の姿でないので……」
「うん……知ってるよ、無理やり押し付けられたものだってね……でも、考え方を変えてみるのはどう?」
彼は笑いながら私の耳を指で弾いた、そんな彼を怪訝そうに見つめる。
「元に戻せないのなら、受け入れて感謝するといい……お前に反抗する力を与えたことにね」
「はっ、反抗?!」
「もちろん。まさか……ここから逃げたくないの?」
「逃げる……?でも、どうやって……皆契約に縛られているし、それに命令に逆らうのは危険だ……」
私の体に絡みつく契約の力を思うと、心臓が震えた。
「なあ、どうしていつも泣きそうな顔をしてるんだ?」
「ごめんなさい……私……」
「はい、これ」
キラリと光る蝶が手渡された。
よく見ると、それは透明な箱に入ったままなのに、美しい状態で保存されていた。
「これは……?」
「標本だ、あいつから盗んだ……あいつは時々、それを見つめながら下手くそな笑顔を浮かべるんだ……お前も少しは元気になるかなって」
チェダーチーズの言っている事はよくわからなかったけど、活き活きとしている蝶の標本を見ていると、実験室とは違い何かを感じ取った。
まるで……遠くから花の香りを運んでくる涼しい風が、今私の耳元で囁いているかのよう。
脳裏に不思議な場面が浮かび上がり、沈んでいた気持ちは本当に少しだけ楽になった。
目尻の涙を拭い、白髪の少年に頑張って笑顔を作って見せた。
「チェダー、ありがとう……」
おウマちゃんという呼び名を受け入れる準備ができた途端、彼は二度と私の前に姿を現さなくなった。
もっと聞きたいことがたくさんあった、だけど口から出す前に、あの日の爆音によって全てかき消されてしまった……
Ⅲ.森
どれくらい時間が経ったのかはわからない、目眩が少し落ち着いたからか、体はいつもよりも軽く感じた。
優しい光に包まれて、私はゆっくりと目を開けた。
周りを見渡すと、目に飛び込んできたのは鮮やかな緑だった。
世界は黄金色の日差しに包まれ、鳥のさえずり、草花の香りに満ちていた。
ここは……?
体を起こすと、ツルを編んで作られたベッドの上に寝ていたことがわかった。
幸いなことに疲労感はほとんど残らず、打ち身もほぼ治っていた。
記憶をたぐり寄せ、唯一思い出しのは、人ごみの中から駆け出してずっと走っていたこと……
気を失った私は……どうやら森で倒れていたようだ……
でも、体の傷はどうして……
まだ痛むこめかみを押さえて、起き上がって辺りを観察しようとした時、手首に違和感を覚えた。
一本のツルが手首に絡んでいる、外そうと軽く引っ張ったら、何故かより強く絡まれてしまった。
ツルは上に登り、腕に絡んで来た。
思わず動きを止めたが、それからは悪意を感じられなかった、私と仲良くしようとしているみたいだ。
まるで……何か柔らかい力が私の霊力と共鳴しているみたい。
驚いていると、突然葉っぱが擦れるような音が聞こえてきた。
「目が覚めたのか?」
淡々とした透き通った声を聞いて動きを止める。
声の主を見ると、純白の服を身に纏った神のような金髪の男性がそこにいた。
「私を救ってくださったのですか?ありがとうございます……」
「ええ、ここまで辿り着ける者は滅多にいない」
彼の言葉が終わると、ぬるぬるとした何かが背中を這い上がって来る気配がした。
次の瞬間、何本もの黒くて長い触手が視界に飛び込んできた。「アッ」と私は驚きの声を上げ、後ろによろめいた。転倒しそうになったが、ツルがすぐに私の体を支えてくれた。
状況を把握する前に、もう一人の長身の男性がやってきた。
黒い触手は男の背後に引っ込んで、先ほどとは違って、従順になっている。
「……はぁ、やっぱり人間の方がうまい、それに少ない……ムサカ、また俺の食事を邪魔したな、こいつはまだ恐怖していないのに助けるなんて。次人間が迷い込んできたら、絶対に手を出すな!」
「手を出したのは私ではない、彼自身だ」
どこからともなく聞こえてきた不機嫌そうな声を無視して、金髪の男は私の方に顔を向けた。
「そのツルは……君の意識に従っているのか?」
「えっ?」
まだ状況を掴めていない私は、突然の問いかけに応じられず立ち尽くすことしかできなかった。
固まった私を見て、金髪の男は自分たちのことを説明してくれた。彼らはこの森に住まう食霊で、ムサカとシュプフヌーデルンだという。
そして、触手が突然私を襲ったのも、恐怖心を掻き立てそれを糧とするためだそうだ。
悪意がないことを確信し、私もようやく胸を撫でおろした。
「それで……君はどうしてこんなところへ?」
ムサカは淡々と尋ねた、色素の薄い瞳に感情の起伏はない。
「実験室から脱走した後、仲間とはぐれたのです」
自分が何気なく口にした「仲間」という言葉にぎょっとした。
仲間……そうか……知らないうちに彼らのことを仲間として認めていたのか。
「実験室とは何だ?」
「それは……とても寒くて、暗い場所です」
今まで事をムサカに教えた。
それを聞いて、淡々としている彼の表情は更に少し冷たくなった。冷静だったはずの彼の瞳には、憤怒の炎が燃え上がっている。でもほんの少し、悲しみの色も混ざっていた。
しかし、彼は何も言わなかった、ただこの森に居る事を許してくれた。
ここには残酷な研究所も、日が差さない部屋も、痛くて苦しい実験も、嘲笑う人もいない。
シュプフヌーデルンとあのスレンダーという名の左手が時々騒ぎ出す以外、ほとんどの時間は静かだ。
ここの生き物は、外界による苦痛を心配する必要がない、破壊や拷問を恐れる必要もない。
太陽や雨風を浴びながら、万物は静かに自由に生きている。
朦朧としている中、私は再びあの蝶のことを思い出した。
もし、その瞬間に留まっていなかったら、その羽の光はもっと輝いていたかもしれない。
澄み切った空を見上げると、暖かい日差しが静かに手のひらにこぼれた。
やっと太陽の温もりに触れることができたのに、時々虚しく感じるのは何故だろう。
このような穏やかな生活は、少し前はまだ夢のようなことだった。
……こんな幸福は、私が享受していいものだろうか?
Ⅳ.探し求める
森での生活も徐々に慣れ、負っていた傷もだいぶ治った。
ここは誰にも邪魔されない、苦痛もない静かな場所。なのに、心の奥底では何かが欠けているような気がしている。
夜の静寂の中、かつての悪夢のような光景が幽霊のように私に絡みつく。
血肉を歪める薬剤……実験室の外から聞こえて来る誰かの悲鳴……
私は再び、悪夢から覚める。
森の清らかで静かな月光の下、私は眠れなくなった。
いつの間にか、私は湖のほとりに来ていた。
人ごみから逃げ出したあの時から、久しく自分の姿を見ていない……
誰に見られる訳でもないのに、変わり果てた自分に本気で向き合えないでいた。
湖に映る月を見ていると、不思議な力に背中を押され、私は湖の中に足を踏み入れた。
水の冷たさが足から伝わってきて、下を向くと、自分の姿が目に映った。
腰まで伸びた髪、隠しきれない疲れた顔、そして消すことのできない馬の耳と蹄。
もし、変な薬を注射されなかったら、今の私はどうなっていただろう?
考えただけで、胸の内にある悲しみが氾濫する。
「融合改造」された傷はとっくに治っていたが、耳と蹄に触られるたびに言い表せられない違和感に襲われる、そしてかつて煉獄に居た頃の記憶もよみがえる。
目を閉じると、耳元で爆発音がした。
あの日、私は血まみれのチェダーチーズを前にして、隅っこで蹲っていた。
その後どうなったのか、私は覚えていない。
血色に染まった世界の中心に立ち、チェダーチーズの狂った笑い声が響いていた事しか覚えていない。
それは破滅で、希望だった。
その時に思い出した、彼は随分前から脱走を企んでいたことを。
私の前でいつも笑顔でいた彼のことだから、てっきり冗談を言ってるのだと勘違いしていた。
しかし彼の目の中に浮かぶ固執は、私にはない力強さと恐れない心だった。
「おウマちゃん、もし俺がここを吹き飛ばしたら、その後どこに行きたい?」
「わっ……わからない……」
「……おウマちゃん、本当にやりたい事がないのか?」
「そうね……森に行って、草木や木々が見たい……綺麗な蝶を見て、成長過程を観察したい……それと……自分の花園が欲しい……」
「アハハッ、本当にそういうのが好きなんだ!出たら、俺を招待してくれよな!」
「いいか、爆発音が聞こえたら、外に向かって走れ」
「走る……?どこへ……チェダーはどうするの?他の皆は……」
「俺のことは気にするな、お前は……誰にも追いつけられない所まで走れ」
……
数えきれないほどの記憶がわき上がって来た。
気付けば視界がぼやけ、頬も濡れていた。
チェダーと逃げ出した仲間たちは……今、どこにいるのだろう……
悲哀に満ちたこの瞬間、私は突如自分の心の中に欠けているものに気付いた。
私一人だけがここに隠れているのは、不公平すぎる……
逃げることで……本当に過去の苦しみを全て解決できるの……?
湖に映る姿がより鮮明になり、初めて自分の姿に向き合えた。
ずっと受け入れられなかったものが……いつの間にか、完全に自分の体と融合していた。
それは幾度も私に言い聞かせてくる、かつての苦しみは本当にあったものだと。
受け入れなければ、私は……永遠に完全な自分にはなれないと。
「苦しみの根源は、その耳じゃないだろ」
そうだ、憎いのはこの耳と蹄では無い、これらを残酷な方法で作り出した人たちだ。
かつての苦痛に向き合って、受け入れて、初めて本当の自分になれるのかもしれない。
それになによりも、仲間たちが心配だ。
だからこそ、彼らを置き去りにして、一人ここに残り、平和な生活を享受したりできない……
見えない思考の糸に引っ張られ、私はようやくやるべき事を見出した……
「森を出るのか?」
ムサカは淡々とした口調で、興味なさそうに尋ねて来た。
「はい……私ははぐれた仲間たちを探しに行きます。彼らが心配です……そして、彼らのそばにいたいのです……」
ムサカは軽く頷くだけで、何も言わなかった。
スレンダーだけは「デザート」がなくなると騒いでいた。
荷物をまとめて出発しようとしたら、突然、腕に締め付けられるような感覚がした。
いつの間にか、ツルが巻きついていたのだ。
「君にかなり懐いているようだな、連れて行きなさい」
「いいんですか?」
私の戸惑いを察知したのか、ツルはますます強く巻きついてきた。
「君を認めているようだ、連れて行くといい」
森に入って以来ずっと一緒にいたから、正直に言えばもう仲間だと思っていたのだ。
離してくれないツルを撫で、その柔らかな葉っぱから温もりを感じたを
「なら、一緒に行こう」
Ⅴ.バニラマフィン
「ああん?誰がブサイクだ?!このクソガキ……ああああっ!なんだこれっ!!!」
チンピラたちが怒りに狂って棍棒を振り上げると、細い緑色の何かが現れ、手に持っていた棍棒が叩き落された。
それと同時に、ツルの鞭が地面から現れ、彼らを縛って吊るしあげた。
「あああああ助けてくれ!死ぬ!死ぬぞ!」
少女は驚きを隠せなかった。長髪の男性はまだ肩を震わせているのに、毅然と彼女の前に立っていたから。
「……できれば傷つけたくありません、ただ、彼女に謝って欲しい」
「わー!美人のお兄さん、見た目と違ってこんなに強いんだね!でも、あたしに謝るだじゃ足りないよ、お兄さんにも謝ってもらわないとね!」
わずか数秒後、それまで叫んでいたチンピラたちはすぐに謝って、尻尾を巻いて逃げていった。
「クソッ!変なヤツにばっか会うな!この前の白い服着たイカレ野郎のそばにいたクソガキ二人もそうだった!」
バニラマフィンが反応する前に、チンピラたちは路地裏に逃げて姿を消した。
「白い服……」
「美人のお兄さん!助けてくれてありがとう!それとね、あいつらの言うことは気にしないで!お兄さんはすごく綺麗だよ!」
少女の温かく誠実な言葉に、彼は思わず固まってしまった。
この町に来てからまだそれほど時間は経っていないはずなのに、目に見えないところで、既に何かが変わりつつあるように思えた。
少女に別れを告げ、バニラマフィンはローブを着直した。
振り向くと、背の高い人物が目に飛び込んできた。
その黒髪の男性は穏やかな表情で、彼に向かって微笑んでいる。
「すまない、覗くつもりはなかったのですが、ローブの下の顔を見てしまいました……失礼ですが、ひょっとして誰かをお探しですか?」
「どうしてそれを……」
「ああ、お話の前に自己紹介をさせていただきます」
「私はカイザーシュマーレンと申します」
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