碧螺春・エピソード
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碧螺春のエピソード
美しい物事全般が好きで、美しさに強いこだわりを持つ。彼が現れると、その場は煙がたちこめ、鳥がさえずり花が咲くという。花の香りに満ちた春にしか出掛けたくないと自称している。合わせ香を作る彼にとって、春には彼が必要な植物や原料が多くあるからでもある。異なるお香を使うと、異なる美しさをもたらす事が出来ると信じており、お香を作る事に関して異常な情熱を持っている。
Ⅰ.風月
この時間帯には、次々と路地の赤提灯が灯され、白い壁はピンク色に染められる、町は温かい光に覆われた姿を見せる。曖昧な赤い光に照らされた華麗な扁額は、いつもより人目を惹いてしまう。
たとえ寒い冬でも、雪に覆われた屋根裏は賑やかだった。
ここは花街だ。調香室を除くと、私は一番長くここで過ごしている。
屋根に沿って進むと、人々の笑い声と誰かが誰かを叱ってる声が聞こえてくる。急に寒い風が吹き、安っぽい脂粉の匂いで鼻がムズムズして、くしゃみが出た。
「久しいわね!最近顔を見せてくれてないよ!」
蘭香院の女性に捕まったようだ。彼女は目をキラキラさせ、嬉しそうに笑う。
彼女の笑い声で、他の女の子たちも私のことに気づき話し掛けてくる。
「さっきからまぶたがずっとピクピクしてたの。三郎のせいだったのね!」
「さて、今日はなにを持ってきてくれたの?」
「珍しいね!今日こそこっちに上がってよ。朝からお酒を温めて待ってたんだから!」
「このくしゃみは何かと思っていたら……私に会いたければ普通に会えるだろう。」
「この町で冬に色んな花が綺麗に咲いてるところは、ここしかないからね。全て同時に鑑賞できないのは残念だけど。」
温かい手炉を腰につけ、私は笑いながら一つ一つ返事をしていく。
「三郎くんはすぐどこかに行っちゃうから、今のうちに捕まえないと!」
私はまた、知り合いの女性に捕まれた。
私の反応を見ながら、彼女はこっそりと尋ねる。
「前回持ってきたあの練り香水は……まだある?使ってみたらお客さんに好評なの…」
練り香水?
ああ、そういえば…。
「ああ…酔っぱらって適当に作っちゃったやつだし、残念ながら作り方は覚えてないよ。」
「まあ…ほんと儲ける気が全然ないんだから!」
彼女は地団駄を踏み、私のことを睨んだ。
なにも言わずに私は、持っていた別の練り香水を彼女に投げた。
「これも適当に作ったもんだけど、腰に着けると良いと思うよ。」
彼女は慎重に練り香水の入った入れ物を拾い、匂いを嗅いだ途端、急に嬉しそうな顔になる。
ふん、人間ってこんなもんだよな。
普段よく訪れている蒔花閣にやっと辿り着いた。給仕がお香を焚いて酒を注ぐと、女の子たちも私を囲み、いつも通りに話し掛けてくれる。
「来るのが遅いのよ。取っておいたお酒、飲んじゃうところだったよ。」
「ごめんよ。それは、私が悪いね……」
適当に座り、謝りながら酒を飲んだ。
「うふふ――許してあげるわ――どんな素敵な貴族だって、アナタと比べるとかすんじゃう。うん、アナタといる時が一番楽しい!」
「そのとおり。町で一番の調香師が、一番モテモテなお客さんだって、誰でも知ってるんだから……」
誰かが投げかけた話題に、みんなが飛びついてきた。
「そうそう。三郎くん、今年はどうなの?知りたいな――」
「――今回は、誰が一番だと思う?」
Ⅱ.求める物
花祭りとは、花街の美人選抜会のような大会だ。
当日は、花街の女の子たちがみんな着飾って参加するが、もし運よく入賞できれば、それは出世したみたいなものだ。優勝者は大金までもらえる。
花祭りの時期、観光客が多くやってくるため、旅館と飲食店にとっても書き入れ時となる。
花祭りは花街全体、いや、町全体にとっても一番大切な行事だ。
私はもちろん審査員でもないし、主催者でもない。なのにしつこく質問されるのは、以前優勝した花魁たちがみんな、私が作った特製の香を着けていたという噂があったからだ。
「あはは……どうだろうね――」
切実な目線を無視し、私は人差し指を口に当て笑った。
「まだナイショかな……」
「え――」
笑いながら、机を片付けてる給仕の女の子をちらっと見つめ、なんでもないように私は言った
「もし今言ってしまったら、今回の花祭りに掛けてる人に悪いだろう?」
その時、空のとっくりを交換してる娘の手が急に震えた。
黄色いお酒が私の服にかかる……
「あっ!三郎!服が!」
「ガシャン!」
音が聞こえた途端、とっくりは地面に落ち、酒ももちろんこぼれてしまった。
「気に入っていたのに、残念……」
服のことを惜しみながら、とっくりを落とした子をちらっと見る。
この子に初めて会ったのは、あの宴の時だったっけ?
宴なんてものは音楽の演奏を聴きながら酒を飲み、酔っぱらうの繰り返しだ。
作り物の笑顔に疲れ、虚しさに襲われた私は、酔っぱらって寝潰れている貴族たちを見て、嫌気が差していた。
帰ろうとしたところ、とある娘に声を掛けられた。
十六、七歳に見える。顔色は青白く、ボロボロの半袖から青あざが目立っていた。しかし、毅然とした目線が印象に残る。
「花祭りで優勝したいんです。協力して頂けませんか?」
私は、持ち歩いているお香を焚き、こう返した。
「ほう?なぜ私が協力しないといけないんだ?教えて」
「人売りは、積み上げられた死体の中で私を見つけたそうです。蒔花閣のおかみさんも、別に私のことが欲しい訳じゃなかったけど……安いから、とにかく使いやすいからって――」
花街で悲惨な物語など、ありふれている。
私は途中で彼女を止めた。
「ちょっと待って!そんな境遇の子は、いくらでもいるよ……大切なのは、貴女に協力して私になにか得はある?報酬は?」
「優勝したらその……賞金を全部あげますよ!」
「賞金――?ふふっ……」
「あんな賞金じゃ……私のお香を買えないよ?」
その日は彼女のことを無視し、そのまま帰った。
数日後、また同じ娘に声を掛けられた。
目力が更に強くなったように感じる。しかし話す言葉は、またまたつまらない内容だった。
「私……咳に血が混じっていて、恐らく長く生きられないかと……」
「まぁ、可哀そうだけど、それは重要ではないよ……重要なのは、なぜ私は貴女に協力しなければいけないかってこと」
私は適当にあしらうためにこう言った。
「じゃあ、これはどうかな?私にちゃーんとお願いすれば、貴女をここから出してあげる。そして、病気を治療できる方法を探すとか――」
意外だったのは、彼女はこの提案に全く惹かれなかったようだ。
彼女は強い口調でこう言った。
「私は、花祭りしかないんです。そこで優勝して……そして、一番美しい瞬間に死ぬの」
一番美しい瞬間に……死ぬ?
何故だろう?興味を惹かれてしまう。
「それはなかなか変わった願いね。私を尋ねてくる人はみんなそれぞれだけど、金銀財宝でも、名誉でも、美貌でも、生のことしか考えていない。死に協力して欲しいと言ってきた人なんて、貴方が初めてだ」
「私は運命から逃れられない……生を選ぶことが許されない運命なら、せめて死は自分で選びたい。望み通りの死に方ができるのなら、それが私の人生の価値なんです!」
勇気を感じる。彼女のことを束縛しているのは、花街の壁ではない。
ただ……
「もう少し深く考えようか。貴女に一番似合うお香を作るには、その目……そうだな、まだ素材が足りていない――」
私は彼女に手を振った。
一番素晴らしいお香を作るには、一番綺麗な景色を観てからじゃないと……あともう少しの辛抱が必要だ。
Ⅲ.運命
「どうしたの?あら嫌だ!誰の粗相かしら?」
やかましい声がする。
おかみさんが騒ぎに気付き、駆けつけてきた。
私の服の汚れを見ながら、鬼の形相を浮かべる。
「これは――誰がやったの?三郎の服をこんなに……!」
「あんただね!なんでお客様の前に出た!よりによって一番大事なお方を……命で払っても許さないからな!」
女将さんが目配せをすると、若い衆が彼女を引きずり出していった。おかみさんは笑顔で私に謝罪をする。
「下女が大変な粗相を!後でちゃんと教育しておきます!……その、その服は……」
「いや…たいしたことないよ。大騒ぎになっちゃったね……着替えを適当に1枚持ってきてくれるかい?香りはつけなくて大丈夫だから」
「ありがとうございます!仰せの通りに!それではこちらにどうぞ――」
服の弁償は不要と聞き、おかみさんに笑顔が戻った。
しかし彼女は理解できないだろう。今日の出来事の重要性を。
足りなかった素材……予想通りに進めば、今日見つけられるかもしれない。
その日の深夜、また雪が降り始めた。庭に跪いている娘は、身も心もボロボロだ。
辛そうな咳の音と、後ろから聞こえてくる笑い声が、雪の白さに静寂の色を加えていく。
「こんな罰を受けてまで、私の服をめちゃくちゃにしたかっのか?気分はどうだい?」
娘の前にしゃがんで笑いながら尋ねる。
彼女は口の血を拭き、自虐的に答えた。
「どうか……協力して頂けませんか。お香を…ゴホッ……作って……優勝すれば、死ねる……もう決着を……ゴホッ……つけなきゃ……」
人間……人間とは。
何故言葉と、思いがこんなにも乖離するのだろう?
「何を急いでいるんだい?そんなに死にたいの?」
この言葉を聞いた瞬間に彼女は、一瞬何かを見つけたような表情をした。
「だって、もう死ぬしかないでしょう……」
「こんな話を知ってる?この世にいる女の子は、みんな花にようにきれいだって。それが本当なら、私のような女でも……一度は……一度だけでも……咲けるんじゃない……?」
「一番美しい瞬間に死んで……そうすれば、私のことを見下してきた者たちにも……私の存在を……覚えてもらえるかな」
「嘘つきだね」
私は彼女がひっかいた雪の跡に沿って、彼女と向き合う。
「――生きていても、死んでいても執念は執念。死にたいだけなら、なぜ雪を食べてまで生きようとする?」
「あなたには……わからない……!私を束縛するのが運命ならば、決着をつけなきゃ。簡単に、負けたくないから!」
「……貴方しか……もう頼れない……その代償が死より重くとも、私はかまわない!」
あの時の彼女は、冷たい石の上に置かれた檀香の箱のように、その目にあった薄霧のような悲しみは、まるで新たな蜜臘が照らされたように見えた。
よいだろう。
小さな蕾でも、可憐に咲く日が来る。
「いいよ――引き受けてあげる……」
笑いながら彼女の目を見つめ、彼女の足元に落ちていた梅の花を拾い上げた。
「梅の花の香りはね、蕊から出てる訳じゃない。花弁から出てる訳でもない。これは…骨から漂う香りなんだ。」
だから……この姿は人の印象に残る。
「――さあ教えて、貴女が本当に求めているものは、一体なに?」
Ⅳ.見送り
花祭りの日、多くの観客で溢れ、会場は賑やかだ。
会場付近の橋に座り、気分良く歌を口ずさむと、誰かが来たようだ。
「やあ、三郎、ここじゃ全然見えないだろう?なんでここに座っているの……?」
「シーー、風が立った。」
私は微笑む。
次の瞬間、今までに見たことがない強烈な映像を、この目で確かめることになるだろう。
舞台の幕が開くと、町に風が立ち、爽やかな香りが漂ってくる。
歓声の大きさから、それは彼らにとっては奇妙で、今まで体験したことのない香りであろう。
観客たちは、香りが湖の反対側にある湖心亭から徐々に拡散されていることにすぐ気付き、湖付近に集まってきた。
ある程度人が集まってきたら、私はこの日のために持ってきた玉の笛を演奏し始める。
笛の音に伴い、誰もいなかったはずの湖心亭に一人が現れ踊り始めた。
頭に花の髪飾りをつけ、顔に紗をかけた少女だ。
柳の葉のように細いまゆ、輝く瞳、白魚のような指先……強烈な香りに包まれた彼女は、格別に美しい。
動くたびに、香りは豊満さを増していく。
「なぜそれほど香りに執着しているのですか?」
「美しきものは、不純物を取り除いてから、蒸し、煮て、炒め、焙煎し、炙り、炮り、熾すと、精華を得ることができる。私が香をここまで愛しているのは、この方法でしか美をより長く保存できないからだ――」
「なぜ紗で顔を隠す必要があるのですか?」
「顔は時の流れと共に変わってしまう。どれほど美しい花もいつかは散ってしまうけれど、香りは永久に不滅だ。香りこそ、人の心を揺さぶる美の精髄だと私は考えている」
……
踊りは止まらない。娘はひどい咳をし、血が地面と紗に落ち、暗い花が咲いているように見える。
それでも香りは変わらない。寒い冬の日、そこだけがまるで桃源郷のようだ。
曲が終わり、風が紗を吹き飛ばすと、やっと彼女の顔が見えてきた。
蒔花閣のあの子!
驚きの声を上げた人がいた。
彼女の顔はそのままだ。しかし彼女ではない。あの美しい姿は、身分の低い給仕の子であるはずがない。
議論の声を聴きながら、私は微笑んだ。
身分なんてものが、美の前になんの意味を持つ?
彼女をバカにし、見下していた者どもも、結局圧倒的な美に惹かれてしまう。
この美の前に屈服する彼らの価値観に、私は満足している。
人は香りを作り、香りは人をより美しくする。この世の理だ。
残念だけど……そろそろ時間だね。
私は湖心亭の人を眺める。彼女も私のことをちょうど見つめていたようだ。彼女は私に向かって重々しく一礼をすると……
まだ全て解けきっていない氷が浮いている冬の湖に、飛び込んだ。
笛の音が止まった。
「何かを残す必要などない。美となった彼女にとっては、これが最高の終焉であろう。惜しまれるものなどない……」
愕然とする人間たちを見つめながら、私は口ずさむ。
Ⅴ.碧螺春
「……去年の花祭りと言えば、これだけじゃ終わりません!なんと用意されてた賞金が……よくわからないけどみんなの前で消えちまったと言う訳さ!」
「え――?!」
講談師はみんなの反応に大満足しているようで、ひげを撫でながら続けた。
「それとあの女の子の死体はねえ……なんと掬い上げたら、霧のように消えちまったそうだ。水に溶けたお香のように、一瞬で……何とも奇妙な話だ」
「その日から、この町は独特な香りに包まれたようになり、今でもそいつは消えちゃいねぇ……」
「あの日、どれだけの素晴らしい光景が繰り広げられたことか!今じゃもう見れねぇが――」
「その香りを作ったという三郎は、まだ花街に通っているらしい!運が良ければ、彼と一杯飲める可能性もなくはない……」
春風が吹き、物語を語る声も止まったが、香りはまだ空気中に漂っている。
三月の陽射しが色硝子のように優しく、複雑な表情をした女性にかけられた紗に、キラキラと反射している。
「どう?今はあの日、氷水に落ちる時よりも楽しく過ごしているのか?」
碧螺春(へきらしゅん)は笑いながら女性に尋ねた。硝子で隠れた緑色の目も、日差しに照らされキラキラしている。
女性は彼を見つめながら微笑んだ。
「ありがとうございます。碧螺春さんのお陰で過去の束縛から逃げられました。夢のようです、本当に花のように咲くことができるなんて……」
「ただ……報酬は何も支払えていませんし、あの時の賞金すらいらないというのなら、あの日に仰ったことは一体……」
碧螺春は何も言わず、春の景色をただただ見つめた。
「過去も、未来も、金の匂いは私の作ったお香に似合わない。とっておきの素材さえ頂ければ、お香を作ってあげるから」
「とっておきの素材?」
「そう。貴女が持っていた、死を覚悟する勇気では足りてなかった。私が欲しいのは、生に対する欲望と、生まれ変わるための決意」
「報酬はまあ、実はもう頂いているよ……それはこの花をもっと咲かせ、この香りをもっと遠くへ染みわたせてやること」
蒔花閣。
物語を聞いてから駆けつけてきた玉麒麟(ぎょくきりん)は、どうやら混ぜてもらえなかったようだ。
「どういうことだ?先程の男たちにはいいのに、どうして私がダメなのか?」
「……まったくあんたみたいな女の子は初めてだ。ここは女の子が遊びに来るところじゃないぞ。それとも――仕事を探しにきたの?」
入口で客引きをしている女の子たちが、玉麒麟をじっくり見てから笑い出した。
理解できてない玉麒麟はただただうるさいと思い、指の関節をポキポキと鳴らし、やっつけてやると決意したのだ。
「やめなさい!」
急に花の香りが漂ってきた。その綺麗な手が服に触れる前に、彼女は横に飛んで男をひっ捕まえた。
「――いたたた――髪、髪を引っ張るな――」
クジャクの飾り羽のような格好をしている美しい男性だ。すると先ほど玉麒麟のことを笑っていた女の子たちが眉をひそめた。
「ちょっと!放して――」
男性は特に怒った様子はなく、人差し指を口に当て彼女たちを止めた。
「美人さん……いや、お姉さん、ちょっとお話できない?一旦放してもらえないかな……」
美男子に敵意がないことに気付き、玉麒麟は一旦手を放した。
「蒔花閣に入りたかったのか?いい選択だと思うよ!蒔花閣はねえ、美人が一番多い店で有名だからね」
美人が多いと聞いた玉麒麟は一瞬迷ったが、先ほどの下僕のことを思い出し苛立った。
「入らせてもらえなかったけけど?」
男性は玉麒麟のことをよく見てから急に笑った。
「この服じゃねぇ……蒔花閣は一応男性向けのお店だ、そのような可愛らしい女性が来てしまうと、客じゃないと思われても、ある程度仕方がないかな?」
「……はあ?言ってることがよくわからない。とりあえず服まで替えないと入れない訳?」
「――めんどくさい……だったら拳でさっさと済ませた方が話は早い!あの調香師、名前はなんだったっけ?……そうだ!三郎!」
話を聞いた男性が一瞬呆けて、何かすごい面白い話を聞いたかのように大きな声で笑い出した。
彼は笑いながら玉麒麟に近づき、耳打ちをした。
「貴女も、調香してもらうために来たの?彼の作るお香は、ご縁のある人の願いを叶えるんだってさあ……」
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