呼子イカ・エピソード
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呼子イカのエピソード
呼子イカは人間の容姿を変えられる白粉を持っている。美しさを求めて多くの少女が彼と取引をし、自分の理想の容姿を手に入れようとする。しかし美しくなる代償として、自分の大切な何かを捧げなければならない。白粉を塗った少女たちの容姿は、みるみるうちに変わるが、呼子イカが彼女たちの新しい容姿に満足しなかった場合、彼女たちは元の容姿より醜い容姿になってしまう。館主が彼を百聞館に迎えた目的は、より多くの少女を百聞館に呼び寄せ、彼に怪談を語らせ、新しい物語を収集するためだ。そして呼子イカは元御侍の復讐のために二重スパイとして、いくつかの食霊の勢力の間を行き来している。
Ⅰ.神術
「……ごめんください、誰かいますか?」
おずおずとした声とともに引き戸をノックする音が聞こえ、薄暗い提灯キャシャな人影を映し出した。
その時、数十個の提灯が突然、一斉に点灯した。
「あなた様が噂の方ですか……?」
光の中に現れた少女が、ぼんやりと僕を見つめた。温かい黄色の光に映ったのは極めて平凡な顔だった。
「そうだけど、わざわざ深夜に来店するなんて、なにか急用かな?」
僕は眠そうに畳から立ち上がって、彼女の目に輝いた喜びを笑顔で見つめた。
「呼子様、一つお願いがございます……」
少女は唾を飲み込んで数歩前に近づいてきた。その少し乾いた声から緊張が伝わった。
「わたしを……神術で、あなたのような美しい容姿にしてもらえませんか?」
平凡なその顔が一瞬、危険で華やかな眩い光を放った。
深海で長い間眠っていた生き物のように、動き出そうとしている。
「かまわんが……ただし、条件がある、僕に君の大切なものをいただくよ」
「覚悟しています……それでは父親と母親の……!両親の命を捧げます!」
「う……両親か……まあいいだろう」
僕の了承を得ると、彼女の目に奇妙な感情が輝いた。
――それは安い商品をやっといい値段で売ったような得意げな感情だ。
僕は何も気づいていないふりをして、傍らにあった蒔絵箱を取り出して彼女に渡した。
「それでは中身を取り出して、顔に塗って」
辺りは静かで、引き戸越しに和紙に墨が染み込むような早春の夜が現れた。
流れる光が少女の平凡な顔を巡った。不思議な力を持つ白粉を塗ったとしても、あの硬い顔の輪郭をちっとも変わらなかった。
「呼子様……どうしてですか?私の顔、何も変わってませんけど」
少女は銅の鏡を手に、とまどいながら何度も鏡の中の自分を見た。その動きに合わせて、粉が続々と落ちてきた彼女の顔が、崩れ落ちた白い壁のように見えた。
「ああ、やっぱり……」
僕はより楽な姿勢に変え、のんびりと畳に座った。
「つまり……君にとって、両親は大切なものではないということだね」
「これは……!ち、違います……」
図星を突かれた少女は、急に背筋を伸ばした。しかし、反論はせず、彼女は歯を食いしばって、もっと大切なものについて話しだした。
「呼子様、美しさを得るには、何を差し上げればいいのでしょうか?」
「もちろん、君が本当に大切にしているものを差し出すことさ。例えば……」
僕の目はその白粉が崩れた顔に釘付けになった。
「君の手でも足でも声でも目でも……何でも良い」
「なんで体の一部なんですか!」
案の定、彼女は恐怖の表情を浮かべて数歩後ずさった。
「五体満足じゃなければ、普通の人のように生きてなくなってしまいます?!」
「ふふ、だからこそ……大切なものなのさ」
「……無理です!今は……この交換は受け入れられません!」
少女は僕の笑顔が怖かったようで、震えながら後ずさりした。慌てる彼女は提灯を蹴り飛ばし、ついには逃げるように夜の闇へ消えていった。
茂る木々の陰が真夏の風に揺れ、緑色が黒に溶け込み、静かな雰囲気を作り出した。
自分の肌や髪をとても大切にしているのに、平然と他人の命を犠牲にするとは。
これが人間の言う……利己心というやつか?
僕が物思いにふけっているとき、風に乗ってやってきた謎の客に気づかなかった。
「ふふふ、今、急いで飛び出していった少女を見かけたけど、きっとあなたが変なことしたんでしょ?」
急に、耳元で夜風のわずかな寒さを伴った女性の笑い声が聞こえた。
「僕はそんなことしませんよ!館主は……相変わらず人を怖がらせるのがお好きなんですね」
僕は振り向いて、その声の主と知り合いのように、冗談を言い出した。
「残念だったわ。呼子の「変容術」は好きではないけど、私の部屋に来て「物語」を聞くのもいいんじゃないの」
「う……すまなかった。あんなに早く逃げ出すとは思わなくてね」
僕はしょうがないふりをして、首を振ると、目の前で木陰が上機嫌そうに軽やかに揺れていた。
その音が消える前に、僕は何かを思い出したかのように「彼女」を呼んだ。
「そういえば、昔と比べて……館主は、年がもっと上の女の子に話を聞いてもらうのが好きになったようだね!」
「ふふ、そう?時期になると、花が果実になるように、自然なことなんじゃないの〜」
Ⅱ.秘密の面会
月のない暗い夜は、ゆっくりと流れる地底の川のようなものだ。川底の泥の中に、忘れ去られた孤島が沈んでいる。
かつてこの夜のとばりに、東から昇り西へと沈む澄んだ光があったことを、僕もほとんど覚えていない。
夜がさらに深まった。
夕風と霧雨がまばらな竹林を撫で、飛び石の小道が点在している。その先に、提灯を持った客が遅れて到着した。
「遅れてしまってすみませんでした」
彼は優雅に微笑み、肩にかかった緑の霧を湿らせた。
「雨では仕方がないよ、気にしないで」
この茶屋は田舎の隠れ家的な場所にあり、山や川を通らなければならないため、静かで場所が分かりにくい。
春の夜、山間では時々鳥のさえずりが聞こえ、八角形の石灯籠は一瞬で霧雨に消えてしまいそうなほど、弱い光で灯っている。
向かいに座っていた人は目を伏せて茶碗を手にした。薄いお茶の霧が彼のガラスレンズを白く覆い、その瞳の感情は見えにくかった。
「いつ止むんでしょうね、この雨……」
彼はお茶を飲み終え、激しくなってきた庭の雨をゆっくりと眺めた。
「今夜雨が止まないようなら、夜明けまでここに僕と一緒にいるしかないでしょ」
「はは……それもおつなもんですね。ならば、ちょっと面白い話でもしましょう」
「かまわないよ。月兎が聞きたいのであれば。最近、百聞館には面白いことがたくさんあるんだ……」
中庭の竹筒が岩にぶつかる音は、雨が降る春の夜の間奏のように響いた。
霧雨が徐々に止み、夜の帳に小さな星が蛍のように点滅し始めた頃、満足した客はようやく別れの挨拶をした。
「呼子、お邪魔しました。明るい月を一緒に見れる日を楽しみにしています」
彼の眉はうれしそうに吊り上がり、その穏やかな目は誠実さに満ちている。
初めて会った時、彼もこんな優しい笑顔で闇夜を見上げていた。
「この月のない夜空を元に戻す方法があるです……協力していただけませんか?」
「簡単なことです。定期的に百聞館の情報を提供していただければ……我々はきっと、相互利益を得られる仲間になるはずですよ」
提灯を持った人影が小道の竹陰に消えていくのを見送りながら、僕は茶碗に残ったお茶に庭に撒いた。
こげ茶色の茶渋が血痕のように広がって消えた。
情報提供か……それは一番簡単だ。
何しろ、情報を操る権利は僕が握っているんだから。
……
再び百聞館に戻ると、夜は光のない海のように暗く、薄暗い星も真っ黒に飲み込まれてしまった。
傾いた木々の陰には、僕と同じように、夜に帰ってきた人がいるようだ。
「奇遇だね。あなたも散歩に行ってきたかな?」
薄暗い提灯越しに、目の前の意味深な笑顔がはっきりと見えた。
彼はそうかんたんに騙されない男だ。
「おお、君か?……市場に散歩に行ったら雨に降られてしまい、帰るのが遅くなった」
僕は手に持った小さな仕覆を無造作に振った。
「でも、やっと素敵な茶碗を手に入れられたので、無駄足ではなかったよ」
「そういうことか」
彼は急に理解したかのように、頷いたが、笑みを浮かべ、僕の顔に視線を巡らせた。
「そちらも、今日はいい収穫だったようだね」
僕が彼が手に持つ絵馬に目を向けると、彼もようやく僕を試すのをやめた。
「今日は特別な老夫婦の客に会った……どんな代価でも払うから、願いを叶えてくれと言われたよ」
彼は絵馬から一枚を抜き出した。上に書かれた緋色の文字はまだ乾いていなかった。
「彼らの願いは娘を美しくすることだ。ふふ……その娘は数日前から絶食しているらしい、わがままきわまりないね……」
「人々の外見を変えるのは、呼子のほうが上手だけど、あの老夫婦に無理やり頼まれたから、君の客を奪うしかないな」
「ああ……でも、君の絵馬では人々の願いを叶えることはできないと聞いたが」
僕は心配そうなふりをして、顎を撫でたが、彼の表情は変わらず、それ以上は説明したくないようだ。
「大丈夫、老夫婦の願いはきっと叶う……あの娘はきっとまた僕のところに来るから」
Ⅲ.取引
翌日、案の定あの少女が僕のところにやって来た。
今回の彼女の声には、最初の頃の緊張感や生々しさがなくなり、業火のような狂気を帯びている……
「呼子様!なぜ?なぜですか?!」
彼女は僕の畳に身を投げ出し、僕の服を握り締めた。真っ黒だった瞳も、炎のような恐ろしい赤色を帯びていた。
「なんで?両親の命を差し出したのに……なぜ神術が効かなかったのですか?!」
震える彼女の頬にこびり付いた白粉が固まり、簡素な着物には大輪の血の花が華やかに咲いた。
この瞬間、彼女はまるで百鬼図から這い出てきた醜い怪物のようだった。
「う、そうなのか……」
僕は少し悩んで彼女を見つめた。まだらな短剣が通過したところには、血の跡が残った。
「ご両親は君の大切なものではないと言ったはずだが」
「親子は確かに、尊い血で繋がっている。しかし「愛」や「大切なもの」と呼ばれる感情は、生まれつきのものではない……」
「君にとって、容姿に敵わない両親は……本当に大切なのかい?」
「いや……私のせいじゃない!」
肩をすくめた少女が突然顔を上げ、その目に燃える血色の炎が一層燃え上がった。
「全部あの両親のせいよ!美しい容姿を与えてくれなかったから!美人に生まれたら……こんに辛い人生を送らなくてすんだのに!」
「みんなに好かれるような顔が欲しいだけよ……名門のお嬢様みたいな顔……ああいう容姿さえあれば、私は雲の上の存在になれるのよ!高慢なお嬢様たちよりも尊い存在になれるのよ!」
春の夜風に揺らめく提灯の炎は、夢のように点滅していた。
僕は軽く笑い、少女の妄想的な話を遮った。
「どうやら……君にとって容姿はとても大切なもののようだね」
「そうよ!もう後戻りはできません……両親が生き返ることはできません!呼子様、どうか私のお力をおかしください!」
「そうだな、美しい容姿を手に入れるために……ご両親の命を犠牲にしただっけね」
僕は杖で彼女の歪んだ顔を持ち上げ、真剣に考えた。
「美しい容姿とは、誠に命を犠牲にするほどの価値があるのか?」
「もちろん!もちろんです!私の願いが叶ったら、両親もきっと喜んでくれますわ!」
「なんだって?はっきり聞こえなかった。もう一度言ってみろ」
「わ、私の願いが叶ったら、両親もきっと喜んでくれます……」
「いや、これじゃない。もう一つ前の言葉だ」
「も、もちろんです。美しい容姿は命を犠牲にするほどの価値があります……」
「よし、わかった。ならば手を貸してやろう」
優しい夜風が引き戸の外の春の桜を揺らした。鏡の中の少女は、まるで奇妙な人形のように、僕に白粉を塗らせた。
「時間は、あとどれくらいかかりますか……?」
彼女が恐る恐るスカートの裾を掴んだ。そのスカートの乾いた緋色は最初の狂気を無くし、枯れた花のようにしぼんでいた。
「焦らないで、ほら、外の桜の木がきれいでしょ」
風に揺れる夜桜は夢のように華やかで、儚い美しさがその魅力を一層際立たせた。
「呼子様……」
顔をしかめた少女は咲き誇る花から目を逸らし、焦りながら文句を言おうとしたが、開いたばかりの口は、驚きのあまり、閉じることができなかった。
光を反射する鏡には、完璧な顔があった。
夜桜よりも美しく、春の小川よりも澄み切って、甘酒よりも甘い顔だった。
「これが私の顔なの?本当に私の顔なの!呼子様、神術が効きました!」
少女は信じられないような顔をして、自分の頬に触れた。その狂ったような喜びは、キラキラした瞳をより病的に見せた。
しかし、夜桜が銅鏡に落ちると、少女の喜んだ声は恐怖の叫びへと変わった。
その完璧な顔は花のようにしぼみ、一瞬のうちに、しわとシミだらけのたるんだ顔になった。
「きゃああああああああああああ!どういうことよ!!呼子様、私の顔が……なぜこんなことに?」
少女が銅鏡を払い落とした。割れた鏡に夜桜が不完全に映った。それはまるで偽物のようだった。
「ああ……残念だったね。桜のように儚かった。これが命と引き換えにする美しさの代償なのさ」
「ありえない……!そんなはずない!呼子様、きっと何かの間違いです!」
「美しい容姿は命を犠牲にするほどの価値があるって言ったけど、自分の命を犠牲にしたくないとは言わなかったよね」
「楽しい取引だ〜、せいぜい残り少ない数分の人生を大切にしてね」
夜は水のように穏やかで、ついにすべてが静まり返った。
床に倒れたその人は呼吸しなくなり、頬に埋め込まれた無数の鏡の破片が彼女の顔を破壊した。
なんて奇妙な人間だ……顔を一番大切にしているのに、命の最後には、生きるチャンスを手に入れるために、必死でその顔を無残に破壊しようとするなんて。
「どう考えても無理でしょ……あんな醜い顔と、引き換えに同意するわけがないじゃない?」
僕はしゃがみこみ、その恐ろしい顔を消すために、手を伸ばそうとした。
肉と血は流砂のようにどんどん崩れ落ち、恐ろしい塊になった。
見開いた瞳に、悲しい桜の花が落ち、記憶の中で崩れ落ちたもう一つの顔と重なった。
僕は一瞬呆れた。すると振り向いて、力強く手を振り、その血まみれの顔を消した。
Ⅳ.夜の夢
夜は真っ黒なスポンジのように、濃い緋色に染まり膨らんだ。
ネバネバと落ちてきた粘液は目に見えない沼のように僕の手足に絡みつき、より深い闇へと僕を引きずり込んだ。
混乱の中、僕は桜の散る音が聞こえた。
「呼子……呼子……ですか?」
僅かに聞こえた声が僕をより深いところへ導いた。そこには小さな波紋が点滅しているようだ。
それは血だまりを映し、優しい光を放つ瞳だった。
そして、その瞳の持ち主は、顔が牙と爪で引き裂かれた。
「ごめん……こんな顔を見せてしまった……」
「ちゃんと覚えといて……元気に生きていくんだ……」
弱々しい息が消え、絶望の黒い死が容赦なく大地に降臨した。
長い間見開いた目を覆う緋色の桜が、さりげない装飾のように、ひねった肉体を飾った。
僕は茫然と手を伸ばしたが、掴んだのはベタベタとした虚ろの夜だった。
……
「……!」
畳から目覚めると、薄暗い中庭から鳥のさえずりが聞こえた。
ただの夢だったのか。
低く垂れ下がった桜の枝を吹き抜けた春の夜風が、繊細で上品な香りを運び、和室内のアルコールの匂いを少し薄めてくれた。
僕は腫れて痛む額をこすったが、口の中の苦味は少しも消えなかった。
月のない夜は、時間の流れも不気味で不確かになった。
自分がどれだけ生きてきたかさえ思い出せない時がある。長い暗闇の中で、かつては明るかった瞬間も夢のように思えた……
僕は手を挙げて部屋中の提灯の火を灯し、ゴーストのような影を追い払った。すると、夢の中のことが再び目の前に浮かんだ。
これは初めて見た御侍の夢だった……
しかし、なぜあの時の光景なんだ?
僕は半開きの引き戸から入ってきた桜の花びらを一枚拾い上げ、指先で綺麗な色に潰した。
「御侍はどうしてあの人間たちを救ったのか?彼らのために犠牲になるなんて、本当にそんな価値があるのか?」
「まだ長く生きるはずだったのに……僕と約束したのに……」
夜風が強くなり、桜の花が雪のように次々と舞い落ちた。
急に、桜の木の下に見慣れた人影がぼんやりと見えた。彼女はいつもと同じように微笑んで目尻に優しいシワを浮かべながら、僕を見つめた。
それは彼女の最期の姿だ。顔のしわや白髪が老化の痕跡を残したが、その目からより強い力を感じた。
「呼子、これが私の使命だ……神の使者として、この地を守るために全力を尽くすべきだ」
「でも、君は知らなかったでしょ!……あの人たちに裏切られたのだ!君は死ななくても良かったのに……」
風に映る影はとっくに消え、残った言葉も静かな夜に消え去った。
気が付くと、庭の影に幽霊のような人影がひっそりと佇んでいた。
「おお……こんな夜遅く、また散歩に行ってきたのか?ちょっと一杯やらないか?」
僕は感情を抑え、何気なく横に倒れた酒壺を手に取り、彼に向かって振った。
しばらくすると、夜風が絵馬のぶつかる音を運んできた。
光に照らされた男は私の部屋をチラっと見て、再び優しく丁寧な笑みを浮かべた。
「お客さんと面会していると思ったよ……まあ、お酒が好きではないから、いいや。」
ほのかなお茶の香りが夜風に混じり、僕は眉を上げた。
これは明らかにあの山の茶屋の独特の匂いだ……
僕は客と面会するたびに、きれいな服に着替える。そして雨の夜に急いで帰った客は、体についたお茶の香りに気づく暇もなかった。
他人には感じられないこの香りは、秘密の証のように、無関係に見える二人を静かに繋いだ。
僕は何かに気づいたかのように微笑み、酒壺を置いた。
「それは残念だね……次回は必ず一緒に茶を飲もう」
Ⅴ.呼子イカ
呼子イカが召喚されたのは、満月が昇る春の夜のことだった。
人里離れた茶室の外では、雪のような澄んだ輝きが遠くの山々を覆い、風の中に、桜の木が雲や霧のようにそっと揺れている。
空にかかった薄黄色の丸い月にも、桜の枝のようなかすかな陰が映っている。
「月はやっぱり綺麗でしょ?」
向かいに座っていた人が優しく笑い、静けさを破った。
「月……?」
「空にあるあれさ!あなたはきっと噂の食霊でしょ!素敵な願いから生まれた生霊はやっぱり美男子ね」
御侍と名乗る女性はもう若くない。月の明りが彼女の優しい顔に当り、弛んだしわも徐々に伸ばした。
これは呼子イカが初めてもらった人間からの優しさだ。
時は流れ、春の桜は散り、秋の月は次の年を運んできた。
食霊は暗く長い地下トンネルを抜けるかのように、ゆっくりとこの奇妙な世界の輪郭を探った。
道に迷うたびに、道案内人のロウソクはいつも、先の道を照らしてくれる。いつも適切なタイミングで優しい声で彼を注意する。
「そろそろ家に帰ろう」
澄み渡った明るい空と大地の間に、庭の竹筒が石を叩きつけ、静かな竹林が茅葺き小屋を覆っている。
笑顔の御侍が引き戸を押し開けると、飛び石の小道に温かい光が降り注いだ。
「お帰りなさい」
御侍様はいつもこのように嬉しそうにうなずき、振り返って仕事に戻るのだ。しばらくすると、食卓には豪華な料理と温かいお茶が並ぶ。
あの静かな日々が春の水のように流れていった。その日々は清らかで甘かった。
すると、ある日、あの安定した明るい月が徐々に暗くなった。
奇妙な客が頻繁に訪れるようになった。彼は御侍の元同僚であり、世間では「陰陽師」と呼ばれている。
御侍に星象を推し量るように何度もお願いをした。すると静かな茶室からしばしば、白熱した議論が聞こえるようになった。
「黄泉」と「現し世」。
「輪廻」と「感応」。
……
不可解な言葉は風の中に集まり、長い間消えなかった。
漆黒の夜の帳がゆっくりと開けられると、内側にあるのは、もっと深く曖昧な影だった。
それ以来、御侍は複雑な不安を抱えた瞳で月を見つめるようになった。
「月が消えたらどうなるの?」
ある日、呼子イカは御侍に真剣に尋ねた。
「……もしかしたら、闇よりも恐ろしいものがやってくるかもしれない」
御侍のまげに白髪が見えた。薄暗い月明かりに照らされ、疲労感が漂っていた。
食霊にとって歳月は、肌を擦って行く夜風ほどのものにすぎないが、弱々しい人間にとっては残酷な斧なのだ。
「僕の願いはただ一つ、とにかく僕の御侍が無事でありますように」
目の前の人からようやくもやが晴れ、笑顔でうなずいた。彼もいつものように、微笑みを浮かべた。
しかし、次日の夜に、月食は急に発生した。
真っ赤な川が山や平野を染め、緋色の桜もその色を失った。
あらゆるところから現れた醜い怪物たちが、叫び声をあげる人間たちを引きずり、邪悪な幽霊のように脆弱な肉体をかじった。
すべてが終わりのない地獄のように思えた。
目覚めた呼子イカが御侍を見つけたとき、彼女はすでに血だまりの中に倒れた。
他の陰陽師と同様に、彼女はこの瞬間、普通の人間の前に立ち、古い魔法で徐々に消えていく月を救おうとした。
しかし、どんなにタフで強力な御侍でも、血と肉でできた平凡な肉体に過ぎなかった。
呼子イカは長い間血だまりに跪き、記憶に従ってその穏やかで優しい顔をつなぎ合わせようとした。
しかし、すべてが無駄だった。
長明灯が永遠に消えた。
それ以来、彼は帰り道を忘れ、怨念に満ちた鬼と化し、憎しみより深いトンネルに落ちた。
そしてある日、すべての根源は世界の裏側の裏切りだと告げられた。
彼の心に茂った茨が、ついに復讐の方向を見つけた。
「『現し世』と『黄泉』の話は、既に月見から聞いたでしょ」
夜遅くに訪れて来た高貴な青年は、ゆっくりと熱いお茶を受け取り、心を落ち着かせたように笑顔を浮かべた。
「では早速本題に入ろう……月見が言っていたあっちに戻る方法は、実は非常に危険なものなのだ」
「なるほど……それで首座様のお考えは?」
お茶の湯気の中で、呼子イカは目を細めた。
「すべての神器を破壊せば、この世界の根幹が揺れる可能性がある……そうなれば、我々もこの大地とともに滅びる」
「観星落と協力してみたらどうかな?我々はずっと、より安定した信頼できる方法を探している……」
「それで……その方法とは?」
「あっちの食霊と協力することだ。もしくは「神国」を経由する」
「神国……?それは面白い。薬師は神国から来た者数人と友達になったと聞いてますよ」
呼子イカは何かを考えているように、お茶を一口飲んだ。再び頭を上げたとき、彼の顔には気だるそうな笑みが浮かんでいた。
「ふふ……首座様の戦略はやはり頼もしいですね……」
「何しろ、僕の目的は一日も早く「あっち」へ行くことだから、喜んでお仕えしますよ!」
春の夜の雲が徐々にまばらな星を覆い、二人の会話も聞こえなくなった。静かな茶室に響くのは茶釜の湯が沸いた音だけだ。
青年が立ち上がり、別れを告げると、呼子イカは微笑みながら、その姿が竹林の中に消えていくのを見送った。
「誰であろうと……僕を助けることができるなら、僕の「友達」だ……」
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