スフレ・エピソード
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スフレのエピソード
彼は二重人格である。人格の切り替えのきっかけは彼の好きな人形が地面に落ちたり汚された時だ。それだけでなく、表の人格が大きな刺激を受けたり、逃げ出したくなった時には裏の人格が現れる。表の人格は何か自分の奥にあることを察して怯えているだけだが、裏の人格は表の人格を認識している。
Ⅰ 親愛なる人形
わたくしは『お嬢様』の背後に立ち、彼女の髪を梳かしている。
「髪を上げましょうか。子爵様はその方がお好きだと思われますよ」
「そんなこと、どうでもいいでしょ」
「何を仰りますか『お嬢様』。あなたは今、子爵様のご息女なんですよ」
彼女の耳元でそっと囁く、だけど目は鏡に映る無表情な顔を見つめている。
「ねぇ、私がここに来たのは何のため?」
「それは……『お嬢様』は本来であれば、わたくしと同じく執事見習いのはずでした」
そうわたくしが伏し目がちで答えると、彼女はフンと鼻を鳴らし、疎ましそうにわたくしへと視線を移した。
「所詮気まぐれな『お気に入り』に過ぎないの。私の代用品なんていくらでもいるわ」
「お嬢様、貴方は子爵様にとって特別な方です。子爵様は貴方を一番愛していますよ」
そこで鬱陶しそうに首を横に振って『お嬢様』は答える。
「私が他の連れてこられた子のように、彼に捨てられていないからそう思うのよね?」
「……それは」
その言葉に、わたくしは何も言い返せなかった。
子どもが『捨てられる』のは、ここ最近始まったことではない。
『お嬢様』と同じように、外から子爵に拾われた子どもは数人いた。しかし、彼女を除く他の子どもは邸内に残ることはなかった。
彼らは一見すると特別な才能もないように思えたが、唯一共通の特徴があった。
全員が『金髪』なのだ。
しかし最近状況が悪化し、子爵は夜中外から何人もの子どもを邸内に招き入れる。そして、その回数は以前よりも増えているようだ。
『お嬢様』はわたくしよりも遥かに現状を理解している。子爵の元に来る子どもたちが経験することを、誰よりもその身をもって知っていたのだ。
「……スフレ、以前のように私を呼んでくれない?あの男が欲しているのは、私のこの顔だけということは貴方も理解しているでしょう?」
『お嬢様』が虚ろな瞳で呟いた。
「何しろ私は、あの悪魔の期待するものとは違う……」
「アン……」
声を掛けそうになったが、その先の言葉を飲み込んだ。
(今も昔もわたくしは変わらない。相変わらず何もできないでいる)
その思いに苛まれないようにわたくしは深呼吸をする。そして、『お嬢様』に向かって柔らかな笑みを浮かべた。
「そんなことを仰らずに、身支度を整えましょう!わたくしもお手伝いします!そして一緒に子爵様をお迎えに行きましょう」
するとあからさまに不愉快そうに、『お嬢様』は引きつった笑みを浮かべた。
「出迎え?フフッ、無言であの悪魔に引きつった笑みでも浮かべてやろうかしら?」
「子爵様はちゃんと貴方を愛していますよ!」
わたくしは笑顔でそう口にして『お嬢様』の金色の髪を束ねた。その時、彼女の首の後ろに大きな濃い青痣を見つけた。
ハッとしてわたくしが顔を上げると、目の前の鏡台が目に入る。そこには、生気のない彼女の顔が映っている。それともうひとつ――『わたくし』の顔があった。
「こんな時に笑ってんじゃねぇよ」
鋭い眼差しを向けられ、鏡の中の『わたくし』はそう言った。
(笑っている?いいえ、わたくしは決して『お嬢様』を笑ったりはしない……!)
「スフレ、貴方はどうしてここにいるの?」
「わたくしはお嬢様のお世話をするためにいます」
「ここを離れたいとは思わないの?」
「離れる?わたくしには行く宛がありません。夫人の言葉がないともう帰る場所さえありません……」
わたくしの言葉を聞いて、お嬢様はコホン、と咳払いをする。
「……そうよね。貴方にはもう、帰る場所なんてないわよね」
『お嬢様』は何かに取り憑かれたかのように、わたくしの言葉を繰り返す。
わたくし達の間に、突然の沈黙が訪れた。わたくしはそれを破るために、新たな話題を口にする。
「お嬢様、リリアとお話ししませんか?リリアはとてもいい子です!彼女はいつもわたくしの話を真剣に聞いてくれるんですよ」
リリアはわたくしが作った人形の名前であり、昔に知り合った人間の名前でもある。
彼女は陽気で優しい人で、荒涼とした世界でわたくしに耳を傾けてくれる唯一の存在だ。
「そうね……お願いしようかしら。ありがとうスフレ」
『お嬢様』が力なく笑う。
わたくしの小さく掠れた言葉が、彼女の助けになるかはわからない。だけど彼女の気分は僅かに上がったようだ。
(良かった……!)
わたくしには、自分と同じように孤独で無力な『お嬢様』を癒したい、これは偽りのない気持ちだ。
けれど、同時にわたくしの心の奥からは、別の感情が幽かな声となって訴えかけてくる。
(そうだ、もっともっと無力になっていいんだぜ?俺の愛しい人形……『お嬢様』?)
脳内に響く笑い声にわたくしは頭を押さえた。
――この声に惑わされては、駄目だ。
わたくしは深呼吸をし、落ち着きを取り戻して『お嬢様』のためにリリアを取りに行った。
Ⅱ 霧中の胡蝶
「あ、お嬢様、子爵様が戻る時間です」
懐中時計を取り出す、その時が近づくにつれ不安な気持ちが溢れてくる。
「ええ、スフレ、先に行っててちょうだい」
「しかし、お嬢様が時間通りに出ていなければ、子爵様は……」
「何も変わらないでしょう?」
わたくしはどうやって目の前の人を慰めれば良いかわからなかった。彼女の言う通り、子爵が彼女に何かするとしたら、どんな理由でも言い訳でしかなくなる。
しかし、彼女のために何かをしなければ。
子爵の怒りを少しでも和らげるために、わたくしは早めに扉の前で待つことにした。
執事として最初に学ぶことは、全員の時間を完璧に調整することだ。
これは、以前公爵邸の執事がわたくしに教えてくれたこと。
自分自身だけでなく、他の使用人やさらには主人の時間も、より良い給仕をするために、全て完璧に把握しなければならない。
わたくしは貴族によって召喚された食霊だけれど、特筆すべき才能がないため、一度も重用されたことはない。
自由な生活によって、わたくしが学んだ貴族の礼儀作法は無用なものとなった。さらに、これらの礼儀作法の中には立派な執事になるための知識は含まれていない。
だから、公爵夫人の取り決めのもと、わたくしは近頃大公爵と密接な関係を築いているペル子爵のところにやってきて、公爵夫人の未来の執事になるための勉強をしている。
「アンナは?」
案の定、子爵は屋敷に戻るとすぐに『お嬢様』の居場所を尋ねてきた。
「お、お嬢様は、ただいま着替えを……」
「私は彼女に出迎えるよう言ったはずだ!どうしてこんなことすらこなせないんだ!」
子爵は怒りを爆発させた。彼の手にある杖は次の瞬間にもわたくしに向かって飛んできそうな勢いだった。
「子爵様、このようなことでお怒りにならないでください」
と子爵の隣の男性が言った。
「本日、ウェッテ先生にアンナを紹介してやりたかったのだ」
「あまり急がれなくても大丈夫ですよ。全てはまだ実験段階ですから」
その見知らぬ男性の声は、懐かしいようなそして漠然とした窒息感を持っていた。その瞬間、わたくしは忘れるべきだった過去を思い出してしまった。
わたくしは不安げに顔を上げて、子爵と話している男性を見た。彼は細い淵の眼鏡を掛けていて、茶色いコートを羽織り、奇妙な紋様の入ったケースを持っていた。
(ああ、わたくしは彼の名前を知っている……昔あの人の口から何度も何度も聞いた名前だ……)
「どこかでお会いしましたか?」
彼は丁寧かつ穏やかな表情で声を掛けてきた、しかしその優しさは表面的なものでしかなく、その裏には冷たさが見え隠れしていた。
「いいえ」
わたくしは頭を下げた。
「では私の思い過ごしですかね、どこかで見知った顔だと思ったのですが」
彼はそう言って探りを入れていた目を逸らし、子爵と会話を続けるために振り返った。
「子爵様、ご心配なく。全ては手配済みです」
わたくしが少し意外だったのは、彼の少ない言葉で子爵様の気分はすぐに落ち着いた。
「ああ、ではウェッテ先生は実験を続けてください。機器も環境も揃っていますよ」
「お気遣いありがとうございます、子爵様」
「ランドルフ、ウェッテ先生を連れて先に行きなさい」
「かしこまりました。ウェッテ様、どうぞこちらへ」
ランドルフは子爵の執事だ。彼のやや曲がった背中と白髪は、長年に渡って子爵に使え苦労してきたことを物語った。彼は子爵に軽くお辞儀をしてこう告げた。
「旦那様、本日は伯爵様との面会がございます。」
子爵はわずかに黙ったかと思うと、急に笑い出した。
「ああ、そうだ、面会……それなら今後はお前に同伴してもらおう、スフレ」
「えっ……はいっ、かしこまりました」
突然の指名により、わたくしは少し困惑した。
実はわたくしが子爵の屋敷に来た目的は、執事の素養を得るためだけではない。もう一つ任務があったのだ。ペル子爵を通して、ギャンブラー伯爵として知られているとある貴族の情報を得ることだった。
貴族が権力を握っているこの国では、貴族間のいざこざは避けられない。
公爵夫人は、ギャンブラー伯爵は最近脚光を浴びていて、さらに密に大公爵と戦う準備をしているという。
ペル子爵はもともとギャンブラー一派であり、二人は頻繁に交流があったとされている。そのため、子爵の屋敷にいる間に何か証拠を見つけなければならない。
(しかし、公爵夫人は本当にわたくしに証拠が掴めると信じてここに派遣したのだろうか?いや、そんなはずはない……)
「ぼさっとするな!」
「はいっ、すぐに車を用意して参ります」
子爵の怒号で我に返り、急いで車の準備に向かった。
扉を開けた瞬間、赤い宝石蝶がわたくしの前を通り過ぎた。
わたくしは知っている、工芸品のように美しいこの蝶は、公爵夫人の眷属だ。
(しかし、もしこの蝶があのウェッテ先生についてここへ来たのだとしたら……)
(公爵夫人はあの人がここに来ることを知っていたのか?)
Ⅲ 鏡の中の自分
心からの疑問は、最終的に自分で払拭することとなった。
わたくしはいくつもの偶然が重なり、公爵夫人に引き取られることになった。
しかし、今度こそ自分を変えて、あの人に起きた悲劇を繰り返さないようにしたい。
すぐにわたくしは馬車を走らせ、子爵と共にギャンブラー伯爵の屋敷までやってきた。
外から見ると、屋敷の大きさは子爵のものとそれほど変わらない。しかし、至る所にあしらわれている贅沢な金の装飾は、記憶にある豪勢な王城を思い起こさせる。
屋敷に到着した後、子爵はギャンブラー伯爵の出迎えを受けることはなかった。
しかし、彼はこれに慣れているようで、召使にそのままついていき、地下室まで向かった。
どういうわけか、貴族は皆地下室に秘密を隠したがるようだ。そして、ここの地下室にはわたくしが手に入れた情報通り、大きなカジノがあった。
わたくしは子爵について、ギャンブラー伯爵のいる卓に向かった。
この時、伯爵は同じ卓にいる二人の貴族と何やら会話をしていた。
「伯爵様、私は遅れてしまったようですな、本当に申し訳ない」
「問題ない。私はどこかの公爵のように時間にはうるさくないからな」
「ははははっ、確かに全てを分単位まで計画する者は恐ろしいですな」
彼らは大公爵が時間に以上にうるさいことを嘲笑っていた。
もしわたくしが大公爵の使いだと知っても、同じ内容を話せるのだろうか。
それとも、ペル子爵と同じようにわたくしの反応を観察しながらあれこれ言うのだろうか。
「ペル子爵、最近の伯爵の運の良さを聞いているかね、彼が負けるのをほとんど見たことがないんだ」
「運も実力の内というやつでしょう」
彼らはそんな会話をしつつ、新しいギャンブルを始めた。
「私がカードを切りましょう」
金髪の少年が慣れた手つきでトランプをシャッフルし始めた。
ギャンブルが始まると、全員が集中した顔になった。
おそらく、この地下室はあまりにも広すぎるのだろう、カードを切る音以外ほとんど何も聞こえない。
ちょうどそんな時だった、金髪の少年がカードに何か仕掛けたのに気付いた。
「案の定、伯爵貴方の勝ちでしたか」
数局終えたが、わたくししか金髪の少年が毎回伯爵のカードを交換していることに気付いていない。
「運が良いだけさ」
ギャンブラー伯爵はそう言った。
「一旦休憩にしましょう。伯爵様、今回私たちを呼んだのには理由があるのだろう?」
「スフレ」
彼らの会話に集中しようとした時、突然子爵はわたくしの名前を呼び、外で待つよう目配せしてきた。
仕方なくその場を離れることにした。立ち去る前、わたくしは一人でトランプを切っている金髪の少年を見た。
(ギャンブラー伯爵の横にいたこの少年のことを言うべきだろうか?何故他の誰も気付いていないのに、わたくしだけがイカサマに気付けたのだろう?これこそ、夫人が求めている証拠なのだろうか?)
わたくしが考え、悩み、躊躇っている間、時間はとっくに過ぎていった。
子爵は地下室から戻ってきたが、一言も発さないため、これ以上の情報を得ることはできず、仕方なく帰りの馬車を走らせた。
「ウェッテ先生は?」
子爵は戻るとすぐに執事に声を掛けた。
「おかえりなさいませ旦那様、全て仰せつかった通りにしています」
「なら良い」
「旦那様、本日のお食事は書斎とダイニングルームどちらで召し上がられますか?」
「ダイニングルームにウェッテ先生を招いてくれ。それとスフレ、アンナにも来るよう伝えておくんだ」
子爵が声を低くして放った最後の一言には、拒絶を許さない意味が含まれていた。
「かしこまりました……」
(しかし今『お嬢様』は子爵に会いたくないのでしょう……)
わたくしは心の中でそう呟きながら、顔をしかめたまま通路を歩き回っていたら、近くの窓にぶつかった。
「納得いかないようだな。子爵に意見があるなら言えばいいだろ?」
窓に映った人物は自分と同じ顔をしているが、見覚えのない笑顔を浮かべていた。
「伯爵の屋敷の地下室でもそうだ。なんで言わなかったんだ?面白いじゃねぇか、イカサマがバレれば利益ばかり気にする連中は勝手にお互いを潰し合うだろう?」
まただ。自分の意志ではこの幽霊のような幻覚を払拭できない。
「わたくしは貴方の言葉を信じませんよ。あの時はわたくしの見間違いだったかもしれませんし……」
「見間違いな訳がねぇだろ。あの食霊がイカサマをしているのを気付けるように、俺がお前に仕向けたんだから」
「食霊?あの金髪の少年も食霊なのですか?」
「今になって信用するのか?」
わたくしが驚いているのを見て、空に映る自分はその笑みを深めた。
「霊力の弱いガキに過ぎねぇ。あの程度のイカサマで騙せるのは世の中を知らない輩ぐらいだ」
「貴方は一体誰なんですか?な、なぜわたくしについて回っているんですか?」
「ククッ、俺か?俺はお前だよ。あの時のお前の願いで生まれたんだ」
「わたくし……そんなはずは……」
「だが、結局リリアは死んだ。人間にしては美しかったのに、惜しいもんだ。俺も悲しいな」
「もうっ、これ以上話しかけないでください!」
全身がズキズキと痛む。わたくしの近くに隠れていた人形のリリアとビビアンは、まるでわたくしを慰めるように、わたくしのもとに飛んできてくれた。
「お前が公爵夫人のところにいるのは、夫人がリリアとそっくりだからなんだろ?」
「いや……違う……」
「いつまで自分を偽る気だ?この臆病者!!!」
過去の記憶が滝のようになだれ込んでくる。
血まみれの赤い記憶は次第に真っ黒な闇に包まれた。その僅か一瞬で、わたくしは夢の中に取り込まれてしまった。
「全く成長しねぇな。リリアが見たら泣いちまうだろうな、臆病者」
(だけど、俺にとっては都合が良い)
「今は俺が楽しむ時間だ~)
Ⅳ.終わり後の始まり
俺にとって、公爵の下に戻るのはとても簡単なことだ。
ペル子爵は公爵夫人の執事である俺にあまり手荒なことはできない。
つまり、公爵夫人を盾にすればいい。彼女に呼び戻されたと嘘でもついておけば、簡単に戻ることができるだろう。
しかし、彼女はたいそう変わった人だ。そしてアフタヌーンティーを欠かさない食霊でもある。
本来多種多様な性格ではないはずだが、一部の人間の事情にはなぜか興味を持っている。
正確に言うと、彼女はリリアという名の人間を非常に気にかけている。
俺がたまたま彼女に会いに行った時ですら、彼女は本物の公爵夫人によって残された童話を読んでいた。
そしてこれこそが、彼女がこの何の取り柄もない臆病者を傍に置いておく理由だろう。
本当に執事が欲しいだけという可能性もあるが。
俺は彼女に子爵と伯爵邸で起こった事を話したが、彼女は驚いた様子はなかった。
俺の話で何かを証明できたのか、彼女は待ちに待った物語の続きを得た。
だから、俺たちの公爵夫人は新しい主人公のために次なるシナリオの計画を始めた。
その後の日々は臆病者にとっては穏やかなものだっただろう。
物語を円滑に進めるため、公爵夫人はすぐに俺を彼女の屋敷『時の館』へ呼び戻した。
その後、大公爵は彼女の提案で珍しく誕生会を開くことにした。
あの夜はとてもとても長かった。
会場では、ペル子爵がウェッテ先生を病気を患っていた大公爵に紹介していた。
パーティーの後、大公爵から権力を密に奪おうとしていたギャンブラー伯爵は、その時のギャンブルで全てを失った。
この国王に実権なんてない。貴族が全てを支配している、それを、年老いているこの大公爵が完璧に体現して見せた。
ギャンブラー伯爵はすぐに没落し、平民たちの世間話の話題に成り下がった。
「これで終わりだと思うか?スフレ」
「それを聞いてくるってことは、何もかもはこれからということだろ?」
「良い答えではないか。これからは退屈しなさそうだな」
「貴方が俺を無理やり呼び起こしたのは、何か面白い事を聞かせてくれるからか?」
目の前の女性の表情を見た、気高く美しいその顔に残酷さが見え隠れしていた。
記憶の中の過った笑顔を、この女性は決して見せることはないだろ。これはあの臆病者の記憶にあった笑顔だ。
「今日は公爵の誕生日だ。彼はわらわにある質問をしてきた」
公爵夫人はそう話しながら、手に持っていた本のページをめくる。
「『他人を一度裏切ったことのある者を信頼できるのか?』と、わらわはどう答えたらよいと思うか?」
「裏切られるのが怖いなら、裏切るチャンスを与えなければいい」
「というと?」
俺の答えに彼女は関心を持ったのか、顔を上げて俺の方を見た。
「死人に他人を裏切ることはできない」
彼女の見定める視線を気にすることはなかった。次に自分のすべきことを理解していたのだ。
「あと、今度はもう少し優しい起こし方で起こしてくださいよ、公爵夫人」
あの晩、俺は公爵の誕生日会には出席せず、ペル子爵のもとを訪れた。
人目を惹きたくはなかったため、二階の書斎のバルコニーに飛び込んだ。
書斎には明かりがついていたから、子爵がまだ仕事をしていることはわかっていた。
この時のペル子爵はギャンブラー伯爵の失脚をほくそ笑んでいた、彼自身がギャンブルで奪われたものも全て彼のもとに返されたからだ。
公爵夫人の使いである俺が突然書斎のバルコニーに現れたのを見て、子爵は驚きを隠せなかった。
「スフレ?何故ここにいるんだ?公爵様の誕生日会に出席できないことを、既に彼に謝罪している。あまりにも業務が忙しかったのだ」
彼は混乱していたが、歓迎するような素振りで俺を書斎に招き入れた。
「いいえ、公爵夫人から指示があったため参りました」
「公爵夫人のご要望であれば、私は最善を尽くそう……ああ……そんなっ……な、なぜっ」
彼が油断して背を向けた瞬間、俺は置いてあった杖で彼の体を貫いた。
「快く引き受けてくださって、感謝いたします」
その後、俺は彼に死の炎を贈り、全てを燃やし尽くした。
一切の手がかりを残す訳にはいかない。
炎が空に舞い上がる中、俺は最も綺麗な笑顔で、哀れな者に最後の別れを告げた。
「私が苦労してようやく見つけた実験場でしたのに」
温和で優雅なウェッテ先生がすっと俺の後ろに現れた。炎に照らされてできた影にすら、黒い蛇が纏わりついているように見えた。
だが俺はこの程度で逃げるような臆病者ではない。俺は笑顔を浮かべながら、静かに振り返った。
「もう次の舞台を見つけただろ?黒蛇先生」
Ⅴ.スフレ
多くのことは、はじめは意味を持たない。彼の誕生もそうだ。
スフレは貴族の気まぐれによって召喚された食霊に過ぎない。
「これが食霊?人間と変わらないように見えるな」
彼の御侍は王家直系の親族だったため、衣装中で困ったことは一度もない。
故に、食霊を召喚したからと言って、それに多くの興味を持つことはなかった。
期待されず、必要とされない、スフレは永遠に暗闇の中にいた。
しかし、それはスフレにとっても良い話だった。何故なら、貴族の影としてのんびり生きていけるのだから。
穏やかで平和そうに見える王国では、彼のようなか弱い食霊は、御侍の死後その存在すら重視されなくなる。
彼は戦闘の才こそ持っていないが、縫物は非常に得意だった。これは貴族だらけの王国で、付属品として生活してきた中で気付いたことだ。
その特技で彼は最初の人形『ビビアン』を作った。
ビビアンはスフレの思い描いた通りの人懐っこい子供だった。
ウェーブのかかった短い髪と漆黒の瞳を持ち、いつも彼の服を掴んで彼のそばに寄り添った。
しかし人形も彼の生活と同じで、変わることはない。このような生活がどれほど恐ろしいのか、誰もわからないだろう。
そしてある日、ビビアンは突然姿を消した。
そして運命の歯車が回り始める。
「この子を探しているのですか?」
声のする方を見ると、太陽を半分覆うほどに高い塔が見えた。
声は党の窓から身を乗り出している少女のもののようだった。
スフレは僅かに動いて、塔の影から出る。
太陽の光を眩しく感じながら、垂れ下がった少女の金色の髪と、空のように青い瞳を見た。
おそらくこの時こそ、彼が初めて太陽の下の景色を好きだと感じた瞬間だろう。
その時から、彼は時々この塔に行くようになった。少女は言った、自分は皆に忘れられた存在なのだと。
それは彼と同じだった。王国で初めて彼は『友人』と呼べる相手を見つけたのだ。
少女は美しい外見と透き通った声を持っていた。塔の上から彼のために様々な童話を読んだ。
彼女は、以前はいつも妹のために読んでいたと言っていた。そのことについてスフレが問うと、彼女はどうしてか黙り込んでしまい、答えることはなかった。
彼はできる限り多くについて聞かないようにした。彼女は初めて気を遣わずに話せる人間だったから。
彼にとって、秘密を知る必要はない。彼女との出会いこそ最大の幸運なのだから。
現状に満足している彼が唯一知っているのは少女の名前だけ。『リリア』、それはこの国の王女と同じ名前だ。
リリアはしばらく塔から離れられない、だけどウェッテという男性が世話をしてくれると話していた。
スフレは彼女の言うウェッテ先生という人物に会ったことはなかった。
何故なら、その人物が現れる時、彼はいつも冷たい窒息感を覚えすぐさまその場を離れたくなるから。
(リリアは恐ろしい悪魔に監禁されているに違いない……)
その当時、スフレはリリアが塔に閉じ込められている原因を知らなかった。しかし、彼女の冷静で明るい眼差しを見て、決して自分が想像しているような不幸な環境にはいないだろうとも思っていた。
(そうでなければ、彼女の読む物語はどうしてこんなにも美しいんだ?)
だがすぐに、彼女が読むおとぎ話のようなこの生活は、突然王城に侵入してきた人々によって壊された。
彼らは怒り狂っていた。持っていた武器で多くの衛兵や貴族を殺した。
飛び散る鮮血がこの王城の安寧を崩す。
スフレが何が起きたか知る間もなく、王城全体が煉獄に陥っていた。
「早く嗜血蝶を出せ!」
「そうだ!あの魔女を殺せ!」
このような言葉が絶え間なく響く。
スフレは彼らが誰を探しているのかはわからなかった。ただ凶器に満ちた彼らは礼服を着た貴族を問答無用で攻撃していることはわかった。
この時スフレは目立たない隅の部屋に隠れ、声を発することもできずにいた。
ドタドタと乱暴な足音が鳴り響く。
スフレはようやくできあがったリリアに似た人形を抱きしめたまま体を縮こませ、部屋から出られないでいた。
ビビアンも怯えながら彼の服を掴んで、その場から動けない。
彼は人々が言う他の食霊のように強くはない、もっと言えば自分の能力すらわからない。
この時、彼はリリアをどうにか連れ出さなければと考えていた。
あの人間たちに見つけられたら、彼女の身にどんな恐ろしいことが起こるか彼は想像すらしたくなかった。
彼は恐れながらも、彼女を守ってあげられる人物が彼女のそばにいてくれるよう願った。
たとえその人物が自分自身でなくても、たとえその人が悪魔であったとしても……
そう思いながら、握りしめた両手から痛みが伝わってきた。爪が皮膚を破り血が流れ出ていたのだ。
スフレは結局、自分の『無能』を言い訳に現実から目を背けることはできなかった。
しかし、彼は部屋から出てすぐに人間に見つかってしまった。
「見ろ!貴族だ!嗜血蝶の居場所を知っているんだ!」
スフレはただただ走るしかなかった。止まってしまうと他の貴族と同じ結末が待っていると知っていたから。
しかし、いくら走ろうと追手が増えるだけ。
そしてすぐに、囲まれてしまった。
人々は容赦なく棍棒をスフレに振り落とした。一回、二回、数えきれない攻撃が彼の体に叩きつけられた。
スフレはリリアに会いたい一心で必死に這いつくばった。
「まだ殺すな。嗜血蝶がどこにいるのか聞くんだ!」
「おい!死ぬなよ!質問に答えろ!」
気付けば、スフレは外につながる廊下まで数歩という距離に辿り着いていた。
彼は日の指す方へ向かって傷ついた体を引きずった。
外に出てしまえば、あの美しい花園を抜ければ、塔が見える、美しいリリアに会える。
しかし、もう手遅れだった。彼は彼女に会いに行けない。
彼の後ろには、彼がどこに逃げようかしているのかを虎視眈々と見つめる人間たちがいるからだ。
彼には彼女を守る術などない。王城にいる帰属を殺したい暴徒たちを彼女のもとへ誘導してはならない。
食霊とはいえ、この時は死んだ方がましだと考えた。
そう思った彼は、その場に突っ伏して動きを止めた。
頭からは血が流れ、目の前が真っ赤になっていたが、どうしてか彼は笑い出した。
「この男は本当に貴族なのか?どう見ても狂人だろ!」
「見ろよ、二つの人形を抱いて離さないぞ。なんて気味の悪い!」
スフレは既に誰が自分を嘲笑って、罵っているのかすら判別できなくなっていた。
「後悔しているのか?自分の弱さを?なら俺を求めろ!俺がこいつらを皆殺しにしてやる!」
突然、その場にいる誰でもない声が聞こえてきた。はっきりとスフレの頭の中でこだまする。
「だ、だれですか?」
スフレは何度も問う。
「独り言を始めたぞやっちまえ!」
言葉の後、スフレは腹に刺すような痛みを感じると共に、引き裂かれているビビアンとリリアの姿を見た。
「どういうことだ、この人形動くぞ!化け物だ!」
混乱する人々は再び剣を構え、スフレの体を刺した。
その時だった。遠くから大きな声が聞こえた。
「おいっ!嗜血蝶を見つけたぞ!花園の向こうにある塔に隠れてる!」
「本当か!?急げ!魔女を逃がすな!」
スフレは目を見開き、呼吸すら苦しいはずなのに、それでも立ち上がろうとした。
(ダメ、ダメだ……そんなこと!)
「彼女を救いたいか?お前のような臆病者には無理だろうな~」
またしてもあの声が聞こえる。悪魔のようなその囁きに救いを求め、スフレは手を伸ばした。
彼は幻影の中にある手を握り、懇願するよう頼み込んだ。
「お願い……お願いです……彼女を救って。わたくしはどうなってもいい、リリアを救ってください……」
「フンッ、もっと早く俺に体を明け渡せばよかったものを」
スフレは状況を把握することもできず、最後の一瞬、自分の伸ばした手から黒い霧のようなものが出ているのが見えた。
黒い霧の中でゆっくりと立ち上がったスフレは、血に染まった武器を持つ人間たちを睨み、邪悪な笑顔を見せる。
「じゃあ、この臆病者に手を出した奴、自己申告する時間だ。全員俺が自ら地獄に送ってやるっ!」
鐘が四度鳴った。目を覚ましたスフレの前には見知らぬ光景が広がっていた。
彼はどうして自分がここにいるのか、どうするべきなのかもわからなかった。
彼は最初から誰にも期待されていなかった。全身に広がる痛みが、彼に全て終わったことを告げている。
結局、彼は何も守れなかった。彼の希望である唯一の友人さえも失った。
しかし、なぜ自分は生き残っているのか?
どうして役立たずな自分は生き残ってしまったのか?
記憶が欠如していた。大きな悲しみだけが残っている。少しでも思い出そうとすると、心を洗い流すために抑えられないほどの涙が溢れた。
人形は言葉を話せない。全てを見ていたとしてもそれが語られることはない。
数年後。
全てを失ったスフレは帰る場所を持たない野良猫のように、街の暗闇を徘徊していた。
そんな時、彼の前を真っ赤な蝶が通り過ぎる。その美しさは本当に生き物なのかと疑うほどだった。
彼はそれを目で追いかけた。するとそれは貴族の馬車に乗る人物の手の甲に止まった。
その瞬間、スフレは目を離すことができなかった。その蝶が美しいからではない。その蝶が止まっている人物が記憶の中のリリアと瓜二つだったから。
それに気付いた時、彼は馬車の前に出てしまっていた。
彼は無意識に身構えたが、馬車は彼に当たる止まったのだ。
「何考えてるんだ死にたいのか!」
「リリア……」
スフレはこらえきれず、囁きながら彼女の方へと歩み寄った。
「おいっ、夫人の名前を気安く呼んでいいと思っているのか?」
そう言いながら御者が鞭でスフレを叩くと、彼が抱えていた人形が地面に落ちた。彼の動きは一瞬硬直したが、再び顔を上げた彼の眼には黒い霧が漂っていた。
「その名前を知っているとは、驚きだ」
意外なことに馬車に乗っていた女性は彼に興味を持ったようだ。
「驚いたのなら、俺に興味が湧いたんじゃねえのか?」
「ほお?興味?おぬしにはその価値があると?」
「それは夫人が判断することだろ」
馬車に乗っていた女性は、先程馬車の前に飛び出してきた時と違った雰囲気のスフレを見て、一層笑みを深めた。
「望むのであれば、わらわと共に来ると良い」
これこそが役立たずな彼が、生き残ってしまった理由なのかもしれないと、今、彼はそう思っている。
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