豆汁・エピソード
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豆汁のエピソード
全身真っ白で、細身。地府の白無常(道教の地獄の神、黒無常と対になっている)。活発で怖いもの知らず、悪戯好き。いつも何かを企んでいるような笑みを浮かべていて、手に持っている豆汁を飲むか聞き歩いている。
Ⅰ.冤罪太鼓
全ての光を遮る重厚な門がゆっくりと押し開けられ、暖かい黄色のろうそくの光で伸びた人影が入口から入ってきた。
小さな子どもの後ろの巨獣の目には静かな光がきらめいていた。彼は恭しく、やってきた人に向かってお辞儀をした。
努力して端正で静かな姿を装っている様子は、一挙手一投足全てが玄鉄門の後ろにいる方を彷彿とさせる。
「遡回司さま、人参さまがお呼びです」
「ああ」
猫耳麺はリュウセイベーコンのそばに近づくと、真面目な顔をしている彼を見た。リュウセイベーコンは手を伸ばして彼の頬をつねった。
あぁ……手触り良さそうね。
わたしもつねってみたい……
考えて、すぐに行動に移した。
猫耳麺が頬をさすりながら、リュウセイベーコンと一緒にわたしのそばに来た時、わたしは遠慮なく手を伸ばして彼の頬をつねった。
案の定、わたしが思っていた通り柔らかくて、予想以上に弾力があった。
「うっ――忘川司さま……」
悔しそうな声を出しながら、猫耳麺はわたしたちにつねられて赤くなった頬をさすりながらわたしの方を見た。
わたしを見ているその目を見て、少し思考が逸れた。
あぁ……知らなかったら、こんなに大きくて明るい猫目が見えないとは誰も思わないだろうね。
なんだか悔しくて手を伸ばして彼の前で振った。
こんな感じで試すのは初めてじゃない。
「忘川司さま?何か御用ですか?私の目は本当に見えませんよ」
「どうしてわたしが君の目を試しているのかわかるの?」
「聞……聞こえてますから」
「信じない!もう少し試させて!」
わたしはわざわざ遠くまで走り、巻物を持って戻ってきた。
「猫耳ちゃん、当ててみて、わたしが今何を持っているのか?」
「巻物、鳳爪が書き終えたばかりの物でしょう!人参さまのために持って行きます」
「えっ――本当に聞こえるの!猫耳ちゃんはどうしてそんなに凄いの?もう少し付き合って~」
「うっ……忘川司さま、もうそろそろ戻りませんと。遡回司さま、早く行きましょう!」
猫耳ちゃんが慌てて逃げていく様子を見て、鼻先に皺を寄せた。
「まったく、わたしそんなに怖いのかな?」
「いつも彼をからかっているからだろう、そうでなければ怖がる事はなかった」
妙によく知っている冷ややかな声が聞こえてきて振り返ったら、やはり油条(ようてぃやお)の野郎だった。
彼は素っ気ない顔をしていて、風塵に塗れていたから、帰ってきたばかりなのでしょうね。ただ彼は猫耳ちゃんの友達の猫の蕎麦をじっと見つめていた。
或いは、蕎麦のふわふわとした大きな尻尾をと言うべきか。
こいつ、やっぱりふわふわとした物には目がないんだね……へへっ……
良い考えが浮かんだかと思ったら、突然、鈍い音が鳴り響いた。
「ドン――」
「ドン――」
重苦しくて心の底が震えるような太鼓の音がして、わたしは笑みを抑えて、太鼓の音が聞こえてくる方向を見た。
地府で冤罪の太鼓が鳴り響いている、まるで世間の不平や恨みを訴えるかのように。
Ⅱ.忘川水
本来ならば、内心に極度の恨みと不平に対する悔しさを持っている人間を朝鮮人参が確認出来てはじめて冤罪太鼓の前に来て、人の心臓を打ち鳴らす太鼓を鳴らす事ができる。
わたしたちは連れ戻された「犯人」を見た。
彼女の両手は血だらけで、自分で引き裂き噛み千切った傷口でいっぱいだった。
彼女はしきりに何かを呟いていた。その狂った姿を見た猫耳ちゃんは本能的にわたしの後ろに隠れた。
「えっと……彼女は、ずっとその男についてきた……者です……」
「うん。だけど、猫耳ちゃんは彼女が悪いことをしていないのを知っているはずよ」
これは私たち地府の管轄ではない。
しかし心優しい猫耳ちゃんが玄関の陣を担当し始めてから、些細な事もわたしたちのところに回ってくるようになった。
猫耳ちゃんの柔らかな髪を揉みながら、彼のしおれていく様子を見て、余計な仕事が増えて憂鬱になっていた気持ちが多少晴れた。
再び顔を上げて、少女の驚きおののく表情を見て、思わず首を横に振った。
可哀相なやつ、好きな人といつまでも近くにいたいと願ったばかりにこの「地府」に罪深い者として送られてきてしまった。
きっと、元々暗くて愚かな彼女がいじめられている時に、あの男が差し出した手がきっと忘れられなかったのでしょうね。
静かに見守っていた彼女は、その男の妻をますます不機嫌にさせた。
誰も間違っていない。
でも、全員間違えている。
「まあ、忘川水を飲ませて、彼女を見送ろう」
「私は……私は……」
「黒ちゃん、手を貸して」
「私は……私は、私は彼の事を忘れたくない!イヤだ!イヤだ!イヤだイヤだイヤだイヤだ!」
「……騒々しい」
「放してください!うっ、――!」
鈍い音と共に、彼女は地面に倒れた。この時静かになった彼女の姿からは狂気が抜け落ちていた。
わたしは仕方なさそうな顔で油条を見た。
「もう少し手加減したら?相手は一応女性だよ」
「うるさい」
「……そんなんだから彼女ができないんだ!」
「いらない」
頭が痛くてこめかみを抑えた。手の中の忘川水を女の子の口の中に入れた。
彼女のぎゅっとしていた眉は、忘川水のおかげで少しだけ緩んだ。
忘川水は、その名の通り、昔の事を忘れさせる事が出来る。
Ⅲ.記憶
記憶とは、存在を形成する一番大切な物。
人間にとっても、わたしたち食霊にとっても。
忘川水で女の子の地府に来た記憶を消した。
そばでお菓子を食べている八宝飯は理解できない様子だった。
「どうして彼女のその男についての記憶を消さなかったんだ?そうすりゃ、その男も面倒事が減って、彼女も普通の生活を送る事ができただろう」
軒から飛び降りた八宝飯は少女のそばにしゃがみ、自分の剣の柄で少女の腕を突いた。
「このままだとまたあの男を探し続けるだろう」
「知ってるよ」
「知ってる?知ってるなら、彼女にもっと飲ませたらどうだ!どうせ忘川水はあんたにとってそんな面倒なもんじゃないだろ」
「でも、彼女の代わりにこんな決断を下す資格はないよ」
「……」
「誰一人誰かに代わって忘れた方がいいなんて言えないよ」
わたしは八宝飯の解せない表情を無視して、女の子を抱いて蕎麦を呼び寄せて、彼女を迷陣外に送り返してもらった。
この事はわたしたちの日常のほんの小さな出来事として、すぐにわたしの記憶から消えていった。
地府は女の子の故郷からそう遠くない場所にある。この二人がこそこそして何かをしようとしていたのも知っていた。
女の子に絡まれた男のことを心配しているだけでなく、この狂った女の子も心配していた。
だから二人が落ち込んだ雰囲気でわたしの前に来た時、わたしは頭が痛くなった。
猫耳麺だけならまだしも、八宝飯まで一緒になって可哀相な表情を浮かべているのだもの。
少し震える拳を我慢しながら、わたしの袖を引っ張る二人に目を細めて見てから、二人に一撃ずつ食らわせた。
「痛い!」
「うーっ!」
何で殴られたのかよくわかっていない顔をしている二人を見て、頭痛を抱えてため息をついた。だけど、わたしの説明を待たずに、蕎麦の尻尾を掴んで遊んでいる油条は珍しく口を開いた。
「人が水を飲むが如く、冷暖を自ら知る」
「でも……でもあまりに可哀そうすぎる!彼女はもっと良い生活ができるのに!」
「本当に?本当に良い生活ができるの?彼女自身があの男を忘れると決めたの?それとも彼女はあの男を傷つけた?」
「……い、いや……だけど、このままじゃ、彼女はあまりにも可哀想だ。このままだと、彼女は村の人に他の場所まで送られちゃう。今回は地府だったけど、次は……次万が一山河を祀るように送られたらどうするんだ!」
猫耳麺と八宝飯が垂れている姿を見て、わたしは思わず手を上げて彼らの頭を撫でた。
「男の事を忘れる事こそ、彼女が求めている事だと確信できているの?」
Ⅳ.冷暖自知
わたしは高麗人参にお願いして、二人を連れて一緒にその女の子の故郷に向かった。
どうしてか、油条のやつもついてきた。
女の子の故郷は地府から遠くない。
食霊の足で、その小さな村に辿り着くのにさほど時間は掛からなかった。
女の子は依然として卑屈そうにあの男に付きまとっていた。他人に後ろ指を指されても離れようとはせず。
だけど、そのか弱い卑屈な姿は、かつて彼女を助けた男を怒らせた。
「言っただろう!お前の事を好きにはならない!もう俺についてこないでくれ!」
「私は……私は……」
「あっち行け!」
あの男を責めてはいけない。
彼にとって、この女の子は彼を村の笑いものにさせた子だ。
二人は人間の世界であまり過ごす事なく、すぐに朝鮮人参によって地府に連れて来られたため、人間の事情にはあまり詳しくはなかった。
地府に来てからも、こんなどちらの味方をすれば良いのかわからないような事にあまり出会ってこなかったから、同情心が高まるのは避けられない。
わたしは二人に答えを言わないまま、彼らを連れてまた地府に帰った。
その後、時間を空けては彼らを連れて再びここに来て、そっとその少女を見守った。
その少女は段々とだらしない女になり、男も自分の妻と子どもを持つようになった。
また随分経った後。
わたしたちは再びこの村にやってきた。
だけど、彼女はもういなかった。
私たちはその男を見つけた。男と彼の妻は以前のように彼女のことを嫌悪している目をしていなかった。逆に感謝の気持ちでいっぱいだった。
彼女は死んでいた。幼い時から苦しみを舐め尽くした虚弱な体のせいで死んだ。
しかし彼女は死ぬ前に、一生やりたかった事を成し遂げた。
彼女は川で遊んでいて溺れた男の子どもを助けた。
「その日、彼女を見つけた時、彼女は私の子どもを抱いていました。彼女が気を狂わせて、私の子どもを押したんだと思いました。しかし、子どもは『このおばさんが僕を助けてくれた』と言いました。
私たちはお金を持って彼女にお礼をしにいきましたが、彼女はいなくなっていました、小さな乞食に頼んで、私たちに伝言を残していました。
『全てお返しできました。あの時助けてくれてありがとうございます』と。
乞食は言っていました、彼女は死ぬ時笑っていたと……」
男と彼の妻は目に涙を浮かべていた。
「私たちは彼女にあのような仕打ちをしていたのに……私たちが……彼女を見つけた時には、彼女は既に病死していました。老いた乞食は、その日体を冷やしてしまったからだと……私たちは彼女に何をしてきたのだ!」
「悲しむ事はないよ。この事は彼女にも責任があるもの。この事をよく覚えときなさい。彼女が長く君の事を覚えていたように」
わたしは足取りを緩めて、夕日が沈んでからようやく地府へと帰った。
八宝飯は遠くを見て、振り返ってわたしの方を見た。
「豆汁、彼女は後悔していると思うか?」
「わからない」
「……」
「でも、彼女にも、彼女の事を絶対に忘れない人が出来た事だけはわかるよ」
Ⅴ.豆汁
地府。噂によると怖くて神秘的なところらしい。
人のために冤罪を訴えることができて、報復を手伝ってくれるらしい。
同時に怨霊も受け入れる。
誰もそれがどこにあるかは知らない。ただ迷霧のある場所に、本当に濡れ衣を着せられ、強い悔しさを持つ人が向かうとそのうちに大きな冤罪太鼓が見えるようになる。
それを叩くと地府の中の「鬼将」たちはその人の話を聞き、その人の願いを叶えてくれる。
しかし地府に入った人は、一度出ると地府の在処を忘れてしまう。
伝説によると、地府の中には「忘川司」という者がいるとか。
その者が男か女かを知っている人もいない。
彼女が華奢な少女だと言う人もいれば、彼は老人だという人もいて、彼は獣の顔がついた巨漢だと言う人もいる。
彼の名前のように、彼の手にある忘川水は、人の過去を洗い流す事ができる。
皆が豆汁は自由気ままな性質で、やりたい放題だと思っている。だが実は、彼はいくつかの事柄に対しては、油条よりももっと頑固な執着を持っている。
彼はいつも「わたしは忘川水を持っているけれど、忘れるかどうかは、忘川を渡った人が自ら選ぶべき」だと言っている。
八宝飯と猫耳麺はいつも彼の言う「人が水を飲むが如く、冷暖を自ら知る」を、あの女の子を見るまであまり理解できていなかった。
バカみたいに恩人に数十年付きまとった女の子は、最後に笑って去っていった。
この瞬間、八宝飯と猫耳麺はふと自分たちが過去に豆汁にお願いした事を思い出し、深い沈黙に陥った。
もしあの時豆汁が彼らの言う通りにして、女の子の記憶を洗い流していたら、彼女は笑ってこの世を去る事ができたのだろうか?
彼女のこの短く、他人の目からすると一切意味のない一生が、誰かに記憶される事になっただろうか?
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