海苔・エピソード
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海苔のエピソード
八岐島の舟渡しで番人。いつも一人静かに八岐島で折り紙を折って楽しんでいる。罪を持つ者は八岐島に入ることは許されない。八岐島に入る唯一の方法は、彼の海苔紙船に乗ることである。
Ⅰ.八岐島
光の粒が消えていくにつれ、僕はゆっくりと目を開けた。
僕の目に飛び込んできたのは紺碧の海、そして少女が緩やかに沈んでいく姿。
海水の中、彼女の服は蝶のように広がっている。目を閉じて息苦しそうにしているものの、意外にも冷静な様子で少しずつ沈んでいた。
僕は彼女の手を引いて、海面まで上がった。
彼女こそ僕の御侍様であると、魂に刻み込まれた絆が物語っていたのだ。
僕は彼女を近くの島に連れて行った。幸いなことに、僕が召喚されたのは彼女が溺れてすぐのことだったようだ。
彼女は何度か咳き込み、口に含んだ海水を吐き出した後、ゆっくりと意識を取り戻した。
「貴方が……ゴホッ……私を助けて……くれたの?」
咳が止まらない彼女の背中を優しく撫でていると、濡れている服と少し冷たい夜風のせいで体が震えていることに気付いた。
少し寒そうにしているが、ひとまず一命は取り留めたようだ。
僕はホッと一息ついて、近くの影に目をやる。
島に上陸してからずっとその存在に気付いていたが、切羽詰まっている状況でそこまで気にする余裕はなかった。
僕は御侍様を背後に庇い、影の方を覗き込んだ。
影の中から出てきた者、その長い髪は命が宿っているかのようにその者の体を支えていた。そして、感情の欠片もない淡々とした表情を浮かべている。
同じく海から陸に上がった彼だが、一滴の海水もついていなかった。
まるで海に入ることは、日常茶飯事かのように。
彼の内に秘められている力は、決して僕が対抗できるものではないことを感じる。
僕が警戒していた矢先、後ろにいた御侍様から驚いているような、少し喜びにも聞こえる声が上がった。
「貴方が……海神様ですか?」
彼女の方を振り返ると、彼女が少し舞い上がっていることに気付いて、止めることはしなかった。
しかし驚いたことに、何に対しても無関心に見える目の前の男は、彼女に質問を返した。
「どうしてやつらのために命を差し出した」
「私の命で家族が助かるなら、命を差し出すのなんて構いません」
彼の質問には少し驚いた。
そんなことを気にするような人ではないと感じたから……
もしかしたら、見た目よりもずっと優しい人なのかもしれない……?
彼が背を向けようとした時、僕は躊躇いがちに声を掛けた。
「あの……御侍様とこちらに住みつこうと思うのですが、宜しいでしょうか?」
不安の中、彼の少し冷めた声が聞こえてきた。喜びも嫌悪もなく、全てに対して無関心で、一切の感情を帯びない声で、彼は答えた。
「好きにしろ」
Ⅱ.お酒
僕は御侍様と共に、この不吉とされている八岐島(やまたとう)に住むことを決めた。
この島には何もない。住居に適している場所も見つからなかった。幸いにも僕たちには十分な時間があった。
「家に帰った方が良いのではないでしょうか?」と、御侍様に尋ねたこともあったが、彼女はこの提案を拒否した。
「自分は生贄になる運命だったの。今命があるのは運が良かっただけ。村に戻れば皆の恐怖心を煽ることになるわ」と答えた。
僕は彼女に頼まれた通り、生活に必要なものをたくさん持ってきた。
その中には、僕にはどう使うのかよくわからない物も交ざっていた。
袖を捲って汗を掻きながら忙しなく働く彼女を、僕は何をしているのかわからずその姿を眺めた。
彼女はただ悪戯っぽく、僕にこう言った。
「楽しみにしていて」
しばらくすると、彼女は僕を引っ張って、壺が置いてある場所に連れて行った。
山積みになっている壺を丁寧に確認した後、彼女は満足げに笑った。
そして、不思議なことに彼女は一つ壺を運び、八岐島の主が住んでいる洞窟にこっそりと近づき、その入口に壺をそっと置いたのだ。
「海苔、私は字が書けないの。私の代わりにこれは海神様に捧げる祭酒であると、書き残してくれない?まだ父たちには及ばないけれど、良い出来だと思う」
「わかりました」
彼女が何をしようとしているかまだわからないままだが、彼女の言った通り書き置きを残した。
帰り道、彼女は飛び跳ねながらとても嬉しそうにしていた。
「嬉しい、のですか?」
「ええ!今までで一番よく出来たお酒よ!父たちが言っていた通りだった。誠心誠意取り組まないと良いお酒は出来ないんだ」
とはいえ、僕はまだお酒という物を知らない。ボロボロな本から得た知識程度しか知らない。
掘っ立て小屋に戻ると、彼女は目を輝かせながらもう一つ壺を出して、僕に差し出してきた。
「私を救ってくれてありがとう。これは、私からの感謝の気持ちよ」
壺の口を塞いでいた封を開けると、小屋の中に刺激的な香りが広がった。
割れている小ぶりな器に注いで、一口飲んだ。
辛さの後、芳醇な口当たりと奥にあたたかさを感じ、思わず目を見開いてしまう。
これが……お酒という物なのか……
Ⅲ.変化
お酒が出来たことで、生活に少しだけ彩りが増えた。
僕と御侍様はこの島で他にやることがなかったため、時々海辺に座って海苔で折り紙を折った。
今の時代、紙は非常に高価な消耗品だ、裕福な家庭に生まれなかった御侍様には手が届かない代物だった。
そんな御侍様は僕の海苔紙を見て、嬉しそうに小さなクラゲを折ってくれたのだ。それから僕は折り紙を好きになった。
まるで紙に命を与えているようだった。
ある日、動物を折っていた御侍様は手を止め、躊躇いがちに僕の方を見た。
「どうかしましたか?」
「海苔……申し訳ないけど、私を助けた場所に行って来てくれない?また祭祀の日がやってきたの……でも、誰にも気づかれないようにね」
僕は彼女の希望通り、彼女と初めて出会った場所に行き、その場から人がいなくなってから姿を現した。
彼女の予想通り、小さな子どもが海に突き落とされていたのだ。
しかし、もう手遅れだった……
その後も、祭祀の日は毎回その場所に行き、生贄になった子どもを何人か救った。家に帰るかそれとも島に残るかを子どもたちに尋ねた。時々……
間に合わず助けられなかった子どもがいると、僕は小さな動物を折って海面に浮かべたりした。
救うことは出来なかったけれど、せめてこの小さな動物によって、海底に埋もれている魂たちが、深海から極楽へと導かれることを願った……
日々はこうして過ぎて行く。そして変化は……ある祭祀の日に起きた。
それは紅夜だった。海は一際騒がしく、本来ならば僕の力を恐れる弱い堕神たちも何故か蠢いていた。
傍に隠れて人間たちが去るのを待ったが、どうしてか彼らは海面を睨み続けた。仕方なく僕は海に潜り、蝶のように海底に舞い降りていく女の子を連れて八岐島へ向かった。
しかしその時、堕神たちに囲まれてしまったのだ。
混乱の中、意識を失った女の子は僕の手から滑り落ちた。再び水面に連れ出す機会を得た時、彼女の呼吸は既に止まっていた……
僕は彼女を連れて八岐島に戻って、彼女を埋葬しようとした。
ところが、島に戻ってすぐ御侍様は僕の方に突進してきた。
彼女は口を大きく開けて僕の腕の中にいる女の子を見る。
そして、彼女は泣き始めた。
とても悲しそうに、泣き始めた。
「どうして……私が生贄になれば……妹は見逃してくれるって……そう……言ったじゃない……」
彼女はとても悲しそうに泣いた。
間に合わなかった僕を責めることはなかった。
彼女はただ、女の子を抱きしめて、泣き続けた。
沈黙の中、僕たちは彼女の妹を埋葬した。
いつものように、彼女の妹のためにも小さなクラゲを折った。
次の瞬間、海に放たれた小さなクラゲは突然動き始めた……
御侍様は彼女の傍で、空で泳ぐ小さなクラゲを見て、再び涙を流した。
これは妹の魂が彼女に最後の別れを告げているんだと、彼女は言った。
しばらくすると、小さなクラゲは生命力を失って、次第に普通の折り紙のクラゲに戻っていった。
だけど、御侍様はそれを手に取り、時々夕日を見つめた。
彼女は変わった。以前のように優しい笑顔を浮かべることはなくなった。洞窟に住む男にかつての仲間たちを助けてくれと頼むようなこともしなくなった。
……そして、生贄として海に突き落とされた人々を救うよう僕に言わなくなった。
Ⅳ.人間
人間の寿命は、僕にとっては小さなクラゲのように短いものだ。
御侍様は少女から成長し、以前よりもずっと落ち着いた雰囲気になった。今でもお酒を造っては八岐様にこっそり届けてはいるが、飛び跳ねることはしなくなった。
かつて助けた子どもたちの多くは、この地の寂しさに嫌気が差し、彼らの希望通り八岐島から送り出した。しかし、御侍様だけはここから離れようとはしなかった。彼女は毎日、黙々と僕たちのためにお酒を造り続けた。
またしても、彼女に変化をもたらしたのは、遭難した一人の青年だった。
彼女の目に迷いがあるのを見て、彼女の代わりに彼を救うことにした。
彼は妹を殺した元凶の一人ではないし、彼を助けなければ彼女の性格上長く引きずることはわかっていたから。
最終的に、彼女はどうにか心の整理をつけ、その青年の看病を始めた。
その青年は少し……知恵が足りないように見えた。
彼は目を覚ますと、目を輝かせながら御侍様の手を強く掴んだ。
「貴方が俺を助けてくれたんですか!貴方は女神様ですか?!いや、貴方はきっと天女様だ!!!こんなに綺麗なんだから!!!」
御侍様は顔を真っ赤にして手を引っ込め、部屋に入ったばかりの僕の背後に隠れた。
……普通に考えれば、僕の御侍様に手を出したことに、僕は怒るべきだったのかもしれない。
ふと、本で読んだ「妹の結婚を望まない兄の気持ち」を理解したような気がした。僕は御侍様を庇うように、しっかりと自分の背後に隠した。
しかし次の瞬間、彼女は僕の背後から顔を出して、その青年を盗み見たのだ。
……もう少し本を探してこなければいけないようだ。人間の少女の心は難解すぎる。
それから……
それから、物語の中でも最もつまらない、価値すらない小話が続いた。
彼女らはお互いを知り、恋に落ち、そして生涯を共にすることにしたのだ。
そして、御侍様は青年と僕にお酒の造り方を教えてくれた。
歳月は彼女らの体を蝕み、彼女らは少しずつ年を取っていった。しかし、造り出したお酒はいつだって僕のより美味しかった。
もし僕が誰かのために十分な気持ちを持っていれば、それが愛情であれ、友情であれ、尊敬であれ、僕が造ったお酒は次第に僕だけの味が出るだろうと、彼女らはいつも言っていた。
潮は満ち引きを繰り返した。僕の姿は何も変わらないまま……しかし彼女らは、結末を迎えようとしていた。
若い頃の無理が祟ったのか、青年は御侍様より一足先にこの世を去った。彼女も彼の後を追うように、体が弱っていく。
御侍様がこの世を去った日、あの男がやってきた。
彼女は彼にある冊子を渡していたのだ。それはお酒を造る方法が描かれた冊子だった。
彼女は字が書けないため、一生懸命絵を描いてお酒造りの全てをその冊子に記した。
彼女がこの世から去った。
少女だった頃の笑顔を浮かべながら。
妹の死を経験した彼女ではなく。
八岐島にやってきたばかりの彼女の笑顔を浮かべながら。
僕は折った小さなクラゲと船を彼女と青年の墓石の上に置いた。
二つの折り紙は、突然命を得たかのように僕の周りを泳ぎ回り、僕の頬に愛おしそうに擦り寄ってくれた。
すぐに、普通の折り紙に戻ることはわかっていた。
だけど、僕には二つの声が聞こえたのだ。
「ありがとう、私たちは先に行くね」と。
Ⅴ.海苔
桜の島には、誰もが追い求める美酒があった。
それは、神々に捧げるためのお酒だ。
そのお酒は、心がこもっていなければ、造ることは出来ないとされている。
芳醇な口当たりがあるだけでなく、他のお酒にはない味わいがあった。
綺麗に包装された他のお酒とは違い、少し汚れた小さな壺に入っていて、千金出しても中々手に入れられない代物だった。
海苔の御侍がこの世を去ってから随分経つが、彼は一向に夫妻が造り出した物と同等のお酒を造り出せないでいた。
彼が造ったお酒は、いつも何かが足りないのだ。
八岐島に連れ戻った子どもたちが造ったお酒で、彼はその足りない何かを味わったことがある。
子どもたちのお酒は彼が造った物よりも甘みに欠けていて、むしろ尖った酸味さえあったが、その中にある味わいは海苔が常に求めているものだった。
いつも無口なタコわさびもこの美酒の虜だった。滅多に出掛けない彼だが、海苔が造ったお酒を試飲するためなら幾度となく足を運んだ。
彼らは少しずつ失望していた、長い時間を掛けて造ってきたが、どうしても夫妻のお酒を再現出来ずにいたから。
ある日までは……
海苔は彼の御侍がこの世を去ってからも、生贄を助け続けた。
誰に頼まれた訳でもなく、執念がある訳でもない。
ただ、そうしたかっただけ。
救われた多くの子どもは、陸に戻る者もいれば、八岐島に残った者もいる。残った子どもらは、お酒造りを学び、海苔は彼らのためにお酒を売って生活に必要な品物を買ってきた。
次第に八岐島は不吉な島から海神の島と言われるようになり、しかも珍しい美酒のある島だと認識されるようになった。
そしてこのような美酒は、ある者たちにとってはお宝のようなものだった。
貴族の間でとんでもない高値で取引されているその美酒は、人々に悪念を生じさせたのだ。
ある日、海苔が子どもらを陸に送り届けて八岐島に戻った時、人間たちによって待ち伏せされてしまった。
彼に笑顔を見せた子供らが、彼らの同族である人間によって人質にされていた。その人間らはお酒だけでなく、お酒が造れて「怪物」を倒せる海苔も欲したのだ。
しかし、その日お酒の試飲をお願いしていたタコわさびがその場に現れた。
彼は容赦はしなかった。まるで真の神のように。相手が強かろうが弱かろうが、全員平等に扱ったのだ。
彼は特段怒っている訳ではなかった。
ただ自分がすべきことをしたまで。そこに、先入観や迷いなどはない。
海苔は目の前のタコわさびを見つめ、よろけて倒れそうになったところを彼の触手によって支えられた。
彼の強い力によって、島に再び平穏が訪れたのだ。
海苔は何か言いたそうにしていたが、どう言えば良いかわからず口を噤んだ。タコわさびは彼の代わりに一言残した。
「また来る」
タコわさびの言葉はいつも通り、感情の欠片もない淡々としたものだった。
しかし海苔は、御侍が彼のことを海神と呼んだ意味をその時唐突に理解したのだ。
神のような力を持ちながら、神のような優しさを失っていないその男こそ、崇拝に値する人物であると。
そして、その日以来、海苔が造り出したお酒は、やっと彼だけの味わいをもつようになった。
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