パヴロヴァ・エピソード
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パヴロヴァのエピソード
感情や好き嫌いはなく、人形のような美しい少女。時折、他人からの思いやりに気付くことができる、その相手に少しだけ思いやりを示すが、それだけ。彼女にとって、人間と動物、そしておもちゃ工場の中でいつも幸せそうなおもちゃたちは、何の変わりもない。彼女に近づきすぎると、不幸を引き寄せる可能性がある。
Ⅰ.新しいマスター
何もない簡素な部屋には、鉄の柱で分断された窓がある。わずかな光が窓から差し込み、不均一な影ができた。
わたしは硬いベッドに座り、光に薄明るく染まった、空中を舞うほこりを眺めている。
「ああ、こんな小さい女の子も、犯罪を犯してしまうのか?」
「あの子は、人間ではなく、食霊なんです。人を殺めたと共同通報を受けて投獄されたそうです。まぁ、今はまだ調査段階ですがね。」
ワインボトルがカチャカチャと鳴り、ダブダブの制服を着た二人の男の会話が廊下に響いた。
「そういえば、あの子、ここに閉じ込められてもう数日経ちますが、何の反応もない。ちょっとおかしくないですか?」
「ゲップ、よかったじゃないか。躾けしなくて済むのだから……」
男の話が、すぐ近くから伝わってきた騒音に遮られた。
「……そんな汚いもんで僕に触れるな!何に使っていたのかも分からないものを。自分で歩けるよ。」
うんざりしているような、男の子の声だ。
「若様、私たちでも仕方ありません。おとなしくここに数日泊まりましょう……」
「こんなつまらないところで時間を無駄にしたくない。マカがすぐに迎えてくるよ!」
「それなら、ちょっと中に入って休憩しましょうか?そのほうが我々も報告しやすいですから。アハハハ……」
聞くつもりはなかったが、横暴な声はますます大きくなり、わたしと数メートル離れた鉄門の前で突然止まった。
「……待って、彼女も犯罪者なのか?」
急に入ってきた光に目が痛くなり、もう一度顔を上げると、わたしの体を巡らす不思議な視線を感じた。
目の前に現れたのは、柄の軍帽をかぶった、わたしと同じくらいの年齢の少年だ。その真っ赤な瞳は、宴会で見たルビーのようだった。
「ええっ、彼女は少し前に殺人罪で告発された食霊のパヴロヴァです……」
話を聞いていると、突然、とらえどころのない光が彼の目に閃いた。
「彼女と遊ばせてもらえるなら、おとなしくここに泊まるよ」
「え?若様、彼女はとても危険な食霊ですぞ。しかも、若様の部屋はここにございません……」
看守は困ったような顔をしたが、少年は彼を無視して、鉄の扉を押し開けてわたしの方へ歩いてきた。
「僕と一緒に遊ばないか?」
その目の輝きがあまりにも美しくて、わたしは一瞬呆れてしまった。
気が付くと、いつの間にか知らぬ場所に連れて行かれた。
留置場とは大きく異なり、この広い部屋に豪華な家具が置かれ、おもちゃが散らばっている。
少年はここにいなかった。目の前に現れたのは胸が空っぽで、骸骨だけを持つ奇妙な服を着た男だった。
見覚えのある人だ。拘置所に侵入し、何らかの手段で簡単にわたしたちを連れ出した人だ。
「ここはどこなの?」
わたしは思わず尋ねた。
「ほう、話せるのか……よかった。これで新しい「おもちゃ」にできるぞ」
「おもちゃ?」
「もちろんさ、でなければ何のために君を拘置所から連れ出したと思ったんだ?随分苦労したよ」
彼の言う通りだ。助けてもらったのだから、恩返しをするべきだ。
「それでは……わたしは何をすればいいの?」
「簡単さ。マスターの命令に従い、いつまでもマスターに付き添えばいい。」
「マスターって、あなたのこと?」
「いや、サスカトゥーンのことだ。昨夜、君と一緒にいた少年だ。」
「……はい、分かりました。」
わたしには欲しいものも嫌いなこともない。ただマスターの命令に従い、その期待に応えて生きてきただけだ。
わたしにとって、こんなことは空の太陽と月が絶えず回るのと同じくらい、当たり前のことだ。
その後、男に庭に連れて行かれた。そこに、わたしの将来のマスターとなる少年が座って本を読んでいた。
何だか分からないけど、わたしを見たとき、マスターは昨夜ほど楽しそうに見えなかった。
「それでは、楽しんでください。仕事があるので、これで失礼します。」
男は立ち去り、サスカトゥーンはわたしを見つめ、何かを言おうとしたが結局何も言わなかった。
楽しんでいってくださいと言われたけど、何を楽しめばいいか分からなくて、わたしはじっと立っていた。しばらくしてから、わたしはいつものように、つま先立ちをして、バレエを踊り始めた。
伴奏がなかったものの、若いマスターは意外と気に入ってくれたようで、お菓子を食べて満足した子供のように嬉しそうに笑った。
踊りをみて嬉しくなったのか?
何か違うような気がする……
Ⅱ.ダンス
わたしの最初の人生は、バレエで埋められていた。
そして、狭いダンスルームは、大きな鏡4枚で埋められた。
どれほど時間が経っても、鏡に映る回ったり跳ねたりする少年少女の姿は変わらなかった。
「怠け者野郎、今回の演舞でミスしたら、今後は休みなしだ!」
毎日のように聞こえる叱りが響き渡った。
御侍と言われる男は、険しい表情でタバコをふかし、視線を部屋中に巡らせた。
たまに、疲れて倒れた人を二三人掴むと、腰から定規を取り出して、その背中に跡を残す。
すると、疲れて痩せている人たちは立ち上がり、色褪せた練習着を着て、何度も踊りを繰り返すしかなかった。
わたしも例外ではない。
ただ、彼らと比べたら、わたしは疲れにくいし、あのダンスも嫌いではない。
バレエ団の皆の負担を減らすため、わたしはほとんど立ち止まることはなかった。
御侍はわたしのこの態度を気に入ってくれたみたいだ。公演を重ねるごとに、お金を稼ぎ続けることができるからだ。
こうして、なんの変哲もなかったこのごく普通のバレエ団は一夜にして有名になった。
「美しい人形」のように踊り続けるバレエダンサーがいるという噂が突如広まった。人々はわたしの容姿や踊りについて熱く討論し、わたしを見に来たいという客が後を絶たなかった。
札の山を見て、御侍はこれまでにないほど狂喜した。
しかし、彼の野心はまだ満たされてなかった。
莫大な利益を注ぎ込み、バレエ団のトレーニングと公演数はどんどん頻繁になった。
「パヴロヴァ、なぜ怒らないんだ?あのクソ男は金儲けのために、わたしたちを家畜のように扱っているのに」
バレエ団の皆が集まって、御侍を罵っている。彼たちの燃え上がりそうな目から怒りという感情を知った。
「怒るって……なんなの?」
「怒るとは、機嫌を損ねられるようなことをされたら、叫んだり、罵ったりしたくなる気持ちだよ……とにかく、彼はバチを受けるべきだ!」
彼の説明は非常に分かりやすいが、なぜ御侍に怒らないといけないのか、わたしにはまだ理解できていない。
ずっとダンスをやらされたから?でもわたし、嫌いではなかった……
それとも、あの人はわたしたちがダンスして稼いだお金を誰にも分けずに、独り占めしたから?
でもわたしは金なんて必要なかった……
答えが分からないまま、夜に発生した火災がすべてを焼き尽くした。
タバコの吸殻の火が舞台全体にまたたく間に広まった。
空を照らすような火の中を、みんなが一目散に逃げていく。
そして、舞台裏で酔っ払った御侍は、逃げ出すダンサーたちに、躊躇なく火の中に押し込まれた。
わたしが駆けつけたとき、男の影はすでに炎に包まれ、耳元にダンサーたちの大きな笑い声が聞こえてきた。
その瞬間、御侍のことを悲しむべきなのか、それともバレエ団の皆のために喜ぶべきなのか、わたしは迷った。
次の瞬間、彼らはわたしに向かってきた。その目はわたしの理解できない感情に満ちていた。
「パヴロヴァ、このことは、保安官には内緒だぞ、分かったか?」
「分かった……」
「だめだ。死んだのは彼女の御侍なんだぞ。彼女……どうするんだ……」
彼らが何を心配しているのか分からないが、どうやらわたしのことを心配しているのか?
でもバレエ団がなくなってしまった今、心配すべきなのは、今後の自分の生活なのでは……
疑問を抱いたまま、翌日、バレエ団の人に別の男の家へと連れて行かれた。
男から札を渡されると、彼たちの顔には御侍とよく似た喜びが浮かんだ。それを見て、わたしもホッとした。
よかった。これで、彼らもついに望む人生を過ごすことができるようになった。
Ⅲ.呪い
この「新しい家」はバレエ団と何ら変わらなかった。
レースと小さいダイヤモンドで飾られた豪華なダンススカートを着て、以前のようにみんなの前で踊って欲しいと男性に言われた。
また、彼はわたしに華やかな服装を着ている人の褒め方や、上品な言葉も教えてくれた。
「よく覚えておけ。どんなことが起きても、たとえそれが望まないことであったとしても、おとなしく、じっとしているんだ。分かったな?」
「わかりました……」
わたしの返事を聞いて、男は満足そうに笑った。
でも誰に対しても同じような明るい笑顔を向ける彼は、本当にいつも幸せなのだろうか?
楽しそうに他の男性たちにわたしを紹介してくれる彼を見て、わたしは戸惑いながらも、おとなしくじっとしていた。
すると、彼は活気に満ちた社交場で、他人の嫉妬を買い、いきなり鋭い刃で胸を切り裂かれた。
そんな場面は見たくなかったが、言われた通りにおとなしくじっとしていた。
その後、また転々と他のマスターに引き取られた。
わたしにとっては、どこの生活もさほどかわりはない。
しかし、どのマスターも例外なく、富と名声と快楽を手に入れた後、不幸に見舞われる結末を迎えた。
こうして「呪いの人形」という噂が生まれた。
噂によると、わたしは呪いの人形であり、わたしと接触した人は皆、災いに見舞われると言われた。
人々の目も賞賛や愛着から、嫌悪、恐怖へと変わった。
わたしには本当に身近な人に次々と不幸を運ぶ呪いがかかっているのかもしれない。
それ以来、わたしを受け入れてくれる新しいマスターは現れなくなった。
呪いの噂はどんどんと広まった。ある日、誰かが共同で告訴し、わたしは拘置所へ送られた。
……
「パヴロヴァ、またボーっとしてんのか?ったく、人形っぽいと言われたら本当に人形になったつもりか?」
聞き覚えのある声を聞き、わたしは現実世界に戻った。怒っているサスカトゥーンを見て、思わず前のマスターのことを思い出してしまった。
実はこの場所、サスカトゥーントイファクトリーは、わたしが以前滞在した場所と非常によく似ている。素敵なドレスがたくさん並び、美しくて広々とした部屋だ。
わたしがこのままここにいれば、以前と同じように、彼も不幸に見舞われてしまうのだろうか?
「おい、僕の話聞いてるのか?君の番だぞ!」
「わかりました……」
わたしは返事をしたが、サスカトゥーンは明らかに不満な顔つきになった。
彼の目からは、怒りの裏に隠された戸惑いが見てとれた。
「すみません…でも安心してください」
「はあ?安心ってなにがだ?」
「一人になるのが怖いんでしょ。ご安心ください、絶対にここを離れませんから。」
「怖いなんて誰が言った?君……本当にここにいてくれるのか?」
「はい。あなたは彼らと違いますから。」
「なんだと?」
サスカトゥーンは戸惑ってわたしに視線を向けた。そうだ。彼の目には他のマスターたちが札を見て湧かせたような強い欲望はなかった。
残忍でなく、お世辞を好まず、お金に満たされる未来さえも抱かない……
彼の幸せの裏には、いつも悲しみが隠されているようだ。
何かと交換したいから、わたしにそばにいて欲しいなんて思わないはず。
ただ一人が怖くて、孤独を恐れているのだ。
「でも……君はここが好きではないように見えるけど。」
サスカトゥーンはチェス盤上の駒を弄びながら、いつもの傲慢な態度ではなく、うなだれながらため息をついた。
わたしはどう返事すればいいのか分からなかった。なぜなら、わたしにとってそれはどこでも同じであり、好きとか嫌いとか、そんな感情を持ち得ていないからだ。
しかし彼はわたしの沈黙を黙認と理解したようで、怒りで顔を赤らめた。
「君の同情なんていらない!たとえ僕ひとりだけだとしても……いや、まだマカがいるんだ。そしておもちゃもたくさんある。全然寂しくなんかないさ!」
チェス盤が落ち、駒が床中に散乱した。わたしはサスカトゥーンが慌てて走って行った方向を見つめ、半開きのドアを見たとき、急に初めて会った時に私に見せた笑顔を思い出した。
その笑顔はまるで何の不純物も入ってないガラス玉のようだった。
しかし、なぜそんなに純粋なのだろう?カラフルな色を入れたり、スパンコールを入れればもっと美しくなるのに。
彼の笑顔にも喜びがあるべきだ。悲しみでもいいが、そんな空っぽであるべきではない。
だから……ガラス玉を美しくするために、わたしはここに残る。
Ⅳ.変わり
わたしがここに残ると主張したものの、あれ以来、サスカトゥーンはあまり、会いに来てくれない。
しかし、彼は来るたびに新しいおもちゃを置いていき、忙しいと言い、急いで立ち去る。
時間が経つにつれて、わたしの部屋は様々なおもちゃに満たされ、すっかりおもちゃの部屋になった。
ある日、サスカトゥーンは来なかった。しかしその代わりにおもちゃを持ってくる人がいた。
「その人」はムール・フリットと言い、ここの門番だ。彼は自己紹介をした後、無表情に帽子を脱いで深くお辞儀をした。
「君は逃げたいかい?」
「逃げる?」
わたしには彼の言葉の意味が分からなかった。
ここに閉じ込められているわけでもないし。しかも、逃げると言っても……どこに?
「……俺について来な」
わたしは門番さんに近くの桟橋まで連れて行かれた。二人は空き地に座り、行き交う船、流れる雲、いつまでも変わらない海面を眺めた。
カモメは路上の穀物やパン粉を食べ、人ごみは不規則に動くパズルピースのように見えた。
すべてが穏やかなガッシュ画のようで、わたしもその中の一部になっている。
この感じ、嫌いじゃない。
「どうだい?あの薄暗い小部屋より、ずっとよくないか?」
そう言って、彼はポケットから何かを取り出してわたしに手渡した。
「食べてな、これはフライドポテトだ。この世で一番偉大な食べ物だ。」
わたしはそれを受け取ったが、彼が誤ってポケットから落とした丸められた紙に目線が行った。
好奇心に駆られたわたしはそれを拾い上げて、広げてみた。
上にあるのは、乱雑な線と白黒のブロックで埋め尽くされた画像だ。落書き絵本に少し似ているが、より特別だ。
なぜこんなにキレイな絵を、丸めてグチャグチャにしたんだろう?
そんなことを考えていると、突然手に持っていた紙を奪われてしまった。
「忘れてくれ。忘れないと、殺すぞ。」
「……ごめんなさい、わたしにはできないわ。だって、とってもすてきだから。」
「面白い?お前……分かるのか?」
わたしは頷きながら、「トイファクトリーの絵でしょう」と返事した。
門番は信じられないような表情を見せた。彼はその紙をより小さく丸めてポケットに戻し、わたしに問いかけた。
「面白いというのは……ヘンテコってことか?」
「いいえ。もっと見たくなるという意味よ。好きですよ、その絵」
彼の目は一瞬閃いて、そしてわたしに向けてどこからともなく巨大なフライドポテトを持ち上げた。
殺される……?
思わず目を閉じたが、一陣の風がすり抜け、微かに変な鳴き声が聞こえた。
「カモメに取られそうになった。早く食べて。食べ終わったらここを離れる道を案内してやる。」
海に浮かんだわずかな波紋を眺め、わたしは頷いて、フライドポテトを手に取り、口に入れた。
人間の食べ物を食べるのは初めてだった。
温かくて、サクサクしていて、もう一口食べたくなってしまう。
急に前のマスターのことが少し理解できた。この世の美しいものは、確かに人を貪欲にさせる。
「帰ろう。」
「……これが唯一のチャンスだ。本当に行かないのか?」
「はい。またフライドポテトを食べて、あなたの絵を見たいから。」
「……そんなこと、ここに残らなくてもできるだろう。」
「しかし、わたしがいなくなったら、サスカトゥーン様はどうするのですか?」
「……」
サスカトゥーンの虚しさは、この世の全てのものに興味がないことから来ているのかもしれない。
彼はたくさんのものを持っているが、それらが自分のものだと信じられない。それはまるでわたしが残りたいと言ったのに、信じてもらえないように。
期待したり、所有したりしなければ、がっかりしたり、悲しんだりすることもない。
しかし、この世界には彼が掴みたくなる、掴むことができる何かがあるべきだ。
そうでなければ、昔のわたしのように、目的もなくただバレエを踊り続け、繰り返して他人に不幸をもたらすだけだろう。
そうなれば、オルゴールの上で踊る小さな人形と何ら変わらない。いや、それにも及ばない……なんせ呪いの人形だから。
はっきりとは言えないが、彼が掴みたくなる、そしてこの世に残りたいと思う存在ってわたしなんじゃ。
彼は、わたしにとってこの世に残りたいと思える存在なのだ。
前の主は皆、わたしを所有しているとき、すごく楽しそうだった。でもサスカトゥーンは違う、彼は永遠に快楽を得られないようだ。
そこでわたしは気づいた。自分は変わらなければならない。
呪い人形やオルゴールで踊る人形よりも、良い存在にならなければと。
「帰ろう。」
わたしは立ち上がって門番にそう言った。
一刻も早く、サスカトゥーンに会いたい。
会ったら、彼をぎゅっと抱きしめてあげたい。過去の空っぽの自分を抱きしめるように。
Ⅴ.パヴロヴァ
「……今回の絵はトイファクトリーじゃないのね」
ムール・フリットは、急に後ろから聞こえてきた声にびっくりした。一瞬体を硬直させて、すぐに未完成の漫画を丸めた。
慌てて丸めてももう遅い。彼の漫画を理解できるのは、彼自身の他に、パヴロヴァしかいない。
しかももうすでに相手に見られてしまったのだから。
「パヴロヴァ。なんど言ったらわかるんだ。ノックしろよ。」
「ごめん、ノックはしたの。でも聞こえなかったみたい。」
パヴロヴァは冷静に返事をし、丸められた画用紙を見つめながらこの話題を続けようとしている。
積み重ねられた線は以前よりも抽象的で乱雑になったが、それでも何を書いているのかは理解できた。
交差する2本の線路、向かって来る電車、そして線路に拘束された人々。
ムール・フリットがなぜこのような絵を描いたのかは分からないが、警笛を鳴らす列車が進み続ければ、やがて線路上の命が轢かれることになるだろう。
「放っておいてくれ、君には関係ない……もうひとり人物を加えると、物語の展開がややこしくなる。犠牲は漫画の中で、最も愚かな展開なんだ。」
ムール・フリットは独り言をいいながら、やはり安心できず、丸めた紙を破り捨てた。
静かに聞いていたパヴロヴァが話をかけた。
「なぜ……犠牲が必要なの?」
「線路以外は、ほとんど何も描いてないじゃない。」
少女の相変わらず穏やかで、普通に聞いただけのようだったが、ムール・フリットは呆れてしまった。
「もしかしたら……列車も人も線路に縛られたくないのかもしれない」
「じゃあなんで、空白のところに線路を伸ばさないの?空白の場所には、別の答えや方法があるかもしれないわ。そうすれば、誰もが望む道に近づくことができるのに。」
少女は真面目にそう言いながら、白紙に目を付け、答えを見出そうとしているようだ。
ムール・フリットは驚いた。
いつもは冷たくてよそよそしい少女だが、絵画に対して単純で特別な見解を持っていた。しかも時折、自分と同じ考えを持っていることに気づいた。
彼が以前描いた主人公たちのように、彼らは平凡で空白な人間だが、自分の意志や考えを表現できないわけではない。
そこで彼はホッとしたように、目を伏せた。
「君の言う通りだ。電車が完全に制御不能になるまで、まだ色々な可能性がある。」
「ところで、何か用かい?」
「はい。マカロニさんが、廃工場に閉じ込められていた人を見なかったかってあなたに聞きたいみたいで。」
「……見てない。」
「マカロニさんはあなたのことを信じていると言ってましたよ」
「ちょっと待って……それを伝えるために、君を来させたのかい?いったいなぜ?」
「……たぶん彼は、廃棄工場に人が閉じ込められていることをわたしに知ってもらいたいのかもしれない。もしかしたら、彼は呪われたいのかもしれない。」
パヴロヴァは首を振って、ムール・フリットの小屋から出ていった。
「でも残念ながら、わたしはもうその人たちに何もしてあげられない。もう呪いの人形ではないから」
パヴロヴァはこうして、ずっとサスカトゥーントイファクトリーに滞在することになった。
ただ飾りのような存在だが、
安定した生活の場所を手に入れ、以前のように、転々と回って人々の利益の争いのために奔走しなくて済む。
彼女にとっては、十分幸せなことだ。
サスカトゥーンと出会うまでは孤独を恐れず、孤独を気にしたこともなく、「呪い」を背負っている自分には孤独の方が向いているとさえ思っていた。
二人とも孤独に囚われている人間だが、それは似て非なるものだった。
しかし、「理解できない」は「変えられない」を意味しているわけではない。
孤独になるのが怖くて、無力で途方にくれている表情をしたサスカトゥーンとムール・フリットの頑なに誰にも言わない決意を見た時、彼女は思わず何かをしてあげたいという気持ちになった。
人間の言葉で言えば、友情や絆と言うものか。
パヴロヴァはようやく理解できた。この単純な感情ではなく、もっと深い意味を持つこの2つの概念を完全に理解し、人間のような感情的な反応をすることは、絶対にできないということを。
――生まれながらにして心臓を持っていないマカロニのように、パヴロヴァにも到底できないことがあるようだ。
彼女と同様に、すべての人を助けることはできなければ、完璧にやり遂げることはできない。
しかし、自分なりのやり方で、全力を尽くして、人々が貪るほど美しい世界に応えたいと願っている。
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