【黒ウィズ】神都ピカレスク Story4
story4 盗賊VS怪人
元々、N路街はE王朝下での地方行政を担った場所であった。
諸外国の分割自治が始まると、その地位と権力は一気に有名無実化した。
さらに王朝内での内乱が街に及ぶと、多くのN路街に住む者が「治外法権」という庇護を求めて、外国の自治区に逃げ込んだ。
今では住む者も少なく、住んでいる者も貧しく、あるいは身分の怪しい者ばかりである。
ある意味では国際色豊かな街の中で、国風を強く残す場所ではあったが、時代に取り残された場所とも言えた。
墓場と呼ぶ者も少なくなかった。墓場に現れるのは、霊か、夢遊病者か。
狭い路地の壁には誰かが書いた「いろはにほへと」が並んでいた。ゆらりゆらりと乏しい灯りに支えられた影が、その壁を滑っていく。
招待を受けてくれて感謝するよ。赤いドレスの怪人さん。
屋根の上で、白いマントが怪しく光るようにはためいていた。
ポワカール……。世界中を駆け巡り、お宝を盗む、盗賊一族。
それを知っているということはお前もカタギじゃないな。……でなければこんなものは手に入れられない。
〈蚩尤の首飾り〉をね。
取り出したのは〈蚩尤の首飾り〉である。
白手袋の指先に垂れ下がった様子は、幾星霜の時を経ても失われなかったえも言えぬ美しさが鈍く光っていた。
それを返せ……。
夜目が効いてくるように、白いマントの隣に夜色の男がぼんやりと浮かび上がる。
お前が持っている俺たちのお宝を返せば、こっちも返してやる。
仮面の男は胸ポケットからパンチカードを取り出した。
いい子だ。
見せたかと思うと、仮面の男はパンチカードをそっと胸ポケットにしまい、クククと笑い声を上げた。
ギャスパーとケネスの目が険しくなる。だが、寸分の隙も与えず、怪人はふたりが立つ建物の壁を殴りつけた。
石がビスケットのように軽々と砕ける。
泥棒ふたりは、二手に分かれて、崩れていく足場から飛び立つ。
逃げ去るふたりに向けて、仮面の男は猿のように長細い手を一振りした。
つぶてがギャスパー目がけて、空を裂き、ひゅぉぉおんという唸りをあげて飛んでいく。
しまったッ!!
狙いは無論〈蚩尤の首飾り〉だった。つぶては白手袋の手を弾き、首飾りが宙に遊んだ。
ふたりが後悔を叫ぶより先に、仮面の男が人間猿の如く舞いあがり、首飾りを手にした。
ククク……。
首飾り目指してだらしなく伸び、開け広げになった男の胸元を何かがかすめた。
ッ!?
男は屋根の上に降り、自分の胸ポケットが引きちぎられていることに気づく。
右手の首飾りが無意味な鎖に変わり果てていることも。
そして、目の前にはもうひとつの影。桃の花の香りが夜気に混じって漂っていた。
お久しぶりね。怪人さん。
彼女の手には、パンチカード。引きちぎられたポケットが風に乗って消えてゆく。
生憎、騙すのは得意でね。これで、こちらの目当てのものが手に入ったってわけだ。
……殺してでも奪い返す。
それならこっちは死んでも逃げ切ってやるよー。
パンチカードがひらりとケネスの方に飛んできた。受け取ったケネスもギャスパーも意表を突かれたように互いを見た。
そして、パンチカードを投げてよこした少女を見返す。
逃げる必要はない。
足先で弧を描くように一歩前に出る。伸ばした指先が仮面の男を差すかのように伸びた。
E王朝に伝わる拳法。その戦いの構えである。
おい!計 画と違うぞ!
それはあなたたちの計画でしょ? あたしのじゃない。あたしの計画はここでこいつをぶっ倒す!
視線の熱さを逃さぬように、ヴィッキーは仮面の男を睨みつけたままである。
ああ、そうかい。じゃ、勝手にさせてもらうぜ。おい、行こうぜギャス。
だが、隣のギャスパーも困った顔をしながらも、動く気配はなかった。
女性をひとり残すのは……。
この期に及んで美学とか言う気じゃないだろうな?
そのつもりだが……?
ああ、もう! めんどくせえなあ、お前たち目的を達成したらさっさとズラかるのが常識だろうが!
ずいと仮面の男がヴィッキーに近づく。
お嬢さん……なんのつもりか知らないが、命を無駄にしたな。でもまあ、俺のコレクションとして永遠に美しいままでいられる。
それもまた、女の幸せかもしれんなあ。
……ひとついい?
なんだい?
そこ、もうあたしの間合いよ。
鈍い衝突音がして、仮面の男の首が90度にのけぞった。
ゆっくりと後ろに倒れ掛かる長躯が引き戻される。同時に男の右足の甲が踏み抜かれ、屋根瓦が砕けた。
互いの足を重ねるほどの距離。長躯の懐に潜りこんだ少女は叫んだ。
はああーー!!
拳打。あばらを打ち、首を打ち、顎を打つ。再びよろめいた相手を、その腕を取って引き戻す。ど
拿でその腕の逆を打ち、今度は自らの体を入れ替え相手の左足を踏み抜く。男の長い手足が意味をなさない近距離が保たれていた。故に怒濤が再び押し寄せる。
両手の掌で相手の顎を打ち上げ、正中の線を下に降りるように拳打を叩き込む。
顎、喉、心臓、みぞおち。最後は金的を蹴り上げた。
おう……。
烈火の如き攻め手に、男性陣の下腹部あたりが縮み上がる。
ぐわんぐわんと頭を揺らして、立ち尽くす仮面の男の前で、ヴィッキーは腰を下げ、息を吐く。
ふぅぅぅー。
ぴたりと彼女の呼吸が止まったかと思うと、ひねりを加えながら跳び上がった。凶暴な旋風となったヴィッキーの蹴りが仮面をしたたか打ちつける。
律儀にも、仮面の男は空中できっちり5回、横回転して、屋根の上に叩きつけられた。
ヴィッキーは地に降りた後も、倒れた相手を予断なく睨みつける。
一撃でのされてしまった己の油断と甘さを吐き捨てるように、彼女は吼えた。
功夫(あたし)をなめるなッッ!!
……あの女なら置き去りにしても良かったんじゃないか?
まあ、残っていることが大事だから……。気持ちの問題、うん、気持ちの問題。
大したことのねえ美学だな。
決然と瓦を踏み、ヴィッキーが歩み寄る。その音が聞こえているかいないか。仮面の男はぴくりとも動かない。
音が止む。しんとした時間がわずかに生まれる。
仮面があると、わからないわね。
相手の具合を確かめようと、顔の仮面に手を伸ぱす。
……えッ?
自分の手を見て、驚いた。拳を握ったまま、無機物のように人間味を失い、固まっていたのである。
拳越しに男の顔が見えた。
割れた仮面の下からわずかに覗く口の端が、裂けた皮膚のように赤くぬらついている。
ひゅーひゅーと息が漏れていた。容易にはわからなかったが、その奇妙な吐息は笑い声だとわかった。
何を笑っているのよ……?
自分が拳の自由を失った様子を見て、男は喜んでいる? いや、違う。「人形のようになった手」を見て、悦んでいるのだ。
戦いの最中にもかかわらず狽らな笑いを浮かべ。
ヴィッキーの背筋を冷たい舌が砥めた。思わず、後ずさった。
操り人形が起き上がるように、ぐにゃりと男が起き上がった。
ヴィッキーもすぐに躇に力を入れ、腰を落とすが、前に出ることは出来なかった。
……くッ!
仮面の男は悠々と距離を取る。彼女の人形になった手を見つめ、顎の上の傷口が赤く開いた。
男は後方の闇の中に飛んだ。夜に包まれようとしていた。
何してんだ! 逃がす気かよ!
去ろうとする仮面の男に、ケネスが銃口を向けた。迷いなく、引き金を引き、ハンマーが落ちる。
あれ? 不発? こんな時に? ああ、待てって……! チクショウ!
もう一度引き金を引こうとするも、その時には仮面の男の姿はなかった。
まずいな……。
何がだよ? 少なくとも目当てのものは手に入れられたぜ。
奴には我々の居場所を知られているが、こちらは奴の居場所を知らない。
いまひとつ合点のいかないケネスだったが、ヴィッキーの独り言めいた言葉が全てを了解させた。
こちらが狩る側か、それとも狩られる側か。わからなくなったわね。
***
夜行性の3人はさびれた街の中を進んでいた。追っているのか、それとも追われているのか。目的が不明瞭なまま、夜行性の3人はさびれた街の中を進んでいた。
おい、ヴィッ……じゃねえ、桃花か。手は大丈夫か。
元には戻ってないけど大丈夫。それと、ヴィッキーでもいいわよ。今はね。
何をされた?
何も。ただ殴っただけよ。
月明かりの差さない物陰の方へ入った。突然、ギヤスパーは立ち止まると、月明かりの差さない物陰の方へ入った。
姿を見られぬように、自然と体が動いたのだ。彼はそこで、物思いに耽っているようだった。
動こうとしないギャスパーに合わせて、ヴィッキーたちも物陰の中に入った。
あいつの妙な芸当は我々と同じ力なんじゃないか?そうだとすれば何か条件があるかもしれない。
でも見た所、何もなかったぜ?
事前に何か仕込んでいた?いや、それはわからない。ダメだ。情報が少なすぎる。
ヴィッキー、他に何かないか? あいつが気にしていたことは何かないか?
そう言えばあいつ、前は、あたしに「濡れていませんか」って声をかけたわ。
そりゃ、赤いドレスの怪人なんだから、当たり前だろ。
それは少しおかしいな……。都市伝説だと……ん? 皆、散れ!
向こうから妖しい影が伸びてくる。影はギャスパーたちの前まで伸び、そして、ぴたりと止まった。
素早く反応して、一同は四散する。舞い降りてきた仮面の男は少し残念そうに首を傾げた。
ちょうどいい。こっちだってお前のこと探してたんだ……。
腰の銃を抜きかかるケネスにギャスパーが囁く。
聞け。ただ、私に考えがある。時間を稼ぐ必要がある。
いまこの状態で言うなよ。無茶だぜ。
ふたりの内緒話に、少女が加わる。
時間ならあたしが稼ぐわ。
その手で何が出来んだよ?
答えとばかりにヴィッキーが飛び出した。仮面の男の刈り取るような腕の振りがそれを迎え撃つ。ただし、そんなものは彼女にとって、無駄な動きの多い素人丸出しの攻撃である。
容易くかわすと、仮面の男の腕を流す。腕は男の体に巻きつき、体の自由を奪った。
自分の腕に縛られた男のガラ空きの顔面にヴィッキーは強烈な突きを打ち込む。
男はふわりと後ろに飛んで、落ちた。
あなたの体が硬いのはさっき分かった。でもいまのあたしの手もあなたと同じくらい硬いわよね。
それなら、互角じゃない。
功夫には、己の拳を石のようにする鍛錬があるわ。長年鍛錬した達人の拳は、石そのもののように固くなる。あたしの拳はまさしく達人のそれと同じ。あたしは達人と同じ高みまで、たった数分で到達したってことよ。
ずいぶん楽天的だな……
いや、ありゃあ、一本ネジが外れてるぜ……。
よろめきながら、仮面の男が立ち上がる。
頃合を見て、我々を追って来い。
べつに倒してもいいわよね?
お好きにどうぞ。
捨て台詞とともに、ケネスが走り出す。続けて、ギャスパーも。
彼らが行ったことを確かめて、ヴィッキーは足を肩幅の広さに開き、両手を前に出す。そして腰を落とした。
腹の底から吐き出される呼吸は白く、夜気に混ざってやがて消えた。
来なさい。盗人に身をやつしても、あたしには武館の娘の血が流れてる。
3千年の歴史を背負ってんのよ!
先行して路地を進むギャスパーに向けて、ケネスは声を上げた。
それはやってみる価値があるな。
ああ。それともうひとつ考えがある。お前の力を使えば、奪えるかもしれない。
何を?
奴の力をだ。お前が奴と力を賭けて勝負するんだ。勝てばもしかしたら力を奪えるかもしれない。
待てよ。賭けるのはいいけど、絶対勝てるとは限らないぜ。
だから、勝てるようにするんだよ。お前はそっちの方が得意だろ?
不敵に笑う相棒を見て、なるほどとケネスは笑い返した。
ああ、なるほど。そういうことか。それなら得意だ。……よし、大勝負と行こうぜ。
***
正対する両者の均衡が一気に崩れた。
仮面の男は予備動作なく、目の前から消える。次に現れた場所はヴィッキーの真上。
覆いかぶさるように体を広げて、舞い降りてくる。
遅い! 燕でも見習いなさい!
付き合うつもりはない。少女は体を回転させつつ、前に出る。捻る動作を力へ変えて、頭上の面妖な男に蹴りを放つ。
捉えたのは、みぞおち。男は路地に転がっていく。倒れた相手に少女は吐き捨てる。
そのつまらない演技はやめなさい。あなた、そんなに才能ないわよ。
手ごたえはまるでなかった。人の急所を蹴ったというよりは丸太を蹴ったようだった。
上げた足をゆっくりと下ろす時に気づく。足先が蝋で固められたように動かなくなっていた。
右足もか……。
そこで動揺することはなかった。
起き上がった男の口に、またあの歪んだ傷口のような笑いを見た時、彼女ははっきりと恐れを感じた。
自分を嗜好品のように見ている。人ではなく、無抵抗な玩具のように。
その気持ちの悪い笑い方やめなさいよ。女にモテないわよ。
自分の気持ちに喝を入れる。頭の中の恐れを取り除くよう努めた。
冷静になりなさい……。
「ぬうっ! くう! ああ、締まる! 体が縛りつけらえ……
気持ちいッ……!……あ、違う、苦しい!!」
(なんでよ……)
それでも自然と頭の中がすっきりした。目の前の男への恐れは消えてなくなった。
恐れよりもバカバカしさが先に立ったのだ。
また、男が飛び上がった。ヴィッキーも迎撃の構えを取ったが、男は降りてはこなかった。
背後で発砲音が聞こえた後、唸りを上げて空を貫いていく何かが男を撃ち抜いたのだ。
振り返ると、硝煙の白いベールの向こうにケネスが立っていた。
今度は成功だ。
待たせたな。決着をつけるのにふさわしい広い場所が見つかった。
あっそう。じゃあ、次は何をすればいいのかしら?
背後で男が立ち上がるのもかまわず、ヴィッキーが尋ねた。
そりゃお前、泥棒がやることっていえば、とんずらに決まってるだろ。
了解。
言いつつ、首を一振りすると、頭の上の帽子が意思を持ったかのように、背後の男の仮面に直撃する。
仕込まれた刃物が仮面に食い込む。
それでも致命傷には至らない。男は余裕を持った仕草で帽子を投げ捨てた。
目の前にはすでに誰もいない。しかし男は焦る必要はないとゆっくりと歩き始め、それから飛んだ。
そこはN路街の中心付近だったが、こんな場所があったのか、と思えるほど、そこだけぽっかりと空間が広がっていた。
仮面の男はすぐに、3人が待ち構えていることに気づいた。
普通なら、罠かもしれないと躊躇するだろうが、仮面の男にそれは当てはまらない。
彼は自分が圧倒的な強さを持っていると考えていたからだ。
お前の力は体にごく薄い、だがとても硬い膜を作ることができる、というものじゃないのか?
それを相手につけることで、そいつの体も固めてしまうこともできる。違うか?
ヴィッキーは自分の固まった両腕を見て、その痕跡を確かめようとしたが、見ただけではわからなかった。
お前が大げさな動きをするのは、そうすることで相手に吹きつけることが出来るからだ。
おそらく、お前の汗か何かだろう。
(げ……!)
わかったところで、どうすることもできないだろ?
自信があるなら賭けないか? お前が心の底から負けを認めたら、俺がお前の力をいただく……どうだ?
何の話をしている? くだらん余興はよせ。
賭けるのか賭けないのか、聞いている。答えろ、汗っかき野郎。
いいだろう。その代わり俺が賭けに勝ったら、死ぬまでいじめてやる。
眩暈がケネスを襲う。心地よい陶酔と恍惚。賭けという己を切り売りする行為への陶酔と恍惚。
そうか。この力は、俺の欲望なんだ……。
欲望と快楽が眩暈となって、ケネスを取り巻いた。それが力の根源と発動を教えてくれた。
さあ、勝負だ。
男が距離を詰める。地を這うような低い姿勢で、駆け寄り、右手でケネスの首を掴んだ。
何!?
即座に慌てた様子で男はその手を引いた。男の右手はべっとりと濡れていた。
いつの間にかケネスの体も濡れている。
だから、何度も同じ手にかかってんじゃないよ。
私の力は見せかける力だ。いまのお前の眼には私は濡れていないように見えるだろ?
あと、ここはどう見えている?
ギャスパーが背後の空間を叩いた。すると恐ろしいことに景色がバラバラと崩れ落ちた。
世界が壊れていく不気味な幻の中で、ギャスパーは微笑んだ。
日頃から新聞は読んでおくものだね。何気なく読んでいたが、ここで消火栓の工事があることを覚えていてね。悪夢のような光景が終わると、そこには消火栓の工事現場があった。
慌てる仮面の男を諭すようにヴィッキーが声をかける。
まあまあ、そう言わずにひとつ風呂浴びていきなさいよ。汗まみれじゃ女の子にモテないわよ。
傍に落ちていた石を蹴り、消火栓の放水弁に命中させる。消火栓が震え、そして水を噴き出した。
綺麗な放物線を描き、水流が噴き上がる。土砂降りのように一面、水浸しになった。
我々の知る都市伝説では怪人は、ドレスが「濡れていますよ」と言って襲いかかる。
だけど、実際のあんたは「濡れていませんか?」と尋ねて、襲いかかっていた。どうしてかしら?
答えは簡単だ。お前は、水に濡れるのが嫌なんだ。汗を水に流されると、その硬質の膜は無くなる。違うか?
だから、お前は襲う奴にいちいち濡れているかいないかを確認していたんだろ?
都市伝説ってのは間違って伝えられていることも多いらしい。お前の話も同じだ。
今までの余裕はどこかへ吹き飛んで、ずぶ濡れの男はへなへなと腰から砕けた。
さて、俺とお前の勝負の続きをしようぜ。
ケネスは銃口を男に向けた。
お前も見たようにこの銃が撃てるか撃てないかは俺にもわからない。
だがもし、ぶっ放せたら……。お前の頭なんて跡形も残らないぜ。今回はどっちだろうな?
どうする? 賭けるか? 俺の賭ける方はわかるだろ? お前の賭ける方も、決まってるぜ……。
勝ち負けを決めようぜ。
引き金が絞られる音が聞こえるようだった。ほんの一秒にも満たない瞬間が、男の心を砕いた。
あ、あ、あ、あ! 頼む! 頼むッ! 俺の負けだ!! 俺の負けでいい! 許してくれ!
欲望も、理性も、吹き飛ばし、ただ敗北と恐怖だけに囚われ、命乞いをした。
しかし、無情にも男を睨みつける銃のハンマーが落ちた。
鉄を打つ音だけを響かせて。
不発だった。
ズルして、騙して、いただきだ。文句あるか?
男は開いた口が塞がらないといったようだ。すると突如、力もなく震える男の顎から煙が噴き出てくる。
なんだよ、これ? これがこいつの力ってことか?
賭けに勝ったお前が奪い取ったんだろう。
煙は生き物のように、ケネスヘ向かってくる。彼の胸ポケットに吸い込まれるように収斂していく。
大丈夫?
ケネスは胸元の光る何かをこわごわと取り出した。それはパンチカードだった。
どうなってんだ?
カードはひとりでに穴を空け、そしてまた別の穴を埋め、変容し始める。
見たこともない不思議なカードとなると、光を失った。
トランプのようでもあり、また全然違うもののようでもあった。
ギャス、これ、なんだと思う?
さあな、だがひとつだけ確かなことがある。我々が手に入れようとしたパンチカードが永遠に失われたことだ。
ああーー! ほんとだーー!
やれやれ、とんだ骨折り損だ。いや、本当にひどい……参ったな。
はいはい、残念残念。じゃ、約束の報酬頂戴。
そして、勝つのは女ばかりか……。
***
気がついた時はアベニューDの路地であった。
N路街の人々に危害を加えられることがないよう、ここまで運ばれたのだろう。と男は思った。
試してみたが、やはりあの超常的な力も脅力も失われていた。
いまは女性の美しい人形に劣情を催すただの中年男と成り果てていた。
強い眩暈を感じながら店に戻ると、店内をよろめき歩いた。
もう立っていられないと思い膝をついた場所が、自慢のコレクションの前だった。
相変わらず、冷たく、美しさを保っている。現実離れした永遠に失うことのない美しさを。
力は失われたが、コレクションは変わらぬままであったことに安堵して、男は気付け薬を取りに奥に向かった。
カツン。ヒールで刺すような足音が背筋に届いた。ひとつやふたつではなくいくつもの足音である。
男は振り返ることを恐れた。背後で起こっていることがわかる気がしたからだ。
それは、毎夜毎夜恐れていたことである。その恐怖のあまり、閉店後の店まで、車を飛ばしたこともあった。
いつも見る夢は彼女たちが自分の下から逃げ去ってゆ<夢だった。
いまは、自分を追いかけてくる。
「あ……あ。」
足が前に出なかった。だが、足音は近づいて来る。
その距離は、もはやない。細い息が男の後頭部に当たった。
誰かがそこにいて、そして、そして、生きているのだ。
男の肩に手が置かれる。強く握りしめられる。別の肩を、さらに両の腕を握りしめられる。
地獄の門に引きずり込まれるように、男は後ろヘグイと向き直される。
生きていた。無数の美しい人形たちが、生きていたのだ。
男は「ひぃ」とわずかに息を吸う音をたてると、目玉をぐるんと裏返らせた。
***
今久留主は、工部局の職員に抱きかかえられる男を見送ると、いまは空になったショウケースの方を向いた。
そこにあった人形がすべて生きた若い女たちだった、という怪奇な事件を解決へと導いたのは、誰あろう今久留主であった。
「まさか、今久留主さんの仰る通りのことが起こっていたとは……。」
「初めてこの店に来た時から妙だとは思っていたのです。ここの人形たちはあまりにも精巧過ぎた。
人形にあるべき、継ぎ目もなく、まるで生きた人間をそのまま固めたかのようでした。
僕はその時に思ったんです。この人形は、元は人間だったのではないかと……。恐ろしい考えです。」
その妄念に取りつかれた今久留主は、人形をスカートの中まで子細に観察し、妄念を事実に変えていった。
女賊から国宝を守ったのも、この宝石店に出入りし調査することが目的だった。
そして工部局に届けられた全ての行方不明者の身体的特徴と、人形の特徴を照らし合わせて、確信を得た。
その恐るべき犯罪が行われたことを。
「僕には見えるんです、人の心の闇が。欲望が。」
宙を仰いで、今久留主少年は呟いた。その眼は、自分の心の闇を覗いているのかもしれない。
犯罪者の心の闇を共有してしまう、自分の咎を。
「僕が、助平だから……。」
助平だという咎を。
しかし、わずかだが誤算もあった。それは全ての証拠を揃えて踏み込んだ時だった。
そこには発狂した男と衰弱した女たちが亡者の群れの如く、床の上を這い回る地獄絵図がこの世の片隅に出現していた。
男の容体を見て、誰もがこの犯罪は闇の中に消えたことを悟った。
「ある意味、彼は幸せなのかもしれませんね。いつまでも夢の中で、人形たちに囲まれているのでしょうから。」
「しかし、今久留主さん。この事件、何と報告しましょうか?こんな奇天烈な話を報告書にすれば、私はクビですよ!」
「書く必要はないですよ。どうせ誰も信じません。事実は小説よりも奇なり、か……。」
呟いて、今久留主ははたと思い至った。
彼は思いついたアイデアを誰に頼まれたわけでもない事件解決の報酬とすることにした。
エピローグ
カイエ・デ・ドロゥーボー社の朝。
カフェオレとバケットの香りが漂う社内にいつものようにふたりがいる。
「怪人の目的?」
「ああ。あいつがなぜ国宝を重要視していたのか。あいつにとっては必要のないもののように思えた。」
「高く売れるからじゃないのか?」
「あいつは女性を人形にすること以外、興味はない。私の勘だが、そう思う。
それと我々のこの力だ。今さらだが不思議で仕方がない。」
「あいつも同じ力を持っていた。何か共通点があるのか?」
「欲望。」
思わぬ言葉に、ギャスパーはケネスを見た。
「どういう意味だ?」
「いや、なんでもねえ。気にすんな。あ……へ、へ、へ、へっくしょん! やべえ。風邪ひいたかも……。」
「だらしないぞ。あの程度濡れたくらいで。」
ギャスパーはケネスの額に手を当てる。もう片方の手を自分の額においてみる。
「熱があるな。今日はもう休め。」
「いいよ。これくらい。」
ギャスパーが渋るケネスを強引にソファヘ押し倒す。
「駄目だ。休めるうちに休んでおけ。……今夜も仕事だ。」
「そんなところだと思った。泥棒稼業は大変だぜ……。で、次はどこだ?」
「K国の大使館だ。どうやら他国のスパイの情報があるらしい。」
「ギャスパーさん、ケネスさん! 新連載の草稿が出来ましたよ! ……お。」
突然、扉が開き、躍り出てきたのは今久留主であった。
「ああ、おはようございます、今久留主先生。」
取り繕ってはいたが、ケネスとギャスパーは唐突な今久留主の登場に驚いていた。
いらぬ会話を聞かれてしまったのではないかと、慌てた様子で今久留主を迎え入れた。
その妙なぎこちなさを見て、今久留主は「おや」とばかりに口角の片側を上げてみせた。
「なるほど、なるほど。そういうことでしたか。
以前から僕は気になっていたんですよ。時折ふたりで内緒話をしたり、どこかへ消えたり。
昨日の夜も宝石店の店主を逮捕する現場を取材してもらおうと、尋ねたのに、ふたり揃って留守でした。」
(やべえ、さっきの話聞かれたんじゃないか?)
(まさか、そんな大きな声じゃない)
「でもいま、わかりました! あなた方、ふたりの正体が!」
ギャスパーたちの額を冷たい汗が流れ落ちる。
「あなたたち、さては恋人同士ですね!」
「「は?」」
「いや一、いまおふたりのただならぬ雰囲気を見て、わかりました。ピンときました。ええ、助平ですから!」
「おい、それは誤解だぜ……。俺たちはただ……。」
「誤解なんかしてませんよお。僕は恋愛の形には囚われませんから、そういうのあっていいと思います!」
「いや、そっちの誤解じゃねえ!」
「あ、でも僕はまだそっちは無理ですよ。ですが大人になったら、わかりませんけどねぇ。」
「お前は大人になったら、何かの完全体になるつもりか?」
「おはようございまーす。新聞くださ一い。」
「あ、おはようございます、ヴィッキ一さん。」
「チッ……。」
「え?」
ヴィッキーは今久留主から距離を取るように、壁伝いに歩き、目当ての新聞を手に取った。
「僕、何か嫌われるようなことをしたのでしょうか?」
「大丈夫。正体がバレただけだ。」
「それはそうと先生。新連載の草稿が出来たとか仰っていたようですが?」
「そうです、それです! 以前調べていた赤いドレスの都市伝説をもとに創作した話です。」
ギャスパーは手渡された原稿用紙にざっと目を通す。
「ほう……仕立て屋の主人が生身の女性をマネキンにして、店に飾るという話ですか。」
「なにそれ、こわ一い。」
「その事件を名探偵が解決するという筋書きです。探偵役はこの僕です。」
「なるほど、これは面白いですね……。先生、次の連載はこれで行きましょう。で、連載のタイトルはどうしますか?」
「すでに決まっています。『今久留主奇譚』というのはどうですか?」
「奇譚。不思議な話というわけですね。怪奇色のある探偵もの。しかも先生の探偵としての名声も活かせる。
いいですね。『今久留主奇譚』でいきましょう。」
「ありがとうございます。さて、初回はこれでいいとして、次の話のネタになりそうなものを探さないと。」
「ヴィッキー、なんか知らないか? 新しい都市伝説。」
「え? あー……ひとつ知ってる。最近ちょっとだけ流行ってる都市伝説でね……。」
ヴィッキーは、ずいと顔を前に出して、雰囲気たっぷりの口調で次なる都市伝説の名を言った。
「黒猫の魔術師」っていうの。
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