【黒ウィズ】ヴィッキー編(サマコレ2020)Story
開催日:2020年6月30日 |
目次
story
夏のある日の午後、ヴィッキー・ワンは華様影業公司の社長室に呼び出された。
午後からの撮影はなく、女優仲間と流行りのかき氷でも食べに行こうかと話していたのだが、突然の呼び出しで予定は変更となってしまった。
社長は言った。社長といっても、まだ若い。彼は神都の実業家シン家の長男だ。
君、弟のリウシャオの恋人になる気はないかい?
リウシャオとですか?恋人になる気はないですけど?
みんな、そう答える。最近、リウシャオが妓館に通い詰めているという噂があるのは知っているだろう。
そういう噂が立つと、シン家としては、あまり体裁が良くないんだよ。それで恋人のひとつでも出来れば……と思ってね。
どうかね?リウシャオとの交際は?つまりこれはシン家と関係できるということだ。
興味がまったく、ないです。
そうか……。君は全然売れてないから会社のダメージも少ない。妙案だと思ったんだがね。
社長、本音が漏れてますよ。
まあ、恋人になる必要はない。リウシャオが妓館に通うのを止めさせてくれたら……次の役は色をつけるよ。
本当ですか!それならやります。
方法はなんでもいいよ。俳優仲間を使ってもいい。店の名は……鸚鵡楼だ。
鸚鵡楼……。
その名を聞いたヴィッキーは、むず痒いような表情をした。意外なところで知った名を聞いたからだった。
***
えーと、ブリオッシュ買うた……コーヒー買うた。これで買うもんは全部揃ったな。しっかし、あれやなー。華やかなとこやな。
連合の共同自治区には大がかりな色街があった。妓館を中心に茶館、妓女への贈り物を売る商店などが並んでいた。
妓女の興味を引く物を売る商店である。その品質は街の中でも特に高かった。ギャスパー好みの高級品である。
それゆえ、昼間のうちにちゆうが買い出しに出されることは少なくなかった。
ま、華やかなんは、表だけなんやろうなー、暗くなる前に帰ろっと……。
そんなちゆうの目に見慣れた女の姿が見えた。
あ、ヴィッキーはんやん。
妓館の前、下男らしき老人と話している。
お帰り、ヴィッキー。しばらくぶりだね。
懐かしいとまではいきませんけどね。
それにしても、相変わらずいい体をしている。惚れ惚れするのう。
どうもありがとうございます。
そして、なじみのようにふたりは話している。
あわわわ……これは大ニュースやっちゅーねん。
***
ヴィッキーが妓館で働いていたかもしれない?
ケネスとギャスパーがいくらか目配せしてから、答えた。
……だからどうしたんだよ。人それぞれ、何か過去はあるだろ。放っておけよ。
え?そんな反応?リーリャはんはどうやっちゅーねん。
私の同胞の中にも、そういう境遇の方はいます。それだけで良い悪いとは私は思いません。
ウチも悪いとは思ってないっちゅーねん。でも驚いたっちゅーか。
ふむ……なるほど。そういうことか。
何かわかったっちゅーねん?
いえ、いまの話を聞き、ヴィッキーさんに属性を追加して、いろいろと妄想してみたのですよ。
ざっと108通りほどね。
ー同がわいわいやっているのを横目に、君は新しい都市伝説の資料を揃え、鞄に入れた。
お、なんだよ、いまから仕事かよ。
君は、そうだよ、と返して、ドアノブに手をかける。
なるほど、よくいますよね。助平な会話になると席を外す人が。黒猫さんはそういう人なんですね。
つまり、むっつり助平ということですね。
なんでやねん、と思いながら君は事務所を出た。
***
リウシャオが来たようだ。あそこにいるぞ。
案内されたのは、広間のー隅にある席だった。
リウシャオはそこで酒も妓女も煙管もなく、ただひたすら卓上の紙とペンを睨んでいた。
あなた、こんなところで何してるの?
ああ、ヴィッキーか。誰かと思った。君こそこんなところで何をしているんだい。女性の来る所じゃないだろ、ここは。
あたしはあなたを通れ戻せって、お兄さんに言われたの。こんなところにいるのは体裁が悪いってね。
そうなのか。でも、ここが一番集中できるんだ。ほら、いま映画の企画を考えているんだ。
あなた、いまは俳優でしょ?そんなの脚本部がやることじゃない。
僕が俳優をやっているのは、俳優目線で映画の現場を見てみたかっただけさ。いずれは映画を作るつもりなんだ。
で、どんな企画を考えてるの?ギャングもの?コメディー?それとも『裁かるるジャニー』みたいなの?
どれも違うよ。それは全部、外国の映画だよ。僕が考えているのは、自分たちの映画だ。
自分たちの映画?作ってるじゃない。毎日毎日、撮影所で。
スーツ姿で、バーボンを飲んで甘いセリフを吐く。そして、女性はお決まりのソフトフォーカスのクローズアップだ!
あれは全部、U連邦の文法だ。たしかに彼の国は映画産業の母国だ。でも、それを我々がやる必要があるかい?
短い手足、低い鼻。似合わないんだよ。致命的にね。だから僕は自分たちの映画を模索している。
言うなれば、これは国民映画の創生なんだよ。映画は偉大な発明だし、U連邦の文化も偉大だ。
しかし、猿真似やお仕着せを続ける必要はない。我々は我々の映画を新しく生み出すべきだ。
それはこの国の誇りとして、生み出したいの?いまは侵略されてるわけだし。
そんな大それたものじゃないよ、猿真似が恰好悪いってだけさ。にしても!
リウシャオは立ちあがり、頭を掻いた。
そのアイデアはー向に降りてこないんだ!何かこう!ヒントくらいあれば!あ……。立ちくらみ。
といって、すぐにソファに倒れ込んでしまった。
やれやれ。少しは外に出なさいよ?こんなところにこもってたら体に良くないわ。新鮮な空気を吸った方がいいわよ。
いまなら海なんていいんじゃない?かき氷でも食べましょ。いますごく流行ってるみたいよ。
俗っぽいなあ……でもまあ、ここにこもっていても仕方ないか。アイデアは外に転がっているからね。
じゃ、それで決定ね。アイデアでもなんでも、求めている人にゃってくるわよ。縁って引き寄せるものだから。
***
君はとある路地に立っていた。表通りにでれば、赤白黄色の提灯が明かりを灯しゆらりゆらり女の笑いに合わせて揺れていた。
今回、君が追うのは〈ムラサキ人間〉という都市伝説。と、〈人面猫〉である。
覆面とロングコート姿の男が突然、目の前に現れ、手袋の下の紫色の手を見せ、握手を求める。
ムラサキ人間と握手すると、必ず三日後に死ぬという。
ー方の〈人面猫〉はもう少し単純だった。猫の鳴き声を聞き、振り返ると、人の頭をした猫がいるというものである。
ふたつの都市伝説は奇妙なことに目撃現場が近かったり、同じだったりすることが多かった。
どちらも妓館と呼ばれる施設が並ぶ街の裏路地である。
裏路地はこの街の都市伝説の定番にゃ。人通りが少なくて、何か起きそうな気配があるから、都市伝説の舞台にしやすいにゃ。
この手の都市伝説は探せばいくらでもある。だが、それが妓館の近くという別の条件が加わると、格段に少なくなる。
なのに〈ムラサキ人間〉と〈人面猫〉は同じ条件が重なり続けた。
何か関連していると考えるのは当然にゃ。もしかしたら実在の事件かもしれないにゃ。
その可能性は高い。だからこそ、君は調査を始めたのだ。
〈ムラサキ人間〉はともかく、〈人面猫〉は見たくないにゃ。考えただけで気持ち悪いにゃ。
ウィズがそう言うのを聞き、君はふと思う。
しゃべる猫はなんだろう……。猫人間だろうか。都市伝説になりそうな題材だな、と思った。
路地の入口から、影が伸びる。
君の視線はそれを追う。立っていたのは男だった。背申には猥雑な提灯の明かりと女の笑い声。
男は顔にぐるぐると何重にも布を巻きつけていた。それは覆面と呼ぶには粗雑過ぎた。
キミは相変わらず、こういう引きが強いにゃ。
引き寄せてるのかもね、と君は答える。
男は手袋を脱ぎ捨てる。その手は紫色だった。次の瞬間には男は君に向かって飛び込んできた。
男の突きを君は手で払う。その技はヴィッキーのものに近かった。功夫というやつだろう。
突き、突き、蹴り。
君は距離を取り、それらをかわす。動きを見て、ヴィッキーほどの達人ではないと感じた。
君がカードを手に取り、反撃を試みる。が不意に強い眩暈を感じた。
キミ、どうしたにゃ……。
ウィズのさきやき声も遠ざかるようだった。
耐えきれず片膝を落としてしまう。カードを掴んだ手が震えていた。地面の男の影が嗤いながら、近づく。
にゃあああああ!
ごみ溜めをジャンプ台にして、ウィズが男へ飛び掛かる。
覆面にしがみつくウィズを男は紫の手で掴み、投げ捨てる。
にゃん!
ウィズの時間稼ぎの間に、君は態勢を立て直し、迎え撃つ。
キャー!!喧嘩よー!
良く通る叫び声で、人々が何事かと集まってくるのがわかる。男は路地裏からさらに路地裏に消えていった。
集まった野次馬の中に、君に笑いかける女性がいる。
叫び声、上手でしょ。これでも女優だから。
ヴィッキーだった。なるほど良く通る声だったわけだ、と君はカードをしまった。
それにしてもあの眩暈はなんだったのだろうか、と君は目頭を抑えた。そして、また……。
感じの良くない眩暈がやってくる。それはもはや世界をまるごとひっくり返すように、君を襲った。
ケネスたちがヴィッキーに呼び出されたのは、翌朝だった。
その場所は、欲望やら淫らやら煙やら口にしづらいチョメチョメやらの巣窟・妓館であった。
ケネスたちはたじろぐことはなく、案内される館の中を進んだ。だが、年少組はそうはいかなかった。
ちゅー……。
ちゆうは良からぬものを目に入れまいと、両手で目を隠していた。だが。
指と指の間は道徳心と好奇心のせめぎあいから、小魚程度ならすんなり通ってしまう程、大きく広がっていた。
おぅ……バーレスク!
今久留主はというと、今久留主の好介たる部分がまさしく好介といった有様となり、広がる光景を目に焼き付けんとしていた。
そこに、二階へ続く大階段から下りてきたのは、ヴィッキーである。
みんな、よく来てくれたわ。
よく来てくれたちゅーか。まずは説明してほしいですわ。ヴィッキーはんと、こことの関係ちゅーやつを。
ここ?ここはね?あたしの家みたいなものね。
家!家っちゅーことは!あわわわ……なんちゅーこっちゃ!
デカダンス!&デカメロン!
うるさいっつーの、お前たち。
ケネスが年少組の頭に手刀を落とす。
何を勘違いしてるのかしら。ま、無理もないけど。ついてきて、見せてあげるわ。
何をですか?
3千年の深奥ってやつ。
上階には長い廊下があった。廊下には房が並び、その中からは声が聞こえた。
な。なんちゅーか……覇気のある声やな。こ、こういうもんなんか?
違うな……なんだ?戦っているのか?
この廊下には全部で36房あるわ。その中で南北から集まった36の流派が、その拳法を守るために日夜鍛錬に励んでいるの。
なんだよ、ー気に色気がなくなったな。
妓館は仮の姿よ。ここは大陸から失われつつある功夫を守るための、総本山なのよ。あたしもここで救われた。
ひょっひょっひょ。昨日からヴィッキーのお客さんが多く来るね。
そしてあの方か、ここの宗主よ。
ひょっひょっひょ……女性ならいくらでも歓迎じゃよ。よろしく、金の髪のお嬢さん。
握手を求めるように伸びる手は、なにやらリーリャの良からぬところに伸びようとしていた。
宗主。
その手をヴィッキーが掴む。
見抜いたか。
今度はヴィッキーの良からぬところに手が伸びる。その手もいなすヴィッキー。
良からぬところを目指す手とそれを阻む手の応酬が続く。その素早さたるや、達人同士のそれであった。
見抜かいでか。もう少し落ち着かれたらどうですか、宗主?
生きることすべて、武である。ならば、淫蕩もまた武である。
それはともかく、もうひとりのお友達の意識も戻った。ついてくるがいい。
老人は足音を立てず、滑るように奥へと消えていく。
妓館は仮の姿って言ったけど、半分は宗主の趣味ね。若先生とは気が合うんじゃない?
失敬な。あんな、おさわりOK世代と一緒にしないでください。僕はもっと、プラトニックな助平ですよ。
***
憔悴する君とウィズの前に、老人とヴィッキー、それにカイエ社のー同が現れる。
黒猫、どうしたんだよ。病気か?ウィズもか?
ただの風邪なら良かったんだけど、違うわ。毒よ。
君は〈ムラサキ人間〉の調査で出会った男とひと悶着あったことを説明すると、ヴィッキーが君の腕を取る。
ここに傷があるでしょ。突きを受けた際にできた傷よ。ここから体の中に毒が侵入したの。
あ、相手はどこに毒を、仕込んでいたにゃ?
自分の手じゃ。毒手拳。道を外れ邪拳に落ちた南山の武闘僧が生み出した禁断の暗殺拳じゃ。
毒と解毒の釜に交互につけたその手はもはや触れるだけで相手を倒したという。
そのような者を街に放り出しておくわけにはいかん。功夫を守るのが我々の使命じゃ。
みんなには情報を集めてほしいの。あたしたちは功夫を貶めるやつを処罰したいのよ。
いいだろう。おそろくサイトキシン絡みだろう。相変わらず事件の方からやって来てくれるよ。
縁じゃな。功夫も同じじゃ。功夫は功夫を呼ぶ。遅かれ早かれいずれそいつとは戦うことになる。縁とはそういうものじゃ。
縁が生まれれば、あとは陰と陽の如く、混じりあうのみじゃ。
それから若者たち。くれぐれもここのことは内密にな。我々の素性は隠しておきたいんじゃ。
それなら安心してくれ。素性を隠したいのは俺たちも一緒だからな。
***
平時でも覆面をしているなら、目立つだろう。すぐに見つかるはずだ。
お願い。あたしたちも武林の情報網で探してみるわ。
カイエ社へ戻るために路地を歩いていると、あることに気づいた。
尾行されてるぜ。
あの歩き方、拳法家よ。あたしが狙いかも。確かめてみたいわ。各自、バラバラに別れましょう。
頷きあうと、ー同は網目のように張り巡らされた路地に消えていく。追跡者が選んだのは。
今年の夏はあたし、モテモテね。
振り返ると追跡者は隠れる様子はなかった。その男には捕食者の自信が隅々に漲っているのがわかった。
顔は覆面に覆われていようと。伝わってきた。
公衆衛生……公衆衛生だよ。雌猫ォ。
男は手袋を脱ぐ。紫の両手が闇の中に浮かび上がる。覆面の隙間から赤い口と白い歯が見える。笑っている。
毒手ね。良いわよ。来なさい。
ヴィッキーがパンプスを脱ぎ捨て、構える。
ひゅ――ー……。
路地特有の饐えた空気に呼気が混じる。にらみ合うふたりの間に紫の手が揺れる。見計らうように……。
公衆ゥゥゥ衛生ィィィ!
紫の手刀が飛んだ。
しかし、素早くベルトを抜いたヴィッキーは、即席の鞭でその手を撃ち落とす。
グっ!
紫の肌が裂け、赤い血がこぼれる。
どうする?また鞭で皮膚を裂かれたいなら、その無防備な手を出してきなさいよ。ひっぱたいてあげる。お仕置きよ。
毒手の最大の欠点は、相手の肌に直接打ち込む必要があること。
服に覆われていないわずかな箇所にあなたは毒手を打ち込めるかしら?素人ならともかく、互角以上の相手に。
所詮は姑息な邪拳ね。人の虚を突くか、弱いものいじめしかできない。
さきはどまでの男の自信は、見る影もなく、今度はまるで捕食される者の如く、小さく見える。
と、そこに、ふらりと現れたのは、リウシャオだった。
ヴィッキー……何してるんだい?
リウシャオ……!バッドタイミングよ。
お、お前もしかしてヴィッキーを襲ってるのか?やめろ!そんなことは、良くないぞ!
及び腰ながら、道端の棒を拾い、構えるリウシャオ。
紫の男はにやりと笑う。事情は分からないが、捕食者の食い気が削がれたのだ。
ならば逃げるしかない。勝ち誇ったように、男は路地から去っていく。
このやろう!ざまあみろ!女を襲うなんて最低なやつだな!あ、眩暈が……
ヴィッキーはくらりと倒れそうなリウシャオの背中を支える。
ヴィッキー、大丈夫だったか?
あなたこそ大丈夫?とりあえず、ありがと。おかげで無傷よ。海水浴の時に何かおごるわ。
が、その顔は喜んではいなかった。やれやれといった様子と、獲物を逃した捕食者の顔がふたつあった。
逃げた男は闇の中で、その顔を見て、笑う。
足元で鳴く猫の頭を撫でる。
公衆衛生なんだよォォォ。うすらド雌猫め。
鳴き声は最後、悲鳴のように響いて、聞こえなくなった。
***
太陽燦燦。
うーん。気持ちいいー!
神都には新たな夏の娯楽が生まれつつあった。海水浴である。
列強諸国からの文化流入により、夏の海での過ごし方が、旧来のものから変化しあった。
実質的な支配とはいえ、楽しめるものは楽しんでしまおうというのはどこの国にも共通するのではなかろうか。
どんな環境化であっても、人間というのは案外、平然と生きていく。
それなら武術だって生きていけるかもね……。
ほら、リウシゃオも日陰から出てきなさいよ。そんな所にいたら妓館と変わらないわよ。
映画は光の芸術だ。同様に影も重要なんだよ。だから僕には影が必要なんだよ。
陰と陽は交わる。それがこの国の思想よ。早く出てきなさい。
といって、パラソルの外から出てこないリウシャオの腕をヴィッキーが取る。ぐいっと引っ張って、光に連れ出した。
もう、暴論だなあ……あれ?あれれ?あ、眩暈が。
ちょ、ちょっと……リウシャオ!
同様に今年の夏に流行りつつあったのが、熱中症である。倒れたリウシャオを介抱しながら、つぶやく。
もう……外に出ないからよ。そんなことじゃ撮影所のライトで倒れるわよ。
ああ……駄目だ。変なものが見えてきた。海で少年が蛸に襲われている……。なんて馬鹿げた光景だ。あれは現実か?
ああ!ノ――!オクトパス!ノーオオオオ!
安心して、あれは幻覚よ。
冷たいものかかき氷でも買ってきてあげるから、そこで休んでなさい。
急激な近代化は人の生活はもちろん人の心まで変えてしまう。それによって、人の人生も。
成り上がった者は恍惚と不安を、没落した者は喪失あるいは復讐心を。
しかし、そのどれもが近代的な心の在りようとは違う、別の何かではないか。
と、ヴィッキーは予感していた。どちらも手に入れた玩具か奪われた玩具に拘泥しているだけだ。
そんなことを考えるのは、復讐を掲げた自分の否定でもある。
心境の変化はおそらく、何も所有しない盗賊たちとの出会いから生まれたものだろう。
土地、国、物、家族、もしかしたら愛。すら持たない男たち。真に近代的な生き方とは彼らのような人々を言うのかもしれない。
近代的な物、近代的な人間、近代的な病……。
熱中症……それにしても多いわね。
物思いにふけりながら浜辺を歩いているうちに、近代的な病に倒れる者を多く見かけた。それこそ異常なほどに。
太陽が悪さしてるのか……それとも〈ムラサキ人間〉が悪さしてるのか。
ずっと気配があった。びんびんと夏の光のように、体を刺してくる。
そう焦らないで。夏の昼間は長いものよ。ついてきなさい。
***
たどり着いた寂しい場所。ヴィッキーは全身を衣で包まれた夏らしからぬ男を睨みつける。
公衆術生なんだよォォ。こっちは準備万端だァ。
覆面男は体を包む衣服を脱ぎ捨てる。ギラギラした太陽が照らしだしたのは――
驚驚驚!
全身ムラサキの体だった!!
どうする?その姿じゃどこでも狙い放題だぞ。公衆衛生だァァ。
戦いは、戦う準備が出来ている者を引き寄せる。あたしも準備万端よ。
人気のない砂浜にふたり、立つ。
ビキニ女と毒人間。陰と陽、互いに極限まで仕上げられた体に汗がにじむ。
どっちの功夫が優れてるか、つべこべ言わずに決めましょう。
***
あ、あれ?ヴィッキーは?しまった。探さなきゃ。
自分が倒れたということも忘れ、なぜかリウシャオはヴィッキーを探し、砂浜を進む。
人込みから離れ、彼がたどり着いたのは、ビキニの女とムラサキ色の怪人が立つ場所。
なぜそこにたどり着いたか。それはもはや夏の太陽のせいとしか言えない。でなけれは縁があったとしか。
公衆ウウ!衛生イイ!
遅い!
〈ムラサキ人間〉の突きと蹴りを距離を難し、かわす。相手の動作が終わった瞬間、ヴィッキーが出る。
はい!
左の拳が覆面で包まれた相手の顔面を捉える。追撃の右。捉える。
男はムラサキの体を揺らす。
ヴィッキーが左足を上げ飛び上がる。足を下ける反動で、右足と体のひねりを生み出す。
そして。右のつま先が〈ムラサキ人間〉の顎をかち上げた。
ああ……ああ……。
頭を中心にして、男がー回転し、地面に叩きつけられる。
リウシャオの瞳には、最新技術のハイスピード撮影の如く女と男のー挙手ー投足が、ゆっくりと夏の日の強い陰影の中で描かれた。
瞳というレンズを通して、脳というフィルムに焼きつけられる。
そして激しい戦いの最中に生まれるわずかな静寂の瞬間、我を失った鳩たちが空へ飛び立った。
これが……これが我々の映画だ、功夫こそ、我々の映画だ!!
白昼夢のような光景はまだまだ続いた。
紫色の腕をだらりと垂らしながら、男は立ちあがる。覆面は赤い血が滲んでいた。
その覆面のおかげで心置きなく顔に打ち込める。あなた、自分で弱点作っているようなものよ。
ははは……はははは。……だったら見せてやるよ。顔だって毒まみれなんだよ。
男は顔を覆う布をスルスルとほどく。血と膿で汚れた布はまるで不倫快な舌のようだった。
夏の日に照らされた顔は紫色で膿にまみれ、頭髪は抜け落ち、鼻はなかった。
醜い肉塊に目と口が傷口のように走っている。血走った目がゴロゴロと踊った。
お前たち、雌猫のせいでこのざまだ。薬もなく、このまま、死ぬだけだった俺は、煙に救われたんだ。
お前たちを緞せという使命を受けてな。これは復讐なんて陳腐なものじゃない。公衆衛生なんだよォォォ。
あなたにつける薬はなさそうね。よく言うでしょ。何とかにつける薬はないって。
俺が薬で、公衆衛生だ!汚ねえお前らを!ばっちいばっちいおめえらを!排除してやるんだよ!!
はあ、ひとつ言っていい?
ヴィッキーは首を左右に傾け、コキコキと音を鳴らした。手繰るように拳が動く。
知るか、バカ。
それが戦いの合図だった。男が踏み出す。
公衆ゥゥゥ!衛生ィィィ!!
ヴィッキーはー歩も動かず、男の手刀を回し受ける。両手は触れずに手刀の周囲をー回りする。
すると紫の指先はヴィッキーの眼前でぴたりと止まった。
思わず男はもう片方の手で突きをいれるが、またもや同じように止まった。その理由は太陽が教えてくれた。
糸?
紫の手首がキラリと光る。透明の糸が巻かれていたのだ。
その通り。はッ!
言うや否やヴィッキーは相手の腕をくぐり、男を投げ捨てる、倒れた男に目もくれず、傍の木へ飛び上がる。
糸はぐんぐんと伸びる。ヴィッキーが木の枝の上に来ると男の腕が持ち上がった。
じゃ、悪人は吊るされるということで。
と向こう側に降りると、男は高くつるし上げられた。毒人間は身もだえ、不気味な蜘蛛のように足をばたつかせた。
言ったでしょ。戦う準備は出来ているって。
それともうひとつ。義のない復讐は、哀れなだけよ。あなたを見てると痛感するわ。
いまだ白昼夢の中にいたリウシャオには、ー瞬、女も男も重力が無くなったのかと思った。
しかしそれが何か目に見えない糸で吊るされているのだとなぜか理解できた。
それは非現実を現実に置き換えるための、姑息な考えのようにも思えたが、それこそがアイデアだった。
吊るすんだ……見えない紐で。
まるで頭に電撃が走ったようだった。違う。本当に走っていた。後頭部に激痛を感じる問もなく、リウシャオはその場に倒れた。
すいませんな~。これは内緒っちゅーことで。
それにしても、囮になるのはわかるが、1対1で立ち向かったら囮の意味がないじゃないか。
あたしに言ってる?でも圧倒的実力差を見せつけて、勝たなきゃ意味ないじゃない。
考えは理解できねえな。
ところで、若先生は何してたの、あれ?
ああ!ノ――!オクトパス!ノーオオオオ!オーマイガッ!オーマイガッ!
あれも理解できねえな。
***
よくやってくれた。あれからリウシャオは心を入れ換えたように企画部で働いているよ。
それは良かったです。ということは約束も……守ってもらえますよね?
ああ、いいだろう。折角だからリウシャオの企画なんかどうだ?内容は知らないが本人曰く革新的なものらしい。
お。噂をすれば。
社長室の扉が開くと同時に、リウシャオが駆け込んでくる。
兄貴。出来たよ。最高の企画だ、あ、ヴィッキーいたのか。
彼女は、その企画のメインキャスト候補だ。で、企画というのはどんなものだ?
功夫だよ、功夫。功夫を取り入れた映画だ。ワイヤーをつかったアクションで、ともかく今までにないんだ。
題して!『ビキニ功夫対毒人間』!完成すれば、真にこの国の映画と呼べるものになるよ!
……。
出たいかね?
いえ、遠慮します。
おい!なんだよ!すごいんだよハイスピード撮影で、鳩を100匹飛ばすんだよ!
あの『戦艦ボホードキン』のオゼットの階段並みにシーンになるよおい、なんだよ、なんで駄目なんだ!
そうだ……武術指導も探さないといけない。ああ、なんで妓館なんて通っていたんだ、僕は!あんな所じゃ功夫に出会えないじゃないか!
たぶん……まだその映画には縁がないのよ。
***
宗主に施してもらった施術のおかげで、君は数日後には全快した。
同僚たちに聞いた事の顛末を元に、〈ムラサキ人間〉の記事を書こうとしていたが、中々うまくいかなかった。
あんまり気持ちのいい記事にはならないかもな。けど、案外そういうのが好まれたりもするぜ。
人間も気持ちのいい生き物とは言えないからな。
ケネスほど皮肉な意見は持っていないが、言いたいことはわかる。
都市伝説が人聞の闇だとすれば、否応なくそういった部分は出てくるだろう。
ー方で〈人面猫〉の記事についても迷っていた。こちらは少し別の理由だ。君はウィズを見た。
書いちゃダメにゃ。私のこと書いたら破門するにゃ。
宗主曰く、人と猫では免疫が違うらしく、毒に対して思わぬ効果が現れるということだった。
〈人面猫)の真実とは、毒を受けた猫が人面ほど大きく顔が腫れた、ということだったのである。
書いちゃダメにゃ。絶対に書いたらダメにゃ。
ウィズには悪いが、この記事は絶対に書こうと君は思った。
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