冴川 芽依(STORY続き)
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「冴川 芽依」のSTORY全文が長文になるため、容量の都合で分離したページです。
STORY(EPISODE5以降)
私が初心者ということもあって、まずは発声練習などの基礎練中心の日々が続いた。
やってみて初めて知ったけれど、目的があって大きな声を出すというのは思いのほか気持ちいい。
演じ続けてきた“冴川芽依”は決してそんなことをしないから、幼い頃以来の懐かしい感覚だった。
「やっぱ何回聞いても綺麗な声してるわぁ~~、うらやま~~!」
「ありがとうございます。でも、先輩も素敵な声ですよ?」
「お世辞はいいって~。自分が声ブスなくらい知ってるんだから~」
「そうですか。私、結構先輩の発声に感動してたのですが、見る目がないということですね」
「キミぃ~~! 後輩力高いね~~!!」
ふざけながら胸を張ってドヤ顔して見せてるけれど、本当に気を良くしているわけではないと思う。
先輩のことだ。きっと私の知らないもっと前に色んな壁にぶつかって、その度に乗り越えてきたのかもしれない。
毎日のように顔を合わせるうち、そんなことを考えるほどには先輩のことを少しは分かり始めていた。
「いったんきゅ~け~。暑いから水飲んでね~」
「はい」
言われた通りバッグからマグボトルを取り出して飲む。
そんな私をニコニコしながら見ていた先輩は、開けた窓から顔を出して言った。
「見てよ~グラウンドの男の子達。お昼食べてすぐなのに、よくあんなに動けるよね」
「熱中症にならないか心配ですね」
「ねー? しっかし毎日暑いな~」
「もう本格的な夏ですから。もうすぐ夏休みですし」
「あ、そういえばさ、夏休みガッツリ練習しようと思うんだけど……いける?」
「大丈夫ですよ。宿題と自習くらいで、特にやることもないので」
「おお~う、燃えてきた~~! 演劇部らしくなってきたじゃ~ん!」
「ふふ、私は部員じゃないですけどね」
高校生になってから初めての夏休み。
やることもないけれど、それ自体は歓迎していた。
毎日余計な気を使わなくていいという、後ろ向きな理由だったけれど。
だから誰かと一緒に夏休みを過ごす未来が来るなんて、考えもしなかった。
ただ、いまだに演劇をすることに本気になれていない自分に、先輩を付き合わせてしまうということだけは少し心苦しい。
そよそよと吹く風で涼を取りつつ、校庭でバスケをしている男子達をふたりで黙って見ていたら、ふいに予鈴のチャイムが鳴った。
「あっ、昼休み終わりか~」
「もうこんな時間だったなんて……すみません、急いで教室戻らないと」
「……今日はもうよくない?」
「えっ?」
「これからさ、外で声出しやりに行こうよ! こんな狭い教室ばっかじゃ息つまるって~!」
「あの、これから午後の授業ですよ?」
「この際いいっしょ~~!!」
私の腕を掴むと、途端に先輩は走り出す。
廊下を駆け、階段を降りて下駄箱へ。ついには静まりかえる校門前の駐輪場まで来てしまった。
振り返ると、校舎の窓からどこかの教室が見える。窓際では教壇の方を向いている生徒が並んでいて、もう授業が始まっているのが分かった。
今頃私のクラスではどうなっているだろうか。
私がいないことに誰も気づいていないか、それともちょっとした問題になっているか。
先輩の手を振りほどこうと思えばいくらでもできた。でもそうしなかったのは“私の意思”だ。
私が演劇部で練習していることはクラスのみんなが知っている。だから昼休みから戻るたび、みんな揃って同じ目で私を見る。「今日も頑張ってるね」と、悪気のない目と微笑みで。
私はたぶん――あの瞬間が嫌いだったんだ。
「何をしてるんだ! もう授業は始まってるぞ!?」
下駄箱から、馴染みのない先生がそう声をかけてきた。
まずい。見つかってしまった。
焦るばかりでその場に立ち尽くしてしまった私とは対照的に、先輩は自転車のスタンドを思いきり蹴飛ばしながら叫ぶ。
「乗って! 早く!!」
言われて我に返り、私は先輩が跨がる自転車の後ろに急いで飛び乗った。
後ろから聞こえてくる先生の制止の声にも耳を貸さず、先輩の漕ぐ自転車はグングン学校を置き去りにしていく。
お尻を乗せたスチールの荷台は、日を浴びていたのかほんのり熱い。
でも、手を回した先輩の腰から伝わる熱は、もっと熱い。
「くふっ……くくく……あははははは!!」
「ふふ……あははは……!」
なぜか自然とこみ上げてきて、堪え切れずにふたりで大声で笑ってしまう。
私は今日、初めて学校をサボった。
“冴川芽依”なら絶対にやらないことを、またやってしまった。
演じることで自分を守ろうとしたあの日の私。
あの日から積み上げ続けてきた、何重にも重なる心の壁を――先輩はひとつずつ壊していってしまう。
私は、そんな感覚を覚えていた。
夏休みももう半ばを過ぎた。
先輩が教室を窮屈に思っていたのは、あの日だけじゃなく元々だったようで、休み中は公園や河川敷など、外での練習を多くこなしている。
日陰を選んでいたとはいえ暑いし、通りすがりの人もいる。
だけど1週間もすれば暑さにも視線にも慣れ、今では先輩と演技内容について話せるほどになっていた。
「さっきのエチュードよかったんじゃな~い? 今までにないキャラ出てた」
「ありがとうございます。自分の中での課題だったんで、嬉しいです」
「最初は完全に“芽依”そのままだったもんね~。成長成長」
「梨生さんが別人に変わり過ぎなんですよ……」
エチュード。あらかじめ決めた設定だけを生かした即興劇。
設定以外は即興だから、アドリブ力や表現力を鍛えるのにすごくいい練習方法――だそうだ。
いまだに“冴川芽依”そのままになりがちな私とは違って、先輩は年齢、性別、時代、何もかも先輩とは違う人物に瞬時になりきることができる。
その度に私は、心の底から感心してしまう。
「でもさ、芽依って結構エチュード好きでしょ? なんか楽しそうだもん」
「そう……ですね。嫌いではないかもしれません」
以前先輩に指摘された“仮面つけたままの演技”。それはまだ克服できていない。
だけど、繰り返し自分とは違う誰かを演じ続けるうち、少しずつ捨て去ることができはじめているような気がしている。
お芝居という明確な目的があって演じるのは、正直楽しい。
それに、誰かを演じようとする瞬間――スイッチを入れるその一瞬だけは、忘れていた“本当の自分”を思い出せるような、そんな気がするから。
「あっ、見て見て。浴衣だ~」
先輩が土手の上を指さした。
私たちと同じ高校生くらいの女の子ふたりが、金魚と朝顔の浴衣を着て歩いている。
「そういえば今日はこれからお祭りみたいですよ」
「マジか~!? 完全に忘れてた~!」
そう言っている間に、遠くから微かに太鼓の音が聞こえてくる。
気づけばもう夕方だ。
「ほら、聞こえるじゃないですか」
「うわ~テンションあがるぅ~! 夏感すご~!」
「これから行きますか? お祭り」
「えっ、一緒に!? いいの~!?」
「どうせ梨生さんのほうから言い出していたでしょうから」
「さっすが分かってるね! 後輩!!」
「ふふ。でも汗かいちゃっているので、せめて着替えたいですね……」
一時帰宅の許可は下りず、私と先輩はそのままお祭り会場へと向かった。
隣町のお祭りではあるものの、この辺りでは比較的規模の大きいものらしく、クラスメイトの顔もちらほら見える。
私と先輩は、射的やいかにも当たらなそうなくじ引きなどの遊戯系には目もくれず、焼きそばやたこ焼き、かき氷などを買い込んで、完全に食い気に走った。
会場そばの川沿いに並ぶベンチに先輩と並んで座り、熱いたこ焼きに苦戦しながらチミチミと食べ進める。
お腹に響く太鼓の音が心地良い。
去年まで住んでた東京のマンションの近くでもお祭りはあった。でも防音窓に遮られて、その音色を聞いた記憶はない。
こんなに五感を使ってお祭りを楽しむなんて、生まれて初めてだ。
「よし! 次はりんご飴買いにいこ~!」
「まだ食べるんですか? お腹壊しますよ」
「へ~きへ~き! 今までのが晩ご飯、ここからはデザートだから!」
食べ過ぎなことには変わりないと思いながらも、仕方なく先輩と一緒に屋台が並ぶメインの通りに戻って歩く。
さっきまではどこも長蛇の列を作っていたけれど、みんなもお腹が満たされたのか短くなっていてホッとする。
お目当てのりんご飴の屋台の前で、順番を待っている数組のお客さんの後ろに並んだ時、どこかから微かに聞こえる話し声がやけに耳についた。
振り向いた先には、少し離れたところに派手な格好をした高校生くらいの女の人が3人。
こちらを見ながら顔を合わせてヒソヒソと何か話している。
その意図が私にはすぐに分かった。だって、慣れているから。
楽しそうに歪む口元、品定めするような視線、あることないこと言って笑いをあげる声。
だけど違和感がある。私を見ているようで、微妙に視線が絡まない。
じゃあ一体誰を見ているのだろう。そう思っていると、後ろに並んでいた先輩が私のシャツの裾を引っ張った。
「あ~……ごめん。アレ、たぶんあたしのこと」
――お祭り会場を後にした私達は、街灯の少ない夜道の足下を確かめるように、うつむき加減で歩いていた。
先輩はいつもと変わらない表情でりんご飴をちびちびかじっていたが、そのうちいかにも面倒そうな顔を作って話し始めた。
「なんか変なの見せちゃってごめんね~」
「いえ……」
「あいつら、ウチの学年のやつ。けっこ~派手目のグループなんだけど、嫌われてんだわ~あたし」
「そう、なんですね。ちょっと意外です」
「いやさ、あたしってこんな頭してるし校則は守らないし……その、ほら……言葉ヘタだから、言い方間違えたりするじゃん?」
「それは……確かにそうかもしれません」
「だから結構イラつかせたりしちゃって……あいつらだけじゃなくて学校で浮いてんのよ~。実は演劇部にあたししかいないのも、ちょっとは関係してたりして~」
私にとっての先輩は、自由奔放ではあるけれどしっかり引っ張ってくれる優しい人だ。
だからそんな先輩の姿なんて想像もしてなかったけれど、言われてみればそういう状況になることもあるかもしれないと理解できた。
「最初のうちはあいつらから仲間に入りなよ~って誘われてたんだけど、『気合わなそうだからヤダ』って断ったら、それ以来ず~っとあの調子。ウケるよね」
「あはは。それは梨生さんも悪いですよ」
「ほんっと~に心からどうでもいいし、これっぽっちも気にしてないんだけど~……芽依にやな思いさせたくなかったからさ」
「全然大丈夫ですよ。私も……なんていうか慣れてるので」
“私も”、なんて言ったけれど、先輩とはまったく違う。
私は好奇の視線を向けられて嫌な思いをしながらも、“冴川芽依”の仮面を被って笑ってやり過ごしていただけだ。
でも先輩は「嫌だ」と言った。きっとあの人達だけじゃなく、これまでも嫌なことには嫌と言い続けてきたんだろう。
それが分からなかった。そんな選択肢があるなんて、知らなかった。
何十回と通った道に知らない曲がり角を見つけたみたいに、私は面食らっていた。
「……梨生さんは怖くないんですか? 思ったことを隠さずに、ありのままの自分を通して……周りから嫌われても」
驚きと興味を抑えきれず、私は思わず尋ねてしまう。
だって先輩が選んだのは、私が一番恐れた生き方だったから。
なのに先輩は、当たり前のことを聞かれたように平然と答える。
「怖くなんてないよ~! むしろ嫌なことを我慢し続けたら、そんな自分ぜったい嫌いになっちゃう! そっちのほうが怖いな~!」
期待に応えたくない。でも嫌だとも言えない。
我慢して、逃げて。
そうやって作り出した“冴川芽依”を演じ続ける私。
私は――私を好きでいられてる?
「あっ、と。ウチこっちの道なんだ~。今日はここでお別れだね~!」
「あ、はい」
「これ、食べかけでごめんなんだけど、よかったら食べて~! んじゃ~ね~!」
こちらの返事も聞かずにりんご飴を押し付けてきた先輩が、手を振りながら脇道を入って去っていく。
なぜか私は、姿が見えなくなるまでその場でひらひらと手を振り返していた。
遠くからはまだ太鼓の音が、まるで心臓の音とリンクするように聞こえてくる。
ふと思い出して、渡されたりんご飴の断面をかじってみた。
「酸っぱい……」
あまり熟していないりんごだったのだろう。
飴の甘さよりも、その酸味だけが私の舌にこびりついていた。
散々うんざりさせられた暑さが、むしろ恋しくなりはじめた秋の終わり。
あれから練習を続け、今では基礎練だけじゃなく様々な演目を使った実践的なものも行うようになった。
学べば学ぶほど、演じることの魅力に気づいていく。
善人、悪人、ヒロイン、恋敵。求められたものをしっかりと表現する。
それはとても不自由で――自由だった。
ずっとこんな練習を繰り返していたかった。
でも、もう次のステップに進まなくてはいけない。
本番の演目はどうするか。決めるべきことはたくさんある。
そんな時期に差し掛かったある日、先輩は神妙な顔をして唐突にこんなことを私に伝えてきた。
「本番だけど、私は一緒に出ない。舞台に立つのは芽衣ひとりだよ」
「……えっ? どうしてですか? 私は梨生さんと出るものだと……」
「ごめんね。実は最初から決めてたんだ。だから、ひとりでも舞台で通用するように、結構駆け足で教えてきたつもり」
「……理由を教えてもらえますか」
コンクールが行われる冬休み、いくつかの東京の劇団でオーディションが行われるそうだ。
もともと休みを全部使ってそれらを受けるつもりだった先輩だったが、まさかコンクールに参加する有志が私ひとりだとは思っていなかったらしい。
だから万が一の場合は、責任をとってオーディションを諦め、先輩ひとりででも出るつもりだった。
だけど先輩いわく、想像以上に“私が育った”らしい。
これなら本番にだって自信を持って送り出せる。だけど、無理だというなら断ってくれてもいい。そう先輩は言った。
その問いかけに、私は自分でも驚くほどあっさりと「出ます」と答えた。
先輩は嘘をつかない。そんな人が自信を持って送り出せるほど育ったと言ってくれたのなら、私は応えたい。
あんなに人の期待にうんざりしていた私が、心から応えたいと。そう思えたのだ。
覚悟は決まった。やるべきことも分かっている。
それなのに――
「もういいかげんに決めないとですよね……本番の演目……」
いつもの演劇部の部室で、机を囲んで会議している私達。
あれからもう2週間が経つというのに、いまだに何の劇をやるのか決まらずに頭を悩ませている。
本番まで残された時間はそう多くない。これまで以上に実践的な練習はしているものの、さすがにそろそろ本番の稽古に入らなくてはまずいのだ。
先輩はオーバーサイズのカーディガンの余った袖をつまんでいじりつつ、難しい顔をして色々と考えている。
演劇1年生の私は、当然知識も少ない。演目自体をあまり知らない私は先輩に頼らざるを得ない状況だ。
「うーん……うーん……」
「すみません、考えてもらっちゃって。私も色々調べたんですが、やっぱりよく分からなくて」
「いいのいいの~! こうなったのも私のせいなとこあるし~! 候補は何個かあるんだけど、なんかしっくりこなくてさ~」
会議は絶賛難航中。
このままふたりで唸り続けていてもしょうがない。
気分転換とばかりに私は雑談を持ちかけてみた。
「本番、梨生さんは観に来られないんですよね」
「あ~……うん、ごめんよ。結果はすぐに出るらしいんだけど、内容次第で受かるまでは冬休みいっぱい使ってあちこち受けたくてさ……」
「いいんです。頑張ってください。でも私の初舞台が生で観られないなんて、可哀想ですね」
「くうっ! 言うようになったね~! 実際おしいけどさ~!」
そんな場合じゃないのは分かっているけれど、先輩とこうして他愛のないことを話している時間は楽しい。
この流れに乗って、この際もっと先輩のことを聞いてみようと思った。
先輩が自分のことを話すのは珍しい。
あの夏の日だって、私に気を使って必要だったから話してくれただけだ。
だから私は、もうちょっと踏み込んで質問してみる。
「梨生さんは、ずっと役者を目指していたんですか?」
「うん、ちっちゃい頃から。憧れの人がいてさ~」
「へえ、そうなんですね。私も知ってる人ですかね」
私は何気なくそう聞いた。
芸能人には詳しくないけど、先輩がどんな人に憧れているのか知りたかったから。
でも、その口から出てきた名前は、誰よりもよく知る人物の名前だった。
「……“佐江川明日香”。たぶんだけど、芽依のママ、なんだよね?」
私はすぐに返事ができず、身動きが取れなくなってしまう。
やっぱり、先輩も知っていたんだ。
学校なんて狭い世界だ。当然先輩の耳にだって入っているだろう。
だけどそんな話を今まで一度もされたことがなかったから。
「……知ってたんですね」
「あはは。入学式のあとくらいにはすぐ、ちょこちょこ噂にはなってたよ~」
「どうして今まで一度も話題に出さなかったんですか」
「ん~、だって関係ないじゃん?」
「え……?」
「佐江川明日香は佐江川明日香で、芽依は芽依だし。親子だって言ってもちょっと雰囲気近いくらいで、全然似てないし。だから完全に別の人。関係ないっしょ!」
「…………ぷっ」
先輩の話す言葉に、思わず吹き出してしまった。
私がこの先輩を好きになれた理由が分かった気がする。
この人は、ずっと“私”と話そうとしていた。
それは私が演じる“冴川芽依”じゃなく、仮面の奥の本当の私と。
ずっと話そうとして、ずっと見つけだそうとしてくれていた。
それに気がついた途端、私はなんだか体が軽くなったような錯覚に陥る。
これまで私が積み上げた壁。その最後の一枚を、先輩は叩き壊した。
「……私、お母さんがどんな人か全然知らないんです。演技してるとこもほとんど見たことないですし。お母さんって、そんなに憧れられる立場なんですか?」
「そりゃそうだよ~! 表現力とか、空気の作り方とか、ほんっと神レベル! えっとね、私がここだとしたら、佐江川さんはこ~~~んくらい!」
自分との差を表現するために、両手をめいっぱい縦に広げて熱弁している。
でも、先輩は舞台やスクリーンの向こうの母しか知らない。
「そんなにすごい人じゃないですよ。母親らしいことしてもらった記憶もないです。だから……私はあまり好きじゃありません」
「そっかぁ……芽依も色々大変な人生だったんだねぇ……いっぱい喧嘩したんだろうなぁ……」
「あ、いえ……別に喧嘩は……話すこともなかったので……」
「え~!? あたしだったら我慢できない!『なんでもっと考えてくれないの!?』って、絶対ぶつかっちゃう!」
「え……そんなことするんですか……?」
「うん。だって親子って言っても他人だもん。言ってみなきゃ伝わらないから!」
言ってみなきゃ伝わらない。その言葉が胸を締め付ける。
私は傷つくのが怖くて、耳を塞いで逃げ回り、諦めたふりをしていたのかもしれない。
ふと、幼い頃のことを思い出した。
珍しく母が家にいたとき、仕事場に向かおうとする母を玄関先で見送っていた私。その度に母は、必ず私の頭を撫でていた。
あの時、佐江川明日香は何を考えていたのだろう。
「……ありがとうございます、先輩」
「えっ、な、何が? お礼言われるとこあった?」
「はい、あったんです。あったことにしておいてください」
「ええ~? まあ、そういうことならいいんだけどさ~……ってゆーかそれより! 演目どうしよう~!」
「ああ、それなら――」
先輩と話している間、実はひとつ思いついていた。
あの日の先輩みたいに、たとえひとりぼっちでも全力で演じきれる自分になりたい。
いや、きっとなる。
今の私――私の中の、本当の私なら。
「中庭でやっていた劇……あれ、教えてもらえませんか――」
――その日の夜。
私はスマホのメモリからタップして、電話をかけていた。
どうせ出られないだろうと思っていたから、コール音がたった2回で途切れたのには驚いた。
「あ、もしもし。お母さん」
『……やっと電話くれたのね。1年近くも連絡よこさないなんて』
「ごめんなさい」
『いえ、違うわ……謝らなきゃいけないのはこっちのほう。私は親らしいことなんてしてこれなかったんだから』
「…………」
否定も肯定もできずに黙っていると、私が聞きたかったことを話してくれた。
まるで、私が何を考えているか見通しているみたいに。
『私ね、子供の頃から演じ続けているうち、何も演じていない自分というものが分からなくなっていたの。自分がどんな人間なのか……そしてあなたとどう接していいのかさえ。役柄なんて関係ない、ただ“あなたのお母さん”でいればよかっただけなのに……ごめんなさい』
「……そうだったんだね。分かるよ、その気持ち。話してくれてありがとう」
なんだ。同じだったんだ。
私も母もそっくりだ。
それはもう、笑ってしまいそうになるくらい。
「実はね、今度演劇をやるの。県内コンクールで」
『あなたが? 本当に? あらどうしましょう、スケジュール空けなくちゃ……』
「来なくて大丈夫だから。でも、いつかその時が来たら……私の演技、見て欲しいんだ」
県内で一番大きい公共文化ホール。その舞台袖に私は立っている。
舞台で演技を披露している他校の生徒達のよく通る声がここまで聞こえてきて、そのレベルの高さに圧倒されてしまう。
人数も、技術も、何ひとつとして敵うものはない。入賞なんか奇跡が起きてもあり得ない。だけど、そんなことひとつも気にならない。
冬休みに入った初日、東京行きの新幹線に乗る先輩をホームまで見送った。
こっちが不安になるほど普段通りな先輩がなんだか恨めしくなって、顔が隠れるくらいマフラーをグルグル巻きにしてあげたら、なぜか喜んでいたのが印象に残ってる。
今頃はオーディションを受けているのだろうか。きっと先輩なら大丈夫だろう。
前の演目が終わり、今度は私が舞台に立つ。
私が使う舞台道具は椅子がひとつだけ。転換もスムーズに終わる。
目の前の緞帳で視界は遮られているけれど、静寂の中に聞こえる息遣いが大勢の観客がいることを感じさせる。
こんな大きな舞台に立つことも、スポットライトの光を浴びるのも、観客の前に立つのも何もかもが初めて。
なのに、なぜか私の心は限りなく穏やかで、緊張感が足りないんじゃないかと思うくらいに落ち着いている。
母の有名なエピソードとして、初舞台から異常な図太さを発揮していた、というものがあるらしい。
その辺りは、確かに“血”なのかもしれない。
『次は宙澄高校有志による演劇、演目は「告白」です』
館内アナウンスがそう告げ終わると、ブザーの音と共に緞帳がゆっくりと上がっていく。
思っていた以上に、舞台から客席の様子が見えることに気がついた。
数えきれないほどの視線が私に集まっている。
一瞬どきりとしたけれど、すぐに落ち着きを取り戻す。
私は私の演技をするだけだ。
『嗚呼、嗚呼、どうかお聞きください。過ちを犯したこの罪人の告白を――』
私は、壁一枚隔てた神父に懺悔する男として、言葉を紡ぐ。
町一番の正直で誠実な男は何をされてもニコニコと受け入れるお人好し。
だけど、ちょっとした話の食い違いからパンを盗んだ罪を着せられ、町中の者達から迫害を受けてしまう。
そんな導入で物語は始まる。
同じ人物を演じてはいるが、先輩のものとは違う。
声、テンポ、仕草、息遣い、何もかもが私にしかできない――私が演じる、私だけの“懺悔する男”だ。
『愚かなことをしたと悔いています……ですが、私が生きるために仕方のなかったことなのです――』
劇は滞りなく進んでいく。
もともと長い演目ではないし、短い期間ながらも何度も繰り返し練習した。
このまま無事に終幕を迎えられる、そのはずだった。
『それでも……私は重い罰を受け入れなくてはならないのですね……まるで闇の中に捨て置かれたような気分だ――』
そう話す私の台詞に合わせたかのように、突然照明が落ち、舞台が真っ暗になる。
演出じゃない。そもそも終始ピンスポットだけを照らすだけで、照明の入れ替えさえないはずだ。
考えられるとすれば、伝達ミスや機材のトラブル。
こんなときどう対処すればいいのか。先輩から習っておくべきだったとひどく後悔する。
永遠にも感じるような数秒を経て、大きなトラブルではなかったのか、再び照明がついて私を照らす。
大丈夫、これくらいならカバーできる。
そう思って息を吸い込んだ瞬間――
私の頭にたたき込んだはずの台本。そのページの上からあらゆる文字が消え去っていた。
どんなに慌ててめくってみても、セリフのひとつさえ書かれていない。
皮肉なことに、この状態を表す言葉は習っている。
私は、台詞を完全に“飛ばして”いた。
客席から少しずつざわつく声が聞こえてきた。
それを聞いた途端、さっきまで平然としていたのが嘘だったように足が震え出す。
ライトの熱を浴び続けてじわりとかいていた汗が、みるみるうちに引いていく。
このままじゃまずい。劇が破綻してしまう。
どうにかしなくちゃと焦れば焦るほど、余計に身体は動かなくなっていく。
その時だった。
客席を真ん中で分けるように舞台からまっすぐ伸びた通路の先。突き当たりにある扉が開くのが見えた。
途中入場するのが気まずそうに身を縮こませながら、誰かがこの嫌なざわめきが包む会場の中へと入ってくる。
――先輩。
私のよく知る、そしてこの場の誰よりも私のことを知っている先輩。
急いでいたのか、少し息を乱している。
冬休みいっぱい使ってオーディションを受けまくると言っていたのに、こんなに早く帰ってくるなんて。きっと本命の劇団に受かったんだ。
会場の異変に気がついたのか、先輩は席に向かおうとせず扉の前に立ったままこちらを見た。
そして、胸に手を置いてジェスチャーをする。「深呼吸」と。
つられて私も深く息を吸って、そして吐いた。瞬間、眠りから覚めたように頭の中がクリアに澄み渡っていく。
そうだ、止めてはいけない。お芝居を続けなくちゃ。
相変わらず台詞は飛んだまま。だけど、どこまで劇を進めたのかは分かる。
飛んでしまったのなら作ればいい。
先輩と何度も練習したエチュードだ。
『――いや……何かがおかしい。なぜ私が、こんなにも苦しまなくてはならないのだ――』
この演目のラストは、男が町に火をつけにいくところで終わる。でも、そこに至るまでのセリフを思い出せないため、即興で劇を作り上げるしかない。
――もしも、男が先輩だったらどうしただろう。
町中に分かってもらえるまで自分の思いを話したかもしれない。伝わるまで、何度だって。
――それじゃあ、私は?
言われもない罪を着せられても何も言い返さず、めそめそと泣きながら懺悔するだろうか。
全て他人のせいだと自分に言い聞かせ、町に火を放つだろうか。
絶対に、そんなことはしない。
私は、私なら――思い切り開き直って、怒りを隠さず無実を主張し続ける。
反論して、反抗して、必要だったら乱暴な言葉も使うかもしれない。
それでも駄目なら、その場に寝転んで駄々をこねてやる。
床を叩いて、泣き喚いて、子供みたいに嫌だ嫌だと叫ぶんだ。
そう、思い出した。
それが本当の私。
わがままで、自分勝手で、思い通りにならないとふて腐れるような、優等生とはほど遠い性格。
それが、本当の“冴川芽依”なんだ。
『正直者のふりなんて、もうやめます。人に好かれるため、自分に嘘をつき続ける必要なんてないんだ。嗚呼……やっと本当の自分に戻ることができる――』
ストーリーもうまく繋がらず、支離滅裂でメッセージなんて何もない、散々な出来栄えの初舞台の幕が閉じた。
当然入賞なんてするはずもなく、何事もなくコンクールは終わる。
女優の娘というだけで冬休み中にわざわざ見にくるクラスメイトもなく、新学期が始まる頃には私が演劇をすることなどみんなすっかり忘れていた。
――ほどなくして、先輩は卒業していった。
上京してバイトしながら、合格した劇団で稽古を積んで主演を目指すのだという。
もともと私は東京が地元だし、卒業後に戻ったら再会する約束をした。
見送りの時、今度は思わず引いてしまうくらい泣いていて、まるでこっちが先輩になったみたいに慰め続けたことを思い出す。
逃げなくて、よかった。
傷つけることを怖がらなくて、よかった。
嫌いな自分のままでいなくて、よかった。
大切なことをたくさん教えてもらった。
だからといって押し付けるわけじゃないけれど、もしも苦しんでいたら、今度は私が助けてあげたい。
桜が咲いて、それも散り尽くした頃。
あれから私は優等生をやめていた。
委員長なんてあだ名をつけられるほどだった私が、敬語をやめ、誰にでも良い顔をしないでハッキリ意思表示するようになった。
するとこれまでとのギャップに驚かれたようで、今ではすっかりクラスで浮いている存在だ。もしかすると、先輩と良い勝負なのかもしれない。
だからといって、落ち込むこともない。私は私が好きな自分で居続けるだけだ。
――私は今日も、先輩と毎日を過ごした演劇部の部室にいた。
勧誘らしい勧誘ができたかは分からないけれど、今の自分ができる精一杯の演技は見せられたと思う。
だからきっと、あの時おもわず目を奪われた私みたいに、誰かの心を震わせることができた。そう信じている。
飛び込むことも勇気がいるけれど、待っている時間も案外怖い。
もしもこのままひとりきりのままだったら――。
こんな気持ち、先輩も味わっていたのだろうか。
何も怖いものなんてないように見えて、誰よりも繊細なあの人のことだ。実は今の私以上に緊張していたのかも。
そう思うと無性におかしくなって、次に会ったときにからかってやろうと心に決めた。
そんなことを考えているうちに、教室の扉がカラカラと音を立てた。
そこにあった顔は、あの時の私のようにすました感じじゃなかったけれど。
今度は、私が言わないと。
不安な気持ちなんて吹き飛んでしまうくらい、歓迎ムード全開で。
「いらっしゃい。演劇部へようこそ」