ジェノベーゼ・エピソード
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ジェノベーゼのエピソード
冷静な理性派、機械のような思考回路を持ち、情に流されず常に合理的な判断を下すため冷血だと思われる事が多い。天才的な頭脳を持ち、魔導学院研究員の中で唯一の食霊。ある事件後魔導学院を離れ「カーニバル」を作り、狂気的な食霊たちに自由と権力を与えると、世界にどのような変化をもたらすかを観察している。いつも誰かに問いかけるように独り言を言う上に、「この世界はただのゲームだ」などの難解な言葉を言う。頭は良いが生活能力はないため、放っておくと部屋の中から一生出て来ない。
Ⅰ.実験
なあ、聞こえるか?
部屋で一人、壁に向かってこんな事をしていると、バカにされるのは目に見えている。
だが、千分の一の可能性が真実である限り、僕は一人じゃないはずだ。
教えてくれ。
この世界ーー僕を産み落とし、苦しめ、たくさん足掻かせたこの世界は……
ただのゲームに過ぎない。そうだろう?
白い壁には、いくつかの目立たない黒い点があるのを除けば、相変わらず何もなく、虚しいままだ。
僕の問い掛けは何の影響も及ぼせていないみたいだ。
しかし、僕の予想が正しければ、観客はともかく、ゲームには必然的に主催者や進行役がいるはずだ。
僕の一挙手一投足を監視し、負けか勝ちか、ゲームを続けるか、即座に脱落させるかを判断しなければならないからだ。
そうでなければ、生存も、労作も、享楽も、闘争も、繁衍も……
人間がこれらをする意味がわからない。
「観客を楽しませる」なんて、吐き気が出るほどやりたくない……が。
ここから脱出するには、自分が今どんな檻の中にいるのかを正確に知る必要がある。
なあ、そうだろう?
……
白い壁は白い壁のままだ。人の顔も他の異形も現れず、答えてくれる声も聞こえない。
テーブルと椅子しか置かれていない、何もない部屋のままだ。
……
心の中で問いかけ、口に出さなかったのが幸いした。
そうでなければ、本当にただのバカになってしまうところだった。
実験は失敗に終わったが、僕の推測は本当に間違っているのだろうか?
この世界は本当に存在しているのか?
いや、断言するにはまだ早い。
ーーコンコンッ。
「教授!せっかく用意したタキシードをどうしてホルマリンに漬けているんですか?!これから表彰式が始まるというのに……とっ、とりあえず部屋から出てください!」
僕はよく知る声を無視するつもりだったが、今までの経験からすると、あの人は諦めずにもっと大きな声で叫ぶだろう。
そこで、僕はドアを開けた。
「教授っ!」
ドアの前にいた研究員は、水を得た魚のようにホッとした顔になった。だが胸にしっかりと抱えているタキシードからは、死臭が漂っている。
僕は思わず顔をしかめた。
「今すぐその死体みたいなタキシードを捨ててくれ。今日は魔導学院の門から出る気はない」
「しかし……ティアラで最も権威のある魔法研究賞ですよ!ミドガルの国王様が直々に授与される、あの黄金のトロフィーを欲しがらない者なんていません!」
「三度目の受賞だ。国王の顔もとっくに見飽きた」
「しっ、しかし!」
「国王も院長も、もし文句があるのなら、僕のところに直接来てもらえばいい。今は、もっと大事な事があるんだ」
唖然とする研究員を尻目に、僕は白衣を着て研究室に飛び込んだ。
知らない人の気配が苦手なため、僕の研究室は特定の助手と自分以外、「実験品」しかない。
「来たか。今日はどんな拷問をするつもりだ?」
「実験品」は僕を見るとすぐに起き上がって、ニコニコしながら足を組んで僕を迎えてくれた。
「拷問ではない。実験だ」
「俺にとってはどっちでも一緒だ」
その「実験品」は楽しそうに体を揺らし、それに合わせるかのように体の拘束具がガラスにぶつかって、音を立てた。
彼の行動範囲は、特殊な材料で出来たこのガラスの小屋に制限されている。まるで巨大なビーカーに閉じ込められているようだ。
しかし彼は今まで、少なくとも僕の前では不快な表情をした事がない。笑う事しか出来ないみたいに。
「それは違う。僕の前では貴方は何も秘密にはできない。貴方を拷問して加虐欲を満たしてもなんの意味もない。それに、僕には欲望というものはない」
「だからこれは拷問ではなく実験だ。重要な意味を持つ」
「実験品」は僕の言葉を聞いて舌打ちをした。つまらなそうに後ろに倒れ、頭を壁にぶつけた。
「わかったわかった。お前みたいな老いぼれと議論するつもりはない」
「どうせ俺を拷問する事はお前にとって、蝶を標本にするのと同じくらいどうでもいい事だろう?」
「実験品」の言葉には裏がある。彼の視線は僕の白衣の中、黄色い目は僕の羽を見つめていた。
彼は間違いなく、僕の感情の限界を探っている。
そう、この食霊は、僕が創造した初めての作品だ。
そして同様に、彼の前では僕も秘密など存在しない。
Ⅱ.蝶々
貴方は、蝶の運命を知っているか?
広い海を羽ばたく、それとも花々の間を飛び回るか。
いいえ、どちらでもない。
標本にピンで留められ、展覧会の陳列窓に吊るされる──これが蝶の運命だ。
「これが坊ちゃんの新食霊ですか?こいつに何か特別なところはあるんですか?」
「いや、当時は特別な要望がなかったので、今はもう飽きられて用済みです」
そうだ。
御侍が緑色を好み、ファルファッレを食べるのが好きだというだけで、僕は生まれた。
子どもが緑色の蝶を欲しがっていた、ただそれだけ。
新しく設置された窓は四方が塞がれていて、薬品の刺激臭をしっかりと封じ込めている。メイドたちは皆俯きながら僕の前を素早く通り過ぎると、怪訝そうな顔で振り返った僕を一目見る。
僕を困らせたくないと、いつも気を遣っているようだった。
だが、それは余計なお世話だ。
裸、寒さ、悪臭、飢え、屈辱。
僕にとって、それらはそこら中に漂う空気のように当たり前のもので、痛くも痒くもない。
「素敵な芸術品ですが……事情を知らないお客様がご覧になると、一族に不利な噂が広まってしまう恐れがあります」
誰も長時間裸の展示品と顔を突き合わせたくないからか、窓ガラスはとっくに汚れてしまい、ガラス越しでは喋っている人の顔も、胸元にあるバッジすら見えなかった。
ただ、彼の胸に飾っているバッジが輝いている事だけは覚えている。
眩しい程に。
「大したメリットにはならないが、我が家の食霊である以上悪いようにはしない……行きたい場所とか、欲しいものはあるか?」
「欲しいもの?」
「遠慮するな。私に提供できないものはこの世には存在しない」
「ならば……自由をくれ」
笑顔が凍りついた瞬間を音で表すなら、それはきっと雷鳴のように耳に劈くだろう。
しかし、ほんの一瞬の沈黙の後、再び笑い声と共に響いた。
「文字通りの意味の“自由”なら、とても簡単だ」
ガラスが下ろされ、僕を固定していた釘は抜かれ、厚いカーペットの上に落ちた。
それもそうだ、あの子は何百匹もの蝶を持っている。そのうちの1匹を失っても構わないのだろう。
「しかし、完全な“自由”を提供することはできない。人間はともかく、食霊は生まれてから契約に束縛されているからな……」
男は窓を解体している作業員たちの後ろに立ち、人々が作業を終えて去った後に、彼もどこかへ行ってしまった。
「ここを離れても、次の陳列窓に入れられるだけだ。褒められようが、憧れられようが、結局は他人の目に囚われているだけなんだ」
ああ、彼はその言葉で僕を縛るつもりなのだろう。
豪華絢爛で醜悪な邸宅から逃げ出したとしても、自分の力で魔導学院に足を踏み入れたしても、ティアラの魔術研究の最高峰を代表して国王と並んで壇上に立ったとしても……
僕は依然として、この言葉に囚われたままだ。
「そうだろう?」
「実験品」はいつの間にか立ち上がっていた。ガラスに額を押し付け、大きく鋭い目で僕を見つめていた。
「お前も昔こんなガラス瓶に閉じ込められていたから、俺に拷問して自分の痛みを癒してるんじゃないの?」
「お前は俺と同じで、ここに囚われた囚人なんだ。」
自信に満ちている口調だ。
しかし、残念ながら……
「何度も言ったはずだ。これは拷問ではなくただの“実験”だ」
「……そういう問題じゃないだろう?はぁ……冷血な奴め」
「冷血?」
僕は操作台の前に座り、今日の実験の準備を始めた。
「少し前に独立したばかりの実験室の誤操作で、津波が発生した事を知っているか?」
「へぇ、実験で津波が起こるんだ?」
「特殊な力を持つ食霊を暴走させれば可能だ」
「それで?制御不能の食霊や津波で被災した一般人の命を弄んだ研究者共の方が、よっぽど冷血だって言いたいのか?」
「いや」
実験が進むにつれ、「実験品」の明るい目は強制的に暗くなっていった、一瞬でガラスハウスに充満した「濁った気体」から逃れるように息を止めたからだ。
「彼らが実験を始める前、僕に特別指導を頼んできた。彼らの能力では、その実験は間違いなく失敗すると予想できた。もし事故が起こるなら、それもきっと無数の人々を巻き込む大惨事になるだろうとも」
「しかし、僕は拒否した」
「これこそが冷血だ」
「実験品」は震えるような笑い声を上げたーー痛みから来たものではない。
痛みを感じないよう、とっくに痛覚神経を切ったからだ。
何しろ、これはあくまでも「実験」なのだから。
コンコンッーー
……ドアをノックする音がした。
まさか、研究室のドアをノックしてくる訳がない。何しろ、僕はドアを開けない事を皆よく知っているから。
なら……
ドンッーー
難攻不落だった鉄の扉が砕け散り鉄屑の山となった。そしてブロンドヘアーの食霊が、煙幕の中からゆっくりと部屋に入って来た。
「おや、誰もいないと思ったら……失礼な事をした」
彼は笑いながら一礼をしているが、申し訳ないとは微塵も思っていない顔をしている。
「教授のお名前はよく知っている。御侍がお話したいそうだ……時間を、頂戴しても?」
「……ああ」
断る理由が思いつかなかった。
「時間ならたっぷりある。ドアを直すと約束してくれるならな」
Ⅲ.牢獄
「俺はザバイオーネだ。御侍のサドフが応接室で君を待っている。そう言えば……」
ザバイオーネという名の食霊は、杖をくるくると回しながら、廊下の壁に施された装飾を観察していた。
「ここは魔導学院の研究所だろう。何故こんなにも蝶の標本があるんだ?ここに入った瞬間、間違えて博物館にでも来たのかと思った」
「ああ、ただの戒めだ」
「戒め?」
「僕はまだ牢獄に囚われていると、それを忘れないための戒めだ」
ザバイオーネは僕をチラりと見てから、すぐに笑った。
「そうか……ここだ」
「……ここは応接室じゃないが」
「借りたんだ、今からここが応接室だ」
まるで自宅かのように、彼は研究室のドアを押し開けて、「どうぞ」のジェスチャーをしてズカズカと中へ入って行った。
まあいい、客がいる場所を応接室と呼ぶのも一理ある。
研究室に入ると、控えめな服装の老人が出迎えてくれた。
「こちらがかの有名なジェノベーゼ教授ですか……私の食霊が教授に不愉快な思いをさせていないといいんですが……」
「問題ない。貴方がサドフか?」
「ああ、そうだ」
「長く生きてきたが、僕と話をしてみたいと言ってきた者は初めてだ……何について話したいんだ?」
老人はザバイオーネに支えられ、ゆっくりと実験台の上に座った。彼は少し戸惑っていたが、確かにこの部屋でそこが唯一座れる場所だ。
「私は教授と手を組みたいです」
「……僕がしている事全ては金のためではない。他の欲もない。だから貴方の言う“手を組む”とやらは、僕が一方的に“助ける”という事になる」
「ハハッ、それならどうかこの老いぼれを助けてはくれませんか」
怒っている訳ではないし、心からの笑顔のように見える。どうやら諦めさせるのは容易ではなさそうだ。
「まずは内容を言ってみろ」
「教授と私で……いや、教授に食霊専用の牢獄を建てて欲しいのです」
……
サドフを見てから横で笑顔を浮かべているザバイオーネを見た。
「僕の認識が正しければ、ここにいる3人中3人は食霊のはずだ」
「ああ、その通りです。しかし……人間用の牢獄を建てたのも人間ではないでしょうか?」
「牢獄を建てた人には金が、牢獄に囚われる人には罰が必要だからだ……だが、僕には何も必要ない」
「いや、貴方には自由が必要です」
……
その言葉を聞いて、僕は思わずサドフの顔を改めて観察した。
白い髪に皺だらけの肌、目が異様に輝いている以外は、普通の老人と何も変わらない。
「申し訳ないのですが、ここを訪れる前に貴方の事について調べさせてもらいました」
老いた瞳には、哀れみの色が隠されていた。
「50年前、貴方は魔導学院史上唯一の食霊研究者となり、そしてすぐにとんでもない計画ーー食霊堕化実験を提案しました」
「猛烈な反対運動があったにも関わらず、魔導学院は貴方の計画を承認しました。貴方も食霊と堕神に関する多くの理論を次々と発表し、実践してきましたね」
「貴方の実験では、食霊が暴走して人間を襲うようなことはありませんでした……そこで、私は大胆な推測を立てました。貴方の目的はただの実験でも、食霊や堕神を研究する事でも、食霊を堕化させる事でもない……」
「救済……それが教授の目的なのではないですか?」
サドフの確信めいた言葉に、僕はただ肩を竦めるしかなかった。
「そこまで大それたことは考えていない」
「しかし、貴方はやり遂げてみせました。人間は未知なるものに恐怖を抱く。食霊や堕神についての認知を深める事は、その恐怖を和らげ、食霊たちにより自由に生きる環境を勝ち取れるでしょう……」
「慈善の旗で下心を隠そうとする偽善者共より、教授、貴方は遥かに偉大です」
授賞式以外でこんなにも称賛されたのも、能力ではなく僕の意識について称賛されたのも初めての事だった。
しかし……
「貴方を助ける理由としては不十分だ」
「教授は先程、自分は依然として牢獄に囚われていると、言っていたな……いつ何時もそれを胸に刻んでいるのは、その牢獄から逃げ出したいからじゃないのか?」
ザバイオーネが一歩前に出て、僕とサドフの会話に口を挟んだ。
「自分の手で建てた牢獄から脱出する事より、もっと簡単な事があるだろうか?それとも……」
「教授であっても、そのような牢獄を作れないのか?」
ザバイオーネはわざとらしい笑みを浮かべている。今の発言は僕を挑発するための策略であることを明らかにした。
しかし、彼のおかげで気付けた。
こんな偶然が世の中にあるのだろうか。
僕が彼に「牢獄」と言うやいなや、次の瞬間には彼の御侍からこの言葉が出た。
ゲーム?
ゲーム……
ゲーム。
そう、これはゲームだ、ゲームに違いない。
ゲームの主催者や進行役が伏線を張り、誘導しているんだ。
彼らは僕を説得する必要がある。牢獄を作る事を手伝わないと、ゲームは進まず、更に色んなありえない偶然が起きるだろう。
実にバカバカしい。
僕は世界で最も知的な存在であり、実験室にあるごく普通の道具だけで何だって作り出せる。
僕は全能で、何も恐れない。しかしこんな僕でも結局は人間に弄ばれ、ガラスハウスに閉じ込められ、観賞用の珍獣として扱われている。
奴らは愚かな障壁を作り、僕がそれに引っかかり、罠に足を踏み入れるのを、嬉々として待っているのだ。
拙いきっかけをいくつか作り、僕に僅かな生きる希望をもたせ、再生、復讐、自滅、これらを繰り返させている……
これが彼らの謀略だ。
そして、僕は……
その罠にハマる事を恐れない。
「貴方の計画は単に檻を作るだけじゃないのだろう?」
「もちろんです……“タルタロス計画”は、御侍のいない食霊たちも拘束する事が出来、好き勝手出来ない事を人々に証明し、不安を和らげるためのもの……」
「僕にそんな事を説明しなくてもいい。檻を作る以外に僕に何をして欲しい?」
「……檻を誰にも渡して欲しくないのです。魔導学院含め……いや、特に魔導学院には絶対に」
サドフの表情が一段と真剣になった。まるで僕と口先で高額な契約を結んでいるようだ。
「その檻を、私にだけください」
僕は頷いた。
他に何を企んでいるのか、見せてもらおう。
どこまでが檻の中なのか、どこまでが世界の果てなのか、この目で確かめたい。
牢獄から脱出するためには、檻籠を作らなければいけないようだ。
「全ては僕の思い通りだ」
Ⅳ
編集中
Ⅴ.ジェノベーゼ
裸で傷だらけの食霊が魔導学院の門前に現れた時、学院のほぼ全員がパニック状態に陥った。
復讐に来た食霊か?それとも、どこの闇の勢力によって送り込まれた人型爆弾か?
要するに、安全なものであるはずがないのだ。
しかし、驚くべき事に、食霊はドアを開けてくれた男性が着ていた白衣を指差し、「どうすれば彼と同じ服を着れるのか」と尋ねた。
この食霊は、魔導学院の研究員になりたいと言い出したのだ。これは前例のない事だ。
誰も彼を学生として受け入れる勇気はなかった。実験精神から魔導学院の院長は彼を図書館に入れ、学院の資料を借りて独学する事を許可した。
そして、彼は僅か半年で試験に合格し、魔導学院史上初の食霊研究員となったのだ。
その後は実験リーダー、主任、助教授となり、ついには「ジェノベーゼ教授」として、魔力研究の分野だけではなく、学問界全体に名を轟かした。
当初、魔導学院は、この食霊が自分の同族を使って実験できると思ってはいなかったので、誰も彼の事を気にも留めていなかった。
しかし、この食霊は同族を堕化させるという残酷な実験を提案してきた。徐々に周囲の人々は別の意味で彼を避けるようになった。
食霊は、魔導学院の彼への恐怖の中で生きていた。誰もが彼を冷血無情、残忍だと思っていた。
しかし、彼はただこの世界を探求し、真相を探っているだけに過ぎなかったのだ。
ジェノベーゼはこの世界に対し、狂った推測を立てている。
この世界はただのゲームかもしれない。
誰かが彼を操作し、彼を誘導し、それを見て楽しんでいると。
陳列窓の中に飾られ観察されている時と同じように。
世界は巨大なガラスハウスで、果てのない牢獄だと。
自由なんて、夢物語なんだと。
……サドフという人間が現れるまでは。
サドフは、ジェノベーゼはこの世界を救っているのだと、他の誰とも違うのだと、自由だと言った。
これは協力関係を強固にするための策略である事を、ジェノベーゼはよく知っていた。
しかし、彼はその策略にハマる事を恐れていなかった。
長い間、寒さと孤独の中にいたせいか、たまに温もりに触れたくなったのだ。
結局のところ、ゲームは思い通りには進んでくれなかった。
ザバイオーネの口から、開発した新材料が盗まれた事、そのためにサドフが亡くなった事を知った。ちょうど、新材料に名前を付けたばかりの頃だった。
名前をつけたところで、既に無意味になった。
ジェノベーゼは大量の資料を調べ、無数の昼夜を費やして彫った宝石をザバイオーネに渡し、杖の先端に嵌めるようにと言った。
そして、あらゆる手を尽くして手に入れたが、すぐに飽きてしまった白衣を魔導学院に返却した。
「もう行く」
最後、彼は「実験品」に向かってこう言った。
「行く?どこに?」
「ここを出るんだ」
「……もう戻らないのか?」
「ああ」
いつもニコニコしている「実験品」が、初めて怒りの表情を見せた。
彼はガラスの壁に拳を叩きつけ、ジェノベーゼにどうして自分を作り、監禁し、弄び、虐げ、最終的に捨て置こうとしたのか問いただした。
「自分もこんな風に無視され、辱められ、監禁されたから……だから俺を作って、同じ経験をした食霊を作って、自分の惨めさを少しでも減らそうとしたのか?!」
「それは違う」
怒りが頂点に達しても、否定の返答を受けたら「実験品」はすぐに冷静になり、ジェノベーゼの説明を待つ事にした。
ジェノベーゼは輝いている瞳を見て、「クレメンス家」での最後の日の事を思い出した。
目の前からガラスが消え、釘が抜かれたせいで体に残った穴から体温を奪われ続けているせいで、ジェノベーゼは立つ気力も失い、やがて絨毯の上に裸で倒れ込んでしまった。
胸に飾ってあるバッチは光の反射で、一際に眩しく輝いて見えた。その映像と共に思い出すのはあの言葉だ──
「“自由”は不可能だ、食霊は生まれながらにして契約に縛られている……」
「欲しいのは僕自身の自由じゃない」
「ん?」
その声は深い廊下の隅で止まり、黒い影は無限に伸びて、ジェノベーゼの目の前まで広がった。
「貴方が与えられない物はこの世にないと言ったな……それは嘘だ、その中には自由は含まれていないだろう」
彼は立ち上がり、釘を踏みしめた。
「貴方が与えられないものは、僕が与えよう」
「たかが“自由”だ、与えられない訳がない」
「この世に、僕が作れないものなんてない」
だから、彼は「実験品」を作った。
普通の食霊と違って、「実験品」との契約は見たり触れない物ではない。
「貴方の契約には実体がある、ここにあるんだ」
ガラスゆっくりと消えてなくなり、ジェノベーゼは「実験品」の頭にそっと手を置いた。
「本当に自由を望むのなら、何かを諦めればここから出られる。行きたい場所へ行き、したい事が出来る」
「脳を……切り捨てろっていうのか?」
「怖そうだな、でも俺に諦めるチャンスもないんだろう?」
そうだ、ジェノベーゼは自分が作り出した「実験品」に、自分ですら手にした事のない、自ら束縛を抜け出し、自ら自由を勝ち取る運命を与えた。
彼は、最初からそのつもりだったのだろう。
「“自由”への“鍵”は、いつでも貴方の中にある事を、忘れるな」
「さようなら、チェダーチーズ」
そう言い残し、ジェノベーゼは魔導学院を去った。
魔導学院は彼をコントロールし、新材料を生み出させ、そしてそれを盗み、漁夫の利を得たのだ。
彼はコントロールされた事を嫌だとは思っていない、この世界はゲームだから。
しかし、彼の手をかりてザバイオーネやサドフの運命にまで手を出した。そのようなマネは彼にとって、到底受け入れられない事だったのだ。
魔導学院のトップの座は決して届かないものではないが、そこは頂点ではない事を彼はわかっていたのだ。
そろそろ、自分の居場所を作る時が来た。
例えば……囚われる事なく、操作されることもない、果てのないガラスハウスを。
この世界がゲームであるなら、観客もプレイヤーも同上人物も全員が楽しめるものにしなければ……
自由と快楽の浄土を。
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