北京ダック・エピソード
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北京ダックのエピソード
一見すると上品な青年でいつもニコニコしている。愛用のキセルを肌身離さず持ち歩き、アヒルと一緒にいるのを好んでいる。
誰に対しても同じように接して、穏やかで謙虚。相手との距離を巧妙に維持しているので、誰も彼の本心に気づかない。
Ⅰ かつての日々
茶の香りに満ちた茶楼。店員の掛け声が響く中、旦那衆や坊ちゃんたちが笑い声を上げつつ、テーブルの上の茶請けをつまみながら講談師の語りを聞いている。
2階の部屋からは時折、ハンカチで口を隠した可愛らしい女の子たちが顔を出し、頬を赤らめて下の階を優雅に行き来する文人たちを眺めている。
役所の入口に他の役所のような陰気な雰囲気はない。
うだるような暑さの中、上半身裸でズボン姿の小間使いたちが、大きく開いた役所の入口に座って井戸の中で冷やしたスイカにかぶりついている。
しかし道行く人々は彼らに後ろ指をさしたりせず、時折あいさつなどを交わしているところを見ると、この小間使いたちと顔見知りのようだ。
広間の机の上には日常の些細なことに関する陳情書が山のように積み重なっており、更にその上には真っ赤なスイカを乗せた皿がある。
そして机の上には暑さに耐えかね、官服の袖を高くまくり上げた人物が座っている。
これが吾の御侍だ。
彼は一方の手に筆を持って文書をしたため、もう一方の手にはスイカを持っている。そのとぼけた姿からは役人がまとうべき威厳は微塵も感じられない。
ただ、彼のような人間にはこの小さな町がお似合いとも言える。
山や川に囲まれた田舎町は子供たちが暮らすのに適している。それはまるで、女の子が奏でる琴の曲にでも出てきそうな光景だ。
かつて過ごしたあの都会に比べれば、吾もこの町が気に入るだろう。
ここでは偉い人に気を使う必要はない。
これまで狭い家の中に閉じ込められていた子供たちも、吾とともに屋外へ散歩に出かけられる。
大通りで顔見知りの行商人に会えば、野菜や果物を持たせてくれることもあるし、世間話に花を咲かせることもある。
「なんだって!こんなに暑くても休めないのかい。あんな官服を着てたんじゃ、あせもができちまうよ!ほらこれ、あの人に持って行って。熱中症には気を付けるよう言っといてよ!」
「本当に今日は暑いねえ!そうだ、うちの隣の娘だけど、そろそろ嫁に行く年ごろなんだよ。時間があれば一度会ってみないかってあの人に聞いてくれない?」
吾は何とか御婦人連中に別れを告げ、貰った梨を手に役所に戻った。
御侍様は汗だくになりながら、ようやく手元の文書を全て書き終わったようで、死にそうな様子で椅子にもたれかかっている。
吾は手中の梨を見事、御侍様の頭に命中させた。
パチパチ。
「東街の張おばに頂戴しました。加えて、李おばが時間のある時、隣の次女を紹介してくださるとのことです」
御侍様は梨を頭に食らってもまだ死にそうな様子に変わりはなかったが、次女と聞いてわずかに反応を見せた。
「おい……やめろ……あの娘は僕の二倍の大きさがあるんだぞ。それに彼女、あの肉屋と結婚するって決めているんじゃなかったか?」
吾は彼のそばに置かれた陳情書に手を伸ばし、ざっと目を通してみた。そのほとんどはどうでもいい内容で、吾は思わず首を振り、陳情書を元に戻した。
椅子に項垂れかかっていた御侍様は突然反応を示し、期待するような目で吾を見ていた。
「ところでお前、いつ時間がある?陳情書を一緒に見てくれないか」
「寝言は寝てから言っていただきたい。仕事はきちんとこなしてください。そういえば西街のあの女性から預かったお手紙、御侍様の部屋に置いておきました」
「なんだ、早く言えよ!あ、そうだ。お前に煙管を買ってやったよ。それと巾着袋も。机の引き出しにしまってあるから勝手に取ってくれ。高かったんだぞ。じゃ僕は帰って手紙に返事を書くから!」
椅子に項垂れかかっていた御侍様はバタバタと慌てて起き上がった。
勢い込んで歩き出したため、危うく服の裾を踏んづけて転びそうになり、それを見て吾はまたため息をついた。
吾は御侍様が妻をめとってお子を成し、お孫たちに恵まれるまでをずっと見続けていくものだと考えていた。
この小さな町のように、平和で何の波乱もなく。
Ⅱ 変化
屋根にはまだ雪が残っているが、雪の下からは緑が点々と顔を出し始めている。
かつてこんな日は大勢が集まって雪を溶かして作ったお茶を飲み、みんなで雪を眺めて詩を作ったものだが、今では沈んだ空気が広がるばかり。
絶え間なく降る雪が田畑を覆い、外の世界へつながる道も断たれた。よく登りに出かけたあの山では度々雪崩が起き、多くの命が奪われた。
さらに飢饉や疫病が発生し、のどかだったこの小さな町を破滅へと追いやった。
ずらりと並んだ商店は次第に閉まり、夜遅く帰る人の為、家々の玄関口に掲げられる提灯の多くは弔い用に白地に黒で「奠(てん=供物)」と書かれたものへと変わった。
元気いっぱいだった女性たちからは笑顔が失われ、どこかの家で何かが起きれば街を挙げて助けるといった光景は二度と見られなくなった。
御侍様は何とかしようと忙しく走り回った上、餓死しそうな人に自分用の食料まで差し出した。
もともと身体にぴったりだった彼の官服はみるみるダボダボになっていった。
まだ幼いお子たちはお腹を空かせて泣いてばかりだった。吾はお子がお腹いっぱい食べられるくらいの食料は残しておくよう何度も提言した。
しかし御侍様は辛そうに我が子を抱き、白くなるほどこぶしを握り締めるだけだった。
絶望の下では屈折した希望が生まれやすいものだ。
その頃、奇妙な信仰が街に広がり始めた。
いつからか分らぬが、かつては善良で穏やかだった住人たちの表情に、恍惚とした熱狂を感じさせる笑みが浮かぶようになった。
しばらくして熱狂は狂気へと変わった。
何もなかった大通りにいつの間にか邪神を祀る寺院が建立され、多くの人々がその寺に向かって跪き、祈りを捧げるようになった。
御侍様は事情を探りに出かけ、聞き取り調査を進めた。
しかし洗脳された人々から彼が聞かされたのは、自分たちの神がいかに偉大かということ以外、全く理解できない信仰だった。
最初は財産を捧げ、次に容姿の優れた子供を、そして最後には神への生贄として一家を挙げて自殺するまでに至った。役所の小間使いたちでさえ大部分が取り込まれてしまった。
彼のそばに残ったのは吾のみだった。
この状況で何ができただろうか?
御侍様が何か方法はないかと必死で考えていた時、丈の長い上着をまとい、体に奇妙な入れ墨を刻んだ人物が、長い間お目にかかれなかった料理や財宝を携えて目の前に現れた。
「ここで起きたことを雪による被害だと上に報告し、我々の発展を黙って見守っていただけるなら、これは全て貴方のものです」
「お前たちは一体何がしたいのだ」
「ただ財を成したいだけなのです」
「財産の為に家族を犠牲にさせるのか?それにお前たちの神殿で使われているあの薬!あれも金の為というのか?命を奪っているんだぞ!」
「差し出す対価が大きいほど、彼らの信仰心は強くなるのです。なぜなら信仰から覚めてしまえば、その代価を負担することが出来ないのですから」
「私は必ずお前たちを打ち砕いてやる」
「……後悔しなければいいのですが。私の依頼はこれからもずっと有効です。貴方がもし考え直すことがあれば、神殿に人をやって私に連絡をください」
吾が食霊として出来ることといえば、前に立って攻撃から御侍様の身を守ること、彼に代わって危険なところへ出向くこと、彼が弱っている時に「決してひとりではない」と告げることくらいだ。
吾があの神殿と呼ばれる場所へ到着した時、いつも彼らが使っているお香は焚かれていなかった。
しかし長い間使っているため、神殿を構成するレンガや石の一つ一つにあの邪悪な薬草の匂いが染みこんでいた。
人に中毒性を起こさせるこの薬の匂いは、神殿内のいたるところに見える邪神の図案を引き立たせ、祭壇の上に横たわり目を固く閉じている子供の姿をよりショッキングなものに見せる役割を果たした。
かつて吾の子供たちの面倒を見てくれた、笑顔の愛らしい少女。なぜこんな姿に?
「ダック兄さんはどうしていつも、そんなにたくさんの子ガモを連れているの?」
「ダック兄さん、その煙管はどこで手に入れたの?」
「ダック兄さん……」
吾は彼女を抱き起こし、乱れた髪を整え、色あせた髪留めで纏め直してやった。
それが吾にできる全てだった。
荒れ果てた役所に戻り、既に家族を安全な場所へ移し終えた御侍様のもとへ向かった。
吾にはわかっていた。
彼がすでに後戻りのできない道を選んだのだと。
その日、御侍様と吾は王城へと続く道を出発した。
しかし、ボロボロの官服を着た御侍に対し、おろしたてのようにピカピカの官服を身にまとった者たちの背後からは、そのきらびやかな装いでは覆い隠せないほどの腐臭が漂ってきた。
吾は官僚たちの背後に立つ「貴賓」を目にし、知らず知らずのうちに手の中の煙管をきつく握りしめた。
しかしこの時、あの冷静とは無縁だった御侍様は異様なほどの落ち着きを見せていた。
彼は一歩前に進み出て吾の前に立った。
「これはどういうおつもりですか」
「神使様は遠方からやってきた貴方を客人として迎えたいとおっしゃっております。ただ、貴方様の気が変わっていなければですが」
その者はまるで見せびらかすかのように自分の手にある全てを吾らに示した。
これまで得ることが出来なかった支援、腹を満たす食べ物、全てがここにあったのだ。
Ⅲ 嘘
仮住まいの宿に戻り、吾は助けが必要かと彼に聞いた。しかし彼は吾にこう言っただけだった。
「これは僕たち人間の闘争だ。僕は友人のお前をこの泥沼に
引きずり込みたくない。ただ、僕の妻と子を守ってほしい」
吾は彼の決然とした目を見て、その決定を尊重することにした。
あの頃彼が、勢力が複雑に絡み合う王城ではなく、あの小さな町を尊重したように、彼には彼の道理があるのだと吾は信じていた。
しかしこの譲歩は、吾の望む結果をもたらさなかった。
帝王から責任を問われ、吾らの住処に兵士が突入し、彼には弁解の余地も与えられなかった。
吾が手を出す間もなく、彼は兵士に取り押さえられて動くことが出来なくなった。
しかしそれでも彼の目は吾に決して逃げないと言っていた。
間違いなく、武力を必要としないこの闘争で、彼は負けたのだ。
吾はじめじめした牢屋の外で、体中に血痕を付けた彼を見ながら、座り込んで告知板から取ってきた告知を彼に渡した。
自分の真心を貫いた唯一の人は、まもなく罪人として、人々の唾棄の対象となり、無実の汚名を着せられ、斬首台に上るのだ。
「そんなことをして、意味がありますか。吾が連れて逃げます。奥様とお子様が待っておられます」
「妻と子を逃がしておくれ。これが僕の限界だ。家の為に、父として、夫として、僕は家長の責任を果たせなかった。しかし国のために、君主の命に背くことはできない。家臣の責任を果たせなければ、法はない」
「そんなことをして、意味がありますか。あんな、権力を弄び、人間を無視するような法の為に?吾が連れて逃げます。奥様とお子様が待っておられます」
「これでいいんだ。今そうなったとしても、天理によって僕の潔白が証明される日が来ると信じている。このことも、後の人の教訓になるだろう」
「…………」
「妻と子のほかに、もう一つ頼みたいことがある」
「何でしょう」
「天理が明らかになったら、面倒だが、史書にこのことを書いて、僕に見せてほしい」
「……わかりました」
吾は気丈な奥様と子供を、遠く桃源郷のような村に落ち着かせた。
再び王城に戻った吾にできたのは、打ち捨てられた彼の遺骨を拾うことだけだった。
Ⅳ 記載
間違った歴史は修正されるべきである。誰も間違いを正さないのならば、吾がやるまでのこと。
しかし皮肉にも御侍が捕まった時、吾は何も手出しをしなかったので、吾が彼らの組織に入り込むことは難しくなかった。
地位が上がるにつれ闇が深くなるのが分かった。
その中にある様々な犯罪は、もう言葉で表現できるようなものではなかった。
ついに、吾はこの無数の骨肉の上に築き上げられた「帝国」の中心部に入り込んだ。
吾は事実となる全ての情報を得たが、それを皆に暴露する突破口を見つけられないでいた。
吾はこの豊かな、しかし罪悪に満ちた土地に立ち、そのすべてを見ている。
足元のおぼつかない老人、友人とふざけあう少女、そして帝国の主。許してよい者は一人もいない。
そしてこの時、こっそり書庫に入り込む人が現れ、吾を喜ばせた。
この血塗られた国土は、存在すべきではない。
吾はこの食霊をしばらく観察した。彼女は、この血肉を食い尽くす怪物のようなものに覆い尽くされていることを知らず、吾の目的にも気づいていないようだった。
吾が準備を整え、彼女の前に現れた時、彼女は書庫であの無数の人々の血と涙の黒い歴史を記した本を抱えていた。
「吾はそなたに全てを記録し、歴史として永遠に残してほしいのです」
闇夜は罪悪を埋葬するための最良の棺だ。こうした人は太陽の下で生きるべきではない。
準備していた爆薬が次々に爆発し、花火のような激しい音が響き、真っ暗な空に赤い炎が映った。満天の炎はこの「国」を永遠に目覚めない悪夢の中に閉じ込めたのである。
星がまばらに見える明るい月、彼の好きだった月を愛でる空だ。
立ち込める煙の中、炎がこの国の全てを焼いていた。
凄惨な叫び声が悲しみの歌のようだ。
やっと……終わる……
炎がこの国の全てを飲み込んでいる。全ての罪悪が燃え上がる炎に巻き込まれ、火の洗礼を受けている。
火の中の茶楼も琴館も、遊郭さえも炎に捻じ曲がり、次第に記憶の中の元の場所に折り重なっていった。
火はまるまる一晩燃え続けた。
月が落ち日が昇っても、太陽は骨に染みこむような寒さを追い払うことができない。
身体中の霊力を使い果たした。爆薬の助けがあったにせよ、全ての人々を焼き尽くすのは、やはり大変なことであった。
吾は最後の霊力を振り絞り、あの唯一の目撃者、そして最後の目撃者をこの世に残そうとした。
「覚えている。そなたは地下室で、起こった全てのことを記録すると承知したであろう?」
Ⅴ 北京ダック
歴史は、いつでも血と闇で満ちている。
この国の歴史は、その中でも最も暗い歴史といってよいだろう。
元は畑もわずかしかない貧しい小さな村が、少しずつ大きくなっていっただけだ。
彼らは邪神の名で、人々を騙したのだ。
どこからか持ってきた石ころに、ちょっとしたトリックと、野原に生えていた幻覚を呼ぶ薬草を組み合わせれば、人々が絶望した時に奇跡を創り出すには十分だった。
邪神の寺院で中毒性のある薬草を燃やして布教する。神の業を信じない人を災いの元として処刑し、ちょっとした奇跡を起こす。
あまりに敬虔でない信徒の家族に、特別に作った薬を無理やり飲ませる。
簡単で直接的なやり方は、逆に崩壊しそうな人々の信仰を集めるには十分だった。
人々が信じると、供物を集め始めた。最初は簡単な食べ物やお金、最後には生贄。
彼らが集めた財産のほとんどは、賄賂として官僚たちに与えた。
隠蔽の手段と信徒の差し出す代価は、彼らをどんどん深みに嵌まらせた。
こうして、小さな村が短時間に集めた財産は、国に匹敵するほどの額になった。
彼等の頭領は、こうして奪い取った栄耀栄華を享受し、持ち主のいない土地に自分の帝国を築いた。
大罪を犯した人だけが、この痩せて井戸水さえ出ない土地に入ることが出来た。
この国に定住しようと思う人は、ノートに自分の犯した罪を書き、この国に背かない証拠を残さなければならなかった。
財産を十分に持ち、過去にこだわらない罪の町は死罪を犯した多くの亡命者を招き入れた。一つの町にも満たさないこの小さな国では、重い罪を犯した人こそが権力を持つのだ。
このような国が、たった一日で崩れ去った。隠蔽されていた悪が、大火によって明らかになった。
北京ダックは王城郊外の名もない墓の前で、手に持った本を一頁ずつ火にくべて燃やしている。
彼は立ち上がって振り返り、被せられた汚名を濯ぎ、王城に戻った女性と子供を見て、そっと彼女たちの肩を叩いた。
「もう名前を刻んでも良いのです。唾を吐きかける者は現れますまい」
墓の前で泣く二人と別れ、北京ダックは少し離れた桃の木の下で魚香肉糸(ユーシャンロース)を待っていた。
彼は懐からあの「国王」が死ぬ前、彼に許しを請うて差し出した、いわゆる神器を取り出した。
「あの者は、これは貰ったものだと言っておりました。吾はここに食霊の力を感じます。記載によれば、この邪教はかつて邪神に食霊を捧げた記録があるとのこと。捧げられた食霊は行方が知れません。
「ですから、そなたに頼まれたことはやり終えましたが、吾は、やはりそなたの仇討ちをしようと思います」
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