モクセイケーキ・エピソード
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モクセイケーキのエピソード
正義感が強く、良くない事ははっきりと口に出す性格。自身の意見をしっかりと持っており、少し頑固な面があるが、詩歌に長けている。
Ⅰ 言葉に出せない痛み
(※新しいものにさしかわっていたので更新しました。また、一部誤字と思われる箇所を編集者の判断で変更して記載しています)
「また本を読んでいるのね、モクセイケーキ」
そのよく聞き慣れた声に、わたくしは手を止めて振り返る。
そこには艶やかな衣装に身を纏った意思の強い眼差しを持った美しい婦人が立っていた。
魅惑的な目の奥に、いつも嫌悪を隠している。そう――わたくしへの嫌悪だ。
彼女は手で口元を隠し、優しげに語りかけてくる。誰が見ても柔らかな物腰で、聞くに堪えない皮肉を言うとは、誰にも想像できないに違いない。
わたくしは立ち上がり、婦人に礼をする。すると、婦人は心配そうにわたくしに歩み寄り、悲しそうに言った。
「モクセイケーキ、読書なんておやめなさい。御侍様を見て心が痛まないのですか?」
その言葉に、わたくしは何も言えなくなる。すると婦人は華やかに微笑んだ。
「筆も墨ももうすぐなくなります。買い足さないと、あなたの御侍様は勉強ができませんよ」
そして、婦人は眉を寄せて目を細める。そして後ろにいる御侍様を見て、溜息をついた。
「御侍様はあなたとは違うわ。勉強できないと、今年もきっと……ねぇ?」
如何にも心配してますと言う様子で品を作ってそう呟いた。 御侍様は、視線を逸らすと俯いてしまう。
その見るに堪えないやり取りに、わたくしは目を瞑り、歯を食いしばる。そして、溢れ出る嫌悪感を、なんとか押しのけ、引き攣った笑みを浮かべた。
「承知いたしました。すぐに買いに行きますので、どうかご心配なさらないよう」
奥様が言い終わらないうちに、わたくしは再び頭を下げて、そのまま二人の横を通り、廊下へと出た。
――奥様が何を考えているのかはわかる。わたくしの顔を見たくないだけ……
御侍様は、奥様には逆らえない。いつだっていいなりである。そんな御侍様に、内心がっかりしている。
(それでも、わたくしは御侍様を嫌いにはなれない。彼はずっと、わたくしの大切な御侍様……)
そこで小さく嘆息し、わたくしはもうそのことについて思考するのを止めた。
***
庭を出たわたくしの耳に、甲高い奥様の愚痴が聞こえる。そんな奥様を御侍様は優しく宥めている。
「どうして……こんな風になっちゃったの?」
手にした書巻を握りしめ、やり場のない悲しみを、小さな溜息として吐き出した。
(またかつてのように、御侍様と本を読み、語らい、楽しい時間を過ごしたい……)
わたくしの願いは、ただそれだけだった。
Ⅱ 見知らぬ知人
(※新しいものにさしかわっていたので更新。一部誤字と思われる箇所を編集者の判断で変更して記載しています)
買い物をするため町に出たわたくしは、どうしてもすぐお店に向かう気になれなかった。
だからと言って、行く宛がある訳でもない。目的もなくぼんやりと道を歩いた。見慣れた街の風景が目の前を過ぎ去っていく。
しかし、それは映像として目に映しているいるだけで、思考はそこにはなかった。わたくしは、まだ今のような状態になる前の、楽しい日々を追想していた。
***
わたくしと御侍様は、暇さえあれば町の書店に足を運んでいた。既に店員には顔を覚えられ、読書の趣味まで把握されているという、少し恥ずかしいような、そんな状態だった。
その日も、わたくしと御侍様は嬉々としてそれぞれ選んだ本を購入した。
新しい本を早く読みたくて、わたくしたちは急いで家路へと向かう。そのとき、ふと装飾品の店で御侍様が足を止める。どうしたのかとわたくしも立ち止まった。
すると御侍様は、店内で蓮華のかんざしを購入し、わたくしの髪に差してくれた。そして「モクセイケーキにきっと似合うと思って」と、少しはにかんで笑った。
(それは、懐かしい――そして、甘酸っぱい想い出……)
***
(わかっている……あれはもう昔のことだ)
もう取り戻せない日々。そう理解していても、辛いものは辛い。
悲しみに心を引っ張られつつ、わたくしは文房四宝を商う店の前に来た。ここには、筆と硯、そして紙と墨が売っている。
店の主人はわたくしを見ると、温かく迎えてくれた。わたくしは曇った顔を隠すように、懸命に笑顔を作って店へと入った。
店主から、何が欲しいのかと尋ねられ、わたくしは一瞬、躊躇してしまう。家には、筆や墨の予備は十分にあった。足りてないわけではないのだ。
このお使いは、ただ、奥様がわたくしの姿を家で見たくないという理由から下されたものだった。
こんなことが毎日繰り返されている。買い物を言いつけられるか、使用人の手伝いをさせられるか――そんなことばかりだ。
本当に手伝いをするだけなら、どうということはない。
しかし、わたくしを嫌っている奥様のことを思い出すと、心が辛くなる。
御侍様が、奥様の家に婿入りしてから様々なことが変わってしまった。
(そうだ、婿入りと言ってはいけない。書類上は嫁入りだ。婿入りした人は、役人の採用試験に合格できないから……)
御侍様は、ずっと国の役人になりたがっていた。試験に受かれば、その者の一族は、地位と安泰が約束される。
だから御侍様はどうしても役人になりたかった。もう何年も試験に落ちているが、それでも受けることをやめない。
いよいよどうしようもなくなり、彼は国に権力のある者の一人娘と婚姻を結ぶことにした。
そうなれば、今年こそ役人になれる――そう信じて疑わない。
(御侍様の夢が叶えば、わたくしの我慢など、取るにならない……)
徒然なく思考は巡っていく。しかし、取り立ててこれに意味がある訳ではない。気を紛らわせている行為に過ぎなかった。
そこで我に返り、頭を振った。駄目だ、嫌な考えにならないようにしないと――そう思った瞬間、誰かにぶつかってしまった。
驚いて顔を上げると、サラサラな黒髪で切れ長の目をした男性の姿があった。
わたくしは慌てて身を引き、手を合わせて何度も何度も頭を下げた。
「ご……ごめんなさい、わざとではありません」
たどたどしく呟いたわたくしに、その人は呆然と目を見開いていた。
改めて青年に目を向けると、道服を着た、優しく上品そうな顔立ちをしている。
「あ、あの……本当に、申し訳ありません……」
もう一度謝ったわたくしに、やっとのことでその青年は口を開いた。
「モクセイ……ケーキ?」
「えっ?」
間違いなく、彼はわたくしの名を呼んだ。わたくしは、彼のことを知らない――筈だ。記憶を懸命に探るも、思い当たる人は出てこない。
(この人は……誰?)
わたくしは、まっすぐにその青年を見つめ、彼の反応を大人しく待った。
Ⅲ 占い
(※新しいものにさしかわっていたので更新しました。)
「ですから、貴方はなぜわたくしの名をご存じなのです?」
あの後、青年は詫びとしてわたくしに食事を奢れ、と言い出した。
ぶつかったのはわたくしで、明らかに非はこちら側にある。それに、わたくしは気になっていた――何故彼が、わたくしの名を知っているのか、を。
向かい合ってテーブルに座り、わたくしは眉を顰めて、目の前で優雅に食事をする青年を見つめる。
初めて会う人の筈なのに、心に浮かぶ違和感は拭えない。
――わたくしは、彼を知っている。
この感覚は、間違いないと直感した。
本来なら、わたくしに非がある状況なので、もう少し改まった話し方をしている筈だ。なのに、今のわたくしはまるで遠慮のない口調になっていた。
「何を黙っているの?わたくしが召使いだからって、馬鹿にしているの?」
ジロリと睨みつけると、青年はその細い目を、驚くほど大きく見開いた。
「召使いだって?」
青年は食事の手を止め、顔を上げてわたくしを見る。そして不思議そうに尋ねてきた。
「さっきも聞いた気がするが……モクセイケーキ、お主は自分のことを召使いだと言うのか」
「何か問題でも?」
思わず眉を顰め、青年の言葉の意味を考えてみた。
「昔のお主は、御侍の食霊であることを誇りに思っていた」
青年はニヒルな笑みを浮かべ、モクセイケーキを挑発するように見つめる。
「それとも、わざと自分を卑下したのか?」
「そ……そんなことありません!」
恥ずかしさと怒りが込み上げ、手に持っていた書巻でテーブルを叩いた。
「そんな失礼な言い方……ひどいわ」
でも彼の言っていることは当たっている。婦人からの扱われ方に不満を持っており、けれど逆らうことはできない――そんな自分を落ち着かせるために、わたくしは自らを卑下しているのだ。
その事実に、悲しくなってわたくしは俯いてしまう。すると、そんなわたくしを目の前の青年は楽し気に笑った。
「フッ……」
「これは失礼……いや、でもおかしくてな。そういうところは、まるで変っていない……!」
わたくしは顔を上げ、ジロリと彼を睨む。すると青年は笑うのを止め、真面目な表情でわたくしを見つめた。
「な、なに……?」
「貧道は黄山毛峰茶(こうざんもうほうちゃ)と言う。太雲観の八卦見(はっかみ)を修めた放浪道士だ」
その名前は初めて聞いた。だけど、不思議としっくりと心に馴染み、何故かずっと昔から知っているような――そんな錯覚に陥る。
「先日の夜、天象を見ると、今日必ず大切な出会いがあると出た。間違いない、お主が貧道と縁のある人なのだろう」
「わ、わたくしのことを……知っているのではないの?」
「貧道が知っているのは、きっとお主ではないのだろう。もう……随分と昔の話だからな」
そう呟いて、黄山毛峰茶と名乗った青年は、払子を振って左手で礼をし、右手で銅銭をわたくしの目の前に差し出した。
「……これも何かの縁だ。ひとつ、卦(か)を立ててやってもいいが――如何か?」
「は?卦……ですって?」
訳がわからず、わたくしは訝し気に彼を凝視する。
「あなたは言っていることがめちゃくちゃです。わたくしには理解ができないわ」
そんなわたくしに柔らかな笑みを浮かべ、黄山毛峰は銅銭をテーブルにばらまいた。
「お主、このところ、不運続きではないか?」
「なんですって?」
「お主だけでない。御侍様も、巡り合わせが悪いのではないか?」
「……どうしてそれを」
驚いたわたくしに、黄山毛峰は話を続ける。
「なるほど、御侍の奥方と折り合いが悪いか」
そうして彼が語り続ける内容は、驚くほど的確だった。
最初は口から出任せを言う詐欺師だと思っていたが、本当に見えているのかもしれない――そう信じ始めてしまう。
「あなた……本当に占えるの?」
それでもすんなりとは受け入れられず、わたくしはそんな風に聞いた。
黄山毛峰はそんなわたくしに肩を落とし、手に持っていた銅銭を一枚、ピンと弾いた。すると、それはわたくしの手にポトリと落ちる。
「『功名』……それが問題の根源だ。違うかな?」
銅銭を見ながらわたくしは暫く呆けてしまったが、おずおずと口を開いた。
「ど、どうして……わかったの」
黄山毛峰茶の言うことに間違いはなかった。すべての根源は国の役員になること――功名を得ることにあるのだ。
地位と安泰――それにふさわしい功名が与えられる。
「もしお主が御侍様の成功を祈るなら……たった一つだけそれを為す術がある」
彼の言葉に、わたくしは唖然としてしまう。何故、彼にそんな方法がわかるのか、まるで理解できなかったからだ。
(いったい……彼は何を言うの?)
わたくしは、彼の言葉をじっと待った。
Ⅳ 不思議な取引
(※新しいものにさしかわっていたので更新しました。)
昔は、御侍様の傍には、わたくししかいなかった。
国のお役人様になる試験に合格するため、御侍様はひたすら勉学に励んでいた。
わたくしは勉強のお手伝いをし、御侍様とひとつ屋根の下で、書物に埋もれる日々を過ごしていた。
わたくしたちは助け合い、共に成長し、それはとても穏やかで楽しい日々だった。
しかしそんな日々は長くは続かなかった。数年たっても御侍様は試験に合格できず、暮らしは少しずつ変わった。
御侍様の顔から笑みが消え、心を打ち明け合うこともなくなって、残ったのは終わりのない沈黙だった。
わたくしはなんとかそれを変えようとしたが、現実の厳しさに抗うことはできなかった。
そして更に数年後――ついに、御侍様は町の大商人である男の一人娘と結婚したのだ。
表向きは嫁入りだったが、誰もがそれを婿入りと笑った。
そうした陰口に、御侍様は歯を食いしばって耐えた。自分の初志のために。
運命は非情だ。その年、国は商人の贈賄を調べ始め、御侍はまたも不合格だった。
元々家で居場所のなかった御侍様とわたくしは、さらに肩身が狭くなった。
その上、苦楽を共にしてきたわたくしと御侍様の絆を愛情と誤解した奥様が、わたくしに対してどんどん意地悪になっていった。
(確かにわたくしは、御侍様が好き。でもそれは、恋愛感情ではないわ……)
長年押さえつけてきた感情が爆発し、洪水のように止めどなくなっていく。
そんなわたくしの話を、黄山毛峰茶は時折相槌を打つ程度でずっと黙って聞いてくれている。
そうして延々とこれまでのことを語っていたら、いつのまにか陽が傾き始めている。
「ごめんなさい。随分と長いことお話していたようね」
黄山毛峰に謝ると、彼はとても驚いた顔をした。
「どうかしたの……?」
「お主は変わらないな、と思ったのだ」
黄山毛峰茶は小さく笑って、わたくしを優しいまなざしで見つめる。
「それは……」
(――何と比べて、変わらない?)
その疑問は解けない。だがわたくしも何故か、この時間を「懐かしい」と感じたのだ。
(かつて、こんな時間を何度となく過ごした気がする……)
記憶にはない、不思議な感覚。
わたくしが戸惑っていると、彼は不意に銅銭を弾く。そして、手のひらで受けた銅銭を見てからこう言った。
「その問題はすぐに解決する。お主が御侍様と別れればいいのだ」
「わ、別れる……?御侍様と?」
唐突な話に、怒るよりなにより、呆然としてしまう。
「でも焦る必要はない。貧道は解決方法を言っただけだ」
「勿論だわ。そんなこと言われたって、急には受け入れられない……」
「……そんなこと言われても」
「承知するだけでいい。今年、お主の御侍様が役人の試験に合格したら、彼の元を離れると誓ってくれ」
以前であれば、こんな話を持ち掛けられても、私は一顧だにしなかっただろう。
しかし長い年月が経ち、わたくしと御侍様の間の感情は、明らかに変わってきている。
今のわたくしには、御侍様を助ける力がない。それだけははっきりしていた。
その時不意に頭の片隅に、かつて見た御侍様の笑顔が浮かんだ。
きっと試験に合格したら、また御侍様も笑えるようになるだろう。わたくしは彼と契約している食霊として、彼が幸せであることを望む。
(もうわたくしには、何もできない。日々居心地の悪さを感じながら、荒んでいく御侍様を見守ることしか……)
その現実に、わたくしは些か疲れていたのだろう。この突拍子もない話を、何故か信じてみたくなったのだ。
(――これで、御侍様の願いが叶うのなら)
神にも縋る気持ち、というのはこういう時に使う言葉だろうか。そのくらい、わたくしの心は疲弊していた。
「モクセイケーキ、聞いてくれ。私は必ず試験に合格する。そして長官になった暁には、きっと君にいい暮らしをさせてやるから」
だから、ずっとこうして私の傍にいてくれ、と御侍様は微笑んだ。そんな彼の望みをわたくしは叶えたかった。
それは、懐かしい昔話。今はもう、その笑顔も消え去って、生気のない悲しみを纏った表情に変わった。
(それでも、彼はわたくしの大切な御侍様……)
わたくしは目を閉じ、小さな声で答えた。
「もし御侍様が幸せになるのなら、わたくしは言う通りにします。彼の元を離れましょう」
***
半年後、わたくしはお祝いの飾りをつけた家の門を潜った。
そこには黄山毛峰茶の姿がある。彼は、黙ってわたくしの手にしていた荷物を持ってくれた。
そして、黄山毛峰山が歩き出す。わたくしはその後ろを黙ってついていく。
そばにはわたくしの荷物を持つ黄山毛峰が、はるか後ろには手を振る御侍様がいる。
「……モクセイケーキ!」
そのよく耳に馴染んだ声に、わたくしは立ち止まる。御侍様の声は、決して聞き間違えない。わたくしはゆっくりと振り返った。
「戻ってきてくれ……!やっと夢が叶うんだ。これでやっと君を楽にしてやれる……この日の為に、私は頑張って来たんだ。だから……!」
御侍様が声の限りで叫ぶ。そんな声はここ最近では聞いたことがなかった。
(御侍様の心に、少しはわたくしに対する気持ちが残っていたのかしら……)
そんな風に考えて、わたくしは息苦しくなる。
「……行くぞ」
黄山毛峰茶の声が響く。
(そうだ。彼と約束をした。御侍様が試験に受かったら、ここを去る――と)
御侍様が試験に合格するために、彼は何かしたのだろうか?
そんな疑問を抱くも、わたくしにはそれを確かめる術はない。
御侍様は何年も受からなかった試験に今年ようやく合格した……ただ、その事実があるだけ。
わたくしは御侍様に深々と頭を下げた。これまでの感謝の気持ちを強く込めて。
(大好きな御侍様。それは、これからも変わらない――)
そしてわたくしは、黄山毛峰茶の用意した馬車へと乗り込んだ。
「ちゃんと御侍には言ったのか?」
黄山毛峰は優しく聞いた。
「ちゃんと、かはわかりませんが。わたくしが去ればすべてうまくいくのだと伝えました」
「それでいい。それ以上のことは知る必要はない」
「御侍様の願いが叶ったのです。わたくしも約束を守ります」
そう小さく呟いて、わたくしは顔を上げた。
「それで、貴方はわたくしをどこに連れて行くおつもりです?わたくしを売り飛ばそうとでも思っているのかしら」
「なるほど、なかなか面白いことを言う。そうか……君はまだ思い出していないのか」
「思い出すって、何を?」
「いや、いい。懐かしい……青臭い、昔話だ。今のお主には関係のないことだ」
そう黄山毛峰茶は豪快に笑った。何がそんなにおかしいのかわたくしにはわからず、首を傾げるしかできない。
「行く先について、お主は考えなくていい。少しばかり遠い場所だ。気楽に諸国を観光しながら旅を楽しんでくれ」
Ⅴモクセイケーキ
(※新しいものにさしかわっていたので更新しました。)
安義国はティアラ大陸にある地味な小国だ。
この国では最近、全国的な国家役員の採用試験が実施された。今はその採点中だ。
年配の試験官が二人、集めた答案用紙を一枚一枚丁寧に採点している。
「上が言っていたのは、この張霖であろう?確か六年前から試験を受け続けている」
その男は何かに気づいた様子で、手元の答案用紙を引っ張り出して隣の男に見せた。
「うむ、間違いない。彼の文体は知っている。政治論文もよくできている」
男は眼鏡を手で押さえ、答案用紙をひっくり返してからこう言った。
「上の意向は?」
「上位合格者に入れろ、とのことだ」
眼鏡の中央部分を指でくいと上げ、男は頭を振り、忌々しく嘆息する。
彼のような学究の徒は、こうしたことを嫌悪する。だが、長年試験官をやっていると、こういうことも当たり前になってしまう。
「上の意向には逆らえないからな」
もう一人の男が笑いながら自分の顎髭を撫でて笑った。
「それにしても、この張霖(ちょうりん)という男、トップにはわずかに及ばないまでも、上位三人には入るだろう」
「……そうだな。この五年、上が彼にしたことは、とても公平とは言えない。それでも彼は努力を重ね、試験を受け続けた。ここまでやり続けることは、容易なことではない」
「そもそも、なぜ上はこれまで五年もの間、彼を合格させなかったんだ?ギリギリの合格でさえも許さなかったのは何故だ?」
「みんな、彼の食霊の祟りだ」
その問いに対面の男は小さな声で答えた。
「四十年前、同盟国で起こった反乱を覚えていないか?」
「もしや……彼の食霊の名は」
「モクセイケーキと言ったな」
男は驚いて声を上げる。
「それは……!だがモクセイケーキは、反乱で死んだのではなかったか?」
「食霊のことだ。何か記録が残っている訳ではない。本当のところはわからんさ。風の噂では、反乱軍の長には孫がいてな。その男の元にまた現れたと言う……」
「それが、張霖だと……?」
「さて、どうかね。所詮はつまらぬ噂話だ」
彼は答案用紙に向き直る。どうやら、これ以上この話題を続けたくないようだ。
それでも顎髭の男は食い下がった。あまりに気になって、このままでは残りの採点に集中できない。だから、更に身を乗り出して更に訊ねた。
「じゃあ、今回上が譲歩したのは……? どんな理由があったんだ?」
「モクセイケーキの姿が見えなくなったそうだ。そうなれば、彼を受からせない謂れはない」
「姿を消した……?」
「手引きした者がいるようだな」
「もしや、黄山毛峰茶とかいう死神、まだ生きてるのか?」
「しっ……!」
眼鏡の男が、ジロリと顎髭の男を睨んだ。
「口を慎め。誰が聞いているかわからんぞ」
***
その後、モクセイケーキは黄山毛峰茶と旅を続ける。時には、悩める食霊の手助けをしたり。時には、臨時で料理御侍と契約し、ギルドの依頼をこなしたり。
そうして、彼女は黄山毛峰山に連れられ、辺境の小さな国にある道教の寺院までやってきた。
そこでの話は、また別の話。彼女の旅はまだこれからも続く――新しい御侍に出会う、その日まで。
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