鴨のコンフィ・エピソード
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鴨のコンフィのエピソード
元御侍の強すぎる名利心に耐えきれず、自らの力で知識を学ぶようになり、次第に今のような全てを見通している淡々とした姿になった。ただ一つの欲望は、この世界がどのように変わっていくのかを見届けるために、できるだけ長く生きたいと願っている。
Ⅰ.万華鏡
クリスタルのシャンデリアがホールを照らす、その眩さで人々の顔がぼやけて見えない。
退屈な旋律が繰り返され、夜をとてつもなく長く感じさせた。
長時間腕で体を支えたからか、なんだか痛くなってきた。だけど、目の前の男は手を止めるつもりはないようだ。
私は体勢を崩さずため息をつきながら、このアマチュア「画家」が仕事を終えるのをじっと待つしかなかった。
ふと、遠くのショーウィンドウに見える精緻な展示品に親近感が湧いた。
しかし、それらは自分の姿を群衆に見せるために、騒音と視線の中にいる必要はない。
「コンフィ嬢の美貌を100万分の1も再現できないのは、至極残念です。私がミードほど絵が上手だったらなぁ……」
男はとても残念そうに感嘆している。彼の言う「ミード」とは私の御侍だ。しかし、褒められているミードは、何故か少し不安そうに見える。
「ハハッ……こっ、公爵様、またまたご冗談を。貴方様のセンスと才能は素晴らしいですよ!」
「ええ、御侍の言う通りですわ。公爵様は謙虚すぎます」
「ところで、コンフィ嬢がイルヴェスという本を探しているそうですね。その本に関する情報が、ちょうど私のところに入りましたよ……」
私は顔色を変えずに一歩後ろに退いて、男が私の方に向かって伸ばした手を避け、いつも通りの丁寧な笑顔だけを返した。
「……公爵様のご厚意には感謝しますが、あの本には名前がなく、あくまでイルヴェスが書いたものなのです。博識の公爵様がそんな小さなミスをするとは思えませんわ」
「コホンッ、確かにそうだったな。私としたことが、こんなミスを……ハハハッ」
公爵にお辞儀をした後、その場から離れようとしたら、また数人が私に歩み寄ってきた。
ファンデーションとアルコールの匂いが混ざり合い、五感を鞭で叩かれたような頭痛がする。
その意味のない会話はいつ終わるのかしら。
「リーガル公爵ぐらいにならないと、あなたのようなクールビューティーをお誘いできないのですね。はぁ、私も貴方の肖像画が欲しかったです」
「コンフィ嬢の予約は来月まで埋まっているのは残念だ。そうでなければ、新しく作ったワインの試飲会に招待したかったです」
……
冷たく、少し刺激のある液体が、喉を通っていく。一瞬その刺激で頭がスッキリするが、すぐに痺れるような感覚しか残らなくなる。
観客がいなくなるまで、私は隅に隠れ、舞踏会の終わりを静かに待った。
ドーム状の天井に飾られた灯りはまだ会場全体を照らしている、まるで巨大な万華鏡のようだ。
それに包まれた人々は、まるでガラスの破片のように、たゆまぬ努力で転がり、踊っている。
私は何か新しいものを見つけようと窓の外に目をやったが、ガラスに映るのは乱雑な人影だけだった。
談笑している男女、それを追いかける侍従たち、そして自分。
私は疲れを感じ、嫌悪感を覚えた。
同じ場所にいる私には、彼らを嗤う資格なんてあるのかしら。
誰に言われなくとも、私にはわかっている。彼らの目には、私は綺麗なお人形にしか映らない。
彼らにとって、私のような合格な付属品は、喜びや楽しみの価値が提供できればそれだけで十分なんだ。
楽器の音色が渦巻いている、まるで時間が止まっているように感じる。
言い訳をしてそろそろ帰ろうと思った時、不思議な眩暈がした。
ほとんど同時に、人混みを越えて、誰かが私を見つめているような、そんな漠然とした視線も感じた。
もしかして、さっきのお酒のせい……
視線を強く感じ、私はこめかみを押さえながら急いで立ち上がった。
夜の静けさがプロムナードを包み込み、新鮮な空気を吸い込んだおかげで少しだけ眩暈が和らいだ。
背後の影から、やはり視線を感じる。
私を尾行しているのか……
私はただ歩幅を緩めた。すると両側の白いバラの香りに少しだけ絵の具の匂いが混ざっているのに気付く……
「……御侍」
一瞬、時が止まった。次の瞬間見慣れた姿が目の前に現れた。
「やっぱり、バレてしまったか……」
「どうしてお酒に薬を仕込んだの?」
「どうしてって……私に何ができると思う?リーガル公爵が貴方を大層気に入っているんだ……」
「……」
「言いたいことはわかる。だけど貴方は私を責められる立場にあるのか?私なしで、貴方は今の全てを手に入れられると思っているのか?!」
「私は貴族たちのために一生懸命絵を描き、どんな注文でもこなしてきた。だけど……最初から最後まで、ただの下っ端の画家としてしか扱われなかった……ハハッ……」
男は包み隠さず叫んだ、その青白い顔には次第に恨みと憤りが広がる。
「しかしお前はどうだ?何でお前はこんなにも簡単に名誉を手に入れられるんだ?!その綺麗な外見があるからか?しかし、お前は空っぽだ!魂のない、ただの操り人形にすぎない!」
……
魂のない……操り人形……
反論する気はなかったけれど、何故かこの時だけ、急に心が冷えてドロドロになった。
次の瞬間、更に重い眩暈に襲われた。
すると御侍に手首を掴まれ、そして彼の口調は妙に強くなった。まるで知らない人のようだ。
「どうせすぐに薬が効いてくる。今日はもう逃がさない……!君を公爵に渡せば……私は……欲しいものを全部手に入れられる!」
「御侍……!」
その手を振り払おうとしたが、体が薬で弱まっていて力が出せない。
呆然としていると、後ろから聞き覚えのない声がした。
「失礼、公爵のパーティーで女性を恐喝するのは良くないと思いますよ」
しかし、そのぼやけた人影を見る前に意識が途切れてしまった。
Ⅱ.黄金の檻
「あの売れない画家のモデル?彼女はいつも本で素振りをしているが、えらいのは顔だけのようね〜」
「だから彼女が人気だとしても、金持ちの目新しいおもちゃに過ぎないわ。」
「そうよね。人形がどれほど美しくても、所詮は人形よね」
密集した群衆が私を取り囲み、金の糸が私の頭に絡みついて檻のようになっている。
その後に続く言葉は、私に降り注ぐ冷たい雨のように、肌の奥まで染み込んだ。そして、視線は炎のように燃え上がり、私には逃げ場がなくなってしまった。
私はこんなの望んでない!
氷と炎が溶け合い、黄金の檻は灰となり、私の体は磁器のかけらとなった…………。
……
寒さの震えから目を覚ますと、柔らかなベッドに横たわっていてた。
バラの香りがする。目の前には豪華で洗練された部屋が拡がっていた。
ここは……?
タイミングよくドアがノックされた。
老人は上品な服を身に着けているが、彼はただ微笑んでいる。
「緊張しないでください、鴨のコンフィさん。私の名はサドフです。」
「検診と治療は一旦終了しましたが、具合はどうですか?リーガル公爵については、彼が常軌を逸したことをしたのは今に始まったことではありませんし、何らかの罰を受けるべきでしょう。」
その声が、気絶する前の声と次第に重なっていく。
私を救ってくれたのは、この老人のようね。
「ありがとうございます、サドフさん。あなたのご恩に報いるために、できる限りのことをさせていただきます。」
「どういたしまして。たとえその画家があなたの御侍であっても、あなたは彼が自由に使える交渉の道具ではありません」
……
一瞬、驚きと戸惑いが羽のように心を覆い、かなりシュールな感覚だ。
そして、豪快な笑い声が沈黙を破り、また思いがけない言葉が続く。
「鴨のコンフィさんもイベルスの詩が好きなんですね」
「ああ、ごめんなさい。あなたが気絶したときに本を落としてしまって、ちょっと読んでみたんだ。」
「いいえ。少しびっくりしました。」
「イベルスは素晴らしい詩人です。残念ながら彼を理解してくれる人は少なくてね、それにその本の後半が完成する前に彼は他界したんだ。」
サドフは小さくため息をつき、その瞳に悔しさを滲ませた。
私の返事を待たずに、彼は再び愛想のいい笑みを浮かべた。
「しかし、君の書いた脚注を読んだら、私と全く違う解読をお持ちのようですね。たまたま宮中の図書館に後半の巻の写本があるから、興味があったら遠慮なくお越しください。」
「……お誘いありがとうございます。」
「よろしければ、この栞、私たちの出会いのプレゼントとしてお持ちください。」
小さくて精巧な栞を手のひらで撫でると、指先がふわりと香る。
今迄感じたことのない恍惚感が湧き上がり、サドフが去って初めて、私は次第に悟った……
貴族からの誘いではなく、あれは真摯で対等な交流だったのだ。
長い間、籠の鎖に縛られて、まだ完全に消されていない魂が隅にあることを忘れかけていたことに気づいたのは、随分後の話だ。
この特別な出会いが秘密の庭へと導く鍵のようになった。あれから、私とサドフとの関係はより親密となった。
時折、彼は本を気前よくくれたり、あらゆる誘いを巧みに断ってくれたりした。
サドフは、あれら仮面を被っている人たちとは違い、真面目で謙虚な人だ。私にとっては年上の友人のような存在だった。
「誰の心の中にも、未開の森や、未踏の雪原が存在する。でも、いつかそこに春や星が迎えるかもしれない。」
いつぬまにか、ページに書かれた白黒の文字を見ていると、行間にうっすらと色が見えるようになった。
サドフとの関係が、貴族の話題の一つになっていることに気づいたのは、しばらくしてからだった。
明るい服装の女性たちの笑顔は微妙で、その口調は嘲笑に満ちていた。
「今日はモデル嬢がサドフ様と一緒に来ているのですね。モデル嬢がこんなに喜んで来てくれるのは初めてです」
「ふふ、私も鴨のコンフィ嬢といい友達になりたいですわ」
「……」
詮索と視線が注がれたが、サドフは慌てずに口を開いた。
「ああ、お嬢さん方。もっと早く彼女を連れてきて、養父として皆さんにご挨拶をすべきでした。しかし……鴨のコンフィ嬢のためにも、この身分のせいで彼女に無用な迷惑をかけたくはなかったのですよ。」
……養父!?
予想外の言葉に一瞬頭の中が真っ白になった。
目の前の女性も明らかにこの返答は予想していなかったようで、その笑顔は次第に次第に凍りつき、硬直してしまった。
「ホホホホ……サドフさんの娘さんだったのですね。私ったら勝手に……。」
「いいえ、いいんです。まだ手続きが残っているため、関係を公表していないだけです……彼女の評判を落とさないためにも、今は秘密にしておいてください。」
「わ、わかりましたわ……それでは、失礼いたします。」
慌てて逃げる彼女たちの背中を見て、少し呆気にとられた。
彼女たちの目からも、恐怖の色が見えた。しかし、それは私からのものではなかった。
またしても、私は彼に守られていたのか……。
言いようのない胸の高鳴りを抑え、何事もなかったかのように口角を上げた。
しかし、それを察したのか、サドフは私の視線を受け止め、いつもの優しい微笑みに意味深な言葉を添えて言った。
「美しいバラには棘があるという言葉を聞いたことがありませんか?」
「貴方もそのバラになれます。自分は単なる美しい人形じゃないことを証明できます。」
Ⅲ.計画
「チッ、あのザバイオーネっていう食霊は、自分の御侍が大臣なのをいいことに皆をバカにしてるだけじゃないか?厚かましいにもほとがあるぞ。」
「そうな、酒色に溺れる奴に何ができる!」
「今夜の作戦が成功したら、あいつら泣くぞ…ハハハハハ!」
グラスには貴族たちの酔っぱらった無様な顔が映り、中の液体は彼らが笑うとともに揺さぶられる。
私はその言葉を気にすることなく、ソファにもたれかかった。
いつも上品で優雅なこの紳士も、陰ではこんな嫌味を積み重ねていたようだ。
その時、遠くで急に賑やかな動きがあった。
視線を向けると、その中に長身でハンサムで雄弁な金髪の男性がいる。他ならぬザバイオーネだ。
しかし、私は彼に気づかれないよう、すぐに視線をそらした。
「そういえば、モデルお嬢さん、舞踏会の招待はもう承諾したんでしょう?忘れないでください。行動開始時間は今夜だ。」
「ふふ。お嬢さんに感謝しますよ。そうでなければ、あの親愛なる養父がこんなにスムーズに私たちの手に渡ることはないでしょう。あなたもあの偽善者に長い間我慢していたようですね」
私と淡々と話を合わせてやった。その公然としたドヤ顔を直視することを避けたくて、ワイングラスを持ち上げて視野を遮った。
サドフの計画で、今夜、彼は敵対する貴族に『誘拐され、迫害され、殺される』ことになる。
彼の体はとっくに弱っているが、その理想と執念のためなら、自分の時間を早く終わらせることも厭わない……。
……
「ご存知ですか、タルタロス計画。」
夜の静寂の中、サドフは窓枠に腰掛け、ただでさえ細い体を月明かりで弱々しく見えた。
聞いたことのない言葉が私の耳に飛び込んできた。ただ素直に首を横に振るしかなかった。
「言うなれば、これが私が旅立つ前に最も成し遂げたいことです。」
老人は語り始めた。果てしない夜に視線を投げ、まるで千の思い出を醸し出しているようだった。
そしてその夜、私はタルタロス計画という、食霊と人間が対等に暮らせるよつにするための計画を知った。
彼は多くを語らなかったが、私は彼が長い間それに取り組んできたことを理解した。 反対派を排除するため、自分を犠牲にしてもかまわないと、彼は目を輝かせて提案したのだ。
心苦しいが、必要不可欠なステップだった。
忠実な臣下を拷問して死に至らしめることが、今のところ最も適切な罪名だ。
「貴族たちを引き出すには、貴方の食霊ーーザバイオーネを手放す必要があります。」
「わかった。」
あまりに快く受け入れたか、サドフの顔にはかえって驚きとためらいの色が浮かんだ。
「貴方を騙したくない。だから告白させてもらおう。あなたを助けた理由のひとつは、あの貴族たちの不満をわざと買うつもりだった。私は……最初からあなたを利用していた。」
「しかし、サドフが私を利用しなければ、私は永遠に黄金の檻に閉じ込められていたでしょう、そして……あなた唯一、誠実に接してくれた人です。」
「実際……できることなら、あなたを巻き込みたくない。」
「これがサドフの理想なら、その理想を実現してあげましょう。」
何しろ……薔薇に土と露を与えたのは、あなたなのですから。
言いたかった言葉が喉に詰まって、結局口に出すことはなかった。
でも、あの図書館に足を踏み入れてよかった。
それについて、私は一度も後悔したこともなかった。
「ガチャン…」
闇が訪れ、鐘が舞踏会の開始を宣告している。
ふと我に返り、スカートを整えて談笑しているザバイオーネに歩み寄った。
彼はすぐに私に気づいた。皮肉な笑みを浮かべながらも、その態度は依然として優雅だった。
彼はまぁ、この夜の出来事には気づいていないようね。
しかし、彼の謎めいた目を見たとき、私は漠然とした不安をこらえ、すべてが作戦通りに進んでいると自分を何度も慰めた。
この作戦はきっとうまくいくと思っていた。しかし、時の針が動く時、私は自分が思っていたよりずっと判断力に欠けていることに気づくべきだった。
「ねえ、手を組んでこの貴族たちを皆殺しにしましょう。」
まるで普通の宴会を祝うかのようにグラスを高く掲げた。グラスに映っているのは男の傲慢な姿、彼の目には欲望が臆面もなく広がっている。彼の実力なら、この場を血の饗宴にすることだって容易いことだ。
しかし、彼がここを去った瞬間、その思いがよぎり、縛り上げられて虐待される、孤立無援な老人の姿が浮かんだ。
もし、サドフが本当に彼の望み通りに死んだら、私はこの時の自分を許せるだろうか……。
だめ!
雷に打たれたかのように全身を震わせ、ほとんど無意識のうちに唇と喉が迷いを打ち破った。
「やはり、一つ忠告をさせてください。」
お願い、サドフを助けて。
サドフを救えるのは彼だけだ。
しかし、目の前の男が、私の予想をはるかに超えた狂気を隠し持っていることだけは、予想外であった。
閉会ベルが鳴る前に、舞踏会は終わりを告げていた。
Ⅳ.牢屋
「0044号、ここが君の監房だ」
「君の罪は養父の仇を討つために人を殺した事だと聞いた。チッ、とうでもいいが、お前は一生ここにいて反省しろ」
灰色の鉄の扉がゆっくりと閉まり、周囲には静寂だけが残った。
周りを見渡すと、目の前の部屋は、ガランとしている事を除けば、思ったよりも綺麗に整頓されていた。
しかし、机の上に置かれた場違いな白いバラや、壁一面を占めている大きな本棚を見て、思わず噴き出してしまった。
ここまで考えていたのね。
カーテンの向こうには紺色の深海が広がっている。空から注ぎ込む日差しが、不思議な色を反射している。
この海底牢獄は実に壮麗であった。
しかし、華やかな邸宅やダンスフロアよりも静かで、もはや不当な妨害に晒されることはないだろう。
自由を失うことで得られる安らぎは、それほど悪いものでないように思えた。
自分がどこにいるかなんて、もうどうでもよかった。
タルタロス計画は中断されなかった。そして、サドフの願いも絶たれなかった。それだけで十分だった。
私は手にした栞を握りしめ、そこに描かれた花は少し枯れている。
唯一の心残りは、おそらくもう二度と彼に直接尋ねることができないことだ。
私は、自分が人形以上の存在であることを証明するという約束を果たせただろうか……
しかし、結局のところ、その問いに答えることができるのは、私自身であることを私は知っている。
ここでは、時間は凍りついている。海は無限の深淵であり、季節の移り変わりを示すのは、時折回遊する魚の群れだけだ。
「トンッ、トンッ」
チェスで檻を軽快に叩く音で顔を上げると、黒髪の少年が笑顔で真っすぐこちらを見ていた。
0013号、ハギスだ。
こんな監獄に放り込まれても、その無邪気な表情は普通の少年と何ら変わりはない。
「お姉ちゃん、一緒にチェスをしようよ!」
「昨日十分付き合ってあげたでしょう?そこの0048号を誘ってみたら?」
「えーと……ジンに言われて誘いに来たの。お姉ちゃんがすごいのはわかったけど、でも、もうちょっとだけ付き合ってくれない?」
「……」
わざと負ければよかったのだけど。
どう答えていいか迷った私は、ただただ隣の扉に目を向けた。銀髪の青年はここに入って間もないが、いつも何も言わず隅に一人で座っているだけ。眉をひそめて、心の中に何かを隠しているようだ。
特に今日、自分によく似た女に会ってからは、すっかり自分を海底に埋めようとしている。
それにしても、こんなひどい環境で自分だけの世界に閉じこもるのはよくない。
ため息をつきながら監獄の外に出た私は、目を輝かせるハギスに申し訳なさそうに手を伸ばした。
「ハギス、ちょっとチェスの駒を貸してくれない?うまくいけば、遊んでやれる人が一人増えるかもしれないよ」
「えっ?本当?!」
あからさま過ぎた私の言葉に、0048号はようやくこちらに目を向けた。
私はその隙を突いて、彼の牢屋の前にチェス盤を差し出した。
「0048号、貴方も私とチェスをしない?もし貴方が負けたら、一つだけ約束をして欲しい。もし私に勝ったら……ハギスが貴方に迷惑をかけないようにするわ」
「……?」
青年は少し怪訝そうに私を見て考えた後、私の誘いに乗ってくれた。
「うぅ……うぅ……先生、なの……?」
腕の痛みは時間が経った証だ。ハギスは既に眠気に襲われていたを
顔をしかめながらも駒を握りしめて諦めないジンを横目で見て、首を横に振る。
こんなにしつこくて、負けを認めない子供っぽい性格だと知っていたら、こんな方法を選ばなかった。
「……この勝負にまた負けたら、約束は一つじゃ済まないわよ?」
「……もう十分だ、今日負けたのは私の方です。約束したことは最後までやり遂げます」
結局、ジンは負けを認め、まるで私の言いなりになるかのよに振る舞った。
落ち込んで悔しいみたいだ。
靄をざっと取り除いた後、残ったのは潔白な魂。
私の推察はちゃんと合っていたたいた。
何が彼をそうさせたのか、好奇心にそそられた私はこう訊ねた。
「そうね……貴方が心の中で不満に思っている事を、全て私に話して」
「……」
「急ぐ必要はないわ、時間はたっぷりある。ゆっくりでいいよ」
私は立ち上がり、彼が予想通りの難しい顔を浮かべているのを見ながら、窓際に戻った。すると寝ていたハギスは、目をこすりながら起きてきた。
「あれ……もう終わったの……ジン!その手に持っているのはもしかして……!僕とチェスをしてくれるの?!やったー!」
明らかにまだ反応できていない青年に向かって、興奮気味に突進していくハギスに、私は思わず口角を上げた。
これからの生活は退屈しなさそうね。
たまにもスパイスが必要だわ。うん、悪くない。
Ⅴ.鴨のコンフィ
朝日が昇る。豪華な馬車は移動している。車輪は積もった雪を軋んでいく。
チェダーチーズは金色のカーテンから顔を出し、窓の外に乗り出した。
「ああ……やっぱり馬車じゃ遅すぎる!バイクの方が早いのに!」
「チェダー!揺らすな!馬車がひっくり返る!こんなんで食事なんてできないだろ……」
「あれ、お菓子を隠し持ってるな!俺も食べたい!」
「やめろ、この狂人!これは俺のおやつだ!」
「タイガー……チェダー……馬車の上で喧嘩しないで……」
騒がしい話し声はすぐに車輪の音を搔き消した。
鴨のコンフィは静かに本のページをめくっている。この状況に慣れているようだ。
彼らに加わった彼女は、サーカスを丸ごと焼き尽くすという狂気的な行動がなければ、おそらくもう眉一つ動かすことはないだろう。
「法王庁までまだ距離がある。騒音が嫌なら他の車にしてもいいですよ」
カイザーシュマーレンはカップをテーブルの向こうに押しやり、紅茶の上品な香りが漂っている。
「この程度の騒音は大丈夫よ。馬車がひっくり返らなければ」
「ふふっ、忘れるところだった。貴方も騒がしいところの出身でしたね」
「……過去の話をしてしまって申し訳ない。それにしても、その栞を随分と気に入っているようですね」
彼は何気なく尋ねたが、彼女はその質問に、ぎょっとした。
彼女は手元にひっそりと横たわる栞に視線を向け、やや黄ばんだそれが朝の光に包まれ、そこに描かれている花びらが咲き乱れている。
「使い慣れている……だけよ」
凛とした彼女の声は突然優しくなり、そして珍しく口元に笑みが浮かんでいた。それを見て、カイザーシュマーレンは少し驚いた。
同時に、たまたま窓のそばを白い鳥が通りかかり、その鳴き声は春の香りを運んできた。
彼女の目には、優しくもしっかりとした光が宿っている。
その見えない心の奥底で、当初の質問が少しずつ答えが見つかっているようだ。
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