春雨サラダ・エピソード
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春雨サラダのエピソード
見た目は優しい美人ながら、性格は電波系、周囲が同情しようにも戸惑ってしまうタイプ。雨の滴りを見ただけで感傷に浸り涙ぐむが、その嘆きの理由が「春雨がふやけて美味しくない」など、どうにも共感しづらいものばかり。繊細な感受性と荒唐無邪気な発想を併せ持ち、それを自称・天才小説家の根拠にしているものの、残念ながら文章力は低く、しかも締切を守れないため、未だに一冊も作品を完成させたことがありません。
Ⅰ.暮春
もう…終わりですか
冷たい雨粒が頬を撫で、涙のように流れ落ち、窓の外の土に消えていく
広い大地は春の墓場となり、彼女の香りを静かに埋めていく
悲しいことに、この時この場所で、彼女を悼むのは僕一人だけ…
「春雨…どうか、止まらないで…」
「夏が本気を出したら、優しい君のことを覚えている人はいなくなる…」
「僕だけの記憶じゃ…寂しすぎる」
窓から身を乗り出し、最後の別れを受け止めようとする。僕の悲しみと彼女の悲しみが溶け合うように…
「春雨サラダ!また雨戸開けっぱなし!下の畳がびしょ濡れよ!掃除しない側の図々しさ…」
「ちょ、何考えてんの!宿泊費払えないからって飛び降りるなんて!!」
気が付くより早く、だて巻きが部屋に駆け込んできた。
彼が慌てて腰を抱えていなければ、窓から突き落とされるところだった。
僕は悔しさで胸がぎゅっと締めつけられ、振り返って彼を怨めしそうに見た
「…別に飛び降りるつもりはないです。それに女将さん、僕が無料で泊まっていいって」
「じゃあなんで窓から体乗り出してたのよ?!」
「春と、お別れを…」
「……………………………………………………頭おかしいんじゃないの!!!!!!!!!!!」
「はあ…」
冷たい畳に跪き、濡れた雑巾を絞りながらため息をつく
甘露煮が横にしゃがみ込み、頬杖をついて聞いてくる
「これいつまでかかると思う?」
ぽかんとしばらくして、またため息をついた
仕事を放って付き合ってくれるのはありがたいが、手伝ってくれたらため息も減るのに
雑巾を置き、団扇を手に取って湿った畳を仰ぐ
「わあ、この部屋数日は使えなさそう」
甘露煮が楽しそうに笑う
それを見て、僕も笑った
「そうなれば、僕の部屋が数日間静かになります。木造の古い建物は音が筒抜けですから」
「え?春雨は夜眠れてないの?そりゃ飛び降りたくなるわ」
「いいえ、別に飛び降りるつもりは…」
「じゃあ今日は何に悲しんでたの?書けなくなった?」
「……それだけじゃないんです…」
団扇を置き、再び窓の外の雨を見つめる
「夢を見たんです…桜の島に着いたばかりの頃の」
あの日も、晩春だった
…
僕の御侍は光耀大陸の僧侶で、光耀大陸の文化に興味を持つ富豪の招きに応じ、客船で桜の島へ向かっていた
金髪碧眼の富豪ウィリアム。その祖先は堕神討伐戦の際にグルイラオから桜の島へ移住したという
ウィリアムは「祖先の影響で故郷という概念がない」と言い、桜の島も光耀大陸もグルイラオもパラータも等しく愛していると語った
「ティアラ全体が一つになるよう、多様な文化が共生する世界を」と熱弁する姿に御侍は心動かされ、遠く異国まで来たのだった
「春雨サラダ、私の言葉を記録してくれ。後で見直し、語るべきことを語れたか検討したい」
「はい、分かりました」
船首で風と波に揺られながら、僕も御侍も興奮を抑えきれない
横でウィリアムが親しげに笑う
「春雨さんの詩文は素晴らしいと伺っています。桜の島の風物が新たなインスピレーションを生むでしょう!」
「と、とんでもない…」
俯きかけると、ウィリアムが何か言おうとしたが、船員が慌ててやって来て耳打ちした
「ちぇっ、つまらないことで俺を煩わせるな」
不機嫌なウィリアムに船員は恐縮して去っていく
「ウィリアム様、何事か?」
「大したことではありません。船倉で鼠を見つけたので処分させます」
「鼠も生き物…」
これは他人の船であり、数十人の命を乗せています。自分が取るに足らない存在であることを知り、軽々しく口出しすることはできません。
ウィリアムは御侍の心中を見抜いたかのように、さらに付け加えた。「ご安心を、殺さず閉じ込めるだけです」
「善哉…」
改めてウィリアムを見る──慈悲深い人物に違いない
客船は何事もなく海を進む
その後、鼠の話は二度と出なかった
Ⅱ.憐春
船が浅橋に着いた
僕は御侍を支えて舷梯を降り、ウィリアムが船の処理を終えるまで埠頭で待った
生まれて間もない僕には見るもの全てが新鮮で、桜の島の風景を眺めていたが、貨物室の方から鈍い物音が聞こえてきた
船員たちが重たい木箱を運び出している最中、手を滑らせて地面に落としたのだ
「そっとしろ!品物だからって乱暴にするな」
慌てて駆け寄るウィリアムの表情は心配そうだった
「大師、ご迷惑おかけしませんでしたか?」
「いえ、大丈夫です」
「では早速宿泊先へ。お二人ともお疲れでしょう」
ウィリアムは焦るように馬車に案内し、屋敷に着くと母屋と繋がる離れを提供した
「この庭を整えたら、信者の方々をお招きして大師の説法を…」
「信者…わしは人々の悩みを解くのが本望で、信仰を強いるつもりは…」
「失礼いたしました!」
御侍が咎めないと分かっても、ウィリアムは延々と釈明を続けた
最後に、ウィリアム商人の身分を思い出したかのように、御侍は覚悟を決めたように付け加えた
「布施は一切受け取りませんと、皆様にお伝えください」
ウィリアムは何度も頷き、離れの使用人に指示すると急ぎ去った
僕の胸に漠然とした不安が浮かんだ
だがその心配は無用だった
毎日、狭い庭は説法を聞く人々で埋まり、熱心に耳を傾ける者さえいた。御侍の布施の内容は毎回大差ありませんでしたが、人々は皆真剣に耳を傾けていました。
御侍の言葉を完全には理解できなくても、人々の表情が来る時と帰る時で明らかに違うことから──
御侍が望んだ通り、人々を救えていると確信した
「春雨サラダ、最近ご苦労様でした。既にここへ来てから長い間、この小さな庭に閉じこもっておりました…そろそろ外に出てみるがいい」
「え?記録は?」
「構わん」
「でも…」
御侍は返事を待たず寝室へ戻っていった
ふと見えた横顔は、連日の疲れが滲んでいるようだった
そう思うと少し安心し、メモ帳を手に外へ出た。
ウィリアムの屋敷周辺とは違い、立派な建物も手入れされた盆栽もなく、天を衝く桜の木と、黄緑混ざりの枯れ草が哀れを誘うばかりだった。
「まだ晩春なのに、まるで枯れ秋のよう…」
ため息をついた瞬間、角から少年の指差す声がした
「あ!あの人嘘つき…」
母親は慌てて少年の口を塞いだ
僕と目が合うと、複雑な表情で急ぎ足で去っていく
私は呆然と立ち尽くした。嘘だと?嘘の何だと?何が嘘だったのか?あの目つき…一体どういう意味なのか?
「へへ…あんた光耀大陸から来た大師の食霊だろう?」
僕は驚いて振り返ると、背筋の曲がった老人がいつの間にか後ろに立っており、僕を上下に眺めながら、深い皺の刻まれた顔に優しい笑みを浮かべていた。僕がまだ呆然としているのを見て、彼は僕が自分の意図を理解していないと思ったのか、付け加えた
「ウィリアム様の屋敷に居るって噂だ!」
「ええ、そうですけど…」
「どうして一人で?付き人がいないのか?」
「取材に…」
「取材?何を取る?」
老人に、執筆のための取材で付近を散策していることを簡単に説明すると、老人は突然奇妙な表情を浮かべた。
「遊郭だ!遊郭に行かねば!」
「遊郭って?」
「桜の島一番の楽園!知らない人はいない、行けば帰りたくなくなるぜ!」
「そんな場所が…どこですか?」
「案内してやるよ!」
説明が面倒だと判断した老人は、自分で先導し始めた
道中、老人は延々と遊郭の素晴らしさを語り続け、僕はその天国のような場所にますます憧れを抱いた
風が頬を撫で、背後から散り際の桜がひらりと舞い落ちた
「可哀想に…君たちには見せてあげられないんだ」
「帰ったら詳しく話してあげるからね」
Ⅲ.傷春
遊郭は黒くて明るい場所だった
白昼のこの細い路地は、目に見えぬ傘に覆われたように真っ暗で
無数の赤提灯が明るく照らし、眠りを許さない
不気味な弦楽と調子外れの歌声が、幽霊のように路地を這いずり回り、悪寒を誘う
混ざり合った香りに頭がくらくらし、遠くの窓から漏れる甲高い笑い声に眉をひそめた
「想像していた天国とは…違うようだ」
「早く来い」
老人が急かす。赤い光が顔に黒い筋を描き、鬼の傷痕のようだ
「すみません…行く気が失せたようです…」
「ふざけるな!後悔するぞ!それに…」
彼は待ち構えていたかのように笑った
「どうしても会わせたい奴がいる!会わなきゃ奴は死んでも死にきれねえ!」
「ど、どなたです…?」
「へへ…お前たちに騙された者さ!」
雷が頭に落ちたかの衝撃。音が遠退き、老人の口元だけが動いている
騙された?どういう…?
老人は僕の手を掴み、路地の奥へ引きずっていく
小さな家の前で止まった。赤提灯も笑い声も香りもない
黒く、静かで、腐臭がした
千匹の死んだ鼠が住んでいるようだ
後ずさりしようとしたが、老人は容赦なく中へ押し込んだ
もつれ合い震えながら、暗闇に飛び込んだ
窒息しそうな狭い部屋
中央に女が変な体勢でうずくまり、髪の隙間から濁った目をのぞかせた
恐怖ではなかった。メモ帳当に恐ろしいのは…
彼女が着ているものが…明らかに私が知っている…
「やっと…来たわね…」
「どなたです…?」
「私は…鼠…荷物…」
「ただ一つ、ただ一つ…人間じゃない…」
「誰も…人間として見てくれない…」
「故郷に帰りたい…お母さんに会いたい…」
「ここは私の家じゃない…ここは鼠穴…でも私は人間…」
「私は鼠です、人間じゃない…私は人間です、荷物じゃない…私は荷物?じゃない!私は人間です…私は…」
「私はお前たちに魂を騙された鼠…金に換えられた荷物…」
「でも私は元々人間だった──!!!!」
彼女は突然悲鳴を上げた。しかし、その声は私に向けられたものではなかったようだ。
彼女の首の血管が浮き出て、天を仰ぐように突っ張っている
神か運命か…抗議している、あるいは…
僕は呆然として、身動きも取れなかった
「可哀想に…愛人のために故郷を捨てたのに…」
「実際に自分はその人の『一人』に過ぎなかった…ははっ、あの嘘つきウィリアム様の言葉を信じる馬鹿が毎年絶えない!」
「だが彼のおかげで、遊郭は繁盛してるぜ…ひひひ…」
「だが欲深い奴は満足せん…遊郭で儲けたら次は…」
「異国の大師を呼んで、病気治し、運気上げ、金も女も手に入る!ただし…」
「金だ!金を出せば平安も富も約束される…」
「でも護符なんて効かねえ!借金取りの亡霊だ!家も家族も失った…」
「詐欺師め…金を貪るウィリアム様…世界一の大詐欺師!」
老人の歌うような言葉に、女は頭を抱えて泣き叫んだ
老人は逆に興奮し、声を甲高くして続けた。声も高く細くなり、まるで子供のように…
「あ!あれが詐欺師の…」
「その嘘つきウィリアムが連れてきた大師とその食霊じゃねえか!」
!!!
老人が指差す視線が、無数の矢のように刺さる
いいえ…その痛みは幻覚じゃない
気付けば女に押し倒され、抱えていたメモ帳も地面に落ちていた
彼女の冷たい息が首筋にかかり、噛みつかれるかと思った
しかし彼女はそうせず、ただ静かに泣き、そして突然、一口の血を吐いた…
赤い梅の花のように、開いたメモ帳に飛び散る
「もう…信じない…」
「故郷…帰りたい…」
彼女の呟きに、暗い血の色の中で何百ものホトトギスが泣いているようだった
Ⅳ.悲春
あの日どうやって御侍の元へ戻ったか、全く覚えていない
口の中に血の気が残り、足元に暗紅色の影がまとわりつく
僕は喉の痙攣と涙をこらえながら、御侍の袖を必死に掴んで地に伏した。
「騙され…私たちが騙されたんです…」
御侍は微かに体を揺らしただけで、驚いていないようだった
散らかった部屋と、御侍の虚ろな目に初めて気付いた
「何か…あったんですか?」
破れた護符が差し出された
「これはわしが光耀大陸から持ってきたという神具、あらゆる災いを避け、あらゆる福を保つものだそうだ…」
「春雨、この物を覚えているか?わしは…なぜか…」
「万両の価値があると…人々が財産を投げ打って求めたのに何も効かない…どうしてわしが知らないか…」
僕は涙を必死に拭い去り、それから御侍から護符を受け取った
「僕が行きます!」
「誰に?」
「ウィリアムに!あいつが皆を騙した!」
「春雨…我々は帰れるだろうか…」
僕は手を垂らすと、力が抜けていった
ウィリアムの船でここに来たのだ…
家も…帰れないのか…
御侍は何も言わず、寝室から木魚と銅磬を取り出した
彼はそこで跪き、休むことなく人々全てのために経を唱え祈りを捧げた。神の加護を得て希望を取り戻したと信じた挙句、絶望の淵に堕ちた人々のため…故郷から騙され、あるいは無理やり連れ去られ、奈落の底に突き落とされた女性たちのため…そして、自分が真実を知らずに他人の悪事に加担した罪悪感のため…
三日後…
生前と同じ姿勢で、彼はそこにいた
……
「そして僕は…ここに残された…」
長々と語ってきたことにひとまず終わりを告げ、僕は軽く息をついてお茶を啜る。
雨足は次第に止み、残るは軒から石畳に落ちる雨水の滴り音のみ。僧侶が木魚を打ち続けるがごとし…
甘露は窓辺にあぐらをかく、顔には特に明らかな感情を表に出さず、ただ非常に真剣な様子で、何かを思案しているようであった。
暫し後、彼女は上体を前傾させ、学ぶ子供のように尋ねた。
「光耀大陸の景色を見たことないって言ってたのに、なぜ御侍と共に光耀大陸から船で桜の島に来たことになっているのですか?」
「………………」
またお茶を啜る。
「文学創作には…多少の脚色が必要なんです…」
「へえ、じゃあ全部作り話?」
「…さて、この物語をどのようにお考えになりますか?」
甘露煮が大仰に体を反らせた
「重すぎる。あと長すぎて飽きる…あのじいさん結局何者?ウィリアムはどうなったの?罰受けなきゃ納得いかない!」
「泣いてる?まだ感想言い終わってないのに!」
「…やっぱり…駄目でしたか…僕は…」
バタンと。部屋の障子が勢いよく開かれ、そのきっぱりとした音…やはりアナゴ寿司であった。
「甘露、客待ってるぞ。なぜまだ春雨サラダのつまらない話を聞いているの?」
「はーい!今行く…伊達巻が残っているではないですか~ちょっと!春雨!また窓から!」
窓から半身を出した途端、甘露が僕を引き戻しました。畳に落ちるよりも、彼女の驚くべき握力の方が痛かったです。
彼女は僕が再び自殺を図ることを心配しているらしく、どうしても手を離そうとしませんでした。
「放して…どうせ僕の物語はつまらない話…」
「つまらなくたって良いの!世界では面白い物語が必要なように、退屈な物語も必要なのだ!それに、見たことない景色を見るまでは死んじゃダメでしょ!」
甘露の言葉にハッとした。
確かに…
素晴らしい物語一つ書けなくても…
光耀大陸を見てから死のう
力を抜くと、アナゴ寿司が再び催促した
「早く来い!伊達巻は僕と一緒に厨房へ戻らなければなりませんが、お前は…」
「もう!『安喜荘』は私がいなきゃダメね~」
「いつもサボってるのはどっちだ?」
それは女将さんの仰せの通り、ワークライフバランスです!ワークライフバランスの意味が分かりますか?古臭い!
……
二人の言い争いを避け、二階の自室に戻る
部屋の隅に、人間の背丈ほどの高さの戸棚が置かれ、戸棚の扉が開け放たれているものの、中は空っぽで、小さな木箱が一つだけあった。
「大丈夫…きっと連れて帰るから」
「御侍」
Ⅴ.春雨サラダ
春雨サラダが召喚された時、彼の御侍は既に遊廓に監禁され、三日三晩の絶食を強いられていた
膨れた春雨と野菜くずが、逃亡を諦めた彼女への「慈悲」だった
三日間の苦痛で御侍はやつれ果て、十歳以上も老けたように見えたが、そのおかげで一日休んでから客を迎えることができた。
薄い布団に横たわり、かすれた声で春雨サラダに語り始めた
なぜかこの話を記録せねばと直感した。記録しなければ…
とにかく書き留めなければ
その取り澄ました男に騙され、木箱に詰められ海を渡り、鼠穴に閉じ込められた経緯を
「どうして…あの人が私を騙すなんて…」
「愛してるって言ったのに…」
遊廓で非人道的な虐待を受けていたにもかかわらず、春雨サラダの御侍は、少女たちの警戒心を解くために剃髪し、僧衣をまとい偽装したその男が、彼女を愛しているのだと信じ続けていたようである。
信じなければ、自分が阿呆だと認めることになる
春雨サラダも彼を信じたかった
御侍が阿呆とは思わない。ただをかわいがっている。
この故郷を恋しがって泣き、母を呼び泣き、自分を呪って泣きながら、しかし他の誰一人を責めることはなかった少女を、ただかわいがっている。
従って、改稿後の物語では、より悪質で邪悪な富豪が全ての人々を欺いたことになる。
僧侶もまた欺瞞の犠牲となり、少女の真心は裏切られることなく、たとえ僧侶が欺瞞者ではなくなったとしても、その余生を贖罪に捧げたのである。
春雨サラダは、少女にハッピーエンドを与えなかった。それは、物語を読む者が少女の苦難を忘れないようにするため。
寂しさも苦しみも、儚いものにしてはならない
幸か不幸か、話し終えた少女は彼岸へ旅立った
汚れた鼠穴で、清らかに逝った
最後まで、彼女は屈服も怨嗟もせず耐え忍びました。
ただ…
鮮血は春雨サラダのメモ帳の上に滴り落ち、それは目を覆いたくなるほど痛ましい光景だった。
熱く滾る鮮血が、春雨サラダに再び書く力を奪った。白い紙を見るたびに、彼は抑えきれないほど「紅梅」を思い出してしまう。それでも彼は、この物語を他者に伝えたいと考えていた。
御侍が、このように寂しく、この世から完全に消えてしまう…そんなことは嫌だ。
彼はその後数日間、遊廓を彷徨い歩く亡霊の如く、髪は乱れ、顔は汚れ、人に出会うと延々と話し続けた。
一度も声を休めることなく、ついに声も容貌も老人のようであった。
しかし誰も聞いてはくれない。遊郭に来る客は楽しみを求めてくるので。
ある日、優しい女性の呼びかけで彼は立ち止まった。一緒に来ませんか、と彼女は尋ねた。
「…どこへ?どこにも行きたくない…ただ帰りたい…彼女を連れて帰りたい…光耀大陸へ…」
「今の桜の島では難しいが…私があなたをお連れする場所ならば、必ずや願いを叶えることができるでしょう。」
「どこ…ですか?」
「安らぎと喜び…そして安息を得られる場所」
(安喜荘)
古風ながら風格ある旅館が、永遠に咲き続ける桜に囲まれ、静かに悠久の時を山上に刻む。
料理の香りが漂い、小川のせせらぎと鳥の声が調和する。
怒鳴り声で静寂が破られた。
「春雨サラダ!まだ睡眠不足を嘆いていますか?本日、隣室のお客様から苦情がありました!部屋に幽霊が出ると、泣き声が聞こえると…深夜に泣き叫ぶのは一体何ですか!」
「眠れないから…悲しくて…」
「……………………………………………………頭おかしい!!!!!!」
春雨サラダは、怒り狂う伊達巻を見て、また涙が込み上げてきた。
伊達巻は慌てた様子を見せ、ぶつぶつ言いながら立ち去った。去り際に、春雨サラダの昼食をきちんと玄関先に置いていくのも忘れなかった。
「…今日のご飯は…」
「まずいか」
冷たい声が突然戸口から聞こえてきた。春雨サラダは訝しげにそちらを振り返り、アナゴ寿司だと見ると、思わず身震いした。
「毒…入ってます?」
「…新メニューだ」
「ええ…ありがとうございます。…大変美味しいです」
「先日の謝罪だ」
「え?」
「何でもない…死なれると客が逃げるからな」
春雨サラダはようやくアナゴ寿司の来意を悟り、箸を置き、振り返って彼に微笑みを浮かべた。
「ご安心ください、光耀大陸へ行くまでは死にません。ただ…」
彼は窓の外の雨上がりの景色を眺め、安堵のため息をついた。
「窓へ向かう時は…引き止めてください」
「何で?…死にたい訳ではないのか?」
「耐えきれなくなるだけです…手を繋いでくれれば、また頑張れます」
あの夜の遊廓、その優しい声と温かい手を思い出す
当時の彼はどれほど後悔したことか。当初、自分の御侍をしっかりと掴み損ね、その哀れな魂を繋ぎとめることができなかったことを…
故に今の彼は誰よりも望んでいる…
いついかなる時、いかなる場所、いかなる人の傍らにも、必ずそのような手が存在することを。
彼はそのような手に引かれたいと願うとともに、そのような手によって、他者を引いてあげたいと願っているのだ。
「だから…早く物語を完成させないと…」
「安喜荘に来た日から書き始めてたろ?」
「ええ」
「今どの辺?」
「…………」
「…………」
「…食べ終わったら書きます」
「…ああ」
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