ハギス・エピソード
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ハギスのエピソード
ハギスは不幸の中に生まれ、単純な性格ゆえに、絶望に飲み込まれることなく生きてきた。
しかし、親切にしてくれる人を信じやすい反面もある。いつもは子どものように無邪気だが、なんらかの影響を受けることで凶暴化することもある。彼の伴性獣である「アザゼル」は、たくさんのヤギの頭となって敵に噛みつく。
Ⅰ誕生
(※誤字等が見られたため編集者の判断で一部変更して記載しています)
悪魔。
目を開けた瞬間にその言葉が聞こえてきた。
だけど、一字一句はっきり言っていたわけじゃない。
「アーーーク―ーーマーーー!」と必死で叫んでいた。
あいつら、つまりあの人間たちは、まるで目の前に牙を剥き出しに怪物でもいるみたいに、悲鳴を上げて逃げ回っている……
(怪物……じゃあ、僕も早く逃げないと!)
だけど、走り出そうとした途端、何かにつまずいて地面に転んでしまった。
次の瞬間、黒いブーツが僕の胸目掛けて強く踏みつけてきた。
「見よ、光の神が私に与えた力を!悪魔め!たとえ悪魔であろうとも、神の足下ではひれ伏さなければならない!例え敵が悪魔であっても、光の神は決して負けはしない!」
「決して負けたりはしないのだーー!!!」
僕を踏んづけた男がそう言うと、周りから次々と歓声が聞こえてくる。
耳が食いちぎられそうな程に大きな声だった。鋭い痛みが頭の横からてっぺんにまで這い上がっていくけど、耳よりも胸の方がずっと痛い。
僕はブーツを掴んで、振り払おうとしたけれど、それは斧みたいに僕の体に食い込んできて、微動だにしなかった。
どうしてか、踏みつけてくる力は少しずつ増していった。
(逆らえない……どうして……まさか……)
(い、いいや!僕の御侍さまは、こんな事なんて!)
「はな……して……」
「黙れ、この役立たず!」
「!」
その足がようやく持ち上がると、まるで枯れ枝や紙くずを蹴るみたいに僕を強く蹴ってきた。
「光の力を信じれば、光の神が必ずや悪魔から我々を守ってくれます……これは奉納箱です。貴賎を問うことなく、光の神は全ての信徒の誠意を感じ取ってくださいます……」
彼がそう言うと、何かが箱の中に落ちてチャリンチャリンと音を立てる。時々、悪魔に対する呪詛のような言葉も混じっていた。
彼らは悪態をつきながら、僕に冷たい視線を投げかける。
胸の痛みが更に広がって、体を小さく丸めることしかできなかった。
どれくらい経ったのか、ドアがバタンと閉まる音と共に、罵声と胸の痛みはようやく消えた。僕はそっと顔を上げる。
(暗い……何もない……)
(ここは……もう一つの混沌の地なの……)
「ただのガキか……まったく悪魔らしくもない……」
僕を踏みつけてきた人が喋っている……
「でも……でも、僕は悪魔なんかじゃない……」
「……こんな恥ずかしい物を召喚するなんて……どけ!」
殴られて、一瞬で腫れ始めた顔を押さえながら、僕は黒いローブの男が振り返りもせずに出ていくのをぼんやりと眺めた。
後で知ったことだけど、彼はクロウリーと言って、僕の御侍様であり、ここの主人だ。
そしてここは教会。
僕の地獄でもあった。
Ⅱ成長
幸い、ここは混沌の地ではなかった。
混沌の地は暗闇がある以外、何もない。
だけどここには太陽も、花も、キャンディも、小動物もいる……らしい。
僕はそんなもの見たこともない……
「そんな馬鹿げたものに興味を持つな。お前の存在意義はたった一つ――」
「威圧することだ」
御侍様はそう言った。
でも僕は「威圧」の意味がよくわからないし、彼も説明してくれない。
彼が綺麗に着飾った大人たちと毎日何を話しているのかを、決して教えてくれることはないように。
とにかく僕の一日は、いつも御侍様によって檻から出される所から始まる。
それから彼は色んな場所に僕を連れていった。ある時は教会、ある時はオペラハウス、ある時は暗くてカビ臭い地下室。
僕はまるでショーウィンドウに飾られた人形みたいに、そう言った場所で人々の見世物になっていた。
僕は人形よりも重いから、釘で手首や足首を板や壁に打ち付けなければならないみたい。
錆びてデコボコしている釘が骨に沿って肉に食い込む感触は、そこまで耐え難いものじゃなかった。
僕が一番辛かったのは、御侍様が泣くことを許してくれないことだ。
「いくら叫んでも構わない。だけど涙なんかを見せるな、悪魔は泣かないからな」
だから、彼は涙を堪える練習だと言って、お酒を飲むたびに僕を殴った。
悪魔に会ったことがないのに、どうして悪魔に涙がないことがわかるのか、聞いてみたかった。
だけど僕が口を開く前に、毎回殴られて気を失ってしまう。
御侍様は、食霊は痛みなんて感じないと思っているのだろうか。
確かにどんなに怪我しても最終的には治るけど……
(本当は痛いよ……)
「いっ……」
手足の感覚がなくなりかける時、宙吊りにされた体はまるで何百匹もの虫が一列になって肉を食いちぎっているような、鋭い痛みを感じる。
太もも?それとも背中?
わからない。ただ微かに御侍様の声が聞こえる。
「ご覧の通り、あいつの肉は再生します……恐ろしい、気持ちが悪い!」
「これは殺すことのできない邪悪なものです。もし光の神の力がなければ、どれだけの災いが引き起こされていたかわかりません!」
「わたしたちを救ってくださったのは、光の神です!光の神の信徒になれば、神は私たちを救ってくださいます!」
嘘つき……
光の神なんか本当にいるなら、どうして助けに来てくれないの?
僕は嗚咽を堪えて、ついに耐え切れずに気絶した。
目が覚めた時には、もう傷は治っていた。僕を縛るための縄も、鞭もない。
ドアの外で見張っていた赤毛のおじさんにしつこく聞いたら、彼は真剣な顔で御侍様はしばらく来ていないことを教えてくれた。
「ウェッテという行商人が来ているらしい、珍しい事をたくさん知っているようで、クロウリー様は毎日彼と一緒にいるそうだ」
「毎日?じゃあ、僕はもうあの大人たちに会わなくてもいいの?」
「……クロウリー様は十分な金を集めた、お前はもう……」
「遊びに行ってもいいの!?」
「いや……」
まあ、外に出られなくても、前よりはずっといい。
(御侍様もいないし、アザゼルを呼び出して遊ぼう!)
アザゼルは青い炎を放つ黒いヤギだ。大人しくて甘えん坊だけど、ちょっと見た目が怖いから、赤毛のおじさんを驚かせてしまった。
「そ、それは……」
「僕の伴性獣だよ!御侍様に殴られたらイヤだから出してこなかったの。見て、アザゼルも楽しそうだよ!」
「お前……そんな能力があるのに、どうして逃げようと思わなかったんだ?」
「逃げる?」
赤毛のおじさんは、僕の言葉にビックリしたのか、自分の口をぎゅっと押えた。まるでこうしていれば、僕たちの会話は誰にも聞かれないかのように。
多分、彼も御侍様に殴られるのが怖いのだろう……
だから僕も口を閉じて、アザゼルの柔らかい背中に顎を乗せて、小さく首を振った。
食霊は御侍様に逆らえないから、逃げられない。
もし逃げられたとしても、どこに逃げればいいんだろう……
僕みたいな役立たずを必要とする人間が他にいるのだろうか。
僕を必要としているのは、御侍様だけ。
例え彼の「必要」は僕に痛みを与えるとしても。
僕は頑張って我慢しないといけない。
Ⅲ長い夜
「赤毛のおじさん、来てくれたんだ!」
「ほら、早く仕舞え」
「うんっ!」
赤毛のおじさんが投げ込んできた物が何なのかはわからないけど、言われた通りすぐにしまった。
どうせ美味しい物か、街で流行っている物だろうから。
このおじさんはちょっと怖いし、あまり相手してくれないけど、少なくとも僕を殴ったり叱ったりはしない。
最近御侍様は僕の所に来ないから、彼はいつも何かをくれる。僕の秘密基地はもう貰った物で埋め尽くされそうになっていた。
「俺は何もできない、できるのは……それしかない……」
おじさんの様子がおかしい、しかもずっと俯いているから、僕は顔を横にして覗き込んだ。
「これは……良くない物なの?」
「外にはもっと良い物があるんだ。だけど金がないから買えないんだ……」
「お金?買う?」
「……あげた物は全部元々誰かの物なんだ。欲しかったら金で交換しなければならない。そうじゃないと盗みになる、これは良くない事だ」
「なるほど……わかった!殴られないように、ぐっすり寝るために、大人たちの前で涙を我慢しなきゃいけないのと一緒だね!」
僕の言っていることが間違っているのか、どうしてかおじさんはもっと不機嫌になった。
「ドアを見張ってないで、ここで何をしている?」
「ク、クロウリー様!」
いきなり御侍様が現れたから、僕もおじさんもビックリした。
でも彼は怒らなかった。おじさんを睨みつけた後、手を振って追い出した。
僕は彼の不気味な表情を見て、思わず二歩下がった。
「どうした?立った数日でまた弱々しく愚かな顔になっているじゃないか!鬱陶しい!ウェッテ先生がお前のようなゴミなんかを重視しているとは……」
「ぼ……僕は……」
「黙ってついてこい!」
僕はわけもわからず、大人しく御侍様についていくしかなかった。
前までは、縄で縛られてから檻に閉じ込められないと外に出られなかったのに。
今回はどうして……
(ウェッテ……あのウェッテって言う人のおかげなのかな?)
もちろん、御侍様にそんなことを聞く勇気はない。彼は僕を見るよりも、空気中のホコリを見た方が良いとばかりに大股で歩いていた。僕に命令しているだけで不愉快そうな顔をしている。
「……手の平サイズの透明な箱で、バックヤードに置いてある。誰にも見つからずにそれを取って来い。わかったか?」
「それは他人の物だから……盗むのは……良くない……」
「何が他人の物だ!それは儀式に必要な物だ……クソッ、口答えをする暇があればさっさと行ってこい!」
どうしてそんな事をするように言われたのかわからない……御侍様には、それなりの理由があるんだろう。
そう思って自分を慰めないと、悲しすぎる……
僕は俯いて、御侍様が指す方に向かって、オペラハウスのバックヤードに向かった。
バックヤードはそんなに広くなかったから、御侍様が言っていた箱はすぐに見つかった。
箱の中にはキラキラした奇妙な形の物が入っていた、何かから取り外した欠片みたいだ。
箱を隠してこっそり持ち去る事自体そんなに難しくないけど……傍で誰かが見ていた。
(どうしよう……どうしよう……持って帰らなかったら……御侍様が、また……また……イヤだ……しばらく痛くなかったから、また……これ以上痛いのはイヤだ……)
(誰にも見付からずに持って帰れる方法……見つからない……見つからない……じゃあ……ここに誰もいなければいい!)
(そうだ!全員が、全員が死んじゃえば、見つかることはない!)
(殺すんだ!みんなを殺すんだ!)
「アザゼル――!」
「やめろ!」
聞き覚えのある声がした。
赤毛のおじさんだ。
慌ててアザゼルを戻すと、青い炎が赤い髪に燃え移りそうになっていて、少しだけ焦げ臭い匂いがした。
赤毛のおじさんはそんなことは気にせず、僕を引っ張ってバックヤードを出た。そして、誰もいない所まで僕を連れて行った。
どうして、まだ他人の物を盗んでいないのに、どうして……そんなに怒っているんだろう……
声を掛けようとしたら、いきなり飛び出てきた人によって行く手を塞がれた。
黒ずくめの人は、まるで噴火を待つ火山みたいにまっすぐに立っていた。
(お、御侍様だ……)
「クソ野郎!」
ドガッ――
赤毛のおじさんが御侍様に殴り倒されると、黒いローブを着た二人がすかさずおじさんを押さえ込んだ。
御侍様は火山岩に侵食された荒れ地みたいに顔を真っ赤にしていた。
こんなに怒っている彼を見るのは初めてだった。僕はおじさんと同じように、彼の足元に縮こまって動けなかった。
「この裏切り者め!私の物を逃がそうとしている上に、計画の妨害をするとは!お前を引き取って食事を与えたのは、邪魔をさせるためじゃないぞ!?」
「それにお前!このゴミが!!!そのマヌケ面のせいで私が笑い者にされただけでなく、どうしてこんな些細な事さえできないんだ!?本当に使えねえ!」
御侍様はますますムキになって、僕の首を締め上げるようにして持ち上げると、ボロ雑巾を投げるみたいに投げ飛ばした。硬い靴のかかとが僕の足首に刺さって、その場で踏み潰されそうな勢いだった。
「お前たち食霊は生まれつきの奴隷だから、鞭で何度も何度も叩かないと言う事を聞かない!ゴミのやっていた事に目をつぶってやろうと思っていたが、まさかこのバカげた同情がお前をこんなに調子に乗らせてしまうとはな!よくも私に逆らおうとしやがったな!クソが!!!」
御侍様はどこからともなくナイフを引き抜くと、その鋭い刃の閃きに僕は反射的に目を閉じた。
「目を開けてよく見ろ!これはお前に対する罰だ!」
僕は目を開けなければならなかった。
振り下ろされたナイフに応じて、誰かが倒れた。赤い血が一瞬にして地面に広がる。
火のような髪が暗闇に現れ、血だまりの中で醜い花として咲いていた。
そして、彼の懐からキラキラと光る紙に包まれた小さい何かが転がり出てきた。
それは多分キャンディだった。前に、赤毛のおじさんに教えてもらったことがあるからわかった。
「ハギス……」
目を見開くと、おじさんは弱々しく口を開けて、笑みを浮かべようとしていた。
赤毛のおじさんの笑顔を、僕は初めて見た。
「本物の悪魔に……なっちゃダメだ……」
その言葉を最後に全ての力を使い果たしたかのように、彼は目を閉じた。その睫毛は、まるで羽を切られて地面に打ちつけられた蝶のようだった。
おもちゃとお菓子をたくさん隠した秘密基地は、もうこれ以上埋まらないことに、ふと気付いてしまった。
Ⅳ.夜明け
赤毛のおじさんと、おじさんがくれたおもちゃやお菓子を一緒に埋めた。
それを知った御侍様はまた僕を殴って、部屋に閉じ込めた。そして僕のことを見たり、僕に話しかけたりすることを禁じた。
体中の傷にかさぶたが出来ると、僕は再びオペラハウスに連れて行かれた。
公演が終わると、あたりは真っ暗で、不気味なほど静かだった。
光のある場所はステージしかなかったから、僕は仕方なくそこに上がった。
「ハギス、ですね?」
眼鏡を掛けた、優しく笑っている男がいた。
清潔そうなスーツを着て、何が入っているか分からないスーツケースを持っている。
彼の話し方は穏やかで、御侍様みたいに凶暴じゃないし、他の黒ずくめの人たちみたいに怖くないし、あの大人のように変でもない、まるで……
赤毛のおじさんのような声だった。
男はウェッテと名乗った、旅商人で錬金術師らしい。
彼は僕の頭をなでて、肩を叩いた。手はひんやりしていて、赤く腫れた傷口に触れられると心地よかった。
人間は死んでも、不思議な儀式をすれば、苦痛を感じることなく輪廻に入り、永遠の生を得て、永久の幸せを得ることが出来るから、悲しまないで欲しいと言ってくれた。
そしてその儀式を手伝うように言われた。人々を輪廻に連れて行き、幸せの彼方に連れて行って欲しいと頼まれたんだ。
命令じゃなく、頼まれたのは生まれて初めてだった。
僕は彼を見上げる。
彼の目は赤い、まるで血のよう、蛇の舌のよう、そして全てを燃やし尽くす炎のようだった。
危険なものばかりだ。
でも、彼はあまりにも優しい。
彼が言ったことは、全て素晴らしかった……
それらが全部本当かどうかなんて僕にはわからない。
だけど僕は彼を信じたかった。
苦しまずに永久の幸せでいられる方法があると、信じたい。
彼を見つめているうちに、ふと、僕たちは明るい光で繋がっていることに気がついた。
僕は頷いて、彼の要求に応じた。初めて苦くて温かい液体を飲み込む。
その日、僕は暗い小部屋に閉じ込められることはなかった。檻に入れられることもないし、教会に行くこともなかった。
夜になると、雨が降ったからか地面は柔らかくなっていて、簡単に掘り返すことが出来た。
僕は赤毛のおじさんを泥の中から引きずり出して、雨水で顔を洗ってあげた。
おじさんは硬くて冷たい、顔も青白いし、少し嫌な匂いがした。
それでもこの人は赤毛のおじさんだった。
僕は赤毛のおじさんを腕の中に抱きしめ、強張った唇の端を強く持ち上げた。
僕たちは顔を見合わせて笑いながら、夜が明けるのを待った。
永久の幸せが訪れることを、楽しみにしながら。
Ⅴ.ハギス
生まれつき貧しい人がいれば、生まれつき病弱な人もいるように。
ハギスは生まれつき、運命に見放されていた。
その上不運に付き纏われていた。
彼の御侍はお布施を集めるために、「悪魔」の烙印を彼に押しつけ信徒を騙した。
いわゆる善良な信徒たちは「悪魔」と罵りながら、彼を傷つけた。
ハギスは単純だ。その単純さが多くの人々の目には愚かに映ったとしても、彼はそのおかげで憎しみに侵されることはなかった。
嫌われても悪口を言われても、何度肉を切られても、彼は復讐しようとも逃げようとも思わなかった。
彼は自分の身に降りかかった全てのことには理由があると信じていた。そう信じているからこそ、彼は幾度も暗闇の中から目を覚ましてきた。
自分が日の出を見たことがなくても、あの灼熱の光は必ず存在すると信じていたのだ。
彼にも、確かに光は降り注いだ。それは暗く、利己的で、邪悪なものであったが……
飢えた人間に食べ物を選ぶ権利はない。彼らはほんの少しの温もりを感じただけで飛んで火に入る夏の虫だ。
ハギスはもう一度そのドアを押した。
「先生!チェスしよう!しっかり練習したから、絶対に負けないよ!」
青年はその声に振り返り、優しく微笑んだ。
「少し待っていてください。ハギス、これは今日の薬ですよ」
「うーん……また飲まなきゃダメ?苦いから、好きじゃない……」
「おや?ハギスは私を助けると約束してくれたじゃないですか?」
青年が傷ついたような表情を浮かべると、ハギスは驚いて緊張した面持ちで唾を飲み込み、その不気味な色をした液体を奪い取って飲み込んだ。
突然、彼に頭の中に赤い何かが、そして痛みが過る……
だが、それはあっという間に消えてしまった。
「あれ?そこまで苦くないかも?」
「フフ……成功したみたいですね」
ハギスはクラクラした頭を上げ、青年がご褒美として頭をなでてくれるのを待った。
ようやく先生の役に立てたと思った矢先……
光の中に立つものが、最も恐れるべき悪魔であるということを知った。
「……なら、どうして助けに来てくれないんですか?」
ハギスがタルタロス大墳墓に収容されてから1165日目のことだった。彼の隣の部屋にいる囚人は初めて言葉を発した。
ハギスはつい瞬きをした。反応してくれたことに関しては嬉しかったが、放している途中遮るようにされた質問に戸惑い、答えに窮する。
「せ……先生は……儀式のことで忙しいのかも。みんなに永久の幸せをもたらすために、儀式をしっかりと終わらせたいって言ってたから……」
彼が戸惑いがちに答えると、その曖昧な返事に対し喜びとも悲しみともつかない声が返って来た。すぐに二つに監房にまた静寂が訪れた。
タルタロス大墳墓は水深一万メートルの海底にあって、そこは冷たく湿っている。三年間で、ハギスの心の中の光は少しずつ侵食されていった。
ハギスは隣人から投げ掛けられた質問のことで頭がいっぱいになり、それを心が壊れるまで何度も何度も反芻した。
彼の心にいる救世主の青年を守るため、その青年の優しい手つきを繰り返し思い出していた。自分をモルモットや身代わりにするために作り上げた輪廻についての言葉を思い出し続けた。
肉体的な痛みも、喉に張り付く苦しみも、つまらない謂れで罪もないのに自由を奪われた絶望を、忘れてしまうまで。
青年の言葉が彼の人生における最高の聖典になるまで。
タルタロスから離れ、全ての人の死に、輪廻に、永久の幸せに導くことしか考えられなくなるまで。
彼は暗く、偽りの光の中を這いずり、深淵の中であらゆる希望を繋ぎ止めようともがきながら、途方に暮れていた。だが、諦めることはなかった。
ついに、扉や窓を打ち破るように、短くも熱く、明るい救済がやって来て、彼の不幸の足枷をやすやすと打ち砕いた。
ハギスは少年が自分のために振りかけてくれた満天の星を眺めながら、夢の中で満足そうに笑った。
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