ヨークシャープディング・エピソード
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ヨークシャープディングのエピソード
ロマンチックで思慮深い文学少女。いつも図書館で静かに本を読んだり、整理したりしている。詩的で豊かな心の世界を持っている。
Ⅰ.腐朽と新生
苦しい……
虚空のような闇はまるで体に巻き付いた鎖のよう、心臓が鼓動する度に胸に重い痛みが走る。
だけどわたしは恐怖が高く広い壁となって、ゆっくりとわたしに迫って来るのをただ見ている事しか出来ない……
この感覚は、御侍様がわたしを見捨てる瞬間を目の当たりにした時の感覚よりも、もっと辛く、もっと無力なものだった。
でも、わたしは彼を責めてはいない。
もし彼の、わたしの御侍様であるカルス先生の精神状態が不安定でなければ、神恩理会に騙される事はなかった。そして、この絶望的な痛みがある牢獄に囚われる事も……
少し前まで、≪理と霊≫を出版した事でこの世にどんなに影響がもたらされるかを、暖炉のそばで彼と話し合っていたのに……こうなるとは……
生贄。
その人たちが言う、わたしの定められた「未来」だ。
「役立たずの食霊は、生贄になるしかない」
死体として独房に入れられたわたしは、誰からも相手にされない無価値なゴミのようだ。
この一生は、こんな惨めな幕引きでいいのだろうか?
奇跡よ、どうかこの腐り果てた不幸の海からわたしを連れ出してください……
せめて、この希望のない地で、一人で終幕を迎えさせないでください……
「……天使は奇跡のように降臨し、この暗闇から私を導く……」
最愛の詩を唱えながら、どれだけ長い間悪夢と戦ってきたか。
まるで一本のロウソクだけを持って、吹雪の中を行進しているよう……
理性が少しずつ凍りついていく……これ以上……もたない……
奇跡なんて、もう起きたりしないだろう……なら……このまま……長い眠りに……
「バンッーー」
突然、扉が開かれた、久しぶりに独房の中に光が差し込んだ。
身体は本能的に震え、光の眩しさに涙を流しながらも、わたしはまばたき一つせず、光源を見つめた。
強烈な光の中から無数の黒い影が浮かび上がり、揃った足音が響き渡る。
誰?
「軍団長!こちらです!」
軍団長と呼ばれる少女は、わたしの方に歩いてきた。彼女が剣を振ると、鎖は一瞬にして断ち切られた。
「怖がらないでください、わたしは神恩軍軍団長・ドーナツです。もう大丈夫ですよ」
彼女と目が合った。わたしを見下ろす彼女は、まるで「神典」に記された神のように、慈悲に満ちた目でわたしを見つめていた。
恐怖の壁は、神の眼差しを受け、ガラガラと崩れていく。
わたしは……救われたの?
「カルスさんを救う事は出来ませんでした、申し訳ございません……でも安心してください、これから神恩軍があなたの家です!」
鎖を外し、独房から出る。ようやく深い闇に別れを告げ、再び光を浴びる事となった。
わたしは救われた、そして地獄から神の国へと旅立った。
ドーナツは、まるで天国への案内人のように、わたしを導いてくれた。
天使は、確かに奇跡のように降臨したのだ。
Ⅱ.夜と星
命を救ってくれたドーナツに恩返しをするため、わたしは従軍し任務についた。
毎回全力を尽くすけど、すぐに霊力が尽きて、いつも真っ先に衛生兵に助けられてしまう……
血を流す兵士と暴虐な堕神の戦いを目の当たりにすると、頭が真っ白になり、全身が思わず震えてしまう。
戦場に行く度、長い時間を掛けないと心を落ち着かせられない。
しかし、落ち着いてからも、夜明け前の潮騒のように、どうしても自分を責め始める。その感情は荒れ狂い、気付いた時にはもう手に負えない状況となる。
「堕神とも戦えないわたしが、恩返しだなんて……話になりませんね」
わたしは、まるで独房に閉じ込められていた日々に戻ったかのように、長い沈黙に陥った。
だけど軍団長は再びわたしの独房の扉をこじ開け、心の片隅で黙り込み、苦しんでいるわたしを発見してくれたのだ。
それは長く美しい夏の夜だった。彼女はわたしに色々話してくれた。その言葉たちはまるで空に輝く明るい星のように、ずっと曇っていたわたしの寂しい夜空を、魂の奥深くを綺麗に飾ってくれた。
「……戦う事だけが自分を証明する唯一の方法ではありません。どこにいても、何をしていても、世の中に貢献出来れば、慈悲なる神はきっと認めてくれるはずです」
「この思いがあれば、小さな花を支えるだけでも、あなたの光は四方を照らすでしょう」
「戦いに向いていないかもしれませんが、あなたの学びを生かせる場所なら知っています」
「これは新たなチャンスですが、未知なる挑戦でもあります。もう一度、試してみませんか?」
軍団長に心を見透かされているようだった。その熱意に満ちた目を前にして、誰もノーとは言えないと思う。
「よ、喜んで!」
例えこの先にどんな困難があっても、わたしは彼女のためにもう一度ロウソクを手にし、踏み出してみたい。
この世に貢献したいという思いがあれば、わたしは輝ける!
Ⅲ.疑いと意志
しかし、ペリゴール研究所に来てから、わたしの信念は再び大きく揺さぶられる事となった。
「世界が必要としているのは神ではなく、科学である」
入口に掲げられた標語を見て、思わず身震いをした。
ヨークシャープディング、大変な所に来てしまいました。
緊張してちゃダメ……リラックス……深呼吸……
息を吐いて……吸って……ふぅ……
まさか軍団長がわたしをここに推薦するとは、夢にも思っていなかった。
そして、あの完璧な天賦を持つ白トリュフ所長も、わたしを快く受け入れてくれるなんて……
カルス先生は、白トリュフさんと≪理と霊≫の理念で対立していたが、尚彼女の事を天才だと評価した。
一方わたしは、カルス先生が人生の最期に信仰を捨て、狂ったように奇跡を追い求めている過程で捨てられた食霊だ。
無価値と判断されたわたしに……戦場で役に立たないわたしに……何が出来る?
ドアをノックすると、白い小犬を抱いた人形のような少女が出迎えてくれた。
くすんだ白い瞳を持つ彼女は、あたたかな太陽のように、わたしに微笑みかけてくれた。
「初めまして、私は白トリュフです」
「……堕神の研究で進展を遂げた一方、課題も増えています」
「ヨークシャープディング、あなたのような人材が必要ですわ」
「私たちの一員になってくださいますか?」
でも……わたしは……本当に、出来るの?
いいえ。
絶対に……必ずやり遂げて見せる……
もう誰にも失望させたくない……
戦場で堕神を殺せないのなら、堕神を研究し分析し、皆がより簡単に戦えるよう、精一杯頑張ろう。
「もっ、もちろんです!光栄です!」
窓から差し込む午後の太陽は、まるで印象派の絵画のよう、あたたかくて気持ちが良い、光と影がうまく調和していた。
そして、絵画の中に白トリュフが立っている。わたしに微笑みかけながら、手を差し伸べてくれた。
「ペリゴール研究所へようこそ」
わたしはまるで本の新章を開くかのように、その手をゆっくりと、敬虔に真摯に握った。
Ⅳ.絶望と希望
今日で実験は佳境に入った、いつもの楽しい雰囲気は一変し高圧的な沈黙が続く。
緊張感はまるで皆の脳から出て実体化したかのように、やがて研究室に広がり、空気すら重くなって、身動きもうまくとれない。
今日こそ、皆の足を引っ張りませんように……
「制御台で何が起こっている?十三号が過負荷になりかけているぞ!」
「はっ、はい!直ちに対処します!」
「冷却剤のスイッチはそれじゃない!押すな!」
「す、すみません……」
パリンッーー
「今の音はなんだ?」
「申し訳ごさいません……うっかり試験管を割ってしまいました……」
床に落ちた破片を回収した後、顔を上げて周囲を見渡した。
皆は潮水のように、わたしの傍を行ったり来たりしているけれど、わたしがボーっとその場から動けない事には気付かない。
ああ、兵士たちが前線で戦っているのを見ているだけで、自分は何も出来ない、あの時の感覚みたいだ。
冷たくて、無力で、悲しい。
わたしのような役立たずは、生贄になるしかない。心恩理会の判断は間違っていなかったのかもしれない……
研究室からこっそり抜け出し、手の平に刺さったガラスの破片を抜く……
いっ……痛い……
それでもこの切り傷から伝わる痛みは、わたしの心に押し寄せる悲しみと比べれば大した事はなかった……
「ヨークシャープディング、どうして一人ここに座っているのかしら?手を怪我したと皆から聞きましたわ」
月明かりの中、白トリュフはわたしの前までゆっくりと歩いて来た。また皆に心配掛けてしまった……まさか所長の所まで話が行くなんて……
わたしは彼女に見られたくなくて、血まみれの手を必死で隠した。
「食霊なので、肉体の傷はすぐに治ります……しかし、心の傷は放っておくと、どんどん悪化していきますよ……」
白トリュフはそう言って、バッグから一冊の本を取り出し、わたしの横に置いた。
あれ、こっ、これは、わたしの詩集?
この手書きの詩集には、軍団長への憧れが詰まっている、暗闇の中を進む時いつもわたしを支えてくれる。
他人から差し出されるのは、なんだかすごく恥ずかしい。
「チェラブが図書館で拾ったのですが、あなたの物ですか?」
中は読まれていないみたい、良かった……
「はっ、はい……所長、ありがとうございます、そしてチェラブも……」
「凄いですね、こんなに分厚い本を書くのは、大変だったでしょう?」
「実は、文字にはとても大きな力が宿っています。ある意味、世界をより良くする事も出来るのです」
「所長……わたしを慰める必要はありません……戦闘と科学研究に比べれば、こんなの大したものじゃありません……」
「わたしの目は見えませんが……」
白トリュフは微笑んでわたしの方を見て、白い指で紙の上をゆっくりと撫でた。まるで絹を撫でるような、繊細で柔らかい音を立てながら。
「このびっしりと並んだ筆跡たちは、書いている人がどれだけこの文字を愛しているか、どれだけ美しく純粋な心を持っているかを、教えてくれました……」
「わたしは……所長が言う程優秀じゃありません……」
「決めつけは良くないですよ」
白トリュフから新聞を渡され、一面にはグルイラオで最も権威のある文学コンクール「巨匠の星」の募集記事が載っていた。
「暇つぶしの気分で、試してみるのはどうかしら?プレッシャーを感じずに、ただ自分がどこまでいけるか試すだけ」
白トリュフがそう言うのなら……じゃあ、試してみようかな?
Ⅴ.ヨークシャープディング
カササギが鳴く朝、ヨークシャープディングは「巨匠の星」委員会からの返信を受け取った。
暇つぶしだとしても、彼女の性格からして、緊張で手紙を開けられないでいた。
ワッフルはそんな彼女の不安を察したのか、彼女の隣に座り、素早く手紙を取り出し大きな声で読み上げ始めた。
「ヨークシャープディング様、本大会にご参加していただき、誠にありがとうございました。私ども……」
緊張のあまりヨークシャープディングは集中力が切れ、目の前の光景がぼやけていく。
ワッフルが読んでいる手紙は、彼女には意味のわからない古い呪文のように聞こえた。
最終的に、彼女の脳は勝手に理解出来そうな言葉だけを拾い、自由に連想し始めた。
狭く冷たい独房、戦場の容赦ない砲火、ドーナツの頼もしい後ろ姿、そしてあの月夜に白トリュフが掛けて来た優しい声……
彼女は連想が生み出した光景に陥り、その瞳は輝きを失い、やがて……
「貴方の作品は……金賞!金賞!」
「金賞」の二文字が鐘の音のように連想との境界線を打ち砕き、ヨークシャープディングを現実に引き戻した。
「凄い!我が研究所に文豪が誕生した!」
ヨークシャープディングは、興奮したワッフルに抱きつかれて揺さぶられながらも、まだこの現実を受け入れられていないようだった。
大きな衝撃の後、彼女は意外と冷静になれた。
冷静に考えてみると、ヨークシャープディングはいつも以上に戸惑った。何故なら、自分が期待していた成功とは違ったからだ。
運命とは案外意地悪で、彼女が開けたかった扉を全て閉ざし、唯一この窓だけを彼女のために開けたのだ。
彼女には別の道はない、このまま迷いながらも前に進むしかなかった。
時間は何の気なしに過ぎて行く。
ヨークシャープディングは、週刊誌から熱烈にオファーされたため、更に何本か記事を書いた。
彼女の評判がどんどん高くなった結果、階級を隔てる壁も越え、王室や貴族たちも彼女を欲するようになった。
しかし、届く招待状が多くなればなるほど、この大作家は虚しさを感じていた。
白トリュフやドーナツに比べれば、「貴族たちは作家という肩書で彼らの晩餐会を彩りたいだけ」と自分を批判せずにはいられなかった。
これは本当の成功と言えるのか?
高級な香水の香りがする封筒を整理していると、地味でしわくちゃな封筒が、ヨークシャープディングの目を引いた。
字は少し曲がっているが、力強く丁寧に書かれていた。小さな子どもの手紙のようだ。
「ヨークシャープディングお姉さん、こんにちは!私は本当に貴方の物語が大好きです!」
「堕神がパパを連れて行ったから、毎晩悪夢を見るようになりました……」
「でもママがお姉さんの物語を読んでくれる日は、朝までぐっすり眠れます!」
「きっと、お姉さんが私の天使だからです!ずっと、応援しています!」
幼い筆跡とその内容に、ヨークシャープディングは心が熱くなった。
そして何か別の感情も心の底から湧き上がった、彼女は手紙を全部戻し、本格的に探す事にした。
「……ヨークシャープディング、ありがとうございます。貴方の詩は、戦争で人生が壊れかけた私に、生きる意志と力を与えてくれました……」
「……大切な人を失った苦しみが、貴方のおかげで和らぎました。貴方への感謝は、どれだけ文字を重ねても伝えきれません……」
「……堕神と戦い、皆を守る勇気が更に湧いてきました!私の戦友たちも、貴方を愛しています!共に!頑張りましょう!」
手紙にいくつもの雫が落ちた。ヨークシャープディングは、慌てて手紙を机に置いて、皆から貰った宝物を汚さないように気を付けた。
そこでやっと、その雫は彼女自身の涙であると気付く。
今まで溜め込んでいた感情、我慢していた悔しさ、それらが静かに爆発して涙となったのだ。
彼女自身も途方に暮れていた時、いつも文学から大きな力を貰っていた事を思い出した。
激しい嵐の中、作家たちの頼もしい背中が、彼女を導いてくれた。
そして今、ヨークシャープディングも迷っている人たちを、文学で導いている。
「これが、文学の力……人々に伝わると同時に、自分の心にもまた戻って来る……」
この力の洗礼を受けたヨークシャープディングは、目が輝き、魂まで軽くなった気がした。
かつての恐ろしい悪夢は、もはや彼女を脅かす事は出来ない。ついに彼女も誰かを導くあたたかな光となって、輝き始めたのだ。
砕け散った悪夢をちらっと見た彼女は、振り返る事なく、ついに前へ進むと決心した。
「明るい鐘の音が汝の誕生を告げている。
ご覧あれ、
道路を彩る満開の花々とパルム・アカデミックは、
汝に向かって駆けている」
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