シナモンロール・エピソード
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シナモンロールのエピソード
大自然の香り漂う少女。彼女は万物に対し愛情と憐れみの心を持っている。自分の力が弱い事を自覚している、それでも力の限り他人を助けようとする。携えている香具には人の心をコントロールする能力がある、だが彼女は瀕死の者だけに催眠を掛け、最後の慰めを与え、出来るだけ悔いが残らないよう手助けをする。「カーニバル」では珍しい「まともな人」。しかし彼女は恥ずかしがり屋で、褒められるとシナモンで自分を丸めて横になってしまう、時には冬眠するように何日も寝る事もあるそう。
Ⅰ.催眠
木のドアを開けると、ひんやりとした夜風が吹いてきた。そっと身の周りに漂っていた薄い香りを吹き飛ばす。
遠くの草原を眺める。白いテントの上にぶら下げられた馬車灯がぼんやりと光っていて、帰路を照らしてくれている。
早く帰らなければ、遅くなると御侍さまが怒るわ……
振り向くと、キャシーは目を細めてにこやかにわたくしを見ている、だけどそのまつげはまだ濡れたままだった。
わたくしは後ろめたくなり視線を逸らして、思わず香具を抱きしめた。
わたくし、またやらかしたみたい……
三十分前、催眠状態から抜け出したばかりで、彼女の目から涙がこぼれ落ちていたけれど、彼女はそれに気付かずただわたくしの手を強く掴んだ。
もがくような力がまだ残っているようで、わたくしの心臓も震えた。
幸せを見つけてあげたかったのに、どうしてこんな事になってしまったのかしら?
願いが叶っただけでは、幸福になれないのかしら?
「キャシー、今日の事は本当にごめんなさい……こんなに悲しませる事になるなんて、思いませんでした……」
「シナモンロール、謝ることはないよ。むしろ、夫と再会させてくれた事に、感謝している……」
キャシーの目は真っ赤になっている、わたくしにはわからない輝きがそこに映し出されていた。
「病気で亡くなってから、私は……ずっと……彼に会いたかった」
「だから、また会えて嬉しい。心配しないで、早めに帰ってね」
つまり今回、わたくしはお役に立てたという事かしら?
キャシーに優しく見つめられながら、わたくしは大きく息を吐き、心を落ち着かせた。
村からテントまでの道のりはそれほど長くはない。行商人の最大の利点は売り場を自由に選べる事、だからいつも住民の近くにテントを構えている、御侍さまはそう教えてくれたわ。
御侍さまはお金をたくさん儲けてきたそうで、財を築いているのは人を助けるためだといつも言っている。
しかし、御侍さまの膨らんだ銭袋を見る度に、わたくしは困惑した。
あとどれほどの富を蓄えれば、他人を助けられるようになるのかしら?
俯きながら考えていると、目の前の道が微かに明るくなった。
前で灯りを持っているのは……御侍さま?
いつもならテントで勘定をしているのに、今日はどうして……
「シナモンロール!帰ってきたか!」
御侍さまは早足でわたくしの方へやってきて、明るい笑顔を見せてきた。
うーん……御侍さまがこんな風に笑う事は滅多にない、というよりこんな風にわたくしに笑いかける事なんて……
何か良い事でもあったのだろうか?
Ⅱ.激変
ザーッ、ザーッ――
足を湖に入れた後、わたくしは無造作に畔に腰を下ろした。冷たい水は足を包み、水しぶきがスカートの裾を濡らす。
自然の息吹に包まれ、わたくしの張り詰めていた気持ちがすぐに落ち着いた。
まさかあれ程金銭を重んじている御侍さまが、収入の半分を施設に寄付したいと申し出るとは。
二か月前に通りかかったあの養護施設を思い出す度、あの寒くてボロボロな環境は悪夢となって、わたくしの心を乱す……
きっとこのお金があれば、子どもたちは暖かい冬を過ごせるだろう!
そして御侍さまは、今回の香料には幸福をもたらす効能があると仰っていた。だけれど……
お客様の使用効果を損ねると言って、わたくしに試させてくれない。幸福の香りとは一体どんな物なのか、知りたいわ。
湖畔の花に身を寄せると、馥郁たる香りが鼻に飛び込んでくる。
良い匂い……幸福とは季節に咲く花の事かしら?
素足で芝生を踏み、髪を風が梳かしてくれた時の気持ちよさかしら!
しかしキャシーにとって、それだけでは足りないみたいだった……
キャシーのあの日の涙を思い出して、わたくしは思わずスカートの裾を握りしめた。
幸福になれる香料があるのなら、あの子どもたちだけでなく、キャシーの笑顔もきっと見られるはず!
考えているだけで楽しくなってきたわ!
御侍さまは使わせてくれないけれど……見るだけなら大丈夫だよね?
好奇心にそそのかされ、水に濡れたスカートの裾を持ち上げ村に入る。
「シナモンロール!また遊びに来たのか?」
「シナモンロール!この前、香を調合してくれてありがとう!お陰様で最近女房はとてもよく寝れているそうだ!」
「あっ……いえ、こちらこそありがとうございます……」
すれ違った村人たち全員が声をかけてくれた。親切な彼らに、わたくしは感謝の言葉以外返す言葉が見つからない。
わたくしはただちょっとお手伝いをしただけなのに、ここまで褒めてくれるなんて、本当に恥ずかしいわ……
どうしよう……シナモンの中に隠れたい……
「うわっ!」
まだシナモンを取り出していないのに、わたくしの右足は何かを蹴って、バランスを崩してしまった。
ぎゅっと目を閉じてしまったけれど、硬い地面の感触はなく、枝が折れる音が聞こえてきた。
いけない!他人の花畑を潰してしまったかもしれない!
「ごっ、ごめんなさい!すぐに起き上がります!」
立ち上がろうともがいていると、横から手が伸びてわたくしを起こしてくれた。
「キャシー?!どうして……」
わたくしは自分の目を疑った。目の前のキャシーは頬がこけていて、目の下には黒い隈があった。しかも、ほんの数日会っていないだけで、信じられない程に痩せている。
最愛の人に会えたのに、どうしてこんな風になっているの?
キャシーは何も答えない。彼女は弱り切っていて、話すのもやっとのようだ。
彼女はわたくしを家に招いた。彼女に何が起こっていたのかを確かめるため、拒否せずに付いていった。
キャシーの家のソファーに座り、キッチンでキャシーがコップをいじる音を聞きながら、わたくしは異常がないかを探した。
あれ?部屋の中……なんだか変な香りがする?
「キャシー、新しいお香を買ったのですか?」
「ええ、お隣のおばあさんから頂いた物よ。確かシナモンロールたちの新商品みたいだけど……」
御侍さまが言っていた香料?どうしてこんな変な香りがするのかしら……
この香りは、本当に人を幸福にするの?
「キャシー、この香りで気分を悪くしていませんか?」
「キャシー?」
返事はなかった。
慌てて立ち上がってキッチンに駆け込むと、痩せ細った彼女が床に倒れ、意識を失っているのが見えた。
Ⅲ.詐欺
慌ててキャシーをベッドに連れていくと、変な香りが更に強くなった事に気付いた。
ベッドの端に置かれた香具に視線を落とし、わたくしは思わず唇を噛んだ。
他人の家の物を勝手に動かすのはよくないけれど、今は……そんな事を気にしている場合ではない。
蓋を開け、ピアスを取って灰の中をいじると、奇妙な匂いが立ち上った。
この香料は何かおかしい!
し、しかし、御侍さまは……
そうだわ!御侍さま、彼はキャシーの身に何が起こったのか知っているに違いないわ!
「はぁ……はぁ……」
肺の空気が空っぽになるまで走り続け、筋肉が軋んだ。この道が、こんなに長いと感じた事は一度もなかった……
どんどん近くなるテントを見て、思わず声を上げる。
「御侍さ……」
「なんだ、お前が三割で俺が七割をもらう話だっただろ?」
「粗悪な香を売っていた事がバレたら、どれだけのリスクがあるか知っているのか!反故にする気か?!」
「俺がいないと、安物が手に入らないだろう?得をしたんなら、きちんと仕事をしろ、寝言は寝て言え!」
……
足が止まる。テントの中での口論に不意を突かれ、わたくしの叫びも口から出る事はなかった。
そ、それはどういう意味。粗悪な……香料?
まさか……まさか、わたくしが今まで売っていた香料も、キャシーの家にあった香料も……全て……
ダメ!あの香料を使っちゃいけない!みんなに言わなければ!
村に戻ろうとした時、見覚えのある村人たちが歩いてくるのが見えた。
「シナモンロール……みんなに説明してくれ……」
「説明?説明する必要なんてあるか?あの悪徳商人とグルに決まってるだろ!」
「そうだよ、村でこんな奇妙な物を売っているのはお前らだけだ。たくさんの人が頭痛で倒れたのは、きっとお前らのせいだ!」
厳しい詰問が体に残った僅かな温もりを奪う。
わたくしが最も恐れていた事態が起こった。
キャシーだけでなく、更に多くの人が傷ついている。
もちろん、わたくしは誰も傷つけたくはない。でも説明して信じてもらえるかしら?
信じる訳がないものね。間違いを犯したのだから、責められるのは当然の事……
「落ち着いて……シナモンロールはいつもみんなを助けてくれた。みんなもちゃんと見ていただろう。話を聞いてやれ」
こんな時でも、信じてくれる人がいるなんて……
尚更、みんなの信頼を裏切る事は出来ないわ!
「も、申し訳ごさいません!わたくしも知らなかったのです……先程キャシーが倒れているのを見て、やっとおかしいと気付きました……」
「少しだけ、時間をください……必ず!皆さんに真実をお伝えします!」
みんなの反応を見るのが怖くて、俯いて地面を見つめたり熱くなった目が涙で曇る。
いつのまにか吹いていた夜風が、走って落ちた髪を乱し、周囲は静まり返っていた。
やがて、ため息が聞こえてくる。
「じゃあ、お前が言う真実とやらを待ってやる」
Ⅳ.仲違い
「御侍さま!その香料は……」
「うるさい、この愚か者!状況を見ろ!早くお前の霧で奴らを足止めしろ、今夜にでも出ていかないと間に合わなくなるぞ」
「……」
出ていく?
わたくしは自分を心配してくれた村人たちに、責任を果たせていない。彼らは傷つけられ、ベッドの上で頼りなく横たわっているのに、もう一度わたくしを信頼してくれた。わたくしは……
これ以上はこのままにしておけない!
「御侍さま、わたくしたちはここから離れてはいけません。村人はわたくしたちのお香のせいで病気になったのです、責任を取らなければ……」
「責任?どう取るんだ?殴られればいいのか?バカな事を言うな!」
「いいえ、御侍さまが皆さんに、あの養護施設の子どもたちを助けるため、焦ってしまったから粗悪品を売ったのだと説明すれば、優しい皆さんはきっと許してくれるはずです!」
「子ども?何の話だ?」
わたくしは唖然とした顔で御侍を見た。
「この香料の収入の半分は、養護施設に寄付すると……」
「ハハッ、それはお前に香料を売ってもらえるよう、怪しまれないようにするために言った事だ。本気であのバカ共に説明する気か?突っ立ってないで、早く片付けて逃げるぞ!」
予想はしていたけれだ、実際に御侍さまの口から真実が語られて、わたくしの頭は殴られたような衝撃を受けた。
彼の鋭い言葉は、一言一句わたくしがバカである事を再確認させてくれた。
わたくしは……何をしていたのだろうか……
「わたくしはただ……皆さんを助けたいだけなんです。御侍さまはどうして、わたくしを騙したのですか……」
「助ける?本当に助けたと思っているのか?お前の思い過ごしだ。お前は俺より良い人だと思っているのか?」
彼は皮肉な顔で、わたくしを見下した。
「キャシーに会っただろう?今の状態を見て、本当に助けられたと思うのか?」
「キャシー……」
わたくしはまた痩せ細ったキャシーの姿を思い出した。
最愛の人にもう一度会いたいと言うから、幻境で夫と再会させた。だけど、彼女の状態はますます悪くなっていた……
わたくしは……間違っていたの……?
頭が裂けそうになる程の乱雑な思考の奥に、わたくしが最も直面したくないものがある事を、わたくしはよく知っている。
ーー今になって気付いた過ち。
苦しい、しかし……このまま逃げていいの?
現実から逃げて、催眠の幻境に逃げ込むように……
痛みが引いた時、テントの中は空っぽになった。御侍さまはわたくしを待たずに一人で去って行った。
風が入ってきてテントを揺らす、暖かさが失われていく。
捨てられたの?これが当然の報いというもの?
しかし、村人たちに罪はない、今も苦しんでいる。
もしかしたら、彼らの唯一の間違いは、わたくしを信じてしまった事なのかもしれない……
いいえ、わたくしの苦しみは彼らにとって何の価値もない。真実という物は何の償いにもならない。
何の罪もないのに苦しんでいる村人たちがを放っておけない。例え、わたくし一人であっても、彼らの面倒を見なければならない。
わたくしが犯した過ちは、わたくしが償わなれければ!
Ⅴ.シナモンロール
シナモンロールは三日三晩掛け、天然の材料でどうにか村人たちの傷んだ体を不器用にも懸命に治した。
彼女の地道な努力のおかげで、春が近づく頃に村はようやく活気を取り戻した。
シナモンロールは村に離れる前、もう一度キャシーに会いに行った。
キャシー回復して、元気になっている。
彼女は戸口に立っているシナモンロールをじっと見つめる。重い荷物を背負い、村人たちが詰め込んだ手土産を抱えて、少し息を切らしながらも笑顔を浮かべていた。
「シナモンロール、ここを出るの?」
「はい。わたくし一人の力でも、出来るだけ多くの人を助けて、彼らだけの幸福を見つけてもらいたいので……」
キャシーは穏やかな笑みを浮かべ、シナモンロールの頭を優しく撫でた。
「幸福を見つける……シナモンロールにぴったりの仕事ね」
「そっ、そうかしら?」
少女は真っ赤になった。彼女は自分を奮い立たせるように背を伸ばす。
「本当よ、シナモンロールが本当の幸福を見つけてくれたんだ」
「夫がいなくなってから、もう一度会って話をしたいといつも願っていた。そうすればもっとちゃんと日々を過ごせると思っていたから。貴方はそんな不可能に近い願いを叶えてくれた」
「シナモンロールが教えてくれたんだ。過去にどっぷり浸かっていると、本当の幸福を逃してしまうって。こんなにも早く過去の過ちから抜け出せたんだから、私も負けないわ」
キャシーはいたずらっぽくウィンクをした。
「だから、もっと多くの人を助けて、シナモンロールならきっと出来るわ」
「……はい!」
こうして、シナモンロールは皆の祝福を浴びながら、自分の旅に出た。
一度ショックを受けた彼女は、何から始めればいいのかわからなかった。だけど、キャシーの釈然とした笑顔を思い出す度、より多くの人が心から笑えるようにしたいと誓った。
「聞いた?あの有名な催眠術師がうちの町にやって来たって」
「本当?あの調香の技術が高い催眠術師?私の前世を見てもらわないと……」
一緒に歩いていた若い少女たちは、興奮した声を上げながら、街を歩いていた。
人込みを逆らいながら歩くシナモンロールは、風にあおられたベールを戻そうとした。
しかしベールが下りる前に、色鮮やかな一枚のチラシが風に乗って、少女の顔に飛んで来た。
驚いた少女は身構えたが、すぐにチラシの文字に気を取られた。
「誠実で幸福な香料をお作りします!
健康、地位、富、そして愛まで!何でも叶えてくれる幸せの香料!
お客様には絶対に損をさせないオークションが、今日カーニバルで行われます!」
覚えがある言葉にシナモンロールの思い出が掻き立てられ、彼女は眉をひそめ、遠くの高い建物に目をやった。
カーニバル……
人を幸福にする香料は本当にあるのだろうか?
ペテン師?それとも貴重なお宝?
今度こそ、彼女は一刻も早く真相を明らかにしなければならない。
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