ホッキガイ・エピソード
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ホッキガイのエピソード
善と悪の両面を持ち、気まぐれ。機嫌が良い時は人間に手を差し伸べるが、機嫌が悪いと人間を殺してしまう。享楽に耽っているように見えて、実は世の中のつまらなさを見抜いているだけ。
Ⅰ.紅
を遊屋に迎え入れた。
裸足でついていくと、木製の床が悲鳴を上げるように軋んだ。
前堂を抜けると、中庭に出た。
廊下に囲まれているそこは、花々が咲き乱れていて、天を仰ぐような楓が植えられている。
初めてその楓を見た時、半分枯れていて、まるで妖しい不死身のようだった。
遊屋の者がそれを切って桜に植え替えようとしたのを妾が止めたがために、生き返って今や青々と茂っている……
「切ろう」
「えっ?何をですか?」
「この木を切ろうとしていただろう?今のうちに切ってしまえ」
「し、しかし生き返っているのに、どうしてまた……」
「そちに死ねと言っても、理由を尋ねるのか?」
彼女はよろけて、そもそも歪んでいる顔が余計皺くちゃになった。
妾は驚いたその顔が大層面白くなって、笑いかけてこう言った。
「どうせいずれ死ぬのだから」
婆は口を噤んでキツツキのように頷き、震えながらも妾を扉の前まで案内した。
二人の小童が膝をつき、障子を左右に開く。
奥の座敷には、美酒や美味を盛った座卓、三味線を抱いた芸妓やはだけた花魁がいた。
妾が足を踏み入れると、花魁は蛇のように滑ってきて、香ばしい手ぬぐいに酒をつけて妾の顔に貼り、真っ黒になった血痕を拭いてくれた。
「これは何なのかしら?」
「これは……堕神の血だ」
酷く匂う奴らが霊力を貪るために飛びかかって来たから、それらの命を奪った時についたもの。
どうって事ない。
妾は血のついた手ぬぐいを放り投げ、柔らかな白い手首を引いて、彼女を連れて座った。
「おや、こんなにも綺麗な顔を忘れる事はないと思ったのだ。しかし、以前来ていた花魁は?」
「ふふっ、貴方様に長らく会えずにいたため、恋焦がれて病死してしまったのでしょう」
「死んだのか?」
「そうです。どうしてあたしがいるのに、他の人の事を考えてるのかしら?」
彼女は妾の懐に潜り込み、視線で妾を誘惑してくる。
指の腹であごを撫で、くいっと持ち上げた。
その小さな鼻先に笑いながら顔を近づけ、小さく首を振った。
弱い。
修羅場をくぐり抜けて来たであろう女であっても、気付けば死んでしまっている。
霜に耐えられぬ花、水に溺れてしまう蟻、寒さにも暑さにも弱い人間たちもだ。
弱い、弱すぎる。
世の中はどうしてこんなにやわなものばかりなのか?
堕神と匹敵するほどに愚かな人間と自らの力にうぬぼれている食霊たち。血みどろになってまで争っているのは、こんな世界を手に入れるため?
つまらない。
神は偉大だが、彼女はこの世を面白いと思っているのか?
森羅万象全て神の手のひらの上にある、彼女が手を翻すだけで滅ぼせるのだ。
神もつまらないと思うだけ。
だから妾は神にはならぬ。
妾は鬼だ。
どうにか生き返ったあの楓に再び死罪を与え、秋まで生き延びられるかを見届ける……
これこそ面白い。
バンッーー
酒を半分も流し込んでいないのに、大きな力に押され障子がひっくり返った。
大きな物音によって近くの部屋から続々と客が顔を出してきた、全員が障子の上に倒れ込んだ女を見ている。
花魁は、殴られたのは新入りの阿呆だと教えてくれた。
売られてきたのだが、初日で殴られてしまっているようだ。
「あの破れた絵を大事に抱えたまま、見せてくれないからよ。こんな所に来たのにまだ人間扱いされると思い込んでいる、自業自得かしら」
妾は外を見た。
障子に赤い血が染まり、雪が降った日の紅桜のようだ。強い風に吹かれて、ぱらぱらと辺りに紅が散っていた。
「俺様はお前を買ったんだ、言う事を全部聞け!それを渡せ!どんな良いもんかみてやろうじやねぇか!!!」
氷雪のような男の凶行を受け、女が細い枝が折れるような呻き声を上げる。彼女は震えているが、折れはしなかった。
抱いている物を守るためだろうか。
うーん。
面白い。
花魁を置いて、妾は庭に出た。
男は殴るのに疲れたのか一息ついたところで妾の顔を見た。ここで女の客に会った事がないのか、露骨な悦びを目に浮かべた。
「新しい花魁が食霊だとは、来た甲斐があったな。早く俺様を楽しませておくれ……」
うつ伏せになっている女を見つめ、近づいてくる男を横目で見た。
大きく開けて笑っているその口に二本の指を入れ、少し力を入れて金色の歯を二つもぎ取る。
体を引き裂かれたかのような男の泣き声を楽しみながら、妾は嬉しそうに赤く染った硬い物を床に捨て、眉を上げて女に訊ねた。
「その絵をくれ、これは手付金だ。くれたら、この豚の骨で熱い汁物を作ってやろう、どうだ?」
Ⅱ.紅葉
絵はもらえなかった。
阿呆な女がくれなかった訳ではなく、ぼんやりとこちらを見ている内に、時機を見計らった婆が突進してきてその絵を奪ったのだ。女が泣きながら、叫びながら、這って逃げていった。
地面に広がる真っ赤な血痕を見て、妾は一気に興が冷めた。
こうなれば、地面に蹲ったまま口を押さえて泣き叫んでいる愚か者と同類になってしまうではないか。
周囲のクスクスとした笑い声がぴたりと止み、静まり返った瞬間、妾は花魁の扉を勢いよく叩いた。
花魁は、あの阿呆な女の名は青葉だと、もし妾が気に入ったのなら、綺麗にして送り込んでもらうと言ってきた。
口ぶりは軽薄だが、酒を持つ手は重そうで、震えながら妾の目の前に差し出された。
妾はその白い手を持って酒を飲み干し、嬉しさと悲しさの両方を浮かべている彼女の口角を摘んで笑った。
「妾がやりたい事なんて、そちに教えられる必要はない、小童よ」
花魁は恐怖で腰が抜けたのか、妾がその場を離れても立ち上がれないでいた。
妾が何千何百年と生きてきたのは、人間たちの言う妖怪のような強さのおかげだ。誰かに何をするべきで、何をしないべきかを教えてもらったからではない。
この世には妾が出来ない事はない、妾が望まない事しかないのだから。
「絵を広げろ」
妾は寝台の上で横になって、阿呆な女を睨んだ。
数日ぶりに見た彼女の顔は綺麗になり傷も治っているのに、絵を抱えたままだ。大きな目をぱちくりさせ、少し呆けているように見える以外は、案外気にいっている。
青葉……いかにも生き生きとしているな。
しかし、この生気は厳冬を凌ぐ事が出来るのだろうか?
ふふっ……
「貴方の顔にあるのは何?」
彼女はしゃがんで妾を見た。石を叩く泉のような軽やかな声だ。
妾はわざとおどかすように、低い声でこう返した。
「これか?……血だ」
「えっ……痛くないの?」
妾は一瞬きょとんとして、女の方を向いた。
「妾の血ではない、痛い訳がなかろう。匂う奴らの命、奴らの欲に過ぎん」
「でもお婆が言っていた。あたしを殴る度に腰がだるくなったり、足が痛くなったりするって。血を流しているのはあたしなのに、お婆の方が痛く見える」
「痛い訳じゃない、そちに怒っているのだ」
「怒るのだって、痛いでしょう?」
眉をひそめた青葉は、真剣に心配している様子だった。妾は笑みをおさめて立ち上がり、彼女に近づく。
自分の事さえ守れないのに、他人の事を、更には妾の事まで心配しているとは……
パンッーー
叩かれた彼女はよろけ、妾は更にあの絵を床に叩きつけた。
「なっ、何するの?!」
「罰だ」
狼狽えている彼女を見て、妾は満足そうに床に広がった絵を眺めた。
白と赤の服を着た、美しく穏やかな女性の絵だ。
いくら美しいと言っても特段珍しいものではない。ただの巫女の絵をどうしてこんなにも大事にしているのか?
じっくりと眺めていると、青葉が急いで床から絵を拾い上げる前に、ふと気づいた。
道理で彼女は妾に会う度に呆けていたのか。
この巫女と妾は幾分似ているからなのだろう。
「その絵はどこで手に入れた?」
「やっ、山の神社で出会った」
「拾った物だろう?どうして命まで掛ける?」
「この美人だけがあたしの話を聞いてくれる、優しくしてくれる、彼女はあたしが守らなくちゃ!」
美人?
この阿呆は絵を生きた人間だと思い込んでいるのか……
「ふふっ……なら、妾が優しくしたら、そちの命をくれるのか?」
「うーん……じゃあまず名前を教えて」
「名前?」
「うん!おじさんもあたしに親切にしてくれたんだ。良い物を食べさせてくれるから、あたしを山からここに連れて来た……」
憂いに染った事がないように見えた顔が急に暗くなり、悲しさが浮かんできた。
「あたし、ここが嫌だ、山に帰りたい……あのおじさんは悪い人だ、名前を教えてくれないから、悪い人だ!なっ、名前を教えてくれないなら、良い人じゃない!」
その目がまた輝き始めて、楽しそうに見えた。だが、そうなればなるほど、妾は彼女の意に従うのが嫌になり、自分には名前がない嘘を付き首を振った。
「美人と同じように名前を付けてあげるよ!髪も服も赤いし、足まで赤いから……あたしが青葉……だから……紅葉って呼ぶね!」
スパンッーー
刀を一振りすると、小さな部屋は青葉と彼女に抱き締められた絵以外、完全ではなくなった。
妾は廃墟の中に立ち、ちっぽけな人間を見下ろす。
阿呆であろうと愚か者であろうと、妾を名で縛ろうとするのは死罪にあたる。
妾はその女を睨み、怒りを爆発させようとする。しかし女はちっぽけで、卑怯で、焼ける場所が見当たらない。
やがて妾は彼女を一人恐怖の中に残し、この場を去った。
たかが人間風情が……
放っておいても、長くは生きられない。
人間風情が。
Ⅲ.紅葉山
堕神であっても、真っ赤な血が流れている。
実に不快だ。
憤って刀に絡みついた汚い血を払うと、太刀風によろめいた者たちを一瞥して妾は鼻で笑った。
「そんな度胸で妾に喧嘩を売りに来たのか?愚か者」
逃げ道を塞ぎ、その者たちを鳥や獣を閉じ込める用の籠に閉じ込めた。
「な、何をする?!」
「そちの親分はより良い桜の島を作ろうとしているのだろう?その前に、妾がろくでなしの手下たちを調教してやらないとな」
「や、やめろーー!」
籠は山道を転がり、やかましい泣き声も次第に遠のき、やがて静けさを取り戻した。
桜の島を守る神になるには、まず自分の手下を守る事が先だって事を、あのクソガキにわからせないと。
もう二度とちょっかいかけてくるな。
山風が吹いた時、妾はふと顔に違和感を覚えた。
堕神を斬った時に人間たちが邪魔をしたから、また顔に血がついたのだろう。
久しぶりに游屋の芳しい手ぬぐいを思い出した。あの楓はまだあるのだろうか。
ふっ、あと阿呆な女の大事な大事な絵で血を拭ってもらおうか。
「お見えになったのですか!花魁たちは貴方様を心待ちにしておりました……」
「青葉は?」
婆は首を絞められたかのように、口を噤んだ。
妾はちらりと彼女を見て、そのまま青葉の部屋に向かった。
「青葉は、もうここには住んでおりません……」
「余計な事を言わせるな、案内しろ」
裏庭の薪小屋は鼠にも嫌われる場所、人を見ると気が狂ったようひ逃げ惑うゴキブリが数匹いるだけだ。
青葉は藁の中に横たわり、足の裏には虫が死んでいて、寒さに振るえていなければ死んでいるのかと思った。
婆は転がるようにして彼女に駆け寄り、起こした。
青葉が客に無礼を働き、花魁を怒らせたため、少し懲らしめているだけですぐに解放するつもりだと言ってきた。
少し懲らしめているだけ?
妾はざっと青葉を観察した。顔は青タンだらけ、全身は血まみれ。虐待と言った方が正しいのでないか?
女は白く乾いた唇を開け、二文字だけ吐き出した。
「……紅……葉?」
妾は返事せず、目を伏せて彼女を見た。
「はい……これを……」
彼女は震えながら、懐から手ぬぐいを引っ張り出した。血で汚れていたが、それに見覚えがあった。
ああ、あの日、花魁が顔を吹いてくれた後、妾が捨てた物だ。
「そうだ、この手ぬぐいです。花魁の手ぬぐいさえ盗んでいなければ……」
盗んだ?
あの花魁がこんなゴミを気にするのか?
足蹴にされるのが嫌で、勇も謀もなくただ孤立した阿呆をイジメようとしただけだろう。
歯を二本抜いた愚かな豚が、腹を立てて、また怒りをぶつけに来たのだろう。
遊屋の婆も、青葉が寵愛を失ったと思って放っておいたのだろう。
これが遊屋であり、歌舞伎町であり、桜の島であり、荒唐無稽な世の中である。
美しい未来なんて、ありゃしない。
「紅……葉……顔の……血を……」
喉に何かがつっかえているかのように、上げられたその手をただ見つめた。
「……絵は?」
「ある……よ……」
待ちかねたかのように絵を探しに行った婆。
妾は息も絶え絶えな青葉を薪小屋から連れ出した。
中庭には大勢の人が集まっていて、その中でも一番頑丈そいな男が、衰弱しかけた楓を斧で切ろうとしていた。
妾は斧を奪い、分厚い斧を素手で握りつぶした。
丁度婆さんが絵を届けに来たから、妾は指の間にある鉄粉を全部彼女の黄ばんだ瞳に押し込んだ。
何も見えていないのなら、目なんてなくていい。
嗄れた叫び声がやけに耳障りだった。だが青葉は起きず、妾の腕の中で気絶したまま。山に戻り、神社に入った所で、彼女はぼんやりと目を開けた。
「ふふっ……知ってた……美人だって……」
阿呆。
遊屋の連中に半分以上壊されてしまった絵を一瞥し、妾は怒りを抑えた。
こんな弱い者すら守れていないのに、どの口で他人を説教していたんだ。
可哀想。
「こ……ここは……」
「……神社」
「神……社……」
「……そちが初めて妾を見た場所……山の神社だ」
「山……山の……」
みるみるうちに血の気が引いていく、散った花火のよつに暗い目になった。
妾は絵に描かれた大人しい巫女の事を思い出し、嫌々ながら……
彼女はもう持ちこたえられない。
妾はなるべく目尻を下げて、穏やかに笑ってこう言った。
「紅葉、紅葉山だ……おかえり」
Ⅳ.紅葉山外
青葉を埋葬した時、あの絵を返すべきだと思った。
絵を包んだ風呂敷を広げ、自分とよく似た顔を見る。
この絵は……
層があるようだ。
絵に切れ込みを入れると、一枚の絵が出てきた。そこには細かい字が書かれていて……
桜の島は、陰陽二つの面にわかれている……
「現世」と「黄泉」……双生の巫女……天沼矛……
面白くて危険なものばかりが書かれている。
しかし……
これらの内容を調べれば、絵に描かれた巫女を見つける事が出来るかもしれない。
彼女は青葉が一生を掛けて守った者だ、彼女の正体をだけでも知る事が出来れば……
そのために、妾は黄泉へと向かった。
しかし、あの紙に記された黄泉の毒から身を守るため、堕神につけ込まれてしまい、不慮の傷を負った。
そんな苦しみよりも、恐ろしいのは真実だった。
妾がいた場所が、黄泉だったのだ。
青葉、そちが必死に守ってきたのは、こんなにも恐ろしい真実だと知っていたか?
阿呆だ、なんて愚かな……
「バカ、こそこそしてどうすんだ?オレは話をしに来たんだ!」
「で、でもボス、彼女は……あまりにも恐ろしい……」
「怖がる必要なんてねぇよ!オレ様がいる!」
神社の外から話し声が聞こえてきて、次第に明瞭になって来た。
なんて間が悪い。
妾は髪を火の中に放り、騒がしい者共を無視し、疲れに身を任せて目を閉じた。
疲れた……
……
「ボス!ここまで殴る必要なんてないでしょう?!」
「オレじゃねぇよ!オレが着いた時には、もうこんなんだった!」
「これは……どれだけの怪我を磨れば、これだけの血が……ん?」
「この血は、彼女のものではないみたいね……」
目を開け、妾を見る二つの頭を見て、ゆっくりと口を開いた。
「確かに妾のではない、堕神のだ」
「起きたのか!」
見ればわかる問いかけをしてきた赤髪の小童を見る。
「明太子?」
「ははははっ、やっぱりオレ様は天下一の明太子だ!知らない者はいな……」
「そちの手下たちが毎日妾に言ってくるから、知らない方が難しいぞ」
「……」
明太子の気まずそな顔を見て、そばの少女は美しい服が乱れるのを気にせず大笑いしている。
なんだか……なんだか……
「どうしたの?」
気がつくと、少女の服の裾を掴んでいた。彼女は……彼女ではない。
「……美しい服を、汚しはいけないぞ」
「……はい」
雲丹と呼ばれた少女は姿勢を変え大人しく座った。当たり前の事だが、何故か明太子は顎を抜かしそうになっている。
「月見が何回言っても聞かなかったのに、何で急に……」
「そう!月見!薬をいっぱい買わなくて良いって伝えなきゃ、また薬の匂いでいっぱいになってしまう!」
雲丹はそう言い放つとを慌てて部屋を飛び出した。室内には明太子と妾だけが残って、しばらく沈黙が続いた。
「崇月は、そんなに妾の力が必要か?」
「は?……あっ、当たり前だ!桜の島の主となって、より良い桜の島を作るには、一人一人の力が不可欠だからな!」
彼の明るい笑顔を見ながら、突然、心の中で不満が生じた。
「桜の島の主になってどうする?桜の島が明日にも滅びると言ったら?」
「なっ……そんなの絶対に阻止する!」
「もしそれが……天意だったら?」
「はあ?それは……」
ほら、何も出来ない。
永遠、美しい、このようなものは人々の言葉と記した文字にのみ存在する。
不可能なのだ。
「じゃあ全ての者を連れてここから出る。どうせこの世には別の島とかあるだろう!」
立ち上がった明太子は到底信じられないような妄言を口にしたが、死を覚悟したような毅然と言い放った。
この瞬間、妾はまるで青葉を見た。
「……全ての者?」
「全員だ!」
「そちの力だけで?」
「お、お前っ!どういう意味だ!オレがどうしたって?!桜の島の主になるんだ、のれだけの覚悟はないとだろう!」
妾は思わず声を上げて笑った。
この崇月の首領は、桜の島以外に理想郷があるかも知らないまま、全ての者を率いて桜の島を離れるという妄言を言い放った。
しかし。
もし彼が本当に桜の島の悲劇を解決してくれるのなら……それからあの絵の巫女も……
面白い。
どうせ妾には時間がある、退屈すぎるほどに長い時間が……
「なら、ガキ大将、妾はここでそちを見届けよう」
Ⅴ.ホッキガイ
「あれが噂の鬼女?ボス、人違いなんじゃ?」
「そんなはずは……」
突然崇月に入る事を承諾した事よりも、喧嘩の売り買いなどせず、ただ無言で草花を育て、絵を描き、人が変わったような彼女がただただ恐ろしかった。
雲丹の疑問を口では否定しながらも、明太子自身も心の中で疑問を浮かべた。
(まさか、本当に人違いなんじゃ?)
「じゃあ、試してみる?」
「なんでオレなんだよ?」
「ボスだからね!」
「紅葉、何を描いているんだ?」
ホッキガイを「鬼女」と呼んで殴られて以来、明太子は彼女を「紅葉」と呼ぶようになった。
今のホッキガイも確かに鬼女というよりも、神社の絵に描かれた端正な巫女のようで、笑みを浮かべる事も少ない。
「汁物だ」
「汁物?何も入ってなくて、ちっとと美味しそうに見えない、せめて野菜くらい入れろ!」
「肉の汁物だ」
「肉だからってなんだ……わかった!野菜の葉っぱが描けないのか?へへっ、オレが手伝ってやるよ!」
「いや……」
「お前も崇月の一員になったんだ、遠慮すんな!」
明太子が硯の上に置いてある筆を持ち上げようとした時、ホッキガイは微かに眉をひそめて、彼の手を制止した。
「わっ!もっ、紅葉!何すんだ?早く降ろせ!」
「いや」
「うぅ……」
明太子の細い腕をねこを摘むかのように持ち上げ、蛹のように縛られ梁に吊るされていく様子を、雲丹は隠れてみていた。
(うん、鬼女・紅葉で間違いないね)
「おや、もう一人いるみたいね……」
「姉御!ごめんなさい!」
「うぐぐぐっ!」
明太子は雲丹が裏切った事に怒鳴っていたが、口まで塞がれてしまったためくぐもった声しか出せないでいる。
当然、二人には無視された。
「今夜は紅夜?」
「そうです、姉御!」
ホッキガイは筆を置いて、立ち上がる。
「じゃあ、見物に行こうか」
「うぐぐぐぐぐ!」
明太子は空中でもがいていたが、弱そうに見えるホッキガイの羽織はぴくりとも動かない、むしろますます体に絡みついた。
ホッキガイはその滑稽な仕草を気に入ったのか、口元に微かな笑みを浮かべ、ようやく明太子に向き直った。
「桜の島の主になるなら、これくらいの試練はどうって事ないだろう?雲丹、行くぞ」
「はいっ!姉貴!」
紅夜は、百鬼夜行が行われる夜だ。
殺し合いは永遠に終わらない紅夜のようで、これはホッキガイが最も好きな時間だ。
しかし、彼女はほとんどの時間傍観しているだけだ。たまにお茶を飲み、気を失ってこちらに向いた者を目の前から払いのけるだけ。
たまに厄介な者を対応する事もある。
「かの鬼女・紅葉が崇月に入ってくださるなんて、今になっても意外です」
ホッキガイは声がする方に一瞥し、笑って相手の差し出したお茶を受け取る。
「穏やかな月見先生が百鬼夜行という面白い催しを考えつくなんて、妾も意外だ」
月見団子は笑みを深め、ホッキガイの同意を受けた後、彼女の横に座った。
「貴方が初めて崇月に来た時重傷を負っていましたね、何者の仕業か知っているのですか?」
「知っていたとしたら?知らないとしたら?」
「知っているなら、崇月が仇を討ちに行く所存です」
「妾が、誰かに代わりに仇を討ってもらおうとするような者に見えるのか?」
ホッキガイの目つきが闇の中で驚く程に危険なものに変わった。月見団子は一瞬きょとんとしたが、すぐ柔和な笑顔に戻った。
「いえ、私は紅葉が崇月に入った理由が気になっただけです」
「妾はたくさんの者に会い、たくさんの事を目撃してきた。人も事も全て千編一律で、つまらない。この世は、ただでたらめなに繰り返しているだけだ」
狂おしい喧騒の中、ホッキガイの声は静かで穏やかだが、月見団子に衝撃を与えた。
「力があるかどうかに関係なく、不可能な事はある。妾はわざわざやろうともしない。しかし……」
ホッキガイの目には血と光が蠢いている。静かに狂っている。彼女は戦場の混乱を見つめている、何でも出来るのに傍観を選んだ神のような出で立ちだ。
「水を煎じて氷を作り、枯れ木に花を生やす、そんな不可能が現実になる瞬間を見届けるというのは、面白いだろう?」
「明太子が桜の島の主になるというのは、夢物語だとお考えですか?」
突然と真っ赤な姿が戦局に加わった。彼の大きくはない体は、羽織に縛られたため狼狽した赤い痕が残っている。
しかし、彼の周りで炸裂する爆弾とがむしゃらに突き進む勢いを、誰も見て見ぬフリをする事は出来ないでいた。
ホッキガイは遠くからその様子を見ていると、血だらけの顔と震える意地っ張りな手が脳裏に過ぎった。彼女はゆっくりと笑みを浮かべた。
「さぁ?色々言ったが、結局は……」
彼女は少し首を傾げ、口元に尊大な笑みを浮かべた。
「自分が楽しければ、それでいいんだ」
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