ボロジンスキー・エピソード
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ボロジンスキーのエピソード
ボロジンスキーは戦場で生まれた。集団墓地で徘徊していることから「死神」と呼ばれている。戦場で野獣のような生活を送っていたため、自然に畏敬の念を抱いている。自然を軽視、破壊する者には厳しい罰を下す。現在は「カーニバル」のレストランの管理者を務めており、人の魂を断ち切ることの出来る大鎌を持っているが、普段は狩りや食材の調理にしか使わない。
Ⅰ.罰
物寂しい風が吹く、草木が幽然と群生している。亡霊たちは彷徨い、その囁きがあちらこちらから聞こえてくる。
森というのは生命が最も栄える場所だと言われているが、ここは全てが終わる場所。血肉はここで消え、執拗な魂だけがここを離れようとしない。
ここはあたしが育った場所、人間共が集団墓地と呼ぶ場所だ。
やつらはここを見ると顔色を変える、まるで見てはいけない地獄を見たかのように。
あたしにとって、ここは自然が生命に与えた休息の地に過ぎない。
朝日が昇ると、あたしはいつものように拠点の外で狩りを始めた。
しかし、刃を五回も研いだのに、パートナーであるハティ——聡明で勇敢な狼の姿が見当たらない。
心が沈み、不吉な予感がする、あたしはすぐに走って戻った。
案の定、ありとあらゆる場所を探したが、見慣れた姿は見つからなかった。
「ハティ-!」
見慣れた森は、突如あたしの呼びかけを呑み込む巨大な迷路に変貌した。
ますますあたしの直感が「何かがおかしい」と告げてくる。
ハティは理由もなくいなくなったりはしない。
……探そう。
左右の木々が後ろに置いていかれる中、あたしは隅々まで目を配った。
突然、微かな気配があたしの感知に引っかかる。
「ハティ!!!」
前方にある気配がどんどん鮮明になっていく、あたしはツタを切り、飛び出そうとした次の瞬間ーー
血の匂いに混じって人間の匂いがして、あたしはその場に凍りついてしまった。
黒い布の下には無力な姿が蹲っていた。鮮血に染まった鎖で醜い顔をした者たちによって引きずり出される。
「ハハハハッ、張り込んでやっと生きた黒い狼を捕まえた!これは高値で売れるぞ!!!」
「早くしろ、血が全部流れちまう前の新鮮な状態で売らないと!」
「……」
耳を刺す笑い声が響く、それはガンガンとあたしの鼓膜を容赦なく叩き続けた。寒気と怒りに襲われ、気付けば動き出していた。
無実の生命は、卑劣な手段で手に入れたり、金儲けの道具にしてはならない。
それに、彼らはあたしと共に戦った仲間でもある。
何があっても、こいつらには償ってもらう!
「密猟者共め!」
鎌を振り下ろすと、一瞬にして醜い者たちの顔から血の気が引いた。
「あああああっ、集団墓地の死神だ!!!助けてくれー!!!!!」
「死神が、死神が命を奪いに来た!!!!!」
死神……
またこのくだらない肩書きか。
人間がここを、あたしを、どう見ているのかなんて、どうでもいい。
死を忌み嫌うのに、死を育むこの土地に畏敬の念を持たないという彼らを、どうしても理解出来ないだけ。
自然が授けたあらゆる物事を踏みにじるのは、許されざる事だ。
更に、彼らが傷つけた無実な生命の中には、あたしと肩を並べて戦った仲間たちもいる……
「どうやら、ここで密猟したらどうなるか、全く知らねぇようだな」
強烈な怒りが嵐のように巻き起こる。あたしはロープを投げ、逃げようとする者たちの体に巻き付け、やつらが藻掻くのを無視して引きずった。
「誰か助けてー!!!」
「死にたくないー!!!」
高く切り立った崖に立ち下を覗くと、底知れない深淵が広がっていた。
ロープの片方を岩場に結び、足元で許しを乞う人間共を見下ろす。
垂れ下がったロープが風に吹かれて揺れている。
声にならない声を出しながら抱き合っている二人は、まるで振り子のようだ。
しかし、この程度の罰で足りる訳がない。
「自分の命が惜しいあんたらに、他人の生死を決定する権力なんてない」
あたしは腕を上げ、ロープにそっと刃を当てた。
「今、あたしが少しでも指を動かせばこのロープは切れる」
「あたしの事を"死神"って呼ぶなら、望みを叶えてやろう」
風は更に強まり、やつらの足元の石は絶えず奈落に落ちて行く、まるで死を告げているかのようだ。
「やめてくれー!!!!!」
「お待ちください……!」
鎌を振り下ろそうとした時、慌てている女性の声と奇妙な香りが漂ってきた。
Ⅱ.生死
突然の奇妙な香りに、あたしの頭が一瞬真っ白になって手の動きも止まった。
罰の執行を制止され、あたしは走ってきた少女を見て苛立ちが止まらない。
「チッ、何者だ」
「わっ、わたくしはシナモンロール……少し落ち着いてください!こんなの危険すぎます!お願いです、彼らを傷つけないでください!」
荷物を背負っている裸足の少女は、目の前の情景に愕然としているが、声は優しく、そして体から力が抜けるような香りを漂わせていた。
「ハッ、やつらはあたしよりも遥かに危険だ」
あたしは横にある汚くて目立たない黒い布袋を開けて、彼女に中を見せた。
袋の中から弱々しい鳴き声が聞こえる。トゲのある足枷が悪魔の牙のように無実の生命の毛皮に食い込み、彼らの自由を奪っていた。
シナモンロールは身体を震わせ、先程よりも驚いた表情を見せた。
「見たか、あんたが助けようとしたのは恥知らずの密猟者たちだ」
「ごめんなさい……!わたくしが誤解していました!わたくし……」
「生命を弄び、軽んじる者に、生きる資格なんてねぇよ」
「まっ、待ってくだい!死神さん!」
「どけ!さもなくばあんたも同じ目に遭わせてやる!」
彼女の制止を振り切り、あたしは鎌を振り下ろしてロープを切った。
「ああああああああああー!」
その叫び声は、やつらが崖から落ちていくにつれて聞こえなくなった。
「ああいう連中に同情するな。野放しにすると欲望をただただ増長するだけだ」
「他者の生命を支配して満足感を得てんなら、逆に支配される気分を一度味わえばいい」
静かになった事で、あたしの声がハッキリと響いた。
シナモンロールはまだショックから立ち直れていないようだ。あたしはしゃがんで岩場に括り付けたもう一本のロープを手に取る。
「人間は失って初めて大切にする事を覚える。それは生命に対してもだ。彼らは教訓を得ない限り、決して悔い改めることはねぇ。あたしが言ったようにーー」
「勝手に他人の生命を絶っていいやつなんてこの世にはいねぇ」
「あたしも含めてな」
この言葉が口から出た瞬間、あたしは力強くロープを引っ張った。
二つの人影が引っ張られ再び崖の上に現れた。そして地面に触れるや否や、芋虫のように崩れた。
心の中の怒りが全て消えた訳ではないが、これ以上あの醜い面々とは関わりたくなかった。
「次またそのツラを見せたら、ここの死体と共に過ごさせてやる……早く消えろ!」
「!!!」
一命を取り留めた人間共はすぐに逃げ出した。そして全てを目撃していたシナモンロールが声を発する前に、弱々しい鳴き声があたしの鼓膜を貫いた。
目の前の事よりももっと大事な事が残っているのを思い出す。
「ハティ!!!大丈夫か!?」
いつも威風堂々としている巨大な狼は、毛並みが乱れていて、無力に縮こまっている。頭をあたしの腕に乗せて、温もりを求めているようだ。
やつらをあのまま逃がすんじゃなかった……!ハティに一体何をしたんだ?!
「死神さん……わたくしに見せてくれませんか!」
「あんたに?」
「薬草を持っています。もし宜しければ試させてください!」
シナモンロールは断る事を許さないような真剣な表情で、荷物の中から薬草を取り出した。
「あんた……ありがとう」
シナモンロールはそっとハティの傷口を癒している。その優しい瞳はまるで澄んだルビーのようだ。
しばらくして、彼女は額の冷や汗を拭き、ホッと一息をついた。
「ふぅ……これで大丈夫なはずです。死神さん、もう心配はありません」
さっきより随分とマシになったハティの表情を見て、ずっと張り詰めていたあたしの気持ちもようやく緩んだ。
Ⅲ.拠点
「死神さん、さっきは誤解してしまって、ごめんなさい……」
「やつらは懲らしめた、他はどうでもいい。あと、あたしはボロジンスキーだ、死神さんなんかじゃねぇよ」
「ごっ、ごめんなさい……!わたくしが言いたかったのは、彼らにチャンスを与えてくれてありがとうございます……あれ?ボロジンスキーさん、どうかしましたか?」
彼女の露わになっている足に傷があるのを見つけ、驚く彼女をよそに、彼女の手を引いて歩き出した。
「怪我してるな、ついてこい」
太陽の光が木々の間から降り注ぎ、灰色の森に数少ない暖色をもたらした。
ここがあたしの拠点だ。
あたしたちが近づくと、テントの前にいた狼たちが興奮した様子で走ってきて、シナモンロールにも飛び掛った。
「アオーン、アオーン!」
「あら!くっ、くすぐったい……あはは」
「結構好かれてんな、あんた」
「え?まさか……わたくしの匂いのせい……でしょうか?」
「そうでもねぇみたいだ」
久しぶりに見る賑やかな光景に少し驚いたが、思わず口角が上がってしまった。
しかし、シナモンロールは少し混乱しているようだ。子狼たちの頭を撫で、食料をいくつか渡して散らした。
「これで大丈夫だ」
水で傷口を綺麗にし、薬草を使って手当てをした後、あたしは立ち上がった。
「これぐらいの傷なら、放っていても直に治りますが、ありがとうございます」
「礼はいらん。ハティを救ってくれたからな」
「素敵なお家ですね。自然豊かで、太陽の光も差し込んでいて、それに……可愛い仲間たちもいる……」
家?
シナモンロールの優しい語り口からは、憧れすら感じ取れた。
見慣れたこの質素な拠点を思わず見回したが、今までにない感情が波のように胸に押し寄せてきた。
「褒めすぎだ。ただの集団墓地にすぎねぇ。むしろあんたはどうしてここにいるんだ?」
不思議そうに、思っていたよりも特別なこの少女を見た。
彼女は調香師で、香料を集めている途中で道に迷い、森に迷い込んでしまったのだという。
「近くの町で、とんでもない噂を耳にしました……邪悪な死神が集団墓地を徘徊していて、運悪く遭遇してしまったら、その巨大な鎌で命を奪われてしまうと……」
「……」
予想を裏切らない子だ。
返事しないあたしを見て、そしてあたしが持っている大鎌を見た彼女は。
「えっと……大きな鎌と……死神……まっ、まさか……?!」
ようやく何かに気づいた彼女の驚いた顔を見て、あたしは思わず笑ってしまった。
「どんだけ鈍いんだ?もし本当の死神にでも会っちまったら 、あっという間に命がなくなってるぞ」
「それで、あんたもその噂を信じるのか?」
シナモンロールも人間たちと同じように怯えた顔をするのかと思いきや、彼女は首を横に振り目を細めた。
「死神の正体が、こんなに可愛らしいお嬢さんだと知ったら、彼らはきっとビックリするでしょうね」
「……可愛い?」
あまりにも予想外な返答に、どう反応したらいいかわからなくなった。しかし、シナモンロールはとびっきりの笑顔を見せる。
「ボロジンスキーさんは自分のやり方でこの森と生命を守っています。優しい心がなければそんな事は出来ません。命を奪う冷酷無比な死神であるはずがありません」
「……」
どうしてか、言葉に詰まった。頬は制御出来ない程に熱くなっていく。
心臓の鼓動がいつもと違う事に気付き、あたしは軽く咳ばらいをして彼女の熱い視線から目を逸らした。
「あら!ボロジンスキーさん、顔が赤くなっていますよ!本当に可愛らしいですね〜」
「……やめろ!ハティの様子を見てくる……」
テキトーに言い訳をして、急いでこのおかしな状況から逃げ出した。
柔らかい動物の毛皮に包まれている、ハティの呼吸は落ち着いていた。彼はゆっくりと目を開け、あたしの手のひらを優しく舐めてくれた。
舌から伝わる温もりがあたしを癒し、まるであたしを慰めているかのようで、少しずつあたしの心も安らいだ。
シナモンロールはいつの間にかあたしの後を追いかけ、身を乗り出してハティの傷を確認し始めた。
「良かった……薬草はちゃんと効いているみたいですね」
「そう言えば、わたくしはまだボロジンスキーさんの事を知りません。どうして一人でここに住んでいるのですか?それに、狼たちともとても仲良しです……」
あたしの視線に気付いたのか、彼女は急に話すのをやめて、顔を赤くした。まるで慌てているリスのようだ。
「いえっ!初めて見た時は確かに少し怖かったです。でもこの狼たちはとても善良なので、仲良くしていけないという訳では!その、わたくしが言いたいのは……えっと……」
よく耳にする言葉なのに、あたしは思わず一瞬固まってしまった。
言葉にならない思いが時を超え、遠い風に混じって胸に響いた。
「構わない……聞きたければ教えてやる、話すと長くなる……」
Ⅳ.過去
絶望的な悲鳴が耳に纏わりつく、まるで鬼魅の甲高い哀しい呼びかけだ。
頭上の空はまるで誰かによってぐちゃぐちゃに落書きされたキャンパス。寒風が吹き荒れ、見渡す限り残骸と死体しかない。
悲惨な魂たちが悔しそうに徘徊している。ここを離れたくないようだ。
今、目の前に倒れている男こそ、あたしを呼び出した御侍。
「ほんとうに……成功する……とは……」
男はボロボロの鎧に覆われ、血の池に浸かっている。まるで壊れたブリキの兵隊人形のようだった。
あたしに気付いたからか、虚ろな目には一筋の暗い光が灯った。
「たす……助けて………助けてくれ………」
「また……死にたくない……ここで……死にたく……」
あたしは頷いた。彼の声は琴戦が切れた楽器のように、今にも無に帰してしまいそうだ。
だが、結局彼を救う事は出来なかった。
断片的な言葉から、辛うじて死因がわかった。
この不幸な兵士は、任務中に重傷を負って意識を失っていたところ、死亡していると誤診され、生き埋めにされてしまったのだ。
彼が完全に目を閉じるその瞬間にまで、遠くで燃える戦火と、そこから微かに大砲の轟音が聞こえた。
あれは人間が資源を奪い合う時代だった。戦火が通り過ぎた場所には残骸と虚無しか残らない。
戦場で生まれ、戦場で死ぬのが宿命。
名前さえも知る事が出来ないまま。
生命はこうあるべきではない、しかし……
でも今彼のような人はどれぐらいいるのだろうか?
恐らく、そこら中にある骸骨だけが、この問いに答えてくれるだろう。
簡単に作った、名が刻まれていない塚の前に立つと、突然頬が濡れた。顔を上げると、雨がパラパラと降っていた。
この雨で傷ついた体が洗い流され、魂が安らかに眠れるようにと強く願った。
それ以来、あたしはこの集団墓地で一人で生活している。
どれくらいの時間が経っただろうか、運ばれてくる遺体の数は次第に少なくなり、たまに迷い込んでくる人間を除けば、ここには極めて静かな場所だ。 自分と魂たちだけが周りに取り残されたような、平和で静かなこの感じが好きだ。
死にかけた、あの日までは。
あの夜、鋭い牙を持った堕神が勢いよく襲ってきて、あたしは抵抗出来ずに荒野に倒れた。
天地がひっくり返った後、勇ましい黒い狼が月光の中咆哮を上げながら駆けつけ、緋色が視界を切り裂いた。
うっかり怪我をしてしまったあたしは、狼の巣に連れ戻され、彼らが狩りで得た食料までもらった。
後で知った事だが、あたしを救ってくれたのは彼らのリーダーだった。
あたしの生活が獣と変わらなかったからか、それとも獣と同じ振る舞いをしていたからか、獣たちは問答無用であたしを同類として認めてくれた。
事実、あたしは彼らとうまくやっている。まるで親しい仲間のようにな。
久しぶりに晴れた夜、あたしたちはテントの外で寄り添い、貴重なひと時を楽しんだ。
狼のリーダーの目尻にある傷に気付く。あたしを救う為に出来た傷だ。それは空に浮かぶ満月のような形をしていた。
ふと、白骨のそばに落ちていた書物の切れ端を思い出す。
ハティという名の、月を追い掛け食い尽くした伝説の狼の事を。
「これからは、ハティって呼んでいいか?」
「アオーン!」
……
「それから、ハティはあたしの最高の相棒になった。あたしも狼たちと一緒に狩りをし、一緒に暮らし、自然を壊そうと企む人間共を追い出した。あんたの言うように、ここの番人のような存在になったんだ」
「しかし、こんな場所であっても、たまに身の程知らずな人間共に狙われてしまう。今日見たような、欲に溺れ、自然を壊そうとするやつらだ」
長らく誰かとこんなに話した事がなかったからか、あたしは一気に過去を全て吐き出した。なんだか吹っ切れて、心が軽くなった。
「わたくしに教えてくれて、ありがとうございます……」
「しかし……ボロジンスキーさん……何か他に気になる事があるのでは?なんだか、落ち込んでいるように見えるので……」
「あんたら調香師は植物だけじゃなく、感情も見分ける事が出来るのか?」
「いえ、ただ……あなたの目が……少し悲しそうに見えました」
そよ風で巻き上げられたカーテンをすり抜け、自然の息吹が彼女の優しい声を耳の中へ届けた。
突然、鼻の奥がツンとした、思わずため息をつく。
「あんたはハティを助けてくれたが、そもそももう命は長くないんだ」
「?!」
俯いて、ハティの深いけれど老いた目と合った。目尻の傷は今でもくっきりとそこにある。
「元々高齢だったから、結構な年数も経ってるし……もう長くない……」
「そうだ、あんたは……医術にも精通しているか?もし……」
「……いや……」
喉がきゅっと窄まって、何も言えなくなってしまった。声が掠れただけ。
シナモンロールは眉をひそめて、首を横に振った。
「いいえ、わたくしは医術には……でもハティを町の医館に連れて行く事は可能です!もしかしたら、そこでなら彼を救えるかもしれません……!」
シナモンロールは声を上げたが、すぐにハティはゆっくりと立ち上がり、あたしに近づいた。
その瞬間、出会った時のあの逞しく勇敢な黒い狼が今、あたしの目の前にいるかのような……
目尻が熱くなった。いつの間にか、頬に厚い毛皮が擦り寄っていた。
あたしはたまらず手を伸ばして、彼の背中を優しく撫でた。
これが、彼らの別れの告げ方だ。
そして、彼は一歩一歩テントの外に出ていった。狼たちはただ静かにそれを見守る。
夕日がその影を伸ばし、残照と共に彼は森の奥へと入っていった。
風が止み、カラスだけが鳴きながら飛んでいた。まるで旅立つ狼のために歌っているかのようだ。
あたしの心臓は、強く鼓動をし続けている。
「ありがとう、シナモンロール」
「長い年月が経って、彼はきっと疲れているんだ。生命はいつか消えてなくなる、ここが彼の魂の終の棲家なんだろう」
Ⅴ.ボロジンスキー
数日後、森の奥から空を貫く程の狼たちの悲痛な鳴き声が響いた。まるで哀悼の意を表しているかのように。
たまたま集団墓地に通りかかった人たちは、いつもは不気味な死臭のするそこから、香りが漂っている事に気付いた。
静かな月光のような清らかなそれに、思わず足を止め、それに浸った。
「これがあんたのやり方なのか。眠りを誘う香で、痛みを感じないまま逝けるように……ありがとう、ハティもきっとあんたに感謝しているはずだ」
ボロジンスキーは遠くを見つめたまま、枯れた声でこう言った。
彼女は片方の手を胸に当て、心臓の鼓動を感じながら、消えない力を確かめているかのようだ。
例えいなくなったとしても、いつも彼女共にいる。
その日は快晴だった、だけど彼女の目尻は確かに微かに光っている。
「ボロジンスキーさん……リーダーを亡くした今、狼たちは大丈夫でしょうか?」
「ハティはリーダーじゃなくなってから随分経つ、でもずっと尊敬されてきた。狼たちも、お互いに庇護を必要としているから群れてる訳じゃねぇ、今やあたしよりも強くなってるかもしれねぇしな」
控えめな香りは消えた、或いは静かな森に溶け込み、この地の生死の循環を見守っているのか。
そしてシナモンロールの旅は終わった。彼女は荷物をまとめ、再度出発する支度を終えた所だったが……
別れを告げようとしている相手の予想外の熱意に、圧倒されてしまう。
「うぅ……そ、そんなに受け取れませんよ!大事な食料を全部くれるなんて!」
ボロジンスキーが緑色の乾物を大量に持って来たのを見て、シナモンロールは驚いた表情を見せた。
「ここ数日、色々と世話になったからな。これはほんのお礼だ、気に入ったって言ってただろ」
「ええ、見た目は少し変わっていますが……とても美味しいです!」
シナモンロールの言葉を聞いて、ボロジンスキーは自慢げに言った。
「当たり前だ、自然から調達したものだ。遠慮するな、集団墓地の名産だと思って受け取ってくれ」
「わっ、わかりました!多くの方に味わってもらいます!このような美味が知られていないなんて、もったいないです!」
……
「で?本当にあの集団墓地から持ち帰った物なの?」
煌びやかなビルの中、レットベルベットケーキは眉を上げ、皿の上にあるとてつもなく濃い緑色をした塊を興味深そうに見ていた。
サクッ──
「うーん!甘い、それに青々とした草の味がするわ」
レッドベルベットケーキは目を輝かせて満足げに頷くと、近くのソファーに座っているジェノベーゼに目をやり、何か企んでいる口調でこう続けた。
「もしかしたら、オークションで高値で売れそうね~こんな物を作ったのがどんなひとなのか、興味あるわ」
「それにレストランには……有能なシェフが必要だし、ちょっと取引でもしてみようかしら?」
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