ふぐ刺し・エピソード
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ふぐ刺しのエピソード
毒薬収集マニア。色んな毒素を集めるのに熱中している、自分の身体で毒素の効果を試すのを惜しまない。いつも大量の劇薬を携帯していて、既に毒が効かない身体になっている。身体痩せ細っていて、長く生きられないように見える。毒薬を使って自分を瀕死に陥れる方法で毒薬の研究をしているため、誰にも理解されない。
Ⅰ.毒を試す
あたたかい午後の日差しが石段に降り注ぐ。
僕は退屈そうに畳の上で寝っ転がっている、薬がもたらす倦怠感はまだ消えない。
中庭の中央にある楓、その影が半開きの襖に映り、風に吹かれて優しく揺れている。
派手な服装の少年が勢いよく襖を開けてきた。その手を見ると黒紫色の草を持っている。
「弟子よ!見てくれ、ついに見つけたぞ!」
僕はパッとしない草を手に取り、鼻先に近づけて匂いを嗅いでみた。その清貧だが微かに漂う香りに思わず興奮する。
「おや……なかなかの毒性だ、これは?」
少年は、畳に散らばった古書から一冊を取り出し、パラパラとめくってお目当ての箇所を指差した。
ボロボロで黄ばんだ古書には、先程の草が描かれているのが辛うじてわかる。
「紫若姫……という名だそうだ。とりあえず薬にして、貴方に飲んで貰わらないと確定出来ないな」
「配合を教えてくれ、僕が作る……コホッコホン……」
体を起こそうとしたが、こめかみが急に痛くなり、眩暈に襲われた。
フッ、今回の薬の効果は意外と長く続くらしいな。
「いい、もう少し休んでいてくれ。貴方はどんな毒にも侵されないのに、どうして僕よりも体が弱そうに見えるんだ……せっかくの弟子を早死させたくない!」
少年は僕の肩を押さえ、無理やり畳の上に寝かせた。
「これから父上が流鏑馬の出来を確認しに来る。遅くなるかもしれない」
彼がここを離れた時、既に太陽の半分は厚い灰色の雲に覆われていた。
いつも僕のことを「弟子」と呼子の少年は、僕の御侍--松丸だ。
武道の名門の若様で、薬学研究に夢中になっている。
数ヶ月前、偶然僕を呼び出した彼は、片手にボロボロの古本を持ち、もう片手で薬を擦っていた。足元には奇妙な薬草が大量に無造作に置かれている。
「食霊か?ちょうど助手が欲しかったところなんだ!……いや……弟子だ!俺の弟子になれ!薬の作り方を教えてやる!」
「薬……とはなんだ?」
彼は、薬棚の高い段から瓶を取りだした後、僕の肩を叩いてニヤリと笑った。
「話せば長くなる……俺はこの古い医学書に記載されている薬の研究がしたいんだ……だけど、この処方たちは思っていた以上に厄介で、油断すると猛毒が出来てしまう」
「食霊はいかなる毒にも侵されないと聞いた事がある。師匠である俺は体が弱いから……代わりに薬を試してくれないか?」
いかなる毒にも侵されないか……フフッ……
僕は確かに長い年月を生きてきた。自分の年を忘れるほどの長い間、永遠の眠りについていた僕は、とっくに「生」の感覚までも忘れている。
「いいでしょう……」
僕は「薬」たちを受け取り、ゴクッと全て飲み込んだ。それらは口、喉、食道を通っていく。
痛み、灼熱、麻痺……毒素は混沌を貫く光のように、僕の血液の中を駆け巡った。
「不老不死」の文字は、この瞬間崩壊しそうになっていた。
限りなく死に近づいていく中、僕はやっと「生」を実感したのだ。
あぁ……素晴らしい。
遠のいていきそうな意識を戻すと、部屋中には薬の香りが広がっていて、喉の奥から再び抑えきれない渇きが込み上げてきた。
倦怠感が薄れたから、僕は薬棚からすり鉢を取り出そうと立ち上がる。
杵で繊細な茎や葉を砕くと、紫黒色の液体が飛び出て、指に付いた。
舐めてみると、すぐに舌先が麻痺して、甘美なる暗闇が眼前に広がった。
恍惚の中、コツコツと薬を摺る音が聞こえる。
強張っている首を捻り背後を見ると、松丸が懸命に薬を摺っていた。
「起きたか?途中までやって寝てしまったのか……」
「ゴホッゴホッ……」
舌の付け根の痺れは明らかにまだ残っている。唇を覆う袖口には血が付いていた。
「えっ?また吐血したのか?!」
すり鉢を持って僕の前に座った彼は、珍しく真剣な顔をしていた。
「さっき一口味見したんだ、前に飲んだ薬と飲み合わせが悪かったのだろう……ケホッ……問題ない」
すり鉢に手を伸ばすと、紫黒色の丸薬が出来ていた。
「しかし……これは紫若姫ではない。もっと別の……コホッ……更に毒性の強い薬草だろう」
「そうなのか!でも、血を吐いたばかりだし、今日はもうやめておこう……明日にしようか」
「ゴホッ……このぐらいの血なら、死にはしないよ……もう待ちきれないんだ……ゴホッ……早くこの丸薬を味わいたい」
少し苦い丸薬を飲み込むと、予想通りすぐに全身に麻痺が広がった。
あぁ、この感覚だ……
期待に慄く僕は、満足気にため息をつき、柔らかい畳の上に倒れ込んだ。
Ⅱ.瘴毒を消す
翌朝、尋常じゃない騒音によって起こされた。
この時間、寝台の上で眠っているはずの松丸の姿が見当たらない、少しだけ不吉な予感がする。
ーー松丸に、何かあったのかもしれない。
ここに来てから数ヶ月、僕は初めて松丸の中庭から出た。邸宅にいる者たちは僕を見ると、皆一様に遠ざかっていく。
「……あれが若様が飼っている妖怪か?」
「若様が旦那様の部屋からお金を盗んで……下男を買収して山に薬草を採りに行かせていたらしい。でも怪物に出会ってしまって……死んだそうよ」
「他の若様たちは全員怪物の討伐に出征したけど、消息がないのよ……なのに一番下の若様は毎日訳のわからない事ばかりしていて、旦那様も怒るはずだ……」
「きっとあの妖怪が若様を誑かしたに違いないわ……」
戯言が風に乗って僕の耳に入るが、歩みを緩めない。
松丸は痛みに耐えかねて、体を丸めて地面に這いつくばっていた。
長い鞭を手にした白髪の中年男性が、怒り心頭に発した。
「親不孝者!妖怪如きに惑わされて、恥を知れ!」
激しい痛みによって松丸は顔を顰めていたが、それでもブツブツと何かを呟いていた。
「彼は……違う……違うのです……」
「妖怪の肩を待つのか……!」
再び鞭が落ちる前、僕は彼の襟元を引っ張って避けた。
「妖怪め!……松丸に近づくな!」
男は手にした鞭を強く握りしめた、彼の目には蔑みの色が浮かんでいる。
弱っている松丸はまともに立つことも出来ない。いっその事彼を担ぐことにした。
男の咆哮が背後から聞こえたが、怒りに満ちていた。
それを無視して、松丸を担いで庭まで真っ直ぐ戻った。
「いってて……!」
「この軟膏……貴方が作った物だよな?他の軟膏より沁みるな……」
松丸は額に汗を浮かべながら、捨てられた子犬のような目で僕を見ている。
僕は冷たい軟膏を掬い、痣と血痕の間に優しく塗ってあげた。
「飲み薬もある、軟膏が嫌ならそれを試すといい」
「コホッ……貴方が作った薬なんて、怖くて飲めないよ……」
こうブツブツ言いながら彼は目を瞑る。
「しかし、弟子よ……来るのが遅すぎないか?殺されそうになっていたんだぞ……次はもっと早く来てくれ」
「口を動かさないで……傷口が裂けるよ」
「あの薬草はまたま見つかっていない……まさかあそこにも怪物が出るとは……」
僕の言葉は彼と耳には届いていないようで、依然として独り言が止まらない。
「一刻も早く瘴毒消しの薬を開発しないと……」
「瘴毒消し?」
「古書に記載されている処方によると、瘴毒を打ち消せるらしい……より多くの人を救えるかもしれないんだ」
松丸が薬を研究している目的を口にしたのは、この時が初めてだった。
僕は軟膏を棚に仕舞う。そばには黒紫色の汁が入った鉢があった。
舌先はまだ強烈な痺れを覚えているようだ。
ーーもう一度あの感覚を体験出来るなら、毒消し薬だろうが毒薬だろうが、僕にとってはどうでも良い事だ。
夜、痛みに耐えかねた松丸は安神丸を飲んで、深い眠りについた。
寝台の横に散らかっている古書を手に取る、切れ端に書かれた難読な古文に頭痛を覚える。
勉強嫌いな松丸が毎日これを興味深く読んでいるだなんて、あまり想像出来ない。
「松丸は、大丈夫かしら?」
千姫はそっと襖を開けて、綺麗な重箱を抱え部屋に入ってきた。
「薬を飲んだので、もう大丈夫かと」
「それならいいけど……」
千姫はホッと長いため息をつくと、眠っている松丸をちらりと見て、そっと重箱の蓋を開けた。
箱の中には、紅葉の形をした和菓子が十数個も入っている。
「お菓子を作ったわ、よかったら食べる?」
「ありがとうございます。でも人間の食べ物は食べ慣れないので、松丸が起きたら食べさせましょう」
千姫は重箱を置き、松丸の寝台と前に座った。
腕の痣を見て、彼女は首を横に振る。
「この子、姉である私に何も言ってくれなくて……貴方がそばにいてよかったわ……」
「貴方はこの子にとって、家族のような存在なんでしょうね」
僕は、彼女の言葉がよく理解出来ず、少し呆然としていた。
「家族?彼は僕のことを、毒を試してくれる弟子としか思っていないでしょう」
「そんなことないわ。怒られても声を出せない彼が、貴方のために父上に反論したのよ」
「はい?」
千姫はため息をついた。彼女は僕の言葉を聞いて少し怒っているようだったが、すぐにそれは心配に変わった。
「松丸が言っていたわ、貴方のことを妖怪と呼ぶ人が大嫌いだって。今日もこれで口答えして、父上に殴られたのよ……」
「僕は人の目を気にしたことなんてありません」
「しかし、松丸は誰よりも貴方のことを大事にしているわ。少なくとも毒を試してくれるだけの弟子以上には」
毒を試してあげられるからではなく、僕が大事だから……?
千姫はそれ以上何も言わずに、静かに立ち去った。
ぐっすりと眠っている松丸の寝顔を見つめ、言い知れぬ不思議な感情が湧いてきた。
全く、いつも変なものに執着してばかり、なんと愚かな人だ……
Ⅲ.本心
松丸は禁足を命じられたが、食霊である僕には関係ない。
ここ数日、僕は時々薬草を取りに出掛けたが、あの毒草だけが見つからなかった。
夕暮れ、僕は薬箱を背に人通りの少ない道を歩いた。
近頃、怪物が頻発に出没しているせいか、市場の店も早々に閉店している。
街角で黒い人影が蠢いている、不気味で腐敗臭がツンと鼻をつく。
近づくと、それは骨ばった手を伸ばし、僕の裾を強く引っ張った。
「寒い……痛い……」
「先生……助けてください、私を助けてください……」
目の前の男を見ると、彼の顔は異様なほど青黒くなっていて、口と鼻の間からは小さな血の粒が滲んでいた。
腐敗臭は更に強くなっている。
瘴毒……か?
「辛うじて怪物から逃れたとしても、命は助からない……瘴毒に侵された者は、悪寒を感じ、全身が激しい痛みに苛まれ、やがて皮膚が爛れ……死ぬ」
真っ先に頭に浮かんだのは、松丸の言葉だった。
この男の状態から見て、彼はもう長くはないだろう。
「コホッ……すみません、僕は医者でない。貴方を救う術もありません」
しかし、既に腐り始めたその手は僕の服を放そうとはしなかった。しばしの沈黙の後、僕は仕方なく袖から一粒の丸薬を取り出した。
「これを飲めば、楽になれますよ」
言い終わると、僕は手を振り払い帰途に着いた。まだ完全に暗くなっていないのに、風は妙に冷たい。
中庭に戻ると、松丸は部屋でいつも通り薬を摺っていなかった、何故か立派な刀を大事そうに撫でている。
僕は薬箱から集めた薬草を取り出し、茎と葉を選んで薬鉢に入れた。
深紫色の薬草は、すぐに泥状になった。
「今日は若紫姫をたくさん見つけたが、完全にあの薬草の代わりにするのは不可能だ」
松丸は聞こえていないのか、刀を呆然と見つめている。
薬を摺っている僕が見えるようになったのは、随分経ってからだった。
「ふぐ刺し……父上も怪物を討伐しに行った。残された時間は少ない……」
「父上は、町の外で怪物がたくさん徘徊していると言っていた……ここでさえ必ずしも安全とは言えない。もし本当に危険が迫ったら、この刀で姉を守れと言ってきたんだ」
「コホッ……しかし、松丸……貴方は刀の使い方など教わっていないだろう?剣術の授業は、受けなかったはずだ」
「ああ、父上は何を考えているんだ!殺し合いなんて……俺には似合わない」
松丸は悔しそうに刀を脇に置いた。
「ダメだ……恐ろしい怪物のことを考えるだけで、膝が笑うんだ……」
「ふふっ……心配するな、少なくとも貴方は僕の御侍だ。例え怪物に遭遇しても……簡単には死なせたりはしない」
「流石俺の愛弟子だ!」
僕の言葉を聞いて、沈んでいた松丸の顔に笑顔が戻った。
「しかし、あの薬草を早く見つけないと困るな、明日はもっと頑張ってもらわないと!」
気付けば辺りは真っ暗になり、秋風が寂しく吹いている。中庭の紅葉はほとんど散ってしまった。
松丸は薬鉢を抱えながら、茶卓を背にして眠ってしまったようだ。
僕は手にした黒い丸薬を口に含む。
ピリピリとした感覚が舌先の神経に微かな刺激を与えたけど、少しの間続くと、すぐに消えた。
やはり、肝心の薬草がないと、ダメみたいだ。
「松丸、また眠ってしまったの……」
いつの間にか、千姫がやってきた。いつも通り重箱を抱えながら。
「ええ……今寝付いたところです」
「お疲れ様、お菓子を持ってきたけれど、食べる?」
今度は断らず、適当につまんで飲み込んだ。
柔らかくて甘い。薬の味とは全く異なるが悪くはなかった。
千姫は松丸にそっと服を掛けてあげた。
「父上も行ってしまった。これからの藤原家はどうなるか……」
「父上は、もし怪物退治がうまくいかなかったら、次は松丸に行かせると言っていたわ」
「ふふっ、あの方は……松丸様を買いかぶり過ぎです」
僕は指先に残った粉を落とし、扉にもたれかかった。
「藤原家の息子として生まれたからには、背負わなければいけない責務があるわ」
「実は……松丸が瘴毒消しの開発にこだわっているのは、母上が原因なの。数年前、母上は怪物に襲われた……生き延びたけれど、瘴毒に侵されたため……やがて他界したわ」
「でも、貴方はなんだかんだ松丸と似ているわ、これが食霊と御侍の絆ってことかしら」
「カハッ……そんなことないですよ」
思わず吹き出した僕は、眠っている松丸を振り返った。
「本心に従って努力しているもの……例え誤解されてもね、二人ともそうじゃない」
そう言って、千姫は真剣に頷いた。
「僕はただ……コホッ……薬を作るのが好きなだけです」
千姫は優しく微笑んだ。松丸によく似たその顔は、月明かりに照らされてより一層柔らかく見えた。
「とにかく、松丸を見守ってくれてありがとう……」
お礼を言われることに慣れていない僕は、千姫が帰るまでどう反応していいのか、ずっと躊躇っていた。
中庭の石灯籠には既に明かりが点っている、静かな月夜だ。
眠っている松丸は無意識に首を掻いて、寝言をつぶやいている。
あの日の、千姫の言葉を思い出した……
「家族」、この二文字は僕にとってあまりにも遠いものだ。
しかし、今の生活を維持出来るのであれば、それに越したことはないない。
ふふっ……それなら、僕も「本心」に従うとしよう。
Ⅳ.激変
雨上がり、道はぬかるんで歩きにくい。
微かな腐臭がして、匂いを辿っていくと、黒い岩場に生えている黒紫色の草を見つけた。
雑草をかき分けると、目に映ったのは至って普通な草だった。
しかし不思議なことに、その周りだけ腐臭はしない。
瘴気……この毒草と何か関係があるのだろうか?
僕は薬草を薬箱に入れ、早く戻って松丸に教えようとした。
今日は朝早くから市場の閉まっていて、異様な雰囲気が漂っている。
全てが驚くほど静かだった、風鈴の音だけが街中に響き渡っている。
強烈な生臭い匂いと腐臭が鼻につく。
僕は急いで中庭に駆けつけた。
そこには瀕死の松丸がいた。前よりも遥かに酷い状態だった。
彼は正座したまま、両手は引き戸を死守し、まるで何かの侵入を阻止しようと命懸けで凌いでいたかのようだ。
僕を見た瞬間、彼はついに倒れ込み、血まみれの顔で無理して笑顔を作った。
襖の向こうを見る、血だまりの中、千姫の長い黒髪が広がっていた。彼女はもう息をしていない。
「ゴホッ……ふぐ刺し……やっと、帰ってきたのか……」
力なく笑う彼の腰にはあの真新しい刀がまだきっちりと鞘に収められていた。
「俺……やっぱりダメだ……母上も……姉上も守れなかった……」
そう言っているが、彼は身を挺して千姫の遺体を守っていたのだ。
彼の言うことに構う余裕がなく、僕は薬棚を必死で探った。
ある……きっとあるはずだ……彼を救える薬が……!
なんとしても彼を救う!
「もういいんだ、例え生き延びたとしても、瘴毒を消せる薬なんて……ないから」
最後の力が抜け、胸に針が刺されるような激痛に耐えかねた僕は、地面に倒れ込んだ。
「松丸……僕……見つけたんだ」
ーーしかし、もう手遅れだ。
「それは……良かった……ケホッ……」
「弟子よ、では……貴方に任せた…瘴毒消しの開発…この重役を……」
松丸と最後の笑顔は、初めて会った時のものと同じだった。彼は僕に向かって懸命に手を伸ばしたが、落ちてしまった。
「晴らすんだ……桜の島を永遠に瘴毒さら逃げられるように……」
霧雨が降りしきる中、中庭の血跡が洗い流されていく。
楓は雨水に流されるまま、まるで漂流する小舟のようだった。
僕は失意の中、中庭を出ると、気がついたらもう山の中にいた。
腐敗臭はますます強くなり、容赦なく口と鼻から肺に侵入して来た。
疲れ果てて、濡れた草の上に横たわり、目を閉じて、深い深淵の中で思考を巡らせた。
「ふふっ……薬師か?」
この空間に似合わない甘ったるい女性の声が耳に入る。
「誰だ?……」
「貴方が作りたいその薬の作り方を知っているかもしれない、試してみない?」
「貴方が?それは一体……ゴホッ、貴方は誰だ?」
「私が誰であろうと、関係ないじゃろう……黄泉の毒をご存知?薬の作り方を知りたければ、百聞館へいらっしゃい」
Ⅴ.ふぐ刺し
「……それ以来、皆夜に出かけることを避けた。もし運悪くあの毒薬師に出会ったら”せっかく会えたし、僕の薬を飲んでみない?”とつぶやきながら、無理やり変な毒薬を飲ませてくるんだ……」
若い女性はわざと声を低くし、物語を読み上げた。
女の子は怖くて、顔を布団の中に隠した。
「ううう……お母さん、怖い!もうこのお話しないで!」
「はいはい、じゃあ大人しく寝るんだよ!夜寝ない悪い子は毒薬師に攫われて、毒薬を飲まされるんだ!」
女性は布団を開けて、女の子の顔を撫で、目を閉じる我が子を見て満足そうな表情を浮かべた。
「あら、洗濯物取り込んでなかったわ……」
女性は襖を開け、提灯を持って中庭に戻った。
夜も更け、風が寒いくらいに女性の首筋に吹きつける。彼女は毒薬師の話を思い出して一つ身震いした。
「やだ……ただのおとぎ話よ」
「でも……最近は妙に寒く感じるのよね……夏なのに……」
提灯の明かりが風で揺らめき、細い人影が佇んでいるのが見えた。
「誰……?」
彼女は提灯を少し高く持ち上げ、震えながら問いかけた。
痩せ細った男は振り向く、月光に照らされた顔は青白い。足元には得体のしれない血生臭さが漂っていた。
彼の差し伸べてきた手には黒紫色の液体が入った小瓶があった。
「瘴毒はここに広まっているみたいだ、貴方たちも影響を受けているはず。コホッ……せっかく会えたし、僕の薬を飲んでみない?」
短い叫び声はすぐに静まり、安らかに眠っていた人たちは、猫の一匹が鳴いているだけだと思ったのか、少し寝返りを打っただけだった。
百聞館の中、あん肝は蝋燭の灯りをぼんやりと見つめながら、待ち侘びていた。
「あの薬師!まだ帰って来ないの?!このあたしを待たせるなんて!ひどい!」
艶やかな少女はかなり怒っているようで、彼女と比べてあん肝はただ彼女の後ろで蹲っているだけだった。
「ひ、雛子……そんなに怒らないで、館主も言ったでしょう?薬師は診療に出かけていて、すぐに……戻ってくるって……」
あん肝はぶつぶつと雛子を宥めた。
「フン、バカ、黙れ!うるさい!」
少女は、背後にいる卑屈な青年の顔をもう見たくないのか、怒ってそっぽを向いた。
あん肝は言う通り黙り込んだ。
襖の外でガサガサと音がする、ふぐ刺しが帰ってきたのだ。
「”ああ、やっと戻ってきたのね!薬師、あたしの薬は?”雛子はこう言ってる……」
あん肝は少女の後ろに隠れ、怯えながら囁いた。
「ゴホン……雛子嬢、待たせてしまってすみません」
「”うーん?なんかいつものと味が違う……!何か新しい薬草を加えたのかしら?”雛子はこう言ってる……」
「……これだけ待っていたら、そろそろ眠くなるはずだろう?少し休んでもいいよ……」
「”ふあぁーあれ……力が抜ける……昼寝したのに……”雛子はこう言って……」
言い終わらないうちに、あん肝は机の上にぐったりと倒れ、少女も床に倒れ込んだ。
ふぐ刺しは、黙って薬箱の一番下の引き出しを開け、鋭い刃を取り出した。
「あら……薬師、何をしているの?」
女性の声がした、まるで一陣の風のようにふぐ刺しの周りを巡っている。
「その可哀想な者の血を抜くのも、実験の一部?ふふふっ……」
ふぐ刺しは答えない、ただ透明な硝子瓶いっぱいに血液を詰めた。
「彼が起きたらこの事を伝える……と言ったら?」
悪戯な風がふぐ刺しの肩に止まり、彼の銀色の紙をなびかせる。
「起きたら何も覚えていないはずだ……コホッ」
ふぐ刺しは刃を仕舞い、あん肝の傷口に軟膏を塗った。するとすぐに血が止まった。
「真面目ね、冗談よ……ふふっ……」
「しかし……どうして彼にそんなに時間を掛けるんだ。薬を増やせばもっと早く実験は終わるだろう……薬師は案外優しいんだな……」
「近頃、怪物が増えた……ゴホッ……もう人間を傷つけずとも、瘴気を蔓延させる事が出来る……」
「今の瘴毒消しの効果は一時のものに過ぎない……毒が大量に蓄積された場合、いくら飲んでも無駄だ……」
ふぐ刺しはあん肝の血液を更に細い硝子の管の中に入れ、色とりどりの薬液を数滴ずつ入れた。
「黄泉の毒を徹底的に解決するには、彼が最後の希望だ」
「やはり私は見る目があったようね。そんなに真剣なら、きっと成功する……あら!忘れていたわ、そろそろ物語の時間だ。薬師、私は先にお暇するよ」
「最近、色々な物語を聞いたのだろう?気配が強くなった……コホッ……」
ふぐ刺しは眼鏡を上げ、何気なく聞いた。
「ああ……薬師ったら鋭い。この前、面白い人間を何人か捕まえたら、恐怖の力をたくさん吸収できたわ。きっと……もうすぐ……」
女性の声は消え、ふぐ刺しはそれ以上何も言わず、薬作りに集中した。
継ぎ目のない薬箱の間、蝋燭の火が灯っている。
眼鏡に、不意に少年の笑顔が過ぎった。
「黄泉の毒を完全に打ち消せる薬を開発できれば、きっと怪物や瘴気も消える……はずだ」
薬師の声は、霞んで消えた。眼鏡の奥の瞳には、何があろうと動じない集中力が宿っている。
この桜の島の瘴気を晴らす……か。
松丸、その日は必ず……やって来る。
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