カイザーシュマーレン・エピソード
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目次 (カイザーシュマーレン・エピソード)
カイザーシュマーレンのエピソード
恐ろしいビジョンを持つ野心家。やりたい事は狂気に満ちているが、並外れた魅力的な人格を持っているため、人々は喜んで彼についていく。一言一言に優雅な貴族的な雰囲気が漂い、どんな時でも優しく控えめな印象を与える。人に不快な思いをさせたり、怒らせたりすることがなく、他人の信頼を得やすいが、自分から他人を信頼することはない。彼にとって、忠誠で頼もしい仲間はもちろん大切だが、その凄まじい征服欲を掻き立てるには、やはり未知なる危険と挑戦しかない。
Ⅰ.虫
「将を射んと欲すればまず馬を射よ」という諺をよく耳にするが、全ての状況には適用しない。
結局のところ、ほとんどの「王」は、自分に仕えてくれる部下に恵まれているからこそ「王」になれた訳だ。
その人たちの支えがなければ、王も世間から見放されるだろう。
だから、国を支配するためには、王冠を被った人間の首を取るだけではいかない。
その国のいちばん弱いところから、手をつけるべきだ。
石畳の道を渡り、2つの花壇を横切ると、真ん中に小さな噴水のある庭に出る。
白い布で覆われたロングテーブルが少し奥に置かれている、人たちは三三五五で話し合っていて、親しげというよりは少し堅苦しい様子。
まさかサヴォイ王国の第三王子の誕生パーティーが、無学な若旦那の開く普段のパーティーよりみすぼらしいとは思いもしなかった。
どうやら第三王子は、よっぽど寵愛されていないようだ。宴会の主役でありながらも、誰も彼に話しかけようとしない。
王子と会話を交わすところだったのだが、私は思わず足を止め、微笑んだ。
「一応招待されているのですが、そんなに警戒しなくてもいいのでは?」
一瞬、「沈黙」の声が耳に響いたような気がした。すると、黒い霧が水にインクを垂らしたように空中に広がり、次第に人の形となり、ついには青年の姿を現した。
剣を仕舞い、私をじーっと見つめているあの目に「困惑」と「不満」が浮かんでいる。
「私のことが見えたのですか?」
「いいえ、貴方の気配を感じただけです、もしかして貴方は王子の護衛でしょうか?」
「はい、失礼しました。初めて見た顔でしたので余計に警戒してしまいました、ご理解いただければと存じます」
申し訳ないと言いながらも、その口調はかなり強引なものだった。
私の返事などお構いなしに、彼は黒い霧の中に消えていき、どこかに隠れてしまった。
そんな能力があれば、確かに便利だ……
考えを整理して、私は第三王子に歩み寄った。
「ごきげんよう、殿下。今日のオープニングスピーチは、殿下の誕生を祝うものであるはずですが、最後の誕生日とならないよう、まずは私のために時間を作ってください」
「ど、どういう意味だ?」
誕生日の当日にこのような不吉な挨拶をされたら、怒ってもおかしくはないのに、それどころか、かなりショックを受けた顔で私を見た。
第一王子と第二王子の間で王位争奪戦が繰り広げられる中、第三王子はまだ子どものようで、危機を察知するどころか、何も知らない様子だ。
「ああ、多少は予感していたのですね……今日は護衛を多めに手配しているようですし?」
「はい、次兄が今日の宴会は客人が多いから、私の護衛を兼ねて多めに派遣してくれた」
「私から見て、今は客人よりも護衛の方が多いと思いますが、彼らは……本当に殿下を守りに来ていると思っていらっしゃいますか?」
第三王子はようやく私の言うことを理解したみたいだ。恐怖と怒りで手に持っていたナイフとフォークを落とし、声をわずかに震わせた。
「しかし、私は、私は皇帝になる器ではないんだ……彼らの脅威には全くならない!」
「その身分自体が脅威なんです」
仮に第二王子が第一王子を追い出すことに成功した場合、もう一人の兄弟が邪魔にならないようにするためだ。
第三王子もそれを理解していた。
今の所、第三王子は弱くて邪魔そうなてんとう虫だ。
「あっ貴方ももしや、次兄の手下ですか?」
彼は明らかに追い出される運命を受け入れていた。
「私は誰かの手下ではありませんが、殿下のお力になりたいのです」
驚いた顔をしている彼に、私はテーブルの上に落としたナイフを拾って返した。
「誰かの目の敵にされたくなければ、その人の目を抉り出せば良いのです」
あまり切れ味のよくないナイフが、皿の上で辛く悲しい音を奏でる。
「他の人が玉座に向かうのをただ見ているより、ご自身でその玉座に就いてみたいと思いませんか?」
Ⅱ.毒
サヴォイはある意味、ティアラ大陸で最も変わった国である。
他の国が食霊を利用することで発展してきたのに対し、サヴォイは世界から孤立し「魔法」だけで発展を遂げた。
クレメンス家にとって、サヴォイは目障りな存在だ。
「でも、あの本を手に入れただけで、魔法の力を手に入れるとは思わない」
私の向かいに座る男性はそう言って、ゆっくりと紅茶を一口飲んだ。
私たちが初めて会った時は、まだ泣くことしか知らない赤ん坊のくせに、時が経つのは早いものだ。
「そうだな……本だけでは魔法の力を得られないのなら、国ごと奪えばいい」
「父が一番自慢している食霊である君は、それなりの実力があるのだろう?」
まるで私の意見を尋ねているような言い方だが、私が着席する前に、全ての準備は整っていただろう。
私はすぐにある貴族の遠縁としてサヴォイに入り、簡単な調査の後、第三王子から着手し、計画を始めることにした。
そうだ、クレメンス家の計画ではなく、私の計画だ。
私は既にクレメンス家のために人間としての生を捧げてきたし、クレメンス家の前当主である御侍が亡くなった今、これ以上彼らに利用される必要はないのだ。
しかもクレメンス家から見れば、今の私はただの虫けらだ。
残念ながら、虫の中でも有毒の方だがな。
第三王子は明らかに私の申し出に心を揺さぶられた。
しかし、戦うことを恐れていることは、もっと明らかだった。
「玉座に座る?この、私が?いや……」
「ええ、ご心配なく。何も恐れることはありません。ゆっくりでいいです。私たちには時間はたっぷりあります」
「私たち?」
「私の名はフランツ、レマン家の遠縁です。これからはサヴォイに永住することになります。今まで他人に養われてきた私は、賢明な君主を補佐することを生涯の生業にしたいのです」
「賢明な君主……」
「ええ、貴方ですよ、殿下」
王子はやがて玉座に座る夢に酔いしれ、その顔は興奮でやっと血色が良くなった。
今夜を凌がせるよう守ってくれと、彼は要求した。
私は彼に軽く頭を下げると、庭を後にした。
「おい」
人通りの少ない道で突然声をかけられた――あの護衛だ、おそらく第三王子との会話を聞いたのであろう。
「貴方は一体何者だ?何を企んでいる!」
「貴方は殿下の食霊ですか?」
「だとしたらなんだ?私の質問に答えろ」
「私もかつて誰かの食霊でした……しかし今、自分の意思で主を選ぶと決めたのです」
青年は一瞬、私の言葉の意味が理解できないかのようにぎょっとした。
私は微笑みながら彼の横を通り過ぎ、彼の肩を軽く叩いた。
「いずれにせよ、今夜はまず殿下をお守りすることが第一です」
背後の気配が消え、彼はおそらくまた黒い霧と化し、物陰に隠れたのだろう。
その後、私は第三王子の邸宅に残って保護する代わりに、護衛の情報を調べに行った。
彼の名はバスティラ。第三王子が15歳の時に召喚した食霊だ。ということは、召喚されてまだ2年しか経っていない。
第三王子がバスティラを人前に出すことを許さなかったのは、食霊を召喚したことで二人の兄から脅威と見られることを恐れたからだと言われている。
二年間も「影」として姿をくらましていたのに、不満がなかったとは言えないだろうが、忠犬と称賛すべきであろう。
その夜、バスティラは刺客を捕まえ、その刺客から第一王子の印が付いた物を回収した。
噂によると、バスティラは止められたにもかかわらず、皇帝と文武百官の前で、長子による第三王子の暗殺を暴露したという。
結局、皇帝はそれでも長男の立場を守るために、刺客を無理やり有罪にしたが、第三王子も皇帝に大きな罪悪感を抱かせ、その対価としていくらかの報酬を受け取った。
ワインを第二王子に手渡すと、彼が怒りに任せて歯ぎしりをしている様子が少し愉快に感じられた。
「殿下、第一王子は立場を失わなかったものの、禁足の罰を受けました。彼の代わりに、殿下が年に一度の大魔導師のレセプションを司会することになりましたね」
「しきたりによると、大魔導師のレセプションを司会できるのは未来の君主だけです」
その時初めて、第二王子の顔に笑みが浮かんだ。
何も決まっていないのに、彼はもう遠い夢で満足しているようだ。
彼は私の前に座り直すと、憂鬱な顔をした王子妃に小さな箱を持たせ、私に渡してくれた。
「ええ、実に素晴らしい計画だったよ。これはお礼だ」
箱を開けると、中に入っていた金銀宝石は、王子妃が身につけていた宝石よりもさらに眩しく輝いている。
私は王子妃にお礼の言葉を述べ、箱を受け取った。
「ありがとうございます。では、次は司会の準備に専念してください」
「何しろ、これは陛下にとって第三王子の命よりも大切なことですから、失敗は許されませんよ」
Ⅲ.白
サヴォイの大魔導師は、この国では皇帝に次ぐ地位を持っている。
堕神が横行している時代、サヴォイは3人の魔導師に守られ、国の滅亡を防いだと言われている。
しかし、歴代の大魔導師は玉座に興味を示さなかった。皇帝の影に隠れて無用な内紛を起こさないように、国境から離れた場所に住み、戦争や重要なことが起きない限り、年に一度だけ宮殿にやってくる。
サヴォイの安定は大魔導師の力にかかっているが、王家は魔導師の前ではあまり謙遜できないが故に、レセプションは特に重要である。
レセプションはスムーズに行われたが、王家の威厳が終始保たれていたが大魔導師と友好的で緊密な関係が続いていたかどうかで、次に玉座に就く者が判断されることになる。
第二王子は自信満々で、今年のレセプションをこれまで以上に盛大にし、自分の王位継承のための最大の後押しにしようとした。
王子妃は、その横に静かに座り、その瞬間を逃すと何か悪いことが起こるのではないかと、時折熱心に頷いていた。
彼女は目を伏せて爪先を見つめていたが、何かを察したのか、突然その目を上げて私の視線を受け止めた。
私が微笑みかけると、彼女は何か悪いことでもしたかのように、さらに俯いた。
第二王子は彼女にやや嫌そうな顔をさせ、焦ってこう言った。
「さて、アンナ、儀式殿の片付けを見てきてくれ。下僕たちが怠けることのないようにな」
「かしこまりました……」
「それでは、私もこれにて失礼いたします。殿下のご成功をお祈りいたします」
レセプションの日は刻一刻と迫っている。
第一王子は金属期間中のため、病気による欠席とされた。
彼を除けば、サヴォイ全体が緊張と興奮に包まれている。
第二王子は儀式の広間で顔いっぱいに汗をかいている。下僕たちは自分たちのせいで何か問題が起こるのではないかと、立ちすくんでいる。
王子妃の不在に気づく者はいなかった。
そしてレセプションが始まった。儀杖兵が音楽を奏で、3人の大魔導師は馬車からレッドカーペットに降り立った。
一般人が大魔導師に会えるのは、この時だけだ。手順としては、大魔導師は正面ホールに入り、皇帝と王子と簡単な挨拶を交わした後、一緒にメインホールに入る。
そして、扉の前に立っている2人の衛兵が、厳粛に、ゆっくりと扉を開ける。
「あっ!」
目立たない隅に立っている第三王子が突然声を上げたが、注目の的になることはない。
全ての視線は今、本殿に吊るされた血の気のない王子妃に注がれているのだ。
「早く、早く下ろせ!」
指示を受けてすぐに駆けつけた衛兵たちは、素早く彼女を下ろした。そして、彼女を触れた瞬間に、この若くて美しい王子妃がすでに死んでいることに気付いた。
第三王子の暗殺が行われたという場当たり的な結論を出そうとしたが、彼女の手のひらには、遺書が釘付けにされていた。
全編血文字で書かれたそれは、夫に愛されることなく、夫に道具とまで言われた哀れな女の悲痛な思いでいっぱいだった。
第二王子の非道を世に問うため、彼女は腕や背中が見えるドレスに着替え、繊細な肌に刻まれた衝撃的な傷跡を見せつけた。
王子妃がなぜ死んだのか、なぜあんなに派手に死ななければならなかったのか、その理由は明らかであった。
怒りに狂った皇帝は、第二王子に遺体をきちんと埋葬するために持ち帰り、戻ってくるなという特命を与えた。
第二王子は遺体を抱き上げると、顔を曇らせながら本殿の外に出て行った。私とすれ違う時、私は彼の腕に抱かれた悲しい女性を見つめずにはいられなかった。
自分を犠牲にするほどのことではなかったが、彼女は大きな勇気をもって夫への復讐を果たしたのだ。
ただ……昨夜の私の言葉が、今日の彼女の偉業にどれだけ影響を与えたのだろうか……
昨夜、第二王子の部屋を出た私は、すぐに儀式殿に向かう彼女に追いついた。
「これまでの苦労を厭わず、夫のためにあらゆることを取り組んできた貴方は、実に優秀な王子妃です」
「いいえ、そんなことは……」
「第二王子とはとても愛し合っているのでしょう。13歳で王室に嫁ぎ、サヴォイの若い夫婦はお二人様を手本にし、とても羨ましがっていると聞いていますよ」
「……」
「うまくいけば、貴方は将来、サヴォイの母として、明るく輝く人生を歩むことになるでしょう」
これには、王子妃の肩が震えた。
「おや?羽織るものをお持ちにならないのですか?寒いですから、風邪を引かないように気をつけてくださいね」
あの時、彼女はどんな表情をしていたのでしょうか?おそらく、今にも泣き出しそうだったのだろう。
世間から羨ましがられていた結婚生活も、夫の前に同年代の男性に一度も会ったことがないほどで、恋もしないまま王家に嫁いでしまった。
生涯でただ一人の夫は、彼女が寒さを感じようとも、痛みを感じようとも気にせず、自分の死後、まともな墓を作ることさえ拒んだ。
王子妃の墓の前に白いダリアの花束を置き、私は名前の彫刻されていない墓石にお辞儀をして黙祷を捧げた。
その後、レセプションは滞りなく行われた。
第三王子は臨時司会を引き受けることになったが、幸いにも私の話を聞いており事前に何度も練習していたので、過度の緊張で失敗することはなかった。
アレイスター大魔導師は、第三王子の活躍を大変気にいられ、即座に新しい魔法の暦をお渡ししたと聞いている。
魔法の暦とは、次のレセプションまでに王国に降りかかる大きな出来事と、それに対応する対応を記録したものだ。
本来なら、それはその国の将来の君主にしか渡さないものだ。
Ⅳ.局
大魔導師の住まいは、童話に出てくる悪い魔女の城のように、枯れたツルやイバラに囲まれた紺色の城だ。
かつて3人の大魔導師は仲が良かったが、理念が異なるため、3人は疎遠になり、鉄格子で住所を隔てていたと言われている。
この時、決裂の予兆がすでに見えていたのだ。
「フランツさん、お久しぶりです」
地面に垂れ下がるほどに長い髭を持つ老人が、ゆっくりと私に近づいてきた。
私は彼に微笑みを向けた。
「私もまだ来たばかりです。大魔導師アレイスター、貴方にまたお会いできてうれしいです」
アレイスターは頷き、私を城内の応接間に案内した。
ここは3日前、大魔導師のレセプションのために私を迎えた場所でもあった。
「お望み通り、魔法の暦を第三王子にお渡しします……そうすれば、貴方の主は未来の皇帝になられるでしょう」
「陛下に代わり、心より厚く御礼申し上げます……それで、私は何をすればよいのでしょうか?」
「“幽冥の書”を……盗んでいただきたいです。」
私は、上げようとした口角を抑え、驚いた顔をした。
「“幽冥の書”……歴代の魔導師の血と涙の結晶と言われる伝説の本……しかしそれは、本来貴方のものではないのですか?」
「私のものではなく、私たちのものだ」
「私たち」という言葉と共に、アレイスターの顔には憎悪と苦痛に満ちた、かなり複雑な表情が浮かべた。
「あの2人の愚か者は、幽冥の書の使い方を全く理解していない。幽冥の書を真に理解できる私が持つべきだ」
「わかりました。幽冥の書を盗むのはそれほど難しいことではありません、何しろ大魔導師アレイスターの協力がありますから……」
「いいえ、それは自力で手に入れるしかない。私が手伝ってしまうと、あの馬鹿2人は私の魔力の気配に気づくだろう、それだと大変なことになってしまう」
アレイスターは少し不安げに杖を摩り、その目は間近に迫った勝利への欲望に満ち溢れていた。
「心配する必要はない。現場に一緒に向かうことはできないが、地図と図書館の鍵はちゃんと用意してあります」
「これさえあれば、食霊の皆さんにとって幽冥の書を手に入れるのは容易いことだ」
ということで、レセプションの後、私は約束通り再びここにやってきた。アレイスターから地図と鍵を受け取った。
アレイスターも図書館についていくつか説明してくれたので、彼の表情を見ながら熱心に聞くフリをした。
どうやら彼は私が城を出るまで、異常に気づかなかったらしい。
「つまり、魔法でさえも食霊の偽装を見破ることは難しいと」
「もし当日他の魔法使いが図書館にいても、バレることはない」
バスティラはとても嫌そうな顔をしながら、私から地図と鍵を取った。
彼は私がアレイスターと話をしている間、私の影に隠れていたのだ。
「つまり、あの魔法の暦に書いてあることは嘘だと?」
「アレイスターが予言を改竄していたらしい。第三王子が王位を継承すること以外は、ほとんどが偽りだった」
「わかった、殿下のためなら、幽冥の書を盗んであげよう」
「しかし、本当にそれでいいですか?」
帰るつもりだったバスティラが驚いたように私を見た。
「どういう意味だ。今さら手を引くつもりか?」
「いいえ。アレイスターと取引して殿下の王位継承に協力することは、それは貴方にとって本当に良いことなのでしょうか?」
私の言いたいことを理解したバスティラの顔に、一抹の恥ずかしさが過ぎった。
「殿下は私の御侍だ。それが彼の望みなら、叶えてあげるのが食霊の役目だろう」
「それもそうですね、これをお渡しします」
懐から小瓶を取り出して投げつけると、黒い霧を操る暇もなく、彼は手でそれを受け止めた。
袖から出した腕は傷だらけだ。
バスティラは少し恥ずかしそうに手の甲を覆うと、顔をあげて私に問いかけた。
「……これは?」
「外傷用の軟膏です。殿下から授かった物ですよ」
バスティラの目に一抹の寂しさが過ぎった。
召喚されて2年間、第三王子のために身を粉にして働いていたのに、そんな彼は自分の御侍から一般人でも普通に買える軟膏すらもらえていない。
「食霊に効くかどうかは知りませんが、傷ができたら早めに治した方がいいです。誤解しないでください。これは貴方に同情して恩を売っている訳ではありません。ただ、今の貴方には私よりそれが必要としていると思っただけです」
彼の返事を待たずに、私は立ち去った。
翌日、バスティラは幽冥の書を盗み出すことに成功し、私にそれを渡してくれた。
しかし、私は約束通りアレイスターに頼まれた場所に幽冥の書を置かなかったので、幽冥の書の盗難はすぐに他の二人の大魔道士に気付かれた。
バスティラが図書館にわざと置いていった地図に付いた魔力の残り香が、アレイスターに疑いの矛先を向けた。
しかし、アレイスターは何も弁解せず、かつての仲間たちと決裂し、戦争を始めた。
彼はサヴォイの民に心を寄せることなく、2人の仲間を倒すことを最優先にし、躊躇なく白昼を飲み込んで、火の雨をサヴォイ全域に降らせた。
宮殿の外にいる凡人たちは、しばらくの間、窮地に立たされた。
第三王子はサヴォイを守るためにバスティラにアレイスターの首を取るように命じた。
この命令がバスティラの死刑宣告に等しいものであることは、魔法の暦を調べなくてもわかることだった。
しかし、第三王子は、自分の手の届くところにある王位のために、そのようなことを構う余裕がなかった。
「君は私の食霊だ。私のために死ぬのは当然じゃないか?」
錯乱したバスティラはどんな反応を取ればいいか分からず、黙って頷くしかなかった。
第三王子の笑顔を見て、私はバスティラに追いつくために宮殿の扉から外に出た。
宮殿の外では、天地が漆黒に染まり、溶岩の雨が降り注ぎ、終末のような光景が広がっていた。
バスティラはこのような煉獄の中、サタンに匹敵する大魔導師と戦うのだ。
「初めて会った時に言った言葉を覚えていますか?」
彼の背中は私に向けられたままだが、息切れで激しく上下する胸がまだ見えているようだった。
それは、私が最初から予期していたシーンだ。
「最初に言ったように、私たちは自分で自分の主を選ぶことができます」
「功績を無視して搾取するような暴君ではなく、貴方には懸命な君主が必要です」
彼の目の前に立ち、灼熱の雨は私の背中に落ちそうになっている。
「私の配下になりませんか?ただし、私が必要としているのは忠誠を誓える者だけです。もし貴方がその運命に反抗し、あの暴君の束縛から逃れたいのなら……」
「私に跪き、“主”と呼びなさい」
Ⅴ.カイザーシュマーレン
戦争は三人の大魔導士の共倒れで幕を閉じた。
魔導士たちの体は塵となって、戦争で壊れた建物に降り注ぎ建物は復元したが、戦争で亡くなった人たちを救うことはできなかった。
その中には、禁足されていた第一王子もいた。
火の雨で寝室が燃やされ、火事から逃れられなかったという。
翌日、第三王子の部屋にある戸棚で「幽冥の書」が発見された。
その頃、第三王子は既に気が狂ってしまった。テーブルの下に隠れたり、近づく者に拳を振りかざすのだった。
誰もこの王子に同情を寄せなかった。第三王子が、幽冥の書を盗んだせいで、大魔導士たちの内紛、そして災難をもたらしたと考えていたからだ。
皇帝は民衆の意思に逆らうことができず、第三王子を死刑にせざるを得なかった。
第二王子が王位を取り戻した日、老皇帝はついに病に倒れ、それ以来体調を崩した。
式の前夜、第二王子はカイザーシュマーレンを寝室に呼び出した。
「フランツ、私は君になんとお礼を言えばいい?何か欲しい物があれば私に言え、君の望むものをすべて差し上げよう」
第二王子は、立派な礼服に着替えながら、鏡に映るカイザーシュマーレンにこう言った。
真っ白なガウンを見て、カイザーシュマーレンはふと、あの日の白いダリアのことを思い出した。
そこで、彼は微笑んで首を横に振った。
「最初は、任務と称してあの一族を離れ、ここに身を隠し、賢明な君主の後ろで安穏と暮らしたかっただけでした」
「しかし、第三王子を見て気づきました。ここには賢明な君主が存在していないことを……いいえ、資格を持つ人間すらいなかったと言えましょう」
この部屋には、明日の儀式の流れを説明しに来た大臣もいた、カイザーシュマーレンがそう言うのを聞いて、皆冷たい息を吐いた。
第二王子は冷ややかな視線を彼に向ける。
「何が言いたい?」
「そこで、この国を自分のものにしようと思いました。私自身が賢明な君主になってみるのはどうだろうと。使命を果たすフリをして、実は遠くの指示は全部無視していました……でも、ここにいればいるほど、退屈になってきました」
「王子であれ、皇帝であれ、魔導士であれ、どれも操りやすい人間ばかり。操り人形のように、ちょっと糸を引っ張るだけで、バカでつまらない踊りに従ってしまう……」
「正直、もう飽きました」
その時、第二王子は慌てて護衛全員を呼んできた。護衛に囲まれて絶対防衛戦の後ろに立つ彼に対し、カイザーシュマーレンは逃げることも慌てることもなく、ただゆっくりとソファに腰を下ろした。
「これだけの数の護衛……今夜ここで私を死なせるつもりだったのでしょう?」
「ああ、君は本当に賢い。王位につく前は君のような人物は必要不可欠だが、私が王位に就いたら君をそばに置く訳にはいかない」
「王位に就いた?」
カイザーシュマーレンはまた見慣れた微笑みを浮かべた。彼の顔に最も頻繁に現れる表情として、彼の本心と真実をすべて隠す仮面のようなものだ。
「継承式は明日だが、君はそれを見ることはかなわないだろう」
「ところで、私が食霊であることを、貴方はまだご存知ないようですね」
第二王子が危険を察知した時、既に手遅れだった。
黒い霧が突然空中から降り注ぎ、ゆっくりと広がった。やがて数え切れないほどの黒い鳥の形と成し、護衛たちに襲いかかる。
鳥の鳴き声と慟哭は練り合わされ、真っ赤な川が形成された。
バスティラは血の川を乗り越えてカイザーシュマーレンの方へ歩み寄り、その後ろで静かにたたずむ。
全てを目撃していた大臣たちは、立つことさえもできず、震えながら彼の前に跪き「万歳!」「新王万歳!」と叫ぶことしかできなくなっていた。
カイザーシュマーレンは何も答えず、一晩で儀式用の新しい服を用意するようにと命じただけだった。
第一王子による第三王子の暗殺は本当に仕組まれていたのか?
披露宴で自殺すれば夫の人生を台無しにできると王子妃に助言した者の正体は?
その年の魔法の暦の予言が何一つも成就しなかった理由は?
アレイスターほど注意深い男が、よりによって魔力の気配が残る地図を図書館に置き忘れたのは偶然なのか?
あの気弱な第三王子が幽冥の書を盗み出した方法は?そして、彼が一夜にして狂人と化した理由は?
それらの謎の真相を知る者はいなくなった。
一人の勇敢で聡明な青年が残忍な第二王子とその手下たちを殺した。そして、これから先、その青年がサヴォイの人々を不幸から永遠に導いてくれる。
──このような事実こそ、サヴォイの人々に必要とされる記憶だ。
継承式は予定通り行われ、カイザーシュマーレンは重い王冠を頭に乗せて王座に座っている。
その足元には、煌びやかな衣装を身に纏い、幸せそうな笑みを浮かべる民と名乗る人間たちがひれ伏していた。
しかし、彼の目には、人々が白骨の塊にしか見えない。
まるで死体でできた塔の上に座っているような気分を覚えた。
そこで彼は王冠を脱ぎ捨て、王座から降りた。
「なんてつまらないんだ」
幽冥の書に書かれた秘密を手に入れ、皇帝の気分も味わった、更に望み通り影の護衛を配下にした。
最早、彼がここに留まる必要はもうない。
新皇帝は継承した次の瞬間、自らの意思で皇位を譲った。
唖然とした人々は、皇帝が宮殿を去る後ろ姿を見送ることしかできない。
「次は何をすればいいのでしょうか?」
バスティラは新しい主との会話にまだ慣れていなかったが、前の主のように全くコミュニケーションが取れないよりはましだった。
「そうだな……」
彼は人生の前半を振り返った。今まで出会った人々の顔、大魔導士に渡された地図や鍵、目の前に押し付けられた宝石箱、窓の縁にいるテントウ虫、白いダリアの花……あらゆる情景が走馬灯のように脳裏に浮かんだ。
彼はアンナのことを思い出した。アンナ・クレメンス──それは若くして亡くなった王子妃の名だ。そう、彼女もまたクレメンス家の「駒」に過ぎなかった。
クレメンス家にとっては、何百何千人もいる一族の中から一人の名前が消えただけに過ぎない。
しかし、アンナにとっては、何の見返りもないまま過ごしてきた絶望的な人生だった。
あの「終末」は、今でも鮮明に心に残っている。
果てしない暗闇の空に血色の雨。バスティラは彼の前に跪き、雷鳴が轟く耳元で「主」という言葉を口にした。
「あの景色を、もう一度見てみたい」
暗闇はもはやサヴォイだけに止まらず、彼の前に跪くのもバスティラではなく別人になるかもしれない。
そこで彼は全く新しい計画を立て、五千人もの名前のリストを作成した。バスティラにこのリストをあの食霊の国王のオフィスに送り込ませた。
彼はクレメンス家を根こそぎ切り捨ててしまおうと決めたのだ。
クレメンス家で百年近く暮らしてきた彼は、これがどんなに狂気に満ちた決断であることを誰よりも知っていたが、しかし……
自分が主になれるのであれば、ただの駒になることを甘んじて受け入れる者はいないだろう。
彼は窓の縁に横たわるテントウ虫ではない。
ダリアは美しくともいずれ萎れて腐る花だ。
そして白い花は葬儀の時にしか使われず、既に死んでしまった者にとって未来は何の意味もない。
彼はとっくにチェスゲームの中に足を踏み入れており、抜け出すことはできない。
なら、勝者になるしかないんだ。
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