水信玄餅・エピソード
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水信玄餅のエピソード
水信玄餅は名水の里・山梨県白州町で採られた水と寒天でのみ作られる和菓子である。掌で揺れるほど柔らかく、半透明で美しいそれは、鑑賞して楽しむ事もできるが、繊細でもろく崩れやすい。夏を思わせるさっぱりとしたほのかな甘味は、自然そのものの味わいだ。
Ⅰ 囚人
――雨が降っている。
激しく地面を打ち付けている音に、私はそっと目を閉じる。
これは、死を告げる音だ。
地面に身を投じた雨粒は、自分の使命を果たせたのであろうか。
その答えは、己の中にしかない。
では、私はどうだろう。
私はいつ、終わりを迎えることができるのであろうか?
周りは暗闇に包まれ、微かに聞こえる雨音が私の記憶を明瞭にする。
(あの日も、こんな雨の日だった……)
***
これはきっと、これからもずっと忘れられない光景。
目の前に、御館様の姿が見える。だがそれは、いつものように笑顔を浮かべて手を振っている彼ではない。
御館様は、泥濘の水溜りにその身をひれ伏していた。
――殺したのは、堕神ではない。
御館様の虚ろな目を見て、私は泥水の中に膝を付いた。
「御館……様」
手を伸ばし、御館様に触れる。その指先はひんやりと冷たい。
――これは、雨水が原因か?
こんなに冷たくなって……これは本当に御館様の体温なのだろうか?
冷たく、まるで温もりを感じない。
(これは、夢だ)
朦朧とした意識の中で、緩慢と私は思う。
(いや……現実だ)
私が御館様を見間違える筈がない。
(――嘘……だ)
信じたくない現実に、私は体を震わせる。
もう、御館様が笑いかけてくれることはない……私は、どうしてもその現実を受け入れることができない。
(御館様は、こんな形で死んでしまうのか)
「どうしてこんなことになったか、教えては、もらえませんか……」
私の声は、まるで自分が発したとは思えない程に冷たくなっていた。
まるで寒い季節に振る雨のように。
気づけば私はしゃがみこんで、御侍様の手を取り、声を殺して涙を流していた。
水たまりに跪いていたので、袴に雨水がしみ込んでくる。その重みは、泥沼に沈んでいくかのような錯覚を覚える。
その沼が私の両足を拘束する。そして、目の前が真っ暗になる。
(私が、御侍様を――殺した)
少しずつ体の感覚が奪われていく。だが気にすることはない、もしこのまま消えてしまえるなら、その方が良い……。
それから、私の両足は動かなくなった。
どこが悪い訳ではない、けれど動かない。精神的なものだろう、と医者は言っていた。
だがそんな言葉も、私には響かない。
(御館様を殺してしまうような私に、価値はないのだから)
***
こうしてあの日のことを思い返すたび、私の体は重くなる。
あのとき御館様と共に死んでいたら……いや、そもそも初めから存在していなければよかった。
(私が存在したから……御館様が死んだ)
これまで御館様と過ごした日々の記憶が、絶え間脳裏を巡る。
もう何度となく私は、この暗闇でこんなことを考えていた。
「にゃあ……」
気づけば、いつのまにか雨が止んでおり、雨音から解放された静寂の中で、猫の鳴き声が聞こえてきた。
(こんなところに猫が?)
きっと幻聴に違いない――そう近くで木の板が落ちる音が聞こえた。
そちらに顔を向ける。すると、暗闇を照らす微かな光が差し込んでいた。
狭い隙間から漏れ出した月明かりだとしても、私にとっては十分に眩しいものだった。
目を細めると、光の先に月明りに照らされた桜の花が目に入る。私は銀白色に輝くその美しい花びらから、しばらく目を離すことができなかった。
「いったい誰がこんなところに……?」
私はたまらず、目の前に落ちた桜の花に手を伸ばす。
これは御館様が好きだった花だ。もう桜の季節は過ぎ、花は散り始めている。
きっとこの花は、風で飛ばされたのだろう。そんなことを言って御館様が桜の花をくださったことを思い出した。
あのとき、御館様は優しく私に微笑んでくださった。あの微笑みを、私は今でもすぐに思い出せる。
花の記憶に囚われた私は、指先が桜の花びらに触れた瞬間、バランスを崩した。
「あっ……」
目の前が、私は椅子から転げ落ちてしまう。長い間、体を動かしていなかったからか、痛みに対する反応も鈍くなっていたようだ。
「にゃ~にゃ~」
そのとき、また猫の鳴き声が聞こえた。
気のせいではなかったのか、と思ったそのとき、投げ出された手の甲に、柔らかくてあたたかな感触を感じる。
理由もなく、突然心に酸っぱくなるような感情が芽生えた。
何故だかわからないが、胸が強く締め付けられる。
ああ、そうだ……そうだった。
(閉じ込められたのは、私だったか――)
Ⅱ 化け物
「御館様、部屋の窓が壊れました。これでは風が入ってきますよ」
「大丈夫だよ。夏だったら風通しが良い方が涼しいだろう?ハハハ……!」
御館様が体を震わせながら、そんなことを言って笑う。
「そうですね。でも今は冬ですよ……」
そんな私の呟きを、御館様は更に大きな声で笑って誤魔化した。
***
ここは、かつて御館様と私が住んでいた村だ。
いや、桜の木が立ち並ぶ、更にその奥にある、荒廃した村『だった』が正しいだろう。
かつては賑やかだったこの場所も、今は私しかいない。
堕神の襲来によって、すべてを奪われた。
そんな私にすり寄ってくる、このキジトラ猫は……いったい、どこから来たのか?
「あの……誰かいるのか?」
そんな疑問にぶつかったとき、不意に窓の外から少年の声が聞こえた。
私は彼に見つかったら面倒だと思い、自分がここにいることを悟られないようにと、できる限り体を壁側へと寄せる。
「にゃあ、にゃあ……」
すると窓の外から、猫の鳴き真似をする少年の声が聞こえた。
「にゃあ~!」
するとキジトラ猫は、そんな少年の鳴き真似に呼応し、可愛らしく鳴いた。
「やはりここにいたか。探したぞ。早く出ておいで!」
少年は声を弾ませて、窓の外で叫んだ。そんな彼を月明かりが照らし、その影を地面に映す。窓から見えたそんな光景に、私は首を傾げる。
――風が吹いているようだが……彼の頭上の上で揺れ動いているものは何だ?
その後も少年は、何度も猫を呼んだ。しかし猫は微動だにせず、自身の体を舐めているだけだ。
「すまない。吾輩の代わりにその猫を連れてきてもらえないだろうか?」
その声に、すぐには反応できなかった。何故なら、暫く経ってから、それが自分に向けられた言葉だと気づいたからだ。私は、慌てて体を更に壁へと寄せる。
(どうして私がここにいると気付かれた?)
「あ、心配はいらない。吾輩は猫まんまである。悪い者ではない……」
緊張した声色で、声の主が私を安心させようとする。
「にゃあ、にゃあ」
すると、先ほどまで自身の体を舐めていた猫が、甘えるように頭を私の手にすり寄せてくる。
「あなたはずっとここにいるのか?家の窓が全て木の板で打ち付けられている。誰かに閉じ込められたか?」
猫まんまと名乗った少年は、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。
窓の月明りが差し込む暗い部屋の中で、私はぼんやりと考える。だが、周りがどのようになっているかさえ思い出せない。
私は彼の質問に答えたくなかった。早くここから立ち去って欲しいと願ってしまう。
なので、私はキジトラ猫の頭を一撫でしてからそっと抱き上げて、窓のところまで連れていった。
「ありがとう」
キジトラ猫を受け取った猫まんまは、嬉しそうにそう返事をする。しかし、彼はそこから立ち去ろうとない。それどころか、更に質問を被せてきた。
「あなたは食霊なのに、どうしてここに?」
「私は……食霊ではありません……」
私は掠れた小さな声で、そう呟いた。
「私みたいな化け物が、まさか食霊なわけがない……」
御館様の命を奪った私は、堕神よりも穢れた存在……。
「ふむ?化け物?吾輩にはそうは見えないが……」
私の言葉が聞こえたらしい猫まんまの語調には、一切の翳りは見えない。
「それはあなたの顔が恐いからか?」
「あなたには関係のないことです」
彼の言葉には悪意は感じない。それなのに、私は理不尽にも苛立ちを感じてしまう。
(彼のような穏やかな者に、私の気持ちは理解できない)
――どうして、私はまだ死んでいないのですか?
――なぜ死んだのは、私ではなかったのですか?
――御館様……せめてあなたが私のことを憎んでいたらいいのに……。
Ⅲ 花の想い出
この部屋は木材で窓を塞ぎ、扉には内側から鍵をかけてある。私は御館様が亡くなってから、ずっとこの暗い部屋の中にいる。
そんな私が夜が明けたことを認識するのは、木材の隙間から差し込む陽の光だった。
(風に靡く桜の枝が見える……)
花であれ、人であれ、世界のすべてには終わりがある。
それは誰でも知っている道理である。そして、私は最もこの世界で消えて、なくなるべき存在だ。
その日は桜が満開で、いつも忙しい御館様が久しぶりに家でお休みをしていた。そして、私と一緒に庭で花見をしてくださった。
「こんな綺麗な桜の前で、なぜお前はそんな寂しそうな顔をしている?」
御館様は優しい声で、私に笑顔を向けてそう言った。もともとの重厚な彼の声は、少しハスキーになっていた。
「この桜は……確かに美しい。けれど、いくら美しくても、その命はとても短いです」
私は、静かにそう呟いた。
「花の命は短いからこそ、美しいのだよ、水信玄餅……」
私の名を呼んでから、御館様は急に咳き込んだ。私は驚いてワタワタとしてしまう。そんな私を彼は、手で制し、「大丈夫だ」と告げる。
「最近はふたりでこうした和やかな時間を過ごせる日々が付き合いの時間が少なくなったな。だから、もう少しだけ、お前と一緒にいさせてくれ」
御館様は笑いながらそんなことを言った。私は、どう答えたらいいか分からずに、御館様に倣って、力なく笑った。
今から思えば、御館様の体はあの頃にはもう苛まれていたのだ。私は、まるで気づくことができなかった。
(御館様、どうして隠していたんでしょう? あの時、教えてくれていれば、私は……)
そこで私はハッとしてかぶりを振った。
(――いいや、私のせいだ。もっと御館様のことを見ていたら、気づけたはずだ)
御館様の変化を見逃す私だから、こんな結果になったのだ……。
***
御館様のことを思い出すと、私の胸は熱くなる。
人間は花のように美しく、太陽のように映った。
今でもそう思っている。人は桜の花のようにひとりで咲いて、孤独に散ってゆく。
だから、私は花に触れられない。私が触れたら、死を加速させてしまうから。私には――何も守れないのだ。
そして、また猫の声がする。
ゆっくりと顔を上げると、そこには猫を抱えた猫まんまの姿があった。
彼が部屋の窓に釘付けになっていた板を剥がしたせいで、ここに光が差し込むようになった。
(そうか、だから……)
太陽の光がそこからまっすぐに差し込んでいる。見れば、窓が開けられている。そこから花の匂いが紛れ込んできて……私は、あの日のことを思い出したのだ。
「あっ!やはり今日もいた!」
あの日から何度となく聞いている、馴染みある声がまた聞こえてきた。猫まんまだ。
あの日から、彼は頻繁にここを訪れるようになった。
私の手を舐めたキジトラ猫を探しに来た彼は、床に倒れる私の姿を見て、大層驚いた。
私の意識と怪我がないことを確認すると、すぐにここから出て行った。
それきりもう会うことはないと思ったのに、彼はすぐにここへと戻ってきた。
「これがあれば、ずっと同じ場所にいなくて済むぞ」
そう言って彼は私を車椅子へと乗せた。私は何と言うべきかわからず、黙っていた。
「あぁ、これはある方が好意で貸してくれた。だから心配いらない」
その人は鳥居私塾を開いているさんまの塩焼きという食霊だそうだ。
猫まんまは、その人の元で猫の管理を任されているらしい。
それから、ほぼ毎日のように猫まんまはここに訪れる。もう、一か月が経とうとしていた。
「こんにちは、水信玄餅」
そう挨拶をして猫まんまは、キジトラ猫を私の膝の上に乗せる。
「にゃぁ~」
ゴロゴロと喉を鳴らす猫の頭を私は撫でた。すると、猫はスリスリと私の手の平にその頭をこすりつけた。
「彼は、あなたが好きなようだな」
「そう、なのでしょうか……」
よくわからず、私は曖昧な返事をする。
「嫌いなら、そんな風に膝の上で寝たりしないのである。では、行こうか」
彼は私の返事を待たずに、車椅子を押して家の外へと出て行った。
「今日はいい天気である」
そんなことを彼は笑わないで告げる。あまり彼は表情を変えることがない。
(猫まんまのことは、よくわからない)
彼が何故私のところに来ているのか、その理由を聞いたことはなかった。勿論、来てほしいだなんて頼んだ覚えはない。
(どういうつもりなのだろう……)
彼の頭の上でぴょこぴょこと動く猫耳を見ながら、私はぼんやりとそんなことを思う。
彼は私のところに来て、こうして散歩に連れて行ってくれる。
「猫は想像以上に繊細でデリケートである。自分の死ぬ姿を見られたくない生き物なのだ」
「……そうですか」
私は返答に困って、とりあえず相槌を打つ。
「積極的に死ぬ姿を見られたい者はいないが、特に猫はその傾向が強いように思うのである」
こんな風に、猫まんまはいつも勝手気ままに話をしている。それに、私が相槌を打ったり打たなかったりする。
だが、彼はあまり私の反応を気にしていないようだ。暫く黙っていても、変わらず話し続けているから。
「猫まんまは、どこに住んでるのですか?」
ふと気になって、私はそんなことを聞いてみた。
すると、彼は少し目を見開いて、ぴくん、と耳を立てる。そして私に視線を合わせ、ゆっくりと話し出す。
「桜の木の向こうに、吾輩は沢山の猫を飼っているさんまの塩焼きと出会った。あの私塾には食霊が学生として通っている。とても面白いところである」
私は猫まんまから視線を逸らして俯いた。
(……これは、私とは関係がない話)
――楽しそうにしている学生達。それは、私のような化け物とは無縁の存在。
(そんな彼らと、関わりたくはない……)
彼らの邪魔をしたくない。私はひとり、ここで静かに存在しているくらいがちょうど良い。
(私は、いつ死ぬことができますか?)
そんな問いを、私は己に問いかける。間違っても猫まんまには聞けない。
そんなことを考えていたら、何かが頭の上に落ちてきた。
「……え?」
後から後から落ちてくるそれは桜の花びらだった。恐る恐る私は膝の上の猫に置いた花びらを指でつまみ上げた。
「気分は如何ですか?」
その声に、私は誘われるように顔をあげる。そこには見知らぬ桜に包まれた淡い紅色に包まれた少女が立っていた。
「初めまして、桜餅と申します。猫まんまから貴方が悩んでいるようだと聞いてきました」
「この桜の花びらは……あなたが咲かせたのですか?」
私は気が急いてしまい、少女の言葉に被せるように、私はそう訊ねた。
「ふふっ!桜の雨があなたの心を癒してくれたら嬉しいなって!」
桜餅は柔らかく微笑んで、そう告げる。
「ありがとうございます……けれど、私にはこのようなことは過ぎた癒しです」
そう口にしながら、私は御館様の優しい笑顔を思い出して、胸が苦しくなった。
(御館様が呼び出すのは、私のような化け物ではなく、彼女なような存在であればよかった……そうしたら御館様は今もあの優しい笑みを浮かべていられただろうに!)
その悔恨の情に駆られ、眩暈を覚える。
(私はここにいるべきではない……この場に相応しくない、無価値な――存在)
「私はこの世界に不要な存在です。死んだ方が良い者なのです」
「せっかく命を授けてもらったんだもの、生きていた方がいいと思うな……貴方を召喚した御館様もきっとそう思ってるよ?」
彼女は少し戸惑った様子で、けれど誠意を込めて私に言った。
その必死な様子に、また私は申し訳ないという気持ちを増幅させる。
残念ながら、私には彼女にこのような努力をさせる価値がないのです。
――どうあれ、私は信愛なる御館様を殺したのから……。
Ⅳ 愛
「にゃあ~」
あのキジトラ猫が、また何事もなかったかのように室内へと入ってくる。
だが、今日はいつもより早い。何があったのだろうか。
桜餅は、あの後、猫まんまと共にここへとやってくるようになった。
猫まんまたちは、猫の動きに合わせて行動する。キジトラ猫がやってくると、彼らもやってくる。
だから彼らもすぐに来るのだろうと、私は思った。
だから、さほどの注意も払わず、私はキジトラ猫がいつものように膝の上に飛び乗ってくるのを待った。
しかし、キジトラ猫が窓から顔を覗かせるも室内には入っては来ない。
その様子に覇気はなく、何やら様子がおかしく見えた。
キジトラ猫は動かない。
私は注意深く猫の様子を見守る。嫌な予感がしたからだ。
するとキジトラ猫はグラリとその身をよろけさせ、ボトリと地面に転げ落ちた。
それはあまりに異様な光景で――私の心をざわつかせた。
私はその動揺を否定したく、息を吸い込んだ。しかし、不穏な予感は断ち切れない。
(……今、周りの空気が凍った。この感覚を、私はよく知っている)
そこで、私は懸命に呼吸を繰り返す。
けれど息が吸えない。どうしようもなく息苦しい――ああ、この感覚は。
(間違いない。この猫に、死が訪れたのだ)
「猫たちは自分の死に際を人に見せたくないのだ……」
猫まんまが言っていたことを思い出した。
だからこの猫は私のところに来たのか?
自分を世話してくれている猫まんまたちたちの場所を離れ、この死に彩られた場所に来ていたのか。
そして、きっと気づいたのだ。彼は私が望んでいることを。
だから来たのだ、私と共に逝く為に――
それは救いか、世迷い言か。
私の希望を押し付けているに過ぎないか。
どうあれ、キジトラ猫は語らない。
私が都合よく解釈するだけだ。
(やっと、私は死ねるのか……?)
その死に誘われるように、私の息は上がっていく。息を吸い込めず、その苦しさに胸を掻き抱く。
地面に倒れる猫は、いつもと変わらないようにも見えた。だが、命の炎が消えかけている。熱が奪われていくのがわかった。
(私を、一緒に連れていってくれ)
そんな願いを込めて手を伸ばすも、当然猫はすり寄ってこない。
ピクリとも動かず、そこに『ある』だけ。
この感覚は、あの日泥水に倒れ込んでいた御館を思い出させた。
冷きった空気に窒息感を覚える。まるでこのまま自分も死んだのだと錯覚するほどに。
(それでも死ねなかった私は、今度こそ死ねるだろうか)
何を希望に生きるのか。愛する御侍様が亡くなったのに。
――私は何故、まだ息をしているのか。
――こんな無意味な存在なのに。
この見知った暗闇の中、冷え切った御館様に触れたときのことが頭をよぎる。
「水信玄餅」
何度となく私を呼んでくださった御館様のあの優しい声色が脳内に響く。
同時に、彼の笑顔と青白い顔が、目まぐるしく頭を駆け巡った。
「あああっ……!!」
私は、頭を抱えて丸くなり、声を限りに叫び続けた。
今まで、これほどまでに胸がいっぱいになったことはなかった。
御館様が失くなったあの雨の夜だってここまで私は苦しくなかったのに。
「はっ、はっ、はぁ……はぁあっ!」
積み重なった死の瞬間に、私の呼吸は奪われてしまったようだ。
……涙が止まらない。
……苦しくて、息が吸えない。
体内の血が湧き立ち、逆流しているかのように、私はじっとしていられなくなる。
頭を掻きむしって嗚咽をあげる。
――苦しい、悲しい、痛い……!
(いっそこのまま消えてしまいたい……!)
……早く私の視界を閉ざせ!
……早く私の意識を断ち切れ!
早く私の感情を消せ――
「どうしたの?!」
その声に、私はハッとする。
だが、それも一瞬。
すぐにまた私は暗闇へと飲まれた。
そんな私の耳に、微かに届く声。
『知ってるよ、これはとても苦しいこと』
『大丈夫、すぐになんとかするから!』
しかし、私はその声に抗う。
(こんな苦しみに耐えるくらいなら今すぐ死んだ方がいい!)
突然、周りに星のような光が灯った。それは、桜の花びらだ。淡く光りながら、私の周りを舞っている。
それと同時に、どこからか微かに猫の鳴き声が聞こえた。
私はゆっくりと目を開ける。ぼんやりとした視界の先に、小さな光を見つけた。
「にゃぁ……」
どこから入ってきたのか、目の前に小さな子猫がいる。
その子猫はよたよたと歩きながら、私の傍までやってきた。
すると、もう一匹、その後ろから猫が歩み寄ってくる。それは先ほどまで横たわっていたキジトラ猫だ。
「……どうして?」
その不思議な現象に、私はただただ呆然とするしかできない。
キジトラ猫は私の足にすり寄っている子猫を舐め始めた。
一体何が起きたのか、まるで理解が追い付かなかった。
先ほどまで死の淵にいた筈の、地面に横たわっていたキジトラ猫は、何事もなかったかのように、私の足元で子猫と戯れている。
「くっ……!」
不意に目の前に眩い光が差して、私は顔を腕で覆った。
いつのまにか、窓を塞いでいた木の板が完全に剥がされていて、そこから陽光が差し込んでいた。
光を背に私の前に現れたのは、猫耳を生やした黒髮の少年と、桜の花びらを舞わせる和服を着た少女だ。
「これは神秘の力だよ!」
桜餅がそう告げて、優しく微笑んだ。
「我輩にはよく分からないが、この世界の人々は、この力を『愛』と呼ぶそうだ」
猫まんまは頭を掻きながらそう言った。その声は落ち着いていて、分からないなりに納得しているように見えた。
「愛……か……」
私はその言葉に不思議な感動を覚えた。
いつもの痛みとは違う、締め付けられるような想いが胸に溢れた。
私の心はとてつもなく震えている。
(この感覚はなんでしょう……?)
気づけば、私は目元から涙を溢れさせていた。
御館様からは教わらなかった言葉だ。
けれど、私はその言葉の意味を頭ではなく心で理解していた。
だからこそ、私はこんなにも心を震わせ、涙を流しているのだろう。
「ありがとう……ええと」
私は涙に濡れた顔をあげた。
そこで、私はこれまで彼らの名を呼んだことがないことに気が付いた。
「我輩は猫まんま」
「私は桜餅だよ!」
私は恐る恐るその手に自身の手を伸ばす。そして、ゆっくりと口を開き、掠れる声で言った。
「私は……水信玄餅……です」
(こんな私でも、信じていいだろうか? 御館様が、私のことを『愛してくれていた』ということを……!)
Ⅴ 水信玄餅
水信玄餅は桜の島で生まれた。
真撃に御菓子作りに励む御侍の元に召喚された水信玄餅はその御侍と共に、長くその村で暮らしていた。
その御侍は、桜の木の更に奥にある小さな集落に住んでいた。
彼が作り出したそのお菓子のお陰で、その小さな村は評判になり、外からも人が訪れる活発な村となった。
そのため、村の者は皆、その御侍と水信玄餅が好きだった。
その村は、数十軒の家しかない小さな村で、長くいればすぐに、顔見知りとなった。
水信玄餅も同じで、村の者は皆彼のことを知っており、家族のように感じていた。
そんな彼に一時、不幸な出来事が起こった。村の者は胸を痛めたが、村の若い才能溢れる御侍が、彼を救い出す。
村へと連れ戻された水信玄餅は、元気になってすぐに助け出してくれた料理御侍と新たな契約を交わした。
そうして水信玄餅は、以前のように再び村で過ごすようになった。
水信玄餅は不幸な出来事について記憶を失っていることに村の者は皆気づいていた。
だが、彼が記憶を取り戻すことを、新たな御侍も村人も望まなかった。
村の人々は新たな御侍と契約し、再び水信玄餅が笑顔を取り戻したことを喜んだ。
だからこそ、水信玄餅に起きた不幸な出来事について、誰ひとり彼には深く語ろうとしなかった。
結果、水信玄餅はその事件について知る機会に恵まれなかった。
***
水信玄餅の新たな御侍となった廉という男は、とても頭が良く、活発で明るくて、人助けが好きな男だった。
村の者は皆、その優しい男性をとても頼りにしていた。
彼はあんな事件があったせいもあり、食霊である水信玄餅の傍にいた。そのことがわかっていた村人たちは、彼に対してとても優しかった。
この村には豊かな農地も物資もなかった。
そんな中、水信玄餅によって、潤いを得た村であった。
水信玄餅を作れる御侍がいなくなり、唯一残ったのは、春になると咲き誇る桜の木だ。
生活を営むために、水信玄餅の御侍はここの人々に桜に関わる料理を教えた。
廉の教えで、この村にも次第に様々な料理が増えていった。
桜の花漬け、桜のジャム、桜餅……これらがこの村の代表的な料理となった。
これらの食べ物を商品にして、廉は桜の木の先にある農地と物資が豊富な村と取引を始めた。
そうして再び、村は栄えはじめた。
水信玄餅がいれば、 皆が幸せになれる
──と村人たちは思った。
水信玄餅を御菓子として売り出していた御侍とその食霊であった水信玄餅。
今では廉が桜の料理を他所の村と取引してくれている。
村人にとって、水信玄餅は幸せの象徴として映っていた。
その水信玄餅が信頼を寄せる廉の笑顔は、村人から不安を取り除く。
村人たちは廉と水信玄餅がいれば、不可能はないと信じていた。
だが水信玄餅はそんなことは知らない。
御侍である廉のことを、ずっと変わった人だと思っていた。
他人のことばかり考えて、自分のことは気にしない──屋根が壊れようと、窓が壊れようと、御侍はただ笑うだけであった。
そんな廉を憐れんで、村人たちが木材を用意してくれた。
「余分な材料があるなら、他の村人にも役に立つものを作ってやろう」
そうして、同じように壊れた家に住んでいた人の家を直してしまう。
材料を渡しても、ふきっ晒しに住み続ける廉に、村人は口を揃えて新しい家に住むべきだと言った。
それでも廉はその壊れた家に住み続けた。そんな廉に呆れた村人たちは、廉に任せず自分たちで廉の家を修繕した。
少し困ったように、それでも廉は皆に「ありがとう」と告げていた。
水信玄餅には、そんな御侍のことが理解できなかった。
その後、廉が亡くなるそのときまで、自身の御侍について理解が及ばなかった。
桜の花を見ているときは本当に幸せそうだったから。
廉は、あまり人付き合いが得意でないように見受けられた。
だから、村の外で仕事をするのだろうと、水信玄餅は思っていた。
だが、彼は自分をこの村に残していく。
村の人は良い人だが、そのことは水信玄餅にとって大いに不満であった。
「御館様は私を必要としていないのでは?」
水信玄餅は、心に芽生えたそんな感情に、このまま捨て置かれるのでは、という不安に駆られてしまう。
そんな感情に怯えていた水信玄餅は、御侍が戻って来たある日、そのことについて訊ねてみた。
すると、廉はいつものように笑いながら答えた。
「君がここで村を守ってくれてるから、安心して俺が出かけられるんじゃないか」
そこで、水信玄餅はやっと自分の存在理由を見つけたような気がした。
御侍に似たのか、自分はあまり人付き合いが得意な方ではない。
そのことから、村人たちとは必要以上に関わらないことにしていたが、それでは駄目だと強く思った。
水信玄餅は、それ以降、懸命に村の生活に馴染むよう努力をし始めた。
しかし、慣れないためよく失敗してしまった。しかし、村人たちはそれを責めることはなかった。
家事が自分に向いていないと知った水信玄餅は、自分にしかできないことを見つけた。
それは最近、村の近くに出現する堕神を倒すことだった。
そうなれば、御侍が帰って来ても危険な目に合わずに済むと思ったからだ。
最初は僅かな堕神しかいなかったが、次第に数を増してきた。
水信玄餅は時間の経過に合わせて多忙になり、御侍と過ごせる時間が減ってきた。
だから、水信玄餅は気づけなかった。爽やかで健康的な御侍の体が弱っていったのを。
村は繁栄して潤ってきた。それに伴い、廉もやっと落ち着けるようになった。
このとき水信玄餅は、やっと御侍の異変に気がついた。それは、廉の笑い声に咳が混じり出したからだ。
だが御侍はそんな咳には気も留めない。
心配する水信玄餅に、この村の外にある栄えた村について話し出す。
村の外には素晴らしい世界が広がっていると──御侍は眩しそうに語った。
その笑顔に、水信玄餅は安堵する。
これから良き未来へと進んでいくのだなと思ったのだ。
御館様の咳も取れ、二人でまた前のように幸せな時間が過ごせると。
だがそんな未来は訪れない。
ある雨の日の夜、村にこれまで見たこともないような巨大な堕神が現れた。
そしてその堕神は村を壊し始め、人々はどうすることもできず逃げ惑った。
水信玄餅は荘然とする。
御館様と共に、築き上げた村がー瞬にして壊される──
水信玄餅はそのとき、 どうしようもないほどに激しい怒りを覚えた。
その感情は水信玄餅を暗い闇へと連れて行く。知ってはいけない何かに気づいてしまいそうな、そんな不安に襲われる……。
だが、抑えられない──御館様が守って来たこの場所に、害なすものを決して許すわけにはいかない!
水信玄餅は、ずっと堕神と戦ってきた自分なら倒せると思った。
これまでの経験があるから大丈夫だと、確信した。
『御館様が帰ってくる場所を守るんだ!』
そう強い信念を持ち、全力でその堕神に対して攻撃を仕掛けた。
そのときだった。
何かの繋がりが切れるのを感じたのは。
一瞬で自分の中身が空っぽになってしまったような感覚。驚いて、水信玄餅はその場にしゃがみこんでしまう。
堕神はそんな水信玄餅を容赦なく吹き飛ばした。
このままでは死ぬ──と瞬時に理解した。
そうして落とされた先に、水信玄餅は御館様が地面に倒れ込んでいるのを見つけた。
彼の頭の中に、突然様々な記憶のかけらが浮かび上がった。
──それは、知らない光景。
ひとつのシーンとしては認識できない。
奇妙な声が脳内でこだまする。
『お前は……化け物だ!』
水信玄餅は息ができなくなる。
(そうか、私はこれまでに、かつての御侍様の命を奪ってきたのか……!)
その狂気的な声が、水信玄餅の脳裏にこびりつく。
『お前はそうして人の生気を奪うんだ!』
その声が、鮮明に水信玄餅の中で蘇る。
息苦しく叫ぶ声。
その者は、金切り声で喚き散らし、水信玄餅を激しく糾弾する。
(私は、人の生気を奪う──化け物……私は知らず知らずに御館様の生命力を奪っていたのだ!)
慢然として水信玄餅はその場に崩れ落ちてしまう。
それで、堕神は水信玄餅が倒れたと思ったのだろう。それ以上、水信玄餅に攻撃をしては来なかった。
堕神が村から去っていく。だが信玄餅はそんなことを気にする余裕はなかった。
彼は必死に、既に亡くなった御館様のもとへと這いずっていく。
「御館……様。どうしてこんなことになったか……教えては、もらえませんか」
水信玄餅は御館様の手に触れる。だが、その手には冷たい。彼がもうここにはいないことを示していた。
困惑しながら彼は、 雨と涙で顔をぐしゃぐしゃにして、最愛の御館様の手を取った。
そのまま、雨が止むまでずっと、水信玄餅はその場に座り込んでいた。
その後、水信玄餅は村人に見つからぬように、動かなくなった体を引きずって、お館様と過ごした館の中へと逃げた。
(私は、同情するに値しない存在……)
だから、村人に見つかってはならない。
この館の一部として、 朽ちてゆくのが相応しい。
(無価値な自分が、一秒でも早くこの世から消えますように……)
そんなことを切実に願い、水信玄餅は板で打ち付けられた窓から僅かに差し込む光に目を細め、その場に倒れこんだのだった。
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