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金髄煎・エピソード

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作成者: 時雨
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金髄煎のエピソード

普段は厳格な鉄仮面だが、牛、馬、羊をまるで子どものように可愛がり、犬を吸ったりもする。もし誰かが自分の犬を醜いと言ったら、断固として反論し、相手を納得させるまで譲らない。

Ⅰ.ダーククロウ


「天気が乾燥するにつれて、地上の万物も乾燥する、火の用心――」


拍子木の音が幽々たる路地に響き渡り、薄暗い白霜を覆いかぶせ、一連の突兀とした足音をかき消した。


カラスの群れが絶えず驚き、そして黒い雪片のように落下し、まるで駒のように全ての屋根にあまねく行き渡った。

窓が閉め切られた民家を通り過ぎると、寒さも徐々に和らぎ、目の前にたちまち色鮮やかで美しい景色が広がっていた。


春綺楼。

そこはダーククロウが最後に行き着く場所。


イルミネーションの輝きが扁額と聯を引き立て、退廃的なメロディーの下でより一層媚態を強めた。まるであの手拭いを振りながら向かってくる媚びへつらう女のように。


「あら〜お客さんたちが無言で暗闇の中に突っ立っているものですから、わたくし危うく見過ごす所でしたわ……」


談笑と濃厚なおしろいがぽろぽろと漂って来て、俺は不快に感じ身を避け、豪奢なイルミネーションの光の中に踏み入れた。

俺の腰札を見るなり、あの胡散臭いおしろい面の笑顔はようやく雪崩のように崩れ落ちた。


「お、お役人様……春綺楼は役所公認の商売です。毎月銀貨も納めています。どうされたというのでしょうか……」


「皇帝の命令を承り春綺楼を調査する。邪魔するでない。」

隣の衛卒が煩わしそう剣をちらつかせると、女は怯えながら道を開けた。


一行は豪華な装飾が施された広間と朱塗りの階段を抜け、一連の動きには少しも無駄がなかった。

捜査の乱入により酒杯は倒され、演奏も中断し、賑やかだった楼内の空気は寒気に取り込まれてかき消された。色尽めた春の色もたちまち枯れ萎んだ。


尚且つ俺と背後の衛卒は終始よそ見をすることはなかった。


二階の奥の個室まで行くと、周りに無関心な糸竹の音が微かに聞こえた。

翡翠の帷を通して、ずんぐりした体型の男が両手に花状態で、口に玉杯を咥えているのがぼんやり見えた。

冷めた空気を察した女たちは雀のように慌てて逃げ去ると、男は頭を上に仰ぎ玉杯の中の酒を飲み干した。そしてやっと口を拭いてくれるはずの手が無いことに気がついた。


「どこだ?どこへ行った?」

男はカッとなって頭を揺らした。玉杯が砕け落ち、しばらくすると男はこちらに気づいた。


「へへっ、春綺楼にも男娼がいたか?体つきは悪くない、乗り気ではないがいいだろう……」


帳が凛然とした剣によって切り裂かれ、掴みどころがなかった会話はとうとう終わりを告げた。部屋中に散らばった汚濁した酒の匂いと紅とおしろいの匂いで俺は眉をひそめずにはいられなかった。


「お、お前ら……玄羽護衛か?!」


男は顔に霜を塗ったように血の気が引き、はい転がりながら起き上がり、素早く近くの窓へよじ登った。


「春綺楼の東側には湖がある。ちょうどこの個室の窓の向かいだ。」

「建物に入る前から封鎖しているがな。お前が泳げたとしても、逃げ道はない。」


俺は腰札を出すと、周りの衛卒はカラスのようにとり囲んだ。男はようやく狭苦しい窓の前で腰を抜かした。


「皇帝の命令を承り叛臣を召し捕る。一緒に来てもらいましょうか、張様。」


……


春綺楼を後にすると、局内から派遣された護衛の馬車が次第に濃くなる夜の気配の中で默然と立っていた。


「今回の囚人には後ろ盾がありそうだな、この事件が終わったら昇進できるといいが。」

隣から一人の衛卒が俺に話しかけてきた。任務以外でも局内には健談な人がいるようだ。

俺が終始無言であったとしても、彼は全く顧みず話しかけてくる。


「かしら、随分見慣れない顔ですが、近頃昇進してきたのですか?」

「なんと!乙卒でしたか……大したもんだ、私なんて四、五年でやっと庚卒ですよ!」

「局内に乙卒は三人しかいないと聞いたことがあります。数年前に二名が殉職し、残った一人が司隷校尉だとか……」


「明日、城東の高平村……」


「高平村は百姓しかいないはずだろ?捕まえてどうすると言うんだ?!」

同じ手紙を受け取った庚卒は困惑しながら呟いた。鴉声が警告するように鳴り、彼もしぶしぶ口を閉じた。


夜風が急に吹き荒れ、手の中の火種は素早く手紙に燃え移った。

高平村の百姓も……叛臣なのか?


火の手が回らなくて残った文字にはかすかに見分けられる――

「老若男女を問わず、五人を捕らえろ。」


搏動する火花は消滅し、辺りは静まり返り、頭上のカラスだけが飛び交っていた。


Ⅱ.風雨


「かしら、昨日局内で聞いたんですが、高平村では色々根も葉もないデマが流されているようです。玄武陛下を蔑んだ内容だとか……」


後ろの庚卒がこそこそと近づきこう言った。その後話し声は風と共に目の前の村墟の連綿と続く焚火の中へ散らばった。

夕暮れ時がやって来ると、あぜ道の間で戯れる牧童と鍬に寄り掛かった老人も鳥が古巣に帰るように、炊煙がゆらゆらと立ちのぼる方へ帰っていった。


俺は視線を逸らし、村の入り口で談笑する数人の青年に狙いを定めた。

彼らの方がひょっとすると……子供と年寄りより向いてるかもしれない。


「あそこの五人だ……極力他の人を巻き込むな。」


俺が故意に声を抑えて言い終わる前に、衛卒は既に動き出していた。


「お前ら……何すんだよ?!」

けたたましい叫び声が静けさに包まれた夕暮れを打ち破り、枯れ枝に留まっていたカラスも驚いて飛んでいった。


「人さらいだ――玄羽護衛が人をさらってるぞ!!真昼間から無実の民をさらってるぞ!!」

「朝廷の犬が!!桀を助けて虐を為す者が!!くそ玄武皇帝が不老不死を……うっ――うっ――」

手ぬぐいで口を抑えられた数人はようやく静かになり、護衛の馬車に乗せられた。


そう遠くないところからは人がこちらに向かって集まっているようだった。俺は奇妙なイラつきに見舞われた。馬煙が立つにつれ、炊煙が立ちのぼる夕暮れを後にした。


……


玄羽局。

陰気な地下牢の中は石油ランプが何個か着いていた。曲がりくねった甬道を通ると、寂寥とした霧が靴底から襟まで攀じ登ってくる。

ひっきりなしに聞こえる悲鳴が霧を引き裂き、最後は耳をそろえてねっとりした寒気の中へ埋もれていった。


甬道の果てには、角が鋭い黒い鉄の門が開いていて、ランプはより薄暗くなった。


「戻ったぞ。」

暗闇の中の男は俺に向けてうなずき、手の中の塩水で浸した鞭を隣の衛卒に渡した。

背後の拷問台の上にはぐったりした人影が縛られていて、ずんぐりした輪郭には少し見覚えがあった。


「司隷校尉、高平村の人は局内に連れ帰りました……」


「ああ、彼らの尋問はあんたに任せた。」


「俺に?」

俺は彼の背後の拷問台を見て、雨粒のように滴る鞭音と悲鳴のせいで一瞬言葉を失った。

「俺に尋問は出来ません。」


「わかってる、拷問はしなくていい。あの百姓たちは利用されているだけだ。重要なのはデマを流した人物を聞き出すこと……でなければ、今回は戒めとしてこれ以上デマを流さないようにするまでだ。」

これを聞いて、心の中のモヤは少し晴れた。


彼はいつも通り俺に近づくと俺の肩をたたいた。

いくつもの修羅場をくくりぬけてきた顔には生々しい傷跡が数本残っていて、記憶の中姿とはかけ離れていた。

俺を招集した当初、故郷で療養していた彼はあぜ道の中に座り込んでいた。とても麦打ちをする農家の人には見えなかった。


「……今はまさに山河陣を築き上げる大事な時期だ。機会を飼って徒党を組み反乱を企てる逆臣もいれば、下心のあるデマを流す人もいる……」

「嵐の前の静けさこそが玄羽局が陛下に尽くす時。 」


御侍の言葉はあの安らかな金色の麦畑と共にはためき、薄暗く寂寥とした地下牢の中に溶け込み、徐々に暗くなっていった。

俺に言わせれば、このような大いなる抱負を理解する必要はなく、御侍の使命だけを全うするだけでよかった。


ところが、俺の考えとは裏腹に、全ての因果と真実に執着する人もいた。


「デマだと?!みんな知ってるんだぞ、何がデマだ!」

「俺たちはとっくに知ってんだぞ!くそ皇帝が遅かれ早かれ俺ら百姓を全員生贄に捧げるってことをな!自分が不老不死になれるんなら、俺たちのことなんかどうでもいいんだ!」

「そうだ!玄武がお前らの言うような暴君じゃなかったら、何でみんなを総動員して山河陣を作らせたんだ?それに何であんなに多くの人を陪葬させたんだ!」

「……」


義憤を沸き立たせた口論がそこそこ明るい牢獄にはびこっていた。ランプが炎の放つ光を寄せ集め、寒気極まる霧を追い払った。

俺は額に手を当てると、血管が脈打っていた。

今のこの状態は、俺の方が地面であぐらをかく「囚人たち」に尋問されているようだった。


山河陣、玄武、供養……

俺が今まで気にしていなかったことだったため、当然彼らに説明することはできなかった。

だが、御侍が言うことからは――

玄羽局内が忠誠を尽くす玄武皇帝は、無能で残酷な暴君ではないように思えた。


Ⅲ.祭りの陣


数日の尋問で何も得ることができず、あの百姓たちは玄羽局の馬車で高平村に送り返された。近頃玄羽局にとって、デマや逆臣よりも恐ろしいものが現れたのだった。


――あの日空からどこからともなく怪物が現れた。


ス――

黒い物体が蠢き俺の頬を掠めた。生臭く粘りがある臭いは血よりも異臭を放っていた。

俺は風の中の微かな変化を聞き分けながら、瞬く間に剣を抜き、再度襲いかかってくる物に向けて振りかざした。


一溜りの黒い液体が雪の上に落ち、ほんのり熱気を放っていた。

俺は剣でその物体をつつくと、野獣の牙と毛皮の細胞らしき物がかすかに見えた。

「フンっ、手ごわいやつめ……かしら、こりゃあ一体何ですか!」

俺と共に任務に出た庚卒は顔に傷を負い、恐怖がいまだにおさまらなかった。


俺は正直に首を振り、そばにあった積雪と松の葉で地面の忌々しい物体を覆い被せた。


「帰って司隸校尉に報告するか……うん?!」

いつの間にか足元にモフモフした球体が増えていた。


「あれ?どこから来た子犬ですか?ちょっとブサイクですね。」

庚卒が興味津々に集まってくると、球体は抵抗するかのように「ワン」と鳴いた。


「ブサイクか?俺はかわいいと思うけどな。」

球体は俺の靴をスリスリ擦り付け、体を掻く木の切り株だと勘違いしているようだ。


「かしら、犬好きだったんですね!かしらの笑うとこ初めて見ましたよ。」


「……」

俺は無意識に上がった口角を収め、うつむいて小さな球体の頭をそっと撫でた。

そう遠くない松林が引き立てる雪の中で、ザクザクと雪を踏む足音がしたようだ。

「花ちゃん――花ちゃん!!どこに行ったんだろ……お姉ちゃん、私たち確かにこっちに行ったのを見たはずなのに。」

「もう帰ろう、お父ちゃんが外には怪物がいるって言ってたよ、それに子供をさらう玄羽護衛も……」

「いやだ!うえーん……花ちゃんが人食い怪物に出くわしたらどうするの!皇帝が戦陣なんか作るから怪物まで呼び寄せちゃったんだ!うえーん、花ちゃんを返して……」


元々俺の手の中でおなかを見せていた小さな球体は飛び上がり、興奮してワンワン鳴くと、声のする松林の方へぱっと駆けだした。


「わぁ!!花ちゃん!!ここにいたのね――」

「あぅわぅ――」


幼い声が嬉しそうに遠くなり、雪の上の球体が残した足跡を見て、俺は少し落ち込みながら立ち上がった。


「思いもしなかったよ、俺たちは彼らのため命までかけてるのに、人食い怪物と同じ扱いかよ!玄羽護衛もやりづらくなったもんだな……」


「庚卒、お前あの山河陣が一体何なのか知ってるか……」


「えっ、私も陛下に聞きたいですよ、一体何なのか。かしら、司隸校尉なら知ってると思いますか?」


「……もうよい、局に戻って復命するぞ。」


山河陣……俺たちが玄武のために守護するもの。なぜ民の口の中では極悪非道な存在なのか。


一抹の不安が過り、かねてから断固として命令に従ってきた心が意外にも揺らいだのだった。


……


再び御侍が山河陣を話しているのを聞いたのは、数か月後の出陣式の時だった。


「……山河陣は全ての百姓のために築かれ、玄羽護衛として、我々も戦陣ため身を捨て、河山を護衛する。」

御侍は最上のひじ掛け椅子に座っていて、傷がのさばる顔からは衰えが垣間見えた。

衛卒が広間に一斉に集まる中、まるで百千羽ものカラスが静かに薄暗い地下で生息しているようだった。

静寂する中、冷たい霧だけが流動し、石壁に綴じられたランプは氷のように冷たい光を放っていた。

徐々にか細い議論の声は焦燥の衝撃波へと形成し、霧と灯影かき回していた。


「司隸校尉、明日には山河陣が完成することは知っています……ですが大勢を生贄に捧げることが、百姓を救う事とどう繋がると言うのですか?」

「そうですよ……玄武陛下は長い間病に侵されてから、変わってしまったのです。その頃から戦陣の建築が始まりました……」

「まさか……山河陣は本当に陛下の私利私欲のために作られたものなんですか……」


ドンっ――

机をたたく音が焦燥した空気を蹴散らし、はっきり寂寥感のある霧が再び皆を覆った。


「山河陣は確かに全ての百姓のためだ。しかし他のことについては……俺も多言できない。」

冷たい霧が御侍の表情を曇らせたが、俺には今まで彼の顔にはなかった疲弊が見えた。

「陛下が詔を下した。祭陣は全て自由意志によるものである。参加したくない者は、本日から腰札を置いて去るがよい。」


薄暗い地下で湧きあがる不穏な風の音が段々遠くなった。

どれくらい経ったのだろうか、誰一人として去る者はいなく、俺と同じように皆もその場を動くことはなかった。


違ったのは、彼らは自分が玄武に忠誠を尽くす存在であることを理解していること。今日を持って玄羽局を出たところで、他に行く当てもないのだ。

――俺が残ると決めたのは、命令を遂行するまでだ。


Ⅳ.生死


献陣日。


玄武の儀仗馬車が動き出すと、反乱軍は即座に皇宮を包囲した。

空を舞う征旗の上には、赫然となじみのない赤い字が書かれていた――白虎。


「我らは白虎神君に代わって正義を貫き、暴君を罰し、社稷を安んずる!クソ玄武皇帝はどこだ!」

憤慨な叫び声が大波のごとく押し寄せ、はためく旗は怒涛がぶつかり合うようだった。


どこからともなく火矢が馬鎧を着た軍馬の間に落ち、急騰するどよめきを蹴散らした。


「フンっ、これだけか?城守はこんな下っ端だけか!さっさとクソ皇帝を出せ!」

「さっさとクソ皇帝を出せ――!!!」


城壁の上には、手に弓を持った衛卒がぎっしりと並び、片時も目が離せない状態だった。

皇宮の大軍に駐留していた者は誰よりも先に逃げてしまった。彼らは献陣の中枢だと言うのにも関わらず、城守に残されたのは跡押さえの玄羽護衛のみであった。


玄羽護衛は玄武皇帝の利刀であり、追跡、尋問、刺殺を得意とする一方、戦争には不向きである。


雲梯から城壁に登る人はイナゴの大量発生のように湧き出し、零落れたカラスを片隅に包囲し蚕食する手ごわい存在だった。

血の霧が徐々に濃ゆくなり、殺し合う声と切り合う音がこの赤色をかき回し、混沌としていた。


熾烈な血色が俺の回りにまかれ、多くの見慣れた人影がどんどん汚点の中へ倒れていく。

そして全てが緩慢かつ凝滞し始め、猩色は流れないほど濃ゆく、得体の知れない感情が強烈な空気を包み、俺は喉に引っかかるような違和感を覚えた。


「同士」と呼べる人たちの死がこんなにも辛いものだったとは思わなった。


金髄煎……!何ボーっとしてんだ!」

かすれた声が濃厚な血の霧を突き破り、背後から力強い手が俺を推した。元々俺に突き刺さるはずだった長刀は彼の胸に突き刺さった。

倒れていても、傷がのさばる衰退した顔は眦を決して奮戦していた。


御侍が亡くなった。


喉につっかかっていた血腥いものがついに吐き出され、俺は再び剣を持ち上げ、血の霧に向かって剣を振るった。

戦いの終点がいつになるやも知れずに。


……


意識がねっとりした夢の中に陥り、叫び声が混乱した脳内に充満し、零落したカラスの羽が黒い雪のように降り注いでいた。

黒雪は俺の胸に落下し、口と鼻を塞ぎ、手足を打ち付けた。


……柔らかくじめじめした物が俺の頬を舐めるまで。


「わぅ……?」

目を開くと、綿の玉が一つ俺の胸の前で伏せていて、興奮してよだれを垂らしながら舌で俺の頬を舐めていた。

目の前の小さな赤い実をちりばめた緑の枝から眩しい日差しが射し、血腥い霧と黒雪はまるで悪い夢を見ていただけのようだった。


でも俺には分かっている。御侍が死んだこと。彼の命令を……俺はまだ遂行できていない。

山河陣に向かわなくては。


「わぅ――わぅ――!!」

綿の玉が嬉しそうに俺の首をスリスリしていて、暖かく柔らかい感触が俺の思考を停止させた。

こいつは以前見た「花ちゃん」より無邪気で可愛げがあった。

俺はしばらく立ち上がることを忘れ、クコの茂みの中で枝をこする大きな音にも気づかなかった。


体をくねらせた綿の玉が二本の指に首根っこを掴まれ、そっと近くに投げられるまでは。灼熱の太陽のような顔が俺を見下ろした。

「フンっ、あの祭天の列を止めることは出来なかったが、ここで一ついい拾い物をしたから無駄足にならずに済んだぞ!」


彼女は俺の体についてる血痕を見ると、背後に向かって口笛を吹いた。そして一匹の赤い鬣をした馬がこちらに向かって走ってきた。

「小僧、その様子じゃ動けないだろう、私が乗せてやろう。」


綿の玉はとっくにぶるぶる震えながら俺の腕の中に転がってきた。鼻を鳴らしている馬に向かって唸り声をあげていた。

俺は無意識にそいつの丸い頭を撫で、俺に差し伸べられた手の方を見た。


「ありがとう……山河陣まで連れて行ってくれないか。」


「山河陣だと?!お前頭打っておかしくなったか?私はお前を助けに来たんだぞ。」


「俺は献陣しに行かなくては……」


「ほう、では聞くが、なぜそこまでして献陣に行くんだ?山河陣が一体何なのか本当に知っているとでも言うのか?」


「……分からない。でも俺は命令を遂行しなくてはならないんだ。」


「チッ、もうよい――山河陣は既に落成した。お前が今向かったところでもう間に合うまい!」

彼女は俺の服の襟を掴んでさっと持ち上げ、馬の背に放り上げた。俺が口を開ける前に唸り声をあげてる綿の玉も一緒に俺の懐に投げられていた。


「死に行く理由も分からないなら、ちゃんと生きればよい!私に追いて来い、私が生き方を教えてやる!」


Ⅴ.金髄煎


東籬国。


緑豊かな芝原に日光の輝きが差し込み、活気に満ちた風がムラサキウマゴヤシ揺らし、雲が低い青空の下で揺らめいていた。

遠くの芝生には牛と羊の群れが点在し、牧笛の抑揚につられてゆっくりと集まっていった。


「帰るぞ、クコ。」

金髄煎は鞭を振りながら、ムラサキウマゴヤシの中でゴロゴロする太った丸い玉をそっと促した。


「ワゥ〜ワン〜」

太った丸い玉は短いしっぽを振りながらダルそうな返事をして、ひっくり返ってまた他の柔らかい草むらへ転がっていった。


「ったく……クコは」

金髄煎は仕方なく太った玉の頭を撫で、体についた紫の花びらとたんぽぽの綿毛を取り払った。

「一緒に帰ってご飯にするぞ、この前干した山犬の肉もそろそろ食べ頃になっただろう。」


「ワンっ!ワンワン!」

地面でゴロゴロしていた太った玉は一瞬で起き上がり、目をキラキラさせて短いしっぽも力強く振っていた。


「遊びほうけるだけじゃなくて、食い意地も張ってるんだな。」

金髄煎は思わず含み笑いをして、クコの頭をポンポンと叩いた。その時背後から慌ただしい声がした。


「探したんだよ、ここに隠れてワンちゃんとおしゃべりしてたんだ!」

ピンク色の服の少女が無頓着な足取りで彼の方に向かって来た。片手に持っていた黒い鍋は今にも芝生にこぼれ落ちそうな勢いだった。


「どうして来たんだ……」

金髄煎は警戒しながら彼女の手の中の物を見て、半歩後ずさりした。太った玉も彼の足元で丸くうずくまっていた。


「何よその反応?あたしは良かれと思って夜ご飯を届けに来てあげてるのに!」

少女は眉間にしわを寄せて、不満そうに鍋を金髄煎の手に押し付けた。


「ラム肉のスープだよ、いいでしょう!瑪瑙つみれ胡桃粥たちも食べてんだから!」


「……」

金髄煎は目の前のまだ温かい物を見て、やっと鍋の身の荒々しいヒビの中にはめ込まれた骸炭と、鍋の中に色の統一性がなく名前が分からないドロドロした物体が見えた。


「いつまで見てんの……冷めたらおいしくないよ。」


「うん……」


しばらく膠着状態が続いた後、我慢の限界に達した少女はついに不屈そうな表情を見せた。

「あたし用事があるから、先に行くね!あと、今夜の当番はあたしだから、あんたは来なくていいよ。」


取り残された金髄煎は複雑な表情で鍋を見ていた。しばらく考えた後、鍋を持って自分のパオに入って行った。


……


時は夜、金色のテントの外。


「あんたね、あたしが今日の当番って言ったでしょ!何しに来たの?」


荷葉鳳脯は持っていた傘刀を芝生に刺すと、声を低くして歯ぎしりしながら問いただした。

だが厳粛な表情の男は耳を貸さず、テントの外に立つと、辺境を守備する兵士のように微動だにしなかった。


これを見た荷葉鳳脯が何か言い返そうとしたその時、大テントの中から突然カサカサした音が聞こえた。

しばらくすると、戦うだの殺すだのといった寝言が聞こえた。


二人は神妙な面持ちで顔を見合わせ、同時にテントの中へ駆け込んだ。


瑪瑙つみれ!落ち着くんだ!!我々が戦いを引き起こしちゃいけない!!」


起こされた女帝はイラついた表情を浮かべていた。彼女の手足は目の前の二人によって木榻にしっかりと押さえつけられていた。


「離せ――ただの寝言だ。」


「えっ?!寝言……?」


まるで強敵に出くわしたかのような荷葉鳳脯は気まずそうに手を放した。女帝の苛立ちを察した彼女は、向かい側で未だに察していない金髄煎に目で合図を送った。


「アホ、あんた見張りが好きなんでしょ?一緒に行くよ!」


「でも……」


「でもじゃない……ここで人が寝てるとこでも見張るつもり?いくよ!」


せっかちな少女は金髄煎の言い分に耳も傾けず外へと引きずり出した。月明かりが金のテントに降り注ぎ、二人の膠着状態は徐々に薄れていった。


荷葉鳳脯は微笑みながら首を振ると、再び夢の中へと帰っていった。


今回の夢もまた、とてつもなく平和で静かなものだった。輝く星々が草原の夜空を満たし、爽やかな慈雨が牧草地を撫で、静かに優しく何千人もの民を眷顧していた。



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