マントヴァサブレー・エピソード
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目次 (マントヴァサブレー・エピソード)
マントヴァサブレーのエピソード
自分の美貌のためなのか、それとも元々備わっていた才能なのかは分からないが、マントヴァには人心を惑わす能力があり、その能力に非常に満足している。クレメンス家の次期当主である食霊として、マントヴァは自身の御侍に対する権力奪取と殺害を企て、自由の身を手に入れた。しかし彼は富や権力にはまったく興味がなく、一流の美食家として、ただこの世界の創造神、すなわち肇始の神の味を味わいたいとだけ思っている。
Ⅰ.欲望が心を喰らう
すべてを熔かし、この小さなグラスに注ぎ込めば、世界のすべてを味わうことができる。
狂熱も、恐怖も、すべてがそこに混ざり合い……。
──ああ、なんと素晴らしいことでしょう。
半開きのフランス窓の前に立ち、私は最近手に入れた名酒を静かに嗜んでいる。
グラスの中の液体は、まるで夜の色に命を吹き込まれたかのように、私の手首の微かな動きに合わせてゆったりと揺らめき、宝石のような輝きを放っている。
私はこの透き通った隔壁越しに、月光に優しく撫でられた外の世界へと視線を投げた。
なんと美しい……
美食、美酒、美人……
私はあらゆる美しいものを愛している。
同様に、私自身もまた、この世のあらゆる美徳を具▫化(※具現化)した存在だ。
美貌、叡智、優雅、博識……
どれほど賛美の言葉を並べても、私を形容するには足りません。
であるならば、私のような存在は、最高のものを享受して然るべきでしょう?
しかし……あいにくと、一つだけ思い通りにならないことがある。
それは、私の御侍であるセヴィルという人物が、誰の目から見ても非常に厄介な男だということだ。
クレメンス家の次期当主として、セヴィルは他人の運命を握る権利を大層楽しんでいるようです。
私に対しても例外ではありません。
彼のおかげで、そこそこ良い美酒や美食を簡単に楽しめるのは確かですが、この私が言いなりになる駒として甘んじるわけにはいきません。
そして近頃、私の御侍は新たな悩みを抱えているようだ。
「クソッ、あのノーランの野郎、よくもあんな目で俺を見やがったな!?俺を馬鹿にしやがって!食霊すら召喚できない分際で、何事においても俺の上を行きやがって!!!」
また始まったか……
そう、問題の根源はこのノーランという人間だ。
継承順位や家柄の威信から見れば、セヴィルが次期当主であることは疑いようもない。
だが、ノーランの類まれなる才能と節度ある振る舞いは、御侍にとって目障り極まりないらしい。
他人の長所を許容できないのは、極度の劣等感の表れに他ならない。
「寵愛を受けぬ小若君に過ぎません。大成することもないでしょうに、なぜそれほどまで目の敵になさるのですか?」
私の言葉が、セヴィルの安っぽい自尊心を少しでも慰められたかは定かではない。ただ、私はこれ以上彼の戯言を聞きたくないだけだ。
グラスの中の名酒が、味も素っ気もないただの水のように、喉を通りにくくなってしまうから。
「そうだ、マントヴァ、お前が助けてくれ!」
彼は私の手を掴み、飢えたような眼差しを向けてくる。
「私がお手伝いを?」
「ああ、お前なら簡単に他人を惑わせられるだろう?ノーランを操り、あいつを完膚なきまでに廃人にしてくれればいい……」
ああ……面倒なことだ……
もしあの時、世界で唯一の「鯨呑」の「藤壺」を手に入れるために、私がほんの少し自分の能力を使っていなかったなら、この男に私の正体を見抜かれることもなかっただろうに。
まあ、至高の美食を得るための代償だと思えば、安いものか……。
「承知いたしました。」
こんな退屈なことに首を突っ込みたくはないが、せっかくの美しい時間を邪魔されないためには、ちょっとした犠牲は必要だろう。
「素晴らしい!あいつさえ使い物にならなくなれば、クレメンス家の当主の座は間違いなく俺のものだ!」
セヴィルは目を細め、その瞳には陰湿な光が宿っていた。
Ⅱ.心の隙を覗く
御侍の頼みを引き受けたものの、実のところ、あまり順調とは言えなかった。
もちろん、私の能力の問題ではない。
私の美貌をもってすれば、あえて「蠱惑」の力など使わずとも、数多の人間が私の前に跪くのだから。
相手がノーランであろうと、自信が揺らぐことなど百分の一パーセントもあり得ない。
しかし、セヴィルに召喚された食霊である以上、普段ノーランと接触するのは容易ではなかった。
いきなり近づけば、相手に警戒心を抱かせ、守りを固められてしまう恐れがある。それは私の本意ではない。
幸いなことに、私の御侍とは違い、私は各所の宴席に頻繁に顔を出す常客だ。
一方のノーランも、自身の声望を高めるため、社交の場には欠かさず姿を見せていた。
適切な「機」を伺いさえすれば、この人間を容易く籠絡できるはずだ。
その機会は、すぐに訪れた。
煌びやかな光に包まれ、喧騒が渦巻く宴会場。
ノーランは客人の間を縫うように歩き、隙のない微笑みを湛えながら立ち回っている。
だが、長時間の社交に疲弊したのだろうか。
彼はふと独り、バルコニーの方へと宴会場を抜け出した。心が躍る。絶好の機会だ。
私もまた隙を見計らい、少し酔ったふりをしてバルコニーへと向かった。
バルコニーの空気は、室内よりもずっと清んでいた。ノーランは欄干に寄りかかり、目を閉じて静寂を味わっているようだ。
周囲に誰もいないことを確認し、私は足元を少しふらつかせながら彼へと歩み寄った。
「あら、ノーラン様ではありませんか。奇遇ですね、あなたも涼みにいらしたのですか?」
私はわざと声を張り上げ、彼に私の存在を意識させた。
ノーランは目を開けて私を見た。その瞳に一瞬の驚きが走ったが、すぐに平穏を取り戻した。
「ふん……ああ、中は少し息苦しくてね」
彼は淡々とそう言った。
私は彼の隣へと進み、同じように欄干に寄りかかって、さりげなく距離を詰める。
「ええ、同感ですわ。ですが、こんなところでノーラン様にお会いできるなんて、少し意外でしたわ」
ノーランは答えず、ただ静かに私を見つめている。
……意図を見抜かれたか?
いや、あり得ない。私の演技は完璧なはずだ。彼が疑う理由などない
思案する私を余所に、ノーランが唐突に口を開いた。
「……ずっと待っていたんだ。君が来るのをね」
待っていた……?
まさか、本当に気づかれていたというのか?
必死に落ち着きを取り戻し、私は微笑みながら言った。
「ノーラン様、それはどういう意味でしょう?私にはさっぱり分かりかねますが……」
ノーランは私の方へと向き直った。その瞳には、私を試すような「遊び心」が宿っている。
「前から少し気になっていたんだ。君がずっと私を観察しているようだったからね。自意識過剰かとも思ったが、君がここに現れたことで、それが錯覚ではないと確信したよ」
どうやら、逆に私がここへ誘い込まれたらしい。
「君のように感覚の鋭すぎる人間は、実に鼻につきますね……」
「お褒めに預かり光栄だ」
どうやらクレメンス家は、人を怒らせるのが好きな奴ばかりのようだ……
私の皮肉を、ノーランは軽く受け流した。
「さて、マントヴァ。私に何の用かな?私たちはここで親しく語らうような仲ではないはずだが……」
「ノーラン様、考えすぎですわ。私に他意はございません。ただ、あなたとお近づきになりたいと思っただけですのに」
事ここに至っては、毒を食らわば皿までだ。演じ切るしかない。
ノーランは私を見つめ、その瞳に複雑な色が過った。片刻の後、彼は言った。
「……セヴィルに言われたのではないのか?」
私は心が沈んだ。やはり、彼は警戒していたのだ。
「心配しなくていい。君を責めているわけじゃない。自尊心の塊のような奴だ、一刻も早く私を排除したいと思っているだろうからね」
ノーランは遠くを見つめた。まるで、語っている内容が自分とは無関係であるかのように。
「そして、他人の目を恐れるあいつが唯一信頼できるのは、自分の手で召喚した食霊である君だけ、というわけだ」
「……まさか、私があなたを訪ねることすら、あなたの計画の内だったのですか?」
「当然だ。あの疑い深い男に君を差し出させるのは容易なことではないからね。だが、幸いにも……君は私の前に現れてくれた」
Ⅲ.罠の中の罠
まさか、最初から御侍はノーランの掌の上で踊らされていたとはな。
ノーランはセヴィルの気性を熟知し、あえて挑発することでその行動を誘導していた。
それどころか、彼は常に形勢を読み解き、いかなる時も自分にとって最も有利な状況を作り出している。
「その言い方だと、まるでノーラン様が私に惚れ込んでいるかのようですね……」
「そう言う必要があるかな?貴族たちの間には君への求愛者が大勢いるようだが、誰一人として君の目に留まったことはないらしい」
「意外ですわ、そんなに私のことが気になっていらしたなんて……」
「それは君が必要だからだ。そして、君も私の助けを必要としているはずだよ」
このノーランという男、実に傲慢だ。
しかし、彼の言う通りだ。少なくとも今の私には、彼の手助けが必要不可欠である。
「よろしいでしょう、ノーラン様。そこまでお見通しならば、包み隠さず申し上げましょう。今夜あなたを訪ねたのには、確かに目的がありました」
全私は潔く認め、御侍から命じられた内容をすべてノーランに告げた。
現状を見るに、ノーランはとうの昔に盤面を支配していたのだろう。
局外者であったはずの私までもが彼の計画に組み込まれていたということは、彼がすでに勝利を確信している証左に他ならない。
そして現実は、彼の言葉通りに進んでいる。
勝利の女神の天秤がノーランへと傾き始めているのなら、私もまた彼を利用して目的を果たすまでだ。
「さて、あの坊ちゃんにはどう報告するつもりだい?私はピンピンしているが、どうやって彼が望むような『廃人』になればいい?」
「簡単なことです。彼の筋書き通りに従う振りをすればよいのです。私の『蠱惑』など、人を従わせる手段の一つに過ぎませんから……」
「……これ以上は教えてくれない、というわけか」
「ええ、もちろんです」
私が彼をどう操るつもりなのか、教えるつもりはない。
手の内をこれ以上、人間に晒す趣味はないからな。
これは取引だ。
私がノーランと結びたいのは、あくまで互恵的な関係のみである。
「では、戻りましたら、あなたを無事に魅了できたと御侍に報告いたします。そしてあなたは、約束通り私を自由の身にしてください。」
「安心したまえ、約束は必ず守るよ。……それにしても、彼はさぞかし嘆くだろうね。唯一の食霊にすら、心から背かれていたと知れば」
「あなたに忠誠を誓うつもりもありませんよ、ノーランさん」
「そうか……それは残念だ」
私も、実に残念に思うよ。
彼と同様、私もまた絶対的な利己主義者なのだから、よく理解できる。
彼のような人間とは、決して友人になってはならないということを。
Ⅳ.網の中の者
やはり、単純なセヴィルは私の言葉を深く信じ込んだ。
そしてノーランもまた、かつての態度を改め、セヴィルに「従う」存在へと変貌した。
──おかげで、御侍は長い間、この上なく上機嫌だった。
いつの間にか、かつては傲慢不遜だったクレメンス家の継承者も、今や「茹でガエル」のように、自身が陥った危機に気づかぬまま死を待つ身となっていた。
そして、その糸を引いているのはすべてノーランだ。
かつてセヴィルの地位を脅かしていたあの少年は、今や忠実な「下僕」のように、セヴィルの「意のまま」に動いている。
だが、それがノーランの編み出した欺瞞に過ぎないことを、私は知っている。
彼はこうして一歩ずつ、セヴィルを自身が張り巡らせた「蜘蛛の巣」へと誘い込んでいったのだ。
操り人形を演じるノーランは、セヴィルのために多くの厄介事を処理し、その過程で、元々はセヴィルを支持していた貴族たちの大部分を籠絡していった。
上位の権力者が風向きを変えれば、寄らば大樹の陰を地で行く小貴族たちが、雪崩を打って寝返るのは自明の理である。
御侍が我に返った時、彼の背後に残っていたのは、私一人だけだった。
私はただ、そのすべてを傍観していた。
……彼を「哀れだ」と思ったのは、これが初めてかもしれない。
私ですら、彼に同情したことなど一度もなかったというのに。
彼はノーランを何一つ理解していなかったし、この一族の権力闘争の本質すら掴めていなかった。
自分こそが一族の未来の当主だと信じ込み、自分がノーランの手の内の駒に過ぎないことすら、最期まで気づかなかったのだ。
私は高塔の上に立ち、眼下で忙しなく働く使用人たちを俯瞰する。
陽光はあらゆる隅々にまで降り注いでいるが、それでも、ここに深く根を下ろした闇を追い払うことはできない。
ある、平穏すぎて退屈な日のことだ。
ノーランは一族の会議の場で、セヴィルが長年積み重ねてきた不正の数々と、巧妙に「加工」された陰謀を暴露した。
その瞬間、巨大な山脈が瞬く間に崩落し、その瓦礫のすべてがセヴィルに降り注ぐ光景が見えたようだった。
彼は当主の座を追われ、すべてを剥奪され、最後には地牢へと放り込まれた。
かつて傲慢で目に余るほど不遜だった男は、結局その結末を受け入れられず、獄中で急死した。
私は、彼の詰問も、怒りも、不甲斐なさも、ついに耳にすることはなかった。
だがそんなことは、私にはもう重要ではない。
関心があるのは、自身の自由だけだ。
セヴィルさえ死ねば、私は契約から解き放たれ、自由の身になれる。
それがノーランとの取引であり、私たちの間の暗黙の了解だった。
そして今、ようやくその取引が完遂されたのだ。
私は深く息を吸い込み、自由の空気を胸に溜める。
「終わった、だと?そう思っているのか?」
聞き覚えのある声が、不意に背後から響いた。
振り返ると、そこにはノーランが立っていた。
その顔には薄い笑みが浮かんでいたが、瞳の奥には深淵のような光が明滅している。
「もちろんです。私の御侍は死にました。もはや私とクレメンス家は、何ら関わりのない間柄ですもの」
私は口角を微かに上げ、皮肉を込めて応じた。
「随分と薄情だね。私も随分君を助けたつもりだが」
「それは、最初からの約束ではありませんか?」
「約束?私が言ったのは、君をセヴィルとの契約から解放してやる、ということだけだよ」
彼は私の傍らに寄り、一緒に下界を見下ろした。
「だが君はいついかなる時もクレメンス家の一員だ。次期当主となった私が、君をこのまま行かせるわけにはいかないだろう?」
「……貴方こそ、クレメンス家の当主に最も相応しいお方のようですね」
「おや、光栄だ。私はただ、君のことを考えて言っているだけだよ」
「お上手ですこと。……私に拒否権はございますの?」
「拒否?なぜ拒否する必要があるんだい?君のために用意したのは、この世で最も君に相応しい場所だ。そこでは世界中の至高の美食を楽しみ続けられるだけでなく、より多くの志を同じくする者たちとも出会える。そここそが君の真の居場所だとは思わないかい?」
全く、どうしていつもこうなるのだろう。
……排除すべき敵が、また一人増えたようだ。
Ⅴ.マントヴァサブレー
マントヴァサブレーを一言で表すならば、「強欲」の二字に尽きるだろう。
彼の欲望は底なしの深淵であり、永遠に満たされることはない。
この世のあらゆる美味を味わい尽くし、目に映るすべての美しいものを手に入れることこそが、彼の生涯をかけた追求であった。
しかし、持てる力のすべてを尽くし、古今東西の珍味を腹に収め、無数の奇珍異宝をその手に掌握してもなお、内側に潜む空虚と飢えは影のように彼に付きまとった。
やがて、マントヴァサブレーはその不満の矛先を、自身が触れる「食材」そのものへと向け始める。
美食界にその名を轟かせる至高の美食家として、彼は確信していた。この極限まで研ぎ澄まされた味覚を満足させられるのは、より高次元の品質を持つ食材のみであると。
そして、前代未聞の恐るべき野心が、その心に静かに芽生えた。
――彼はその視線を、遥か高みに君臨し、誰もが畏れ敬う創世神「創始の神」へと定めたのである。
創始の神そのものを素材として食すことでしか、自身の決して飽くなき欲望を満たす術はないと、彼は夢想していた。
だが、運命は常に彼を弄ぶ。
御侍セヴィルの死によって、ようやく契約の呪縛から逃れ、真の自由を掴み取ったと歓喜したのも束の間。ノーランが再び、彼を「美食家協会」という名の「手網」に固く繋ぎ止めたのだ。
以前、退屈しのぎに「美食家協会」へ加入したことはあったが、マントヴァサブレーに長く留まるつもりなど毛頭なかった。
それでも彼が最終的にノーランの提案を拒まなかったのは、「美食家協会」が想像していたような「牢獄」ではなかったからだ。
それどころか、ここの管理体制は呆れるほどに弛緩していた。
その元凶は、協会の公務に一切の関心を示さない会長――ラミントンにある。
会長という立場にありながら、ラミントンは一度として職務を全うしたことがなく、協会に関連する実務を処理したこともない。
彼の日常といえば、あの間の抜けた「ペット」ボルドーと一緒にお茶を飲みながらおしゃべりし、のんびりとした時間を楽しむことだけのようだった。
コアラの方が、この会長よりもよほど会員たちの福祉を案じているのではないかと。
このような現状を前に、マントヴァサブレーは深い不満と拭いきれぬ苛立ちを覚えていた。
ノーランを相手に十分な交渉材料を揃え、再び自由を手に入れるためには、自らの力に頼るほかない。
かくして、マントヴァサブレーはまず美食家協会の内部で力を蓄えることを決意した。
彼は音もなく盤面を整え始め、その才知と手段を駆使して、協会内に着々と自身の勢力を築き上げていった。
あの「無為」な会長に任せておくより、自分がこうして動くことこそが、皆にとっても最善の選択であるとマントヴァサブレーは考えている。
時が満ちれば、必ずや再びノーランと交渉の席につき、自由を勝ち取るための資本を手にできる。彼はそう確信していた。
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